インディカーに残る平面を浅いバンクのブリックヤードに見た日

【2014.5.25】
インディカー・シリーズ第5戦 第98回インディアナポリス500マイル
 
 
 先ごろ引退したダリオ・フランキッティはもちろんのこと、エリオ・カストロネベス、スコット・ディクソンやサム・ホーニッシュJr.、そして今は亡きダン・ウェルドンに昨年新しく加わったトニー・カナーンと、近年のインディアナポリス500優勝者の名前を眺めているとあたかもレース自体が自律的な意思を持ってビクトリー・レーンに足を踏み入れるべきドライバーを選びとっているような錯覚に襲われる。歓喜の輪の中で牛乳を口にする資格を、ドライバーが勝ち取るのではなくレースのほうが与えているように思えてならないということである。ただ伝統があるからというだけにとどまらず、その結末がどことなく予定的であり諦念に近い感情を生み出しながらもなにがしかの納得感と満足が広がってしまう、そんなふうに受け止められるレースはなかなか得難い。

 それにしても錚々たる面々というほかない。上に挙げたドライバーはカストロネベス以外みなインディカー・シリーズのチャンピオン経験者で、その選手権獲得数を合計すると12にものぼる。ようするに2012年を除く21世紀のインディカー・チャンピオンのすべてだ。カストロネベスにしてもCART時代から通算して28勝、3回の年間2位を記録しており、シリーズ屈指のドライバーであることは論を俟たない。彼らにかんする記憶は、ほとんどそのままインディカー・シリーズの記憶に通ずるだろう。

 牽強付会な記録の切り取り方ではあるものの、チャンピオン経験のある5人がみな選手権獲得後にインディ500を優勝したか、少なくともインディ500を優勝した年に選手権を制しているということは少しばかり興味深い。インディ500を勝つことが王者の器を証明するのではなく、王者であればこそインディ500を勝つ資格があると思わせんばかりの倒錯にこそこのレースの重さがあるといえばさすがに大仰かもしれないが、ブリックヤードの女神を口説き落とすために必要なステータスが生半可なものでないことはたしかなようである。たいていの神話の女神がそうであるように、彼女もわがままで夫にうるさいのだ。

 女神の好みのタイプがはっきりしていることは、インディ500で敗れ去った、とくに最終ラップで運命を暗転させられたドライバーの数々が逆説的に証明していよう。2006年のマルコ・アンドレッティはインディ500に恵まれない一族の枷に縛られたように父マイケルともどもホーニッシュJr.の強襲に膝を屈し、2010年のマイク・コンウェイは(優勝争いをしていたわけではないが)ライアン・ハンター=レイのリアに乗り上げて宙を舞い、2011年のJ.R.ヒルデブランドは残りわずか500mまで先頭を走っていながら、あろうことか最後のターン4でセイファー・ウォールに吸い寄せられていった。ターン1でフランキッティのインを突いて一度はリーダーになりかけた佐藤琢磨が次の瞬間スピンしたのは2012年のことだ。

 日本人にとっては残念なことに、フランキッティやディクソンとマルコや佐藤を比べれば、どちらがより「インディカーのドライバー」らしいかはおよそ尋ねるまでもないほど簡単に答えの出る、ほとんど愚問のような問いなのだろう。フランキッティたちが数々の栄光を戴いたチャンピオンだからというのではなく、彼らはある時期から自分自身の積み重ねた歴史によって、米国の郷愁という眼差しを受け止めるだけの振る舞いを手に入れたということだ。それは、前回書いたようにオーバルレースが少数派になってからF1を経てやってきた佐藤にとってすぐさま身につくものではない。佐藤が「らしく」あるには、才能よりも蓄積されたインディの密度が圧倒的に足りないのだ。あるいは偉大な祖父と父の血を継ぐマルコはこれ以上なく「らしい」のかもしれないが、しかしどうにも彼自身が自らの格を上げることができないでいる。ヒルデブランドは言うまでもない。あの瞬間、あの場所に周回遅れのチャーリー・キンボールさえいなければ彼は歴史のリストに名を連ねることができたはずなのに、インディアナポリスはそれを許さなかった。インディ500は格調高い「インディカーのドライバー」が大好きで、少しでも違うタイプにはそっぽを向いてしまう。それも、さんざん色目を使ったあげくのはてに、残酷なまでの失望を叩きつけて。
 
 
 ロードコースを開放したことで「二重化」されたブリックヤードでエド・カーペンターがポール・ポジションを決めたとき、それはあまりに象徴的でできすぎた脚本に見えた。もちろん予感がなかったわけではない。単純に彼は昨年のポールシッターで、今年からはオーバルのスペシャリストとして参戦を継続するためにシーズンの3分の2を占めるロード/ストリートへの出走を諦めて、インディ500を含め年間たった6回のレースに賭ける覚悟を決めたドライバーである。自ら所有する20号車のシートをオーバルから引退したコンウェイと分け合い、今季初めてコクピットに収まった彼の意欲が並々ならぬものだったろうことを思えば、現象としての予選最速スピードはなんら不思議なことではないはずだった。

 しかし、オーバルとロード/ストリートでシートを分けるというその参戦形態は、まさにその2種類のコースでレースを行うようになったインディアナポリス・モーター・スピードウェイやひいてはインディカーそのものの二重性をなぞるように表象してしまっているようでもある。コンウェイとカーペンター――イギリス人とアメリカ人、GP2を生き抜き、ル・マンでも活躍するドライバーとオーバルでしか生きられない男、そんなふうに正反対の要素を挙げることはできるが、ほとんど不倶戴天でさえありそうな彼らがおなじカーナンバー(なんとも悪い冗談のように、それは日本語で「にじゅう」と発音する)に同居できるほど二重化しながら精神の拠り所を見えにくくしているのが、いまのインディカーということなのだ。オーバルを走らないコンウェイにきっと米国の眼差しが向けられることはなく、カーペンターがシリーズを手に入れることもけっしてない。まして、ロードコースで行われたインディアナポリスGPでシモン・パジェノーがヨーロッパ的な才能を見せつけて優勝した2週間後のインディ500である。インディカーの精神からブリックヤードが剥離していくかのような状況、20年前とよく似た状況でカーペンターが手に入れたポール・ポジションは、もしかすると、今年のインディ500に調和的な勝者は現れないのではないかという予感を抱かせもした。

 実際、149周目まではそうだったかもしれない。すべてのチームが必要なダウンフォースのレベルを読み違え、過剰なグリップで車を振り回すことができたことで、レースはまったくフルコース・コーションが出ないまま、しかし同時に周回遅れによって勝負権を失う車もないほどスピード差も現れずに進んでいた。インディ500にかぎらずオーバルレースが終盤の入り口までは遅い車や不運に見舞われたドライバーを篩いにかけて選り分けるための実質的な予選だとするなら、レース4分の3になってはじめてイエロー・フラッグが振られたとき、「決勝」には大量の車が残っていた。もしこのあたりで女神がちょっとした気まぐれを起こしていたら、思いもよらぬ勝者が現れた可能性はたしかにあった。クラッシュで飛び散ったターゲット・チップ・ガナッシの破片が不運にもフロアーに刺さらなかったら佐藤にチャンスがあったかもしれないし、ひとり異質の戦略で不気味な存在感を放っていたファン=パブロ・モントーヤがいつの間にか先頭に立つような展開もあったかもしれない。昨年ルーキーとして活躍したカルロス・ムニョスには今年も上位を窺えるだけのスピードがあり、マルコはさらに一回り速かった。

 だが結局、レースはあるべき者のもとへ手繰り寄せられていくのだろう。167周目にスコット・ディクソンが単独スピンでセイファー・ウォールの餌食となり、そのコーションが明けた175周目に今度はジェームズ・ヒンチクリフとカーペンターがクラッシュしたことで、インディ500は燃費や効率や戦略を打ち捨てた、ただ純粋にゴールまで全開の速さを競う勝負となった。二重のカーナンバー20が消えたことで生まれた25周のスプリントは、というのは皮肉がすぎるものの、レースからは重層性が奪われ、水平の戦いへと押し拡げられていく。そして、そういうレースを戦うにふさわしいドライバーとして、ライアン・ハンター=レイとエリオ・カストロネベスだけに首位攻防が与えられ、われわれを誘っていったのだった。

 決着はたぶん、ちょっとしたことである。速さだけ見ればわずかにハンター=レイが上回ったが、それでもお互い相手を突き放すだけのスピードは持てなかった。多すぎたダウンフォースは最後まで削りとれず、直線で逃げることが不可能ななか、ターン1ではそうなることが当たり前のようにオーバーテイクが繰り返されていた。だから、タイミングだけが明暗を分けたということにしてもいいだろう。カストロネベスは199周目のターン4を先頭で立ち上がったが、それはやはり早すぎた。後方から勢い良く迫るハンター=レイは200周目に入る手前でカストロネベスを抜き去り、ターン1を制する。その先を逃げ切ることはさほど困難ではなかったはずだ。それぞれに性質の違うインディアナポリス・モーター・スピードウェイのコーナーは、残り3つの間に次の機会を用意してはくれなかった。
 
