ホンダF1はその精神によって自らを空虚にしている

 2015年のF1は昨年に引き続きメルセデスAMGが圧勝を演じるさまを延々と繰り返しながら閉幕したが、一方で他のメーカーから遅れること1年、満を持して新規則パワーユニット(2014年に新規導入された、ターボエンジンとエネルギー回生システムを組み合わせた統合動力源)をマクラーレンに供給する体制で参戦したホンダは惨憺たる成績に終わった。無惨な一年だった、といっても差し支えないだろう。マクラーレンからしてホンダと組む以前より苦戦する傾向にあったとはいえ、いやだからこそ新しい関係となる2015年を再起の始まりの年と位置づけてフェルナンド・アロンソとジェンソン・バトンの王者2人を揃えたにもかかわらず、入賞は合わせてわずか6回、コンストラクターズ部門でメルセデスから離されること676点の27点に留まり、下にはマノーを見るだけの10チーム中9位に沈んだ。「マクラーレン・ホンダ」といえば、アイルトン・セナとアラン・プロストを擁して16戦15勝を記録したあの1988年から始まる愛憎入り交じりながらも栄光に満ちた5年間を思い出すファンも多かろうが、あれからはや四半世紀ほどが経った今、その名の響きに対する甘美な郷愁は、まさに当時の彼らを髣髴とさせるメルセデスの圧勝を羨望の目で見るしかないままに裏切られ続けたのだった。あとに残ったのは膨れ上がった失望と、それに伴う教訓と、わずかに拠り所とするしかない来季への希望だけだ、といってみたくもなる。

 もちろん、まだ一年が経っただけではある。これからも活動を継続していくはずのホンダF1に対して結論を突きつけるのは時期が早すぎよう。だが4期目を迎えた彼らの少なくとも初年度が、PUを供給したチームの主要スポンサー大量離脱を招いて財政的悪影響を及ぼしたほどの失敗だったこともまた紛れもない事実として受け止めなければならない。おそらく参戦前に飛び交っていた中でももっとも悲観的だった予想をさらに下回るほどのかくなる低迷が引き起こされた要因が喧しく議論されるのは当然のことだ。はたしてホンダF1の一歩目が益体もないという他ないほどの惨状に陥った原因はなんだったのだろう。

 単純に物理的な問題として、傍から見ているだけでもホンダが供給したPUが技術的不調を多数抱えていたことに疑いの余地はない。マクラーレンに帰責されるべき問題も相当数あったのはたしかだが、だとしてもホンダの失わせたものは多すぎた。モーター、バッテリー、ターボ、センサー、ポンプ、配管、プラグまで、PUのありとあらゆる場所に問題が発生した一年だったのはだれの目にも明らかだ。レースのたびにおよそ故障の見本市のような様相を呈し、フリー走行から決勝まですべて満足に走り切れたグランプリは皆無だったといってよい。壊滅的な信頼性に目を瞑っても、モータースポーツではときに見られる「速いが脆い」といった極端な特徴があれば魅惑的にも感じられただろうが、性能面でも他のPUから数十馬力、時には100馬力も劣ると噂されるほどの劣勢を強いられた。たとえば矜持を懸けて臨んだ地元鈴鹿サーキットの直線で、(やはり性能は最低クラスと目されていたルノーPUを載せる)トロ・ロッソのマックス・フェルスタッペンに何の抵抗もできず交わされたアロンソが無線に載せた「GP2のエンジンじゃないか!」という絶叫と、おなじくアロンソがハンガリーGPの予選Q2で止まった車から降り、自ら押してピットへと戻ろうとした姿のふたつなど、速さも信頼性もなかった2015年のホンダを何よりも象徴する場面だったのではないか。もちろん遅いのも脆いのも衆目の一致する事実ではあったが、それが外部の無責任な哄笑ではなくドライバーの切実な言動によって露骨に表象された点において、両者は現代のF1においてきわめて異質な、当事者にとっては恥ずべき場面として全員の記憶に残ってしまったのだった(もちろん、性懲りもなく止まった車のそばで、すべてを諦めたように日光浴するブラジルGP予選での姿を含めて!)。この期に及んで「2015年のホンダ」を擁護する人がいたとしたら、もはや利害関係があるか魂をホンダに預けてしまったかのどちらかとしか思われないほどだ。