 
 インディ500の優勝者の名前を見ていると、レース自体が優勝すべきドライバーを選びとっているように錯覚してしまう。来年のインディ500の記事も、今日とおなじような書き出しで始められることだろう。少し粗雑で頼りなく感じるときもあった2012年のシリーズ・チャンピオンは0.06秒差でライバルを振り切った。ハンター=レイは自らの価値を証明し、21世紀のチャンピオンはこれでまた全員がインディ500優勝者のリストに名を連ねることになる。これこそインディカーらしい結末だったに違いない。二重の衣を剥ぎとってみることができるのであれば、ブリックヤードの女神は最後にやっぱりそういう男を祝福してしまうのだ。

インディはどこから来たのか、インディは何者か、インディはどこへ行くのか

【2014.5.10】
インディカー・シリーズ第5戦 インディアナポリスGP
 
 
 RACING-REFERENCE.INFOによれば、1914年にRené Thomas(カタカナならレネ・トマと書けばいいだろうか)というフランス人が「インディアナポリス500マイルレース」、いわゆるインディ500を制したらしい。この年はドラージュとプジョーを駆るフランス勢が200周のうちじつに198周にわたってレースをリードし、最終的に4位までを独占したとされている。4位に入ったのは前年にはじめてのフランス人優勝者となり、連覇を狙っていたにちがいないJules Goux(ジュール・グーと書いておこう)である。ポール・ポジションの周回が88.31mph、レース平均速度が82.47mphを記録したレースで、トマは3万9750ドルの賞金を手にしている。第一次世界大戦の戦端が開かれる少し前、5月30日土曜日のことだ。勝者がヴィクトリー・レーンで牛乳を飲む習慣はまだなく、歓喜の場でトマがなにをしていたのかは知る由もない。

 また2014年5月10日のやはり土曜日に行われたレースでは、最終スティントが燃費とスピードの二極に分かれる緊張感漂う展開となった末に、豊かな才能に溢れるシモン・パジェノーがその真骨頂たる繊細な運転で残りわずかな燃料を使い切り、先頭を守ったままフィニッシュラインまで車を運んだ。すぐにでもチャンピオン候補の表に名前を書き入れたくなる30歳はそのレースの初代優勝者として名前を記録されるとともに、ちょうどぴったり1世紀を経て、米国モータースポーツの聖地に3つ目となるフランスの足跡を刻んだ。そう、「Grand Prix Of ――」、パジェノーが制したレース名には、インディ500の場所である「Indianapolis」が、はっきりと記されている。

 開業当初レンガによって路面が作られていためにブリックヤードの愛称がついていることで知られるインディアナポリス・モーター・スピードウェイ(IMS)で、「インディ500ではないレース」の開催を計画している、という報道にはじめて接したのは昨年の4月から5月にかけてだったと記憶しているが、当初はそれがインディカー・シリーズの蹉跌になりうるように思えたものだ。少なくともここ四半世紀のインディカーを巡る流れを攫ったことがある者にとっていくばくかの寂寥感を抱かせるニュースだったことはたしかで、インディ500の価値がオーバルコースを逆走するロードレースによって汚されるような、大げさに言えば侵されてはならない精神がまさにその守護者であるはずの存在によって踏みつけられたような失望がそこにはあった。実際にはインフィールド区間の形状が違ったものの、はじめのうちは2000~2007年に行われていたF1アメリカGPとおなじレイアウトを使うと伝わっており(これは仮の計画として報じられていたのか、自分の早とちりだったのか定かでない)、タイムの差が露骨に、もちろんF1のほうが速い形で現れてしまうだろうことも懸念材料だった。

「インディ500ではない」IMSのレースに対する不安がどうしても拭いきれなかったのは、かならずしもこの計画によって現状が変更されることへの子供じみた抵抗感だけが理由ではなく、それが近年のインディカーの変容をそのままなぞる形で、かつての悪しき歴史へと回帰していく道を想起させてしまうからだった。当初オーバルレースしか存在しなかったはずのインディカー・シリーズはNASCARの人気に押されるなどして観客動員数が伸び悩み、近年は毎年のようにロード/ストリートレースを増やしてきたという背景があった。2010年代にオーバルの比率が全体の3分の1となったその潮流に、だからインディ500を抱えるIMSまでがとうとう呑まれてしまったのだろうというのが、「インディ500ではないレース」に納得するもっとも自然な解釈のはずだったのだ。それが意味するのはあきらかにアメリカからヨーロッパ的なレースへの運動であり、そしてそこにこそインディカーを巡る憂鬱が存在した。周知のとおりインディカーは、米国のオープン・ホイール・レースは、かつて実際にヨーロッパへ接近する過程で、真っ二つに引き裂かれた歴史を経験しているのだから。

   *

 そもそも、とあえて原点に戻ることは意味のないことではあるまい。つまり、「インディカー」とは何なのだろう。その名前から連想される第一の答えは、もちろん「インディ500を走る車」の意である。もともと、オープン・ホイール・カーで争われる米国選手権の総称は「チャンピオンシップ・カー・レーシング」であり、1997〜2008年に使われていたチャンプカーの名前もそれに由来する。1905〜1955年の大会がAAA Championship Car(AAA=American Automobile Association、アメリカ自動車協会)、1956〜1978(または1984)年がUSAC Champion Cars(USAC=United States Auto Club、米国自動車クラブ)だったことから推測されるように、インディカーは当初から定められたものではなく、米国レース史に君臨するインディ500の存在感に寄り添って自然発生的に生まれてきたものであり、きわめて象徴性の高い言霊のような名称である。規格の最高クラスであればFormula 1がどんな形であっても概念的にはFormula 1でありうるのに対し、インディカーはその名前ゆえにインディ500とともにしか生きられない、とも言えるだろう。実際、後の歴史においてそれはなかば現実化する形で証明されることになる。

 インディカーの起源についての探求は一介のアマチュアの手に余るので専門家に委ねたいが、1979年にCART(Championship Auto Racing Teams)のシリーズが始まった(より正確には、初年度の1979年は上部団体の認可が降りずSCCA=The Sports Car Club of Americaの名を借りて開催している)ころには、インディカーの名前は広く使われており、1980年から選手権も「インディカー・ワールド・シリーズ」として知られていた。ただ、それが実体的な価値を有するようになったのは1992年、IMSが「インディカー」の商標権を獲得したときだろう。このあたりの事情については詳らかにしないものの、商標を得(ようとし)たのがCARTではなくIMSだったのには、インディカーの名称の源泉がインディ500にあることと、CART発足時の混乱のため、当時シリーズを統括するのがCARTでありながらインディ500だけはUSACが運営していたといういびつな状況が関係しているのかもしれない。いずれにせよこれを境に「インディカー」は独占的な商業権利となり、ある意味では象徴性よりも具体的利益にかかわるものとしてFormula 1と同質の名称となる。そしてそのことが結果として将来の状況を複雑にしてもいくのである。
 
 
 1990年代に起きるインディ500を中心としたチャンピオンシップ・カー・レーシングの分裂を見る前に、欠かすことのできない一方の主役であるCARTについてさらっておこう。元を正せばCARTはUSACから分裂する形で生まれた団体であるが、その誕生にいたる背景にはUSACの運営能力不足に起因するレース界の停滞があったようだ。当時の選手権は全国的に開催されるとはいっても広汎な人気を獲得していたとは言えず、インディ500を除けばまったく注目を浴びることのないイベントだった。インディ500を全米トップクラスの祭典に成長させたのはIMS社長のアントン・ハルマンだったが、彼がUSACの創設者でもあり、オフィスもインディアナポリスに構えていた弊害なのかどうか、USACじたいがIMSにしか関心を払わない組織で、その他のサーキットとの連携は弱く、影響力も小さかったという。インディ500以外は雀の涙ほどの賞金しか支払われず(ふたたびRACING-REFERENCE.INFOを引くと、たとえば佐藤琢磨が所属するチームのオーナーとして日本人にもよく知られるA.J.フォイトは、1977年に4度目のインディ500優勝を果たした際に25万2728ドルを得ているのに対し、同年オンタリオ優勝時にはそのたった6%の1万5369ドルしか受け取っていない)、テレビ中継がないのはもちろん、観客を呼びこむ努力すらなされなかった。各サーキットの経営者やプロモーターの思惑がそれぞれバラバラで勝手なレース運営を繰り返すにもかかわらずUSACにはそれを止める力も意思もないなど、およそ一貫性を欠いた、インディ500さえあればそれでいいといった名ばかりの選手権だったようだ。人気がないのは当然のなりゆきだったのだろう。

 リーダーシップを発揮できないUSACに対しレーシングチームのオーナーたちは不満を募らせていたが、1977年10月にハルマンが死去するとそれははっきりとした形をとり始めた。現役時代にF1で3勝、NASCARで5勝を上げ、インディ500でも2度の2位を記録したダン・ガーニーは、イーグルのオーナーを務めていた1978年初頭、他のオーナーたちに向けて、のちにGurney's White Paperと呼ばれることになる手紙を宛てている。かつて苦境に陥っていたF1がコンストラクターたちによってFOCA(Formula One Constructors Association、現在のFOAの源流にあたる)を組織し、最高権力者として据えたバーニー・エクレストンに絶対の忠誠を誓うことで商業的成功を収めた事例を引き合いに出して、レーシングチームばかりが費用を負担しているUSACの現状を改善するため、レースの当事者たるチームが積極的に運営をサポートすることで参戦コストを低下させながら大会を盛り上げ、観客の増加、テレビ放送の拡大、スポンサーの獲得によって利益を得て、公平に分配するべきだと訴えたその手紙には、来るべきオーナー組織の呼称もまた記されていた。〈Let's call it(the organization) CART or Championship Auto Racing Teams〉――おそらく、これこそCARTの初出である。レーシングチームの選手権というガーニーの構想に共鳴したチームオーナー(そのうち一人が、いまもチーム・ペンスキーに君臨するロジャー・ペンスキーだった)たちは、その年の夏のうちには結集している。

 折悪しく、USACはハルマンの死去からわずか半年後の1978年4月23日にインディアナポリス郊外で発生したプライベート機の墜落事故によって副社長や技術責任者をはじめとした主要メンバー8人を失っており、組織に空白が生じていた。そのせいもあってか、CARTとUSACの交渉はどうやら不調に終わったらしい。11月に要求が拒否されるとCARTはすぐさま自らレースを開催するべく動いた。有力オーナーによって組織され、A.J.フォイトなど発言力の強いドライバーがその趣旨に同調していたことも手伝ってCARTは各サーキットの支持を取り付け、独自シリーズの構想は滞りなく現実化していく。前述のとおりACCUS(Automobile Competition Committee for the United States、米国自動車競争委員会)の承認が得られず体裁上はSCCAを借りることにはなったものの、1979年3月11日にアリゾナではじめてのCARTレースが「インディカー」のシリーズとして開催され、USACで20勝を重ねた42歳のゴードン・ジョンコックがまったく新しい勝利を手に入れた。この年行われた21の選手権レースのうち、CART傘下のものはすでに14にのぼっていた。

 主導権争いに敗れたUSACも1984年までCARTに対抗して選手権を開催していたものの、もはや趨勢は明らかで、チャンピオンシップ・カー・レーシングの実質的な担い手はCARTと言っていい状況になった(ただしUSACはインディ500の運営だけは手放さず、その二重体制は結局CARTからインディ500が失われるまで続いた)。そしてCARTは少しずつ、USACを引き剥がすかのように相貌を変化させていく。

 もともと1970年にUSACがロードレースとダートトラックレースを整理してオーバルに一本化していたため、CARTの始動当初もロードレースの開催は少なく、オーバル比率は1979年に13/14、1980年9/12、1981年9/12ときわめて高い水準にあった。またドライバーはほぼアメリカ人で占められ、外国人の顕著な活躍はオーストラリアのジェフ・ブラバムが1981年にロサンゼルスでポール・ポジションを獲得したのと、翌1982年にメキシコのヘクトル・レバクがロード・アメリカで優勝した出来事ぐらいしか認めることができない。その意味で当初のCARTはあくまでUSACの延長上にある、かなり保守的な(いかにも米国的な)相貌の選手権だったということだろう。古き善き時代というものを懐かしむとしたら、人によってはこの頃かもしれない。

 そのような状況から最初の変化が起きたのは1983年で、全13レースのうち6レースがロードコースで行われてオーバルの重要度が一気に低下するとともに、F1経験を携えてきたイタリア人のテオ・ファビがいきなり6回のポール・ポジションと4勝を上げる活躍でシリーズ2位に食い込み、新人賞を獲得している。5点差で辛くもチャンピオンとなったアル・アンサーは2位4回ながらわずか1勝しかしていないから、米国のファンにしてみれば勝った心地はしなかったことだろう。ファビは翌シーズン途中でF1へと帰り、シリーズにはふたたびアメリカ人ドライバーが並ぶことになったが、しかしもうひとつの変化であるオーバルコースの減少のほうは止まることはなかった。1985年にオーバル比率が7/15となってはじめて半数を割り込むと、以後オーバルの数がロード/ストリートを上回る年は一度として来なかったのである。1991年など、全18レースのうちオーバルの開催はたった5回だった。

 北米に特有のコースであるオーバルの割合が下がるなかで垣根が取り払われたのか、1980年代後半からは外国人、それもファビ同様にF1経験があるドライバーの活躍が少しずつ目立つようになってくる。2度にわたるF1チャンピオンの経歴を誇るエマーソン・フィッティパルディは1984年にCARTで現役復帰すると1985年から毎年勝利を記録し、1987年にはF1で芽が出なかったコロンビア人のロベルト・グェレロも2勝を上げた。そして1989年、米国はついに「陥落」する。42歳となっていたフィッティパルディはこの年絶好調で、23年ぶりにアメリカ人の手からインディ500を奪い去ると、6月から7月にかけて3連勝を記録。ついにはリック・メアーズ――3度のCART王者にして、インディ500を4勝した――を10点差退けて、戦後はじめて米国の選手権を獲得した外国人となったのである。

 翌年のインディ500もオランダのアリー・ルイエンダイクが優勝するなどCARTの国際化は少しずつだが進み、1993年、前年にF1を制したばかりのナイジェル・マンセルが現れてあっさりとCARTをも攫っていく。同じ年、CART王者の肩書を背負ってヨーロッパに渡ったマイケル・アンドレッティはチームメイトのアイルトン・セナに手も足も出ず、シーズン途中で若いミカ・ハッキネンにシートを奪われていた。

   *

 未来から歴史を振り返ってみると時おり必然としか思えないような奇妙な符合に遭遇したりするものだが、ダン・ガーニーがチャンピオンシップ・カー・レーシングの発展のために参照したのがバーニー・エクレストンであったこともまた、ずいぶんと示唆的に感じられる事実の一つかもしれない。F1の成功をモデルとしたCARTが1980年代半ばから1990年代にかけて辿りついたのは、ヨーロッパに通ずるロードコースの増加とグローバル化にともなうドライバーの多国籍化、さらには車輌の重要度が向上したことによる技術重視主義という、まさに世界選手権であるF1そのものの姿だった。そしてそうなれば当然、インディカーとF1の比較も露骨になってくる。1993年に両者の間で「交換」された2人の王者のあまりに対照的な結末は、世界のモータースポーツ秩序におけるインディカーの位置づけを問うようでもあった。

 1992年に「インディカー」の商標権を獲得し、インディカー・ワールド・シリーズの名前をブランドとして確立しようとしていたIMS社長のトニー・ジョージ(アントン・ハルマンの孫にあたる)にとって、どうやらこのような状況は我慢ならないものだったらしい。1994年、マンセルに圧倒された次のシーズンのオーバル開催数は全16レース中6回に過ぎず、フル参戦ドライバー24人のうち、アメリカ人はイタリア生まれのマリオ・アンドレッティとドイツ出身のドミニク・ドブソンを含め11人だけになっていた。そんな「世界的な」シーズン開幕前にジョージが発表した構想は、やがてインディカーの行く末をふたたび左右することになる。すなわち、オーバルに特化しアメリカ人を揃えた低コストのシリーズ、IRL(Indy Racing League)を立ち上げる――。

 IRLが誕生するまでの過程には、あきらかに歴史の皮肉が見て取れる。もともとCARTの成り立ちを考えると、その目的のひとつはレーシングチームの利益を確保し、参戦費用を軽減することにあったわけだった。Championship Auto Racing Teamsといういささか奇妙にも思える名称には、チームこそレースに欠かすことのできないピースであるという信念が込められていたはずである。

 だがインディカーのシリーズとして成功を収め、飛び交うドル札が増えていくごとに、組合的、互助会的に成立したはずの組織運営はいびつなものになっていったようだ。マシニスト・ユニオン・レーシングの監督だったアンディ・キノペンスキーは、1986年に「5年前に年間50万ドルだったコストが、いまでは200マイルレースに出向くために4万ドル必要になっている」と話している。参戦費用は年間100万ドル単位に膨れ上がり、すでに弱小チームの財政を圧迫するようになっていたという。

 さらに3年後、彼は一部のオーナーが、より有利に、そしてより裕福になるようCARTの運営を私物化していると強く批判することになる。1988年から1989年にかけて行われた32レース(非選手権含む)のうち、じつに28レースで優勝したのはシボレー−イルモア製のエンジンを搭載した車だったが、圧倒的な戦闘力を誇るこのエンジンを使用できたのは、CARTの幹部に名を連ねるオーナーが所有する4つのチーム――ニューマン・ハース・レーシング、ギャル・レーシング、そして皮肉なことに志高きCART創設メンバーであったはずのパトリック・レーシングと、チーム・ペンスキーだけだった(フィッティパルディの王座は、そのようにしてもたらされたのであった)。エンジン供給数を制限することで、CARTは自分たちにとって都合のいい結果を作り、収益を特定の場所へと集中させるようにしたのである。キノペンスキーの怒りは、このように中小チームの予算をいたずらに圧迫し、財政規模の大きいチームだけが有利になるようレギュレーションを操作するペンスキーたちに向いていた。

 運営における疑惑はそれだけではない。たとえば1990年にポルシェ・ノース・アメリカがカーボンファイバー製のコクピットを開発して投入、ジョン・アンドレッティを非シボレー勢として最上位のランキング10位に送り込んだが、CARTはそれを即刻禁止し、ポルシェにこの年限りでの撤退を決定させている。この件に非難の矛先を向けたトニー・ジョージの主張が正しいとするなら、表向きは安全面を理由としたこの措置は、実のところシャシー開発に乗り出していたペンスキーと、その他のシボレー搭載チームが使用するローラを「援護」するためのものだったという。ジョージは1992年から議決権のないメンバーとしてCARTの運営に加わったが、ほどなく辞任している。

 かくまでに金持ちクラブと化して一部の横暴がまかり通るようになったCARTに対し、中小チームのオーナーは確実に不満を募らせていた。IRLが発足するまでの過程に横たわっていたのは米国の喪失と、なによりその事態を導いた志を忘れた運営だったのである。それはまったくもって、いつか見たような話だった。
 
 
 IRLの誕生によって、チャンピオンシップ・カー・レーシングは四半世紀前にCARTがUSACから分裂した過去をなぞるようにふたたび南北戦争へと突入した。体制と化して商業主義に塗れたかつての革命家と回帰主義者との対立は、最終的にインディカーとインディアナポリス、そしてインディ500が不可分に結び合っている事実を強く再認識させる結末を迎えることになる。

 1994年に新団体が発足したとき、すでに一般名称ではなく商標となっていた「インディカー」の名前を使用できる権利は限定されていた。当然オリジナルの権利を持つのは1992年にそれを取得したIMSであったはずだが、1997年までCARTにライセンスする契約が結ばれており、IMSが中心となって発足したにもかかわらず新団体は「インディカー」を使えずIndy Racing Leagueを名乗る。しかしCARTとIRLの交渉が物別れに終わり、1996年からIRLの独自シリーズ(大会名はそのままIRLとなった)が実際にスタートすることが決定的になると、IMSはIRLのためにCARTへのライセンスを停止しようとした。CARTは契約を護るためにIMSを提訴するが、IMSの側も反訴によって対抗し、「インディカー」の名前はついに法廷の場に持ち込まれる。その詳細については残念ながらわからないままだが、両者が最終的に和解した条件は「CARTは1996年限りでインディカーの名称を放棄する。ただし、IRLも2002年12月31日までその使用を停止することとする」というものだった。

 この争いにおいて、シリーズの目玉となりうるインディ500の位置づけは重い。先述したとおりCARTが1979年にスタートしてからもインディ500だけはUSACによって認可されるイベントであり、1980年のCRL(Championship Racing League、USACとCARTの歩み寄りによって結成されたがわずか5戦で頓挫した)開催、1981〜1982年のUSAC開催を経て、1983年以降は「USACが認可するCARTとは別の大会であるが、順位はCARTの選手権ポイントに反映される」という二重体制のもと実施されてきた。IMSが開催地であることはもちろんのこと、そういった経緯からインディ500はごくごく自然とIRLのものとなり、そしてCARTがインディカーの名称を放棄したのは、まさにインディ500を持っていないのにそれを名乗ることに意味がないからだった――それは、「インディ500を走る車」の謂なのだから。

 もとより決して強いとはいえなかったインディ500とCARTの関係はこうして断たれる。1996年シーズンはすでにインディ500を失っていたにもかかわらず「インディカー」を使い続けているが、これは、Twitterアカウント@epsilon5a EPSILON(イプシロン)氏によればその年のインディ500を走る車が一年落ちのCART車輌だからという事情があったためだという。つまりは最後のシーズンも結局はインディ500とのかかわりのなかにしかなかったわけである。IRLに対し2002年まで冷却期間を置かせたのは商売上の必然とはいえ、インディ500とともにインディカーを失った傷は深く、そしてまた、化膿が広がるようにCARTをやがて蝕んでいくことになる。

 結局CARTは1997年から伝統的な名称である「チャンプカー」を使用するようになり、またIRLも「インディカー」を止められてしまったため、以後6年にわたって名目上の「インディカー・シリーズ」は消滅する。その間CART対IRLの対立は激化の一途をたどっていくが、決着の要となったのはやはりインディ500であった。
 
 
 1995年5月に発表されたIRL初年度の開催はわずか3レース、フロリダに建設予定のウォルト・ディズニー・ワールド・スピードウェイで1996年1月27日に実施される初レースに続いて、3月24日のフェニックス、5月26日のインディ500でシーズン終幕となっていた。さびしい日程ではあるが、IRLは将来に向けてインディ500を最終戦にする構想を持っていたから、それに向けての第一歩とも言えた。対するCARTは、直後に出した同年のカレンダーでIRL潰しの意識を隠す素振りもせず露にしている。3月17日に第2戦ブラジル・リオデジャネイロ、そして3月31日にはオーストラリアのサーフェス・パラダイスで第3戦が組まれたその意図が、遠い外国でのレースでIRLの開催週を挟みこんでチームやドライバーのIRL参戦を妨げることにあったのは明らかだった。

 設立の経緯からしてIRLは弱小の集まりであり、CARTにレベルの面で太刀打ちできるはずもない。IRLの狙いは当然ながら有力チームや有名ドライバーの排除ではなく取り込んだうえでの服従であり、そのための頼みの綱は40万人の動員力を誇る商業的価値や、抗いがたい伝統を持つインディ500だけだった。CARTの日程を確認したIRLは1995年7月3日、圧力への対抗策としてインディ500を前面に押し出した新しいルールを発表する。やがて「25/8ルール」と呼ばれるようになったそれは、1996年5月26日のIMSに用意される全33グリッドのうち25グリッドを――まだそれだけの台数が用意できるかどうかもわからないうちに――IRLポイントの上位者に与えるというものだった。しかもそのポイントを、各レースで獲得した合計に参戦レース数を乗じて算出することにしている(シーズンが3戦しかなかったにもかかわらず、初代チャンピオンのバル・カルキンスが246点を稼いでいるのはそういう理由で、82点×3レースだった)。つまりIRLに「フル参戦」することをインディ500参加の条件にしようとしたのである。これは、1980年代初頭にUSACとCARTがインディ500にかんしてだけは共同歩調をとったような妥協が不可能になることを意味していた。

 IMS社長のトニー・ジョージがインディカーを北米に回帰させようとしたのは伝統的な保守主義によるものではなく、多くはビジネスに基づく判断、つまりそうしたほうが人気を見込めるからというものだったようだ。実際、ジョージはいくつかの改革によって、伝統を重んじる人々を怒らせている。長らくインディ500のためだけに存在したIMSがNASCARに開放され、ブリックヤードをストックカーが走ることになったのは1994年のことだ。バーニー・エクレストンと接触してF1を誘致しようとしてもいる(これは2000年に実現した)。そして25/8ルールもまた、インディ500を破壊しかねない危険をはらんでいた。つまり強力なCART勢が参戦できなくなることは、「最高の33台による世界最速のイベント」でなくなるも同然だった。IRL勢だけでレースのレベルを充足させることは不可能に近い。それでもIRLは、インディ500を自らのビジネスのために自らだけのものにしようとしたのである。

 25/8ルールに反発したCARTは1995年12月にインディ500のボイコットを決定、インディ500とまったく同日の1996年5月26日に、インディ500とまったく同じ500マイルオーバルのU.S.500をミシガンで開催することを発表する。はたして当日、インディアナポリスに車輌を運び込んだCARTのチームはギャル・レーシングとウォーカー・レーシングのみ、それも1台ずつに過ぎず、ステアリングを握ったのは控えドライバーだった。そして、その程度のCART勢にIRLは2位を奪われた。予選最速タイムを叩きだしたスコット・ブライトンが練習走行の事故で死亡する悲劇の直後にスタートが切られたレースで優勝したのはバディ・ラジア――後のIRLチャンピオンとして名を残すことになるが、当時はCARTで勝利がなかったどころか最高位7位、一桁順位を記録したのはたった2回の、何ということはないドライバーである。いやそもそも、コース上にいるほとんどがそんなドライバーだった。このインディ500のスターティング・グリッドに並んだ33人のCART優勝数は、すべて合わせてもわずか5。もっとも実績があったと言えるのはF1で5勝したミケーレ・アルボレートだが、予選12位、決勝はリタイアに終わっている。アメリカ人の優勝経験者は、18年前にUSACで最後の勝利を上げた54歳のダニー・オンガイス以外だれひとりいなかった。

 詳細なデータは不明だが、しかし、にもかかわらず、どうやら観客動員数もニュースの注目度もU.S.500よりインディ500が上回ったらしい。サーキットの規模や開催期間が違うので単純な比較はできないが、ミシガンの観客が11万人ほどだったのに対し、インディアナポリスはさすがに例年より減らしたもののそれでも30万人以上を動員したという(どちらも公式発表はされていない)。初年度の直接対決がこのような結果になったことが、あるいは未来を決定づけたのかもしれない。CARTの最重要イベントとして位置づけられたはずのミシガンからは以後、毎年のように観客がいなくなり、1999年の入場者数は5万人台に急落していた。
 
 
 名目上その名称を名乗ることはできなかったといっても、実態としてIRLが「インディカー」であったことは、象徴となるレースの存在によって明らかだった。1997年以降も変わらぬ人気を維持し続けたインディ500は、跳ねのけられない伝統の祭典として強い影響力を持ち、IRL対CARTの未来を決定づけていく。たとえば2000年にはチーム・ペンスキーを解雇されたアル・アンサーJr.がIRLに転向して初勝利を記録し、また現在に至るまでインディカーの有力チームとして知られるガナッシ・レーシングがCARTのチームとしてはじめてレギュラードライバーをともなってインディ500に参戦し、「デビュー戦」のファン=パブロ・モントーヤが167周をリードして優勝している。

 この出来事じたいは「人気のIRL、実力のCART」をより実感させる結果に過ぎなかったが、同時にCARTが失ったインディ500やインディカーを欲していることを印象づけるものでもあった。2001年にはガナッシに加え、IRL設立時の最大の敵だったチーム・ペンスキーと、マイケル・アンドレッティ擁するチーム・クール・グリーン(のち、アンドレッティ・グリーン・レーシングを経て現在アンドレッティ・オートスポート)がインディ500に加わった。さらに前年CART開幕戦の舞台だったホームステッドやマディソンなどレース開催そのものがIRLへと移行を始めており、CARTの退潮が確実に目に見えるようになってきていた。

 2002年、チーム・ペンスキーがCARTから完全撤退してIRLでフルシーズンを戦うことになり、レベルの高さ以外にアピールポイントを持たなかったCARTの打撃は決定的なものになった。そして終焉は訪れる。2003年に商標の停止期間が終了し、IRLがついにその大会名を「インディカー・シリーズ」へと変更して名実ともにインディカーの中心地となると、ガナッシやアンドレッティ・グリーン・レーシングなどの有力チームが雪崩を打って移籍。エンジンを供給するトヨタとホンダまでがインディカーへと移った。大会のタイトルスポンサーであるFedExにも撤退されたCARTは金銭的に立ちゆかなくなり、設立26年目にしてとうとう経営破綻に見舞われた。最後のシーズン、オーバルレースは全19戦のうち3戦。フル参戦したアメリカ人ドライバーは2人だった。

 それからについては詳しい人も多いだろう。 新しく結成されたコンソーシアムのOWRS(Open Wheel Racing Series)がCARTの資産を引き継いで2004年からチャンプカーの新選手権であるCCWS(Champ Car World Series)を継続開催するが、徒花になったセバスチャン・ブルデーの4連覇を歴史の最後として、2008年開幕戦をもってすべてのレースを断念、チャンプカーはその名のもととなったチャンピオンシップ・カー・レーシングから姿を消す。インディカーは働き場を失ったCCWSのドライバーを引き受け、サーキットには多数の「ルーキー」がひしめいた。そんな年の新人賞が下位カテゴリーのインディ・ライツからステップアップしてきた日本の武藤英紀だったことはよく知られていよう。
 
 
 武藤の新人賞は日本人として2004年の松浦孝亮以来2人目の、また1996年のIRL開始から数えて6度目の外国人による受賞だった。この事実からもわかるとおり、IRLが当初掲げた「北米のドライバーによる選手権」の構想はさほどうまくいったわけではない。1998年にスウェーデンのケニー・ブラックが5人のアメリカ人を足元に従えたのを皮切りに、2013年までに外国人がシーズンを制した年は10回を数え、とくに「インディカー・シリーズ」となってからは2006年のサム・ホーニッシュJr.と2012年のライアン・ハンター=レイがようやくアメリカ人王者として挙げられるだけである。交通の発達によって地球が狭くなっていく中で、米国だけの選手権を維持することは難しかったということだろう。それはやむを得ないことだ。だがインディカーはもうひとつ当初の意思を、運営自らの手によって覆した。4月3日のセント・ピーターズバーグ、8月28日インフィニオン、9月25日ワトキンス・グレン。CARTが消滅して2年目、2005年のインディカー・シリーズのカレンダーには、はじめてロード/ストリートコースでのレースが開催されると記されていたのだった。

 インディカーがかつて拒絶したレースをふたたびカレンダーに組み込んだ理由はわからなくもない。CCWSが力を失っていく過程で、当然のことながらオープン・ホイール・カーによるレベルの高いロードコースが米国から消えつつあり、その充足が必要だった、というのは一面の真実だろう。また最初に書いたようにNASCARの人気に押されてオーバルだけでは集客が見込めなくなっていたから、カンフル剤としての効果を期待したということも考えられる説ではある。いずれにせよインディカーはある意味で禁断の果実に手を出した。ロングビーチの週末は20万人近い観客を集め、インディ500を除くあらゆるレースの動員数を上回ってしまった。それを見れば、次の手が俗手になることは容易に想像できたはずである。

 その後のインディカーの歩みを書こうと思えば、ほとんどCART初期のそれをコピーしてくれば足りるかもしれない。CART時代と同様にオーバル開催は次々と姿を消していき、2010年、ついにシーズン全体の半分を割り込んだ。そして同じ年、インディカー・シリーズでははじめてF1の表彰台を経験したことのあるドライバーとして佐藤琢磨が現れる。2年後のインディ500の最終ラップで果敢な首位攻防の末に敗れた彼は、2013年、だれもが知ってのとおり「新しい地域」の優勝者として、インディカーの歴史にその名を刻みつけた。

   *

 もちろん、これはシモン・パジェノーが勝利したインディアナポリスGPの話なのだった。2014年、「インディ500ではないレース」が開催されたインディカー・シリーズはすでに全体の3分の1までオーバルレースの数を減らしている。インディ500がその年の最初のオーバルとして設定されるのもすっかり恒例になった。昨季こそやや紛れの多いシーズンとなったものの、それ以前の数年間がチップ・ガナッシ・レーシング、チーム・ペンスキー、アンドレッティ・オートスポート以外はほとんど勝ち目のないシリーズだったことは記憶に新しい。ダラーラの一社製造になっているシャシーも、「一部の有力チーム」であるチップ・ガナッシやペンスキーが優先的に素性の良いものを選択し、残りを中堅以下のチームで分け合っている、というような噂がまことしやかに囁かれていた時期もあった。

 こうしてみれば、現在のインディカーを取り巻く状況がCARTの末期に酷似していることはだれの目にも明らかだろう。あるいはビジネスのために25/8ルールが作られた瞬間から、現在という未来は暗示されていたのかもしれない。カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の冒頭で、歴史は二度現れると述べたヘーゲルの言葉に「一度は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として」と付け加えたのである。CARTの開始からIRLの分裂まで17年、そしてIRLがレースをスタートさせて18年が過ぎた。いま歴史は繰り返されている。インディ500をなにより守ったはずのインディカーがもうひとつのインディアナポリスを開放することを笑劇であることの証として。

 IRLがCARTから分裂した、できたのは、それがインディ500と不可分な関係にあったからだった。CARTは精神の最後の奥底においてインディカーではなかった。そこにインディアナポリスがインディカーを取り戻す道があったのだ。だがIMSそのものが変容していっているいま、分裂することはもうできない。オーバルだけを求めるかつてのIRLが新たに現れたとしても、インディ500を持たない以上、能力においても象徴性においても力を得るときはけっしてやって来ないだろう。だからこそ、インディカーが繰り返す歴史はもはや悲劇性をまとうことなどできず、笑劇にならざるをえなくなってしまう。

 われわれはパジェノーの勝利に問いを向けなければならない。はたしてそれは、インディアナポリスに刻まれた3つめのフランスだったのか、あるいは別の、インディカーとは違う何かの始まりとして、ただ同じ地に現れただけだったのか。歴史を呼び起こした偉大な回帰だったのか、虚ろな笑いとともに受け入れるしかない反復の現実だったのか。その答えはわれわれインディカーの観客が、すぐに戦われることになる次のインディ500をはじめとした未来のなかに見つけていかなければならない課題である。シモン・パジェノーはインディアナポリスのロードコースを平均96.462mphで駆け抜けている。インディカーはインフィールド区間を何度も右に左に曲がりながらなお、ほとんど全開だったであろう100年前のレネ・トマより14mphも速く走るようになった。

【参考】
RACING-REFERENCE.INFO
(http://racing-reference.info)

Dan Gurney’s All American Racers
(http://allamericanracers.com)

Gordon Kirby, “The Way It Is/ The tragedy of history repeating itself”
(http://www.gordonkirby.com/categories/columns/theway/2012/the_way_it_is_no350.html)

The Philadelphia Inquirer 1986/8/18, “Team Manager: Indy Cars Too Expensive”
(http://articles.philly.com/1986-08-18/sports/26063958_1_cart-series-cart-board-indy-cars)

Los Angeles Times Jan.8.1990, “CART to Deal With Disarray in Its Meeting“
(http://articles.latimes.com/1990-01-08/sports/sp-167_1_winter-meeting)

Twitter: EPSILON(イプシロン)氏 @epsilon5aのツイート
(https://twitter.com/epsilon5a/status/466209223731212289)

その他インディカーに関する各ニュース

Please, start your engines

【2014.4.27】
インディカー・シリーズ第3戦 アラバマGP
 
 
 眠い目をこすりながらなんとか布団から体を起こしテレビをつけたはいいものの、とびこんできた情報に暗澹たる思いがしたのは一人や二人ではあるまい。中部夏時間の14時ごろにニューヨーク・ジェッツの伝説的クォーターバックである “ブロードウェイ” ジョー・ネイマスによって宣言されるはずだったシリーズ第3戦のスタート・コマンドは、激しい雷雨のために行きどころをなくしていた。高低差が大きく、低地に向かって流れる水がコースのいたるところで川を作るような状況下においてはインディカーを走らせるなどまったく非現実的で、最初のグリーン・フラッグが振られるまでにどれくらい時間がかかるか想像もつかなかった。実況席の武藤英紀がカメラが回っていないのをいいことに仕事を放棄して寝てしまおうとするなか、おなじようにまんじりとしようにもうまく目を閉じられず、2週間前のロングビーチで事故を起こしたドライバーたちが、自分が悪いとは言いたくないがかといって相手を非難するわけにもいかないといった面持ちでずいぶんと歯切れ悪くインタビューに応じているのを、ソファに横になりながらぼんやりと見ているしかなかったわけである。日本時間で言えば朝4時から150分の間、目的もなく起きているにはつらい時間帯に、われわれは遠いアラバマで車が走り出すのをただひたすらに待ち続けていた。

 えんえんと待たされていることによって昨年のアラバマを思い出して、そういえば、とばかりに気づいたらレースが始まる前に書くことを決めてしまっていた。昨季最終戦のフォンタナにせよ、前戦のロングビーチにせよ、ここ数戦どうやら過去の記憶を鉤にして記事を書くのが常態化し、文章から新鮮味が欠けつつあることは自覚しているのだが、ふとしたきっかけで思い出を喚起されるレースというのがあるのもたしかだ。そう、ジェームズ・ヒンチクリフはたったひとり、アラバマはバーバー・モータースポーツ・パークのターン3で待ちぼうけを食っていたのである。

 2011年10月16日に起きたダン・ウェルドンの死亡事故によって空白となったアンドレッディ・オートスポートのシートに収まることになり、インディカーを去ったダニカ・パトリックからgodaddy.comの支援も引き継いだヒンチクリフは、2012年のシーズンで表彰台を経験し、デビューから3年目を迎えた2013年の開幕戦で初優勝を上げた。そうはいっても(わたしにとって)どうも影が薄く見えるドライバーだったことは当時書いたとおりであるが、実際のところ1回きりの優勝ではまだ強さに信頼が置けるわけではなく――その後2勝を積み重ねた2013年が終わっても、結局その不信感が拭い去られることはなかったのであるが――、第2戦として組まれていたアラバマではあまりにもあっさり予選20番手に沈んだあげく、1周目の事故によって左後輪を失いターン3脇の安全地帯に片付けられてしまった。つまらない結果ではあったが、車が完全に走れなくなっていないならインディカーではそれだけでリタイアには至らない。もう一度イエロー・フラッグが出てフルコース・コーションになればピットに牽引してもらえるし、車を直せば再スタートもできる。そうやって、レースを終えるよりもいくばくかのポイントを積み重ねることができれば上等だ。ヒンチクリフは車を降りることなくコクピットの中でその可能性を信じて待ち続けた。きっと目の前を通り過ぎるライバルたちをぼんやりと見ているほかないまま、現地実況にピザの配達に首を長くしているようだと冗談を飛ばされるほど長く長く待ち続け、そして、結局ピザは届かなかった。レースはついに残り15周までグリーン・フラッグ下で行われ、ルール上ピットに戻るチャンスを失ったヒンチクリフは立ち上がって手足を思い切り伸ばしていたのであった。

 べつにヒンチクリフとわれわれを重ねあわせようという気があるわけではないが、なぜかアラバマでは2年続けて「待つ」ことがキーワードとなってしまったと、それだけの筋も良くない話である。それにしてもヒンチクリフが待たされていた場所は全開で加速していくレースカーが眼前をひっきりなしに通る羨ましいほどの特等席だったのに、われわれと来たら重たい頭をどうにか働かせながら、静かなサーキットに思いを馳せるしかなかった、そのことだけは不公平だったかもしれない。この日言えるのはそれだけだ。

 レースの内容? あまりに待たされすぎたせいでせっかく連覇を成し遂げたライアン・ハンター=レイをまったく気にかけることもできず、メカニックの耐火服がそっくりだったせいでエリオ・カストロネベスがピットボックスを間違えた(きっと彼も眠かったんだと思う)ことくらいしか覚えていない。でもそれで構わないだろう。われわれが朝の4時から戦っていた耐久レースは本当なら6時すぎには終わっていたはずなのに、最初のグリーン・フラッグが振られたのは朝も6時半になってからのことだ。だから知ったことではないと言ってしまおう。スタートから先、チェッカー・フラッグまでのいっさいは、このレースに限っておまけみたいなものだったのだ!

マイク・コンウェイの勝利はただただ現象だった

【2014.4.13】
インディカー・シリーズ第2戦 ロングビーチGP
 
 
 朝も8時に近づき、外はだいぶ明るくなっていた。スタートから70分が過ぎたレースはすでに終盤の入り口へと差し掛かっており、日本人にとっては、ただでさえ憂鬱な週初の出勤にとりあえずは急き立てられることなくレース終了まで見届けることができそうだと、部屋の掛け時計に目をやって安心していたころのことである。最初のグリーン・フラッグからつけっぱなしだった照明を消して、差し込む朝日のせいでテレビ画面に自分の姿が映り込んでしまうのを避けるように見ていた怠慢な目にさえ、56周目のターン4に向かってライアン・ハンター=レイが飛び込んでいくタイミングはあからさまに遅すぎるように映った。ピットストップを遅らせる作戦が功を奏して先頭を走っていたジョゼフ・ニューガーデンは交換したばかりの氷のように固く冷たいタイヤで走行ラインをやや外側へとはらませていたが、それでもこのターンを守り切ってクリッピングポイントをかすめながら脱出しつつあり、攻めてくる相手に対して空間を残す理由など持ち合わせていなかったはずだ。普通ならたんなる牽制としての動きに過ぎず、次の長い直線での攻防に切り替わっていくべきところで、われわれは彼がハンター=レイであることをあらためて思い出すことになる。はたして2年前のシリーズ・チャンピオンはブレーキを制御することに失敗し、何度も犯してきた同種のミスをまたもなぞるように、初優勝を目指して奮闘していたニューガーデンの右リアを無意味に跳ね上げた。その瞬間、見た目に穏やかでありつつも捻じりあうような時間の削り合いが続いていたレースは霧散していったのだった。

 ブラインドコーナーの先で動けなくなった2台はさらに後続の追突を誘発し、合計6台の上位勢が一瞬にしてサーキットから消えた。そこからチェッカー・フラッグまではあまりレースと呼べたものではない。このような展開ではかならずといっていいほど生き残り、幾度となく勝利を手にしてきたスコット・ディクソンがこの日も多重事故の間隙を縫って先頭に立ったものの、昨季のチャンピオンが積んだ燃料はゴールまで走るにはわずかに足りず、そのディクソンと首位争いをしていたジャスティン・ウィルソンはバトル中の接触によってサスペンションを破壊された。結局ウィル・パワーを自力で抜いただけの3番手を走っていたマイク・コンウェイが給油のために退いたディクソンと入れ替わって首位でゴールした、そういう結末だったわけである。

 たぶん本来なら、それこそハンター=レイの――そういえば彼が右を使うのか左を使うのか知らないが――足があと0.1秒早くブレーキペダルを踏みつけていれば、ありえない結果だったはずだ。勝った当のコンウェイが”Somehow, I got it done.”” It can’t believe I’m actually(in Victory Circle).”(http://www.indycar.com/News/2014/04/4-13-Conway-wins-40th-Toyota-Grand-Prix-of-Long-Beachより)とその順位に戸惑っているように見える。somehow、どういうわけか、彼は勝ってしまった。あるいはホンダの発表による、3位に入ったカルロス・ムニョスのコメントがすべての感情をよく表していよう。「自分の初めての3位フィニッシュが、多くのアクシデントが起きた結果であったことは素直に喜べませんが、それもまたレースだと思います。ロングビーチのようなストリートレースでは、なにが起こるか予測がつきません。インディカーのレースでは特にそうだと思います」(http://www.honda.co.jp/INDY/race2014/rd02/report/)。それもまたレース、勝ったコンウェイのことを「何も起きなかったドライバー」のなかでは最速だったとはいえるかもしれないが、そうだとしてもやはり幸運の2文字を想起せずにはいられない。3年前と同じようにだ。

 コンウェイがインディカー・シリーズで初優勝を遂げたのは2011年のやはりロングビーチでのことであるが、今回彼が悠々と最終ラップを回ってきたときに当時のことを鮮明に思い出したのは、2つのレースがともによく似た展開で勝者を選びとったからだ。まだ毎戦にわたって何か記録しておくなどといった徒労に身を投じていなかったこのブログが偶然にも書いていたところによれば、以下のような様子だった。

 今季すでにリスタートでやりたい放題に暴れまわっているエリオ・カストロネベスが、このときも無謀なタイミングでターン1のインサイドに突っこんであろうことかチームメイトのウィル・パワーを撃墜すると、煽りを受けたオリオール・セルビアの進路がなくなり、スコット・ディクソンも事故の脇をすり抜ける際に右フロントタイヤを引っ掛けられてサスペンションを壊した。予選でクラッシュして下位スタートに甘んじながら10位にまでポジションを上げていた佐藤琢磨がこの4台を尻目に6位に浮上するが、すぐさまグレアム・レイホールがその左リアに追突し、タイヤをカットされてスピン、レイホールもフロントウイングにダメージを負った。都合6台が消えてふたたび黄色の旗がコースのそこかしこで振られるようになったころには、コンウェイはなぜか、ということもないが3位を走っていた。

70周目のグリーン・フラッグで今度はハンター=レイがスローダウンし、コンウェイはほとんどなにもしないまま2番手になってしまった。フレッシュのレッドタイヤ、燃料もフルリッチで使える彼は速く、あっという間にライアン・ブリスコーを交わして、チェッカー・フラッグではもう6秒以上のリードを築いていた。GP2ウィナーに名を連ねながらもF1には届かなかった27歳のイギリス人が、アメリカの地で初めて表彰台の真ん中に立ったわけである。(当ブログ2011年4月28日)

 前を走っていた6~7台が事故に遭い、1台を自力でパスし、また1台が自滅して優勝した、そんなロングビーチをコンウェイは2度も経験したことになる。2011年の初優勝の際は、与えられた幸運がとても喜ばしいもののように思えたと、前掲文は結んでいた。前の年のインディ500で、まだ2年目のインディカードライバーだった彼はハンター=レイと接触し宙を舞うほどの大事故に見舞われて大怪我を負い、シーズンが終わるまでサーキットを走ることはできなくなった。シートも失いかけて、ようやくアンドレッティ・オートスポートと契約したのは年が明けて2月になってからのことだ。だから優勝は、勇気を携えて無事に帰ってきたことに対する報奨のようなもので、どんな僥倖に与ったのだとしても、彼はそれに足る試練を乗り越えてきたドライバーなのだと断言できた。当時のレースを実況していた村田晴郎がその瞬間に日本の放送席からおめでとうと叫んだのも、たぶんそういうところにある。

 あれから3年と一口に言うのは簡単だが、しかしレーシングドライバーのキャリアの中で見ればけっして短い時間ではないのであって、30歳を迎えたコンウェイの境遇もありかたもいまやずいぶん変わった。2012年のインディ500でまたしても宙を舞ってしまった彼はついにオーバルレースから退くことを決め、2013年はWEC=世界耐久選手権の空き時間にインディカーへとやってくるドライバーになっていた。そうだとしてもロード/ストリートコースでは変わらぬ才能を発揮して6月のデトロイトなどたった2日の間に優勝と2位を持ち去ってみせたのだったが、やはりインディ500を走らない瑕疵は深く、心をヨーロッパに置いてきたも同然に思えたものだ(なにせわれわれは、他をおいてもブリックヤードにだけは来たがるドライバーがたくさんいることを知っているのである)。今季ふたたびアメリカに重心を移し20号車のレギュラーになったといっても、引き続きWECの控えを務めながらオーバルはエド・カーペンターに任せてロード/ストリートしか走らない選択をした事実、あえて意地悪く言えばオーバルを捨てて逃げ出した事実を前にすると、結局のところ彼から純粋なインディカーのドライバーという姿を抽出しようとする試みは失敗に終わってしまうだろう。それはちょうど、年々日程から減っていくオーバルをそれでも走り続けるために20号車をコンウェイと共用する決断を下したカーペンターに対し、その態度こそがインディカーに欠かせない本質なのだとして、時代から取り残されつつあるのだとわかっていながらも好ましい視線を向けてしまうわれわれの感傷と対極にある。オーバルしか走りたくないカーペンターがオーバルを走れないコンウェイと組むのは自然な成り行きだったかもしれないが、アメリカのレースの精神がいまとなってもなおオーバルとともにあると信じるなら、結果としてエド・カーペンター・レーシングの20号車を貫くアメリカの純血に交配されたコンウェイは、その存在じたいがインディカーに対する皮肉になってしまったに違いないのだ。

 マイク・コンウェイにそういう態度で臨んでみるとき、今回のロングビーチで彼に舞い降りた僥倖の受け止め方は3年前とずいぶんと変わってくる。こう問うこともできるかもしれない。2011年にあらゆる幸運によって祝福されるべきインディカーのドライバーだった彼は、2014年になって、当時とおなじロングビーチで何かしら優勝に相応する価値を持っていただろうか。深夜暗くなった部屋で中継の録画を見なおしても、どうやら答えは否のままだ。だがおなじレースではじめて表彰台に登った新人が言っていたはずである、それもまたレースだと思います――。

 2週間前の開幕戦について、敗北は勝利の裏返しではないとして敗者に値する戦いをしたのは佐藤琢磨だけだったと書いた。セント・ピーターズバーグは佐藤ひとりを浮き彫りにすることによって、モータースポーツにおける敗北の意味を描き出したレースだった。では、勝ちえた6人が甲斐のない事故に泣き、優勝者自身が当惑するほど自らの価値を証明できなかったこのロングビーチにも意味を求めるとすれば、いったい何だったのだろう。

 録画を2度も見返してしまったわれわれが受け止めるべきは、おそらくコンウェイがなにもないままに優勝した事実それ自体である。レースが先頭から順位をつけていく営みである以上、全員がリタイアでもしないかぎり優勝者がいないことなどありえず、だれかはかならず結果表の一番上に載る。だとすれば、勝利とはほかのあらゆる条件とは無関係に、絶対に約束されたできごとにほかならないと導けよう。セント・ピーターズバーグの佐藤がそうだったように、敗北とはただ2位以下であるだけでは不十分な、レースに切り裂かれることではじめて資格を得られる形而上の精神だ。だがロングビーチのコンウェイが突きつけたのは、勝利がそんな精神性に関知することなく飛び越え、1位でゴールしたという具体的な事実ただそれだけをもって消去法的に選ばれる形而下の事象に過ぎない場合もありうるということではないか。なんらの価値を見出せないコンウェイに振られたチェッカー・フラッグが示唆したのは、すなわち敗北が勝利の裏返しではないのとまったく同様に、勝利もまた敗北の裏返しではありえないという関係性、捩れながらも絡み合う場所のない両者の姿だったのだ。

 形而上でなければならない敗北と、形而下でありうる勝利。すべてを振り絞ってなお先頭に立てない者がいる一方で、somehowとしか言いようもなく勝ってしまうドライバーがいる。それもまたレースだと思います、ムニョスの談話にはサーキットがもたらすあらゆる可能性が詰まっている。敗者が輝いたセント・ピーターズバーグと対をなすアンチテーゼとして、ロングビーチは必要とされなくてはならなかったということだろう。勝者はトートロジーに身を預けてただ勝者であればよく、その勝利に証明などなくて構わない。なにもなかったレースによって、モータースポーツのそんな一面の真実に観客は気づくことになる。もちろん、それを伝える役割を担ったのがほかでもなく、インディカーに無垢な精神を持たないロード/ストリート専門のマイク・コンウェイであったことは、きっと偶然ではない。

「敗者」は佐藤琢磨だけだった

【2014.3.30】
インディカー・シリーズ開幕戦 セント・ピーターズバーグGP
 
 
 いささか旧聞に属する、といってもいまだ継続中のできごとではあるのだが、ともかくその事故についてあえて誤解を恐れず述べるとするなら、偉大なF1チャンピオンだったミハエル・シューマッハがスキーの最中に頭部を強打して意識不明の重体に陥ったという報に接したとき、わたしに何らかの情動が引き起こされたかといえば、たぶんそんなことはなかったのだった。偽悪を気取りたいわけでなく、もちろん人並みに驚きはしたし、平均的なモータースポーツのファンと同様に心を痛めたとは思う。それでも2011年のラスベガスでやはり偉大なインディカーのチャンピオンだったダン・ウェルドンの死亡事故を目撃してしまったときに比べれば、感情の波はずいぶんと穏やかなものだったはずである。

 レーシングドライバーがサーキットで命を落とす衝撃と比較したら、というような話ではない。だれだってそうであるように、わたしにはわたし自身の生活と、感傷を抱く範囲がある。かつておなじサーキットを走った仲間をはじめとした彼に近しいひとびとと同様に振る舞えるわけがないのは当たり前のことで、AUTOSPORT webなどに並んだ一連の記事を読みながら、シューマッハという存在が急速に過去へと流れていき、自分が心を差し出すべきモータースポーツからはすでに去ったあとだった――それに対して、当時のウェルドンはまさしくその中心にいたのだ――とあらためて気付かされた、そういうシーズンオフがある年に存在したということである。

 モータースポーツは結局のところ今の情動なのだと何度か書いてきた。ひとたび車がコントロールラインをまたげば時計は容赦なく、1秒を1000ものあわいに切り刻んで、どんなときでも、だれにとっても、公平に、戻ることなく動きはじめてしまうのであり、一瞬と呼ぶことすら生ぬるいその今だけがすべてであるモータースポーツを過去に遡ってなお今のままとして書き留めようと信じるために、視線はひとつのコーナーの頂点にしか向かなくなってしまうものなのだ。一足早く始まったF1でも、3月最後の週末に開幕を迎えたインディカー・シリーズでも、われわれが抱くべき感傷は最後にはレースを微分した先だけに存在し、だからこそ目の前のレースを見る以外にない、できないのだと、ここでくらいは言い切ってしまっていいのかもしれない。

 2014年インディカー・シリーズの端緒となるセント・ピーターズバーグでの連続ポールポジションを4回で止められたウィル・パワーが新しいポールシッターとなった佐藤琢磨を抜き去った31周目のターン1からターン2、この場面を見るだけで週末のすべてに満足すべきだろうと感じられるほど濃密で良質な数秒間が、開幕戦の進路を佐藤のレースからパワーのレースへと変えさせた交叉点だったことはだれの目にも明らかだろう。このバトルが生まれた31周目までのうち28周をリードした佐藤と、首位を奪ってからゴールまでに76周のラップリードを積み上げたパワーとを合わせてふたりでレースの97%を制圧した事実を持ち出すまでもなく、この日勝利に挑んだと表現することが許されるのは、実際に圧勝したパワーと、最終的には7位という見た目には凡庸な順位に終わった佐藤だけだった。

 110周のうちの31周目のできごとが勝敗に直結した事実は、裏を返せばそれ以外の場面に異なるレース結果を生み出すかもしれなかった可能性がどこにも現れなかったことを意味している。佐藤を抜き去ったパワーは、そこからチェッカー・フラッグを受けるまでなんの危機もなく、ピット作業で一時的に順位を下げたときを除いて首位を譲らなかった。強いてあげれば82周目の終わり、フルコース・コーションから再スタートする際にリスタートラインの認識の違いによって生じた混乱がもしかしたらレースの綾になったかもしれなかったが、結局のところ原因となったパワー自身にはなんの被害も及ばなかったし、混乱のなかで不運にも起きてしまったマルコ・アンドレッティとジャック・ホークスワークの事故はレースの本質とはおよそ無関係なもので、ペースカー導入周回を少し延ばす効果を生む程度のできごとに終わった。そしてほとんどそれだけだ。セント・ピーターズバーグで起きたそのほかのことは、覚えておくほうが難しい。

 たとえば2位に入ったライアン・ハンター=レイの姿を見た人が、この日曜日にいったいどれくらいいたというのだろう。最後にはパワーに2秒差まで迫れるスピードを備えていたはずなのに、その走りに心揺さぶられる――国籍を超えて、と言ってもいいが――時間などいつまでも訪れなかったではないか。終盤にようやく導入されたペースカーを利してエリオ・カストロネベスを抜いてはみたものの、あとはぼんやりとパワーの背中を眺めるだけで過ごした結果、2位という順位が舞い込んできたにすぎなかったのであり、勝者をレースにおいてリードする者だと置くならば、1周たりともラップリードの欄に名前を刻めなかった彼に、勝利に挑む資格など最初からなかったのだといえる。

 いやそれだけでなく、最終結果には2位から10位のライアン・ブリスコーに至るまで3人のシリーズ・チャンピオンを含む8人の優勝経験者がずらりと並ぶことになったにもかかわらず、そのなかではっきりとパワーの前にひれ伏すことのできたドライバーは数秒間のバトルの末に屈した佐藤琢磨以外にいなかっただろう。もちろんそれぞれにいくばくかの好感すべき場面は存在しえたとはいえ、レース全体を揺さぶる可能性を感じることは難しかったはずだ。佐藤が敗れたと言える瞬間はまぎれもなく31周目ターン2であったが、ほかのドライバーはその瞬間を知るよしもないまま、自分なりの順位で一日を終えたのだった。それはたぶん敗北とは認めがたい別の結果であり、佐藤がこの日讃えられるべき理由でもある。

 敗北とは、それを勝利の裏返しとするならただたんに1位以外の順位でチェッカー・フラッグを受けることである。だが2位以下に終わったあらゆる者をそうやって同じに括ることはかならずしも正しくない。昨季中盤のカストロネベスがしばしば自分のポジションを守るためだけの姿勢に硬直しつづけたことと、たとえばアイオワで圧倒的な速さを誇ったジェームズ・ヒンチクリフに一太刀を浴びせたのちに乱気流に沈んだグレアム・レイホールの走りを同様に扱うことが歓迎されるはずはないといえば納得がいくだろう。

 1位以外のすべてという膨大な可能性から、なおもわれわれが心から「敗北」と呼べる現象があるとすれば、それは勝者にならんとする資格をつねに持ち続けながらそれでも屈服するということ、1位以外という怠惰な意味に留まるのでなく、どこかの瞬間で血を流しながらなお敵に後れを取った悲劇としてはじめて立ち現れるものである。その意味で、敗北に辿りつくための困難はときに勝利よりもはるかに険しい。昨年のロングビーチで佐藤が遂げた初優勝がそのキャリアの曲折に比してあまりにもあっさり見えたものだったように、勝利がともするとレースの海原に身を任せて漂流することでさえ得られるものでもあるのに対し、真なる「敗北」とは、流れる順番を受け入れるのではなく、杭にでも捕まるようにして抵抗し、そのうえで虚しく根こそぎ薙ぎ倒されるほかはないものなのだ。それはすなわち戦った証である。レースに自分を委ねるものに敗れる資格などない。

 敗北を厳選し意味づけなければならないのは、モータースポーツの、「今」によって引き起こされる情動がきっとほんとうの「敗北」が訪れる瞬間にこそあるからだ(昨年の最終戦がまさしくそうだったように)。たんなる勝利の裏返しではなく、勝利への意志が無残にも引き裂かれることではじめて出現する敗北を観戦者の特権として発見し称揚することで、われわれは貴重な燃料が怠惰のなかに消費されることを拒否し、レースに価値を与えるのだと信じることができる。そこには豊かな観戦場所があるだろう。モータースポーツを見る、語るとは、それを探す営みにほかならないのである。

 新しいシーズンの始まりで幸運にも、われわれはその瞬間を見つけ出すことができた。普通ならしばしば見られる度重なるクラッシュによるレース中断や激しい順位争いがほとんどなかったことは、開幕戦のためにインディカーがそれをよりわかりやすく浮かび上がらせたということかもしれない。2014年のセント・ピーターズバーグは、31周目ターン1~2のわずか数秒間によって、勝利と敗北を残酷に頒かつことになる。覚えていられる場面は少ないが、これだけ覚えておけば十分だろう。ターン1の進入でアウトからペンスキーが並びかけ、インサイドを守って一度は抵抗したA.J.フォイトが切り返しのターン2で悲鳴を上げる。勝敗を鮮やかに切り取るたった1回の交叉点で、ウィル・パワーは勝利し、佐藤琢磨はそれ以上に正しく、敗れたのだった。