 もちろん、ホンダに同情すべき点がないわけではない。マクラーレンとの関係はたんなるPU供給先ではなく、車体とPUの最適な対応の開発を視野に入れた技術提携ともいえるもので、その中で打ち出された「サイズ・ゼロ・コンセプト」はPUを設計するにあたって確実にホンダの足かせとなっていたはずである。車体後部を極端に絞って空力的優位を狙うこの思想によってホンダのPUは過度な小型化を要求され、排熱が制限されて故障が広がる一因になった。開幕前のテストでトラブルを繰り返してまともに走行距離を稼げなかったのも、シーズンが始まってから何度も熱系の故障に泣かされたのも、すべてはサイズ・ゼロという設計思想の段階から始まったといっていい。2014年のフェラーリも空力に傾斜しすぎたために生じた熱問題に苦しみ、解決に時間を要する間にメルセデスとの差を埋められなくなって終わったが、物を動かすとき不可避に発生する熱をどう冷却するかという動力装置の宿命的な課題に、一年のあいだ様子を見ることが可能だったホンダも対応を工夫せず、あるいは工夫する時間的空間的余地もないままぶつかって、前進できない時間を長らく過ごしたのだった。そのうえ、そこまでして追い求めた空力効率もはたしてどこまで効果が出たのかわからなかった。そもそも速さにも信頼性にも、外部から成否を論じるための基準点を設定することすらできなかったのだ。はっきりしているのは、(ホンダやマクラーレンがしばしば声高に強調していた)崇高な理念などをさておいて現実の結果だけをただ見渡したとき、PU草創期のこの2年間で優位だったのは空力より動力を優先させる思想であり、メルセデス以外のチーム、なかでもマクラーレン・ホンダは潮流に乗り損じたということである。設計思想は技術力以前にあるすべての基礎だ。貧弱な基礎の上ではどれほど細かい修復を繰り返しても強い建物は建たないと、そういう一年であったのだろう。

 そうした果てのない苦しみを味わった2015年を経て、冬のテストも間近に迫ってきた2016年を、ホンダは反撃の年にしようともくろんでいる。マクラーレン・ホンダに失望しか抱けなかったわれわれは、では2年目を、あるいは「7年目」を迎えるその名前にどれだけの期待を抱けばいいのだろう。2016年の冬季テストを前に、マクラーレン・ホンダ関係者からは楽観的な言葉がしばしば発せられたりもしてはいる。その自信に違わず、数々の問題を一気に葬り去れる奇跡のような解決策が見つかって、サイズ・ゼロが所期の理想どおりに輝く未来を思い描くことは許されるのか、いやそこまで高望みせずとも、完走率が上がり出力差が縮まって当たり前に入賞や予選Q3を争う姿は見られるだろうか。いまや日本との接点が急速に失われているF1において、ホンダは鈴鹿と並び日本人の心が向かう先になり続けられるだろうか。

 もちろん、いまその問いに対して答えられる材料はないに等しい。どのチームも新車を1cmたりとも走らせていない現時点においてなら、どんな未来も可能性としては存在するだろう。思いがけず表彰台さえ見据えているかもしれない半年後も、そうなることを願いながらも結局のところ裏切られるかもしれない11月も、ありうべきことを否定されるものではない。もし2016年が成功とともに終えられるなら結構なことだし、F1の多様性といった観点からも歓迎されるべきである。

 しかしこれを書いているわたし自身はといえば、そうしたあらゆる可能性の拡がりを前にしてもなお、ホンダに懐疑の目を向けたままでいる。いやそれどころか、「ホンダ」という一体のレーシングチームのことを考えたとき、わたしは彼らを一片さえも信用していないと断言できてしまう。彼らの口から状況を前向きに捉える言葉がどれほど出てこようと、耳を傾ける価値がどれほどあるものかと冷淡に反応してしまう。去年、彼らが幾度となく発してきた自己への期待の言及が、結局成果となって現れずに消え去っていったから? そういう理由もないわけではない。鈴鹿でアロンソの「GP2」が飛び出したのはホンダF1プロジェクト総責任者の新井康久が「ホンダPUの性能は(まさにアロンソが手もなくひねられた)ルノーを上回っている」と発言してから少し後のことだ。そんな具合に、ホンダから出る言葉のほとんどは大なり小なり、良くいえば見込み違いの、あえていえば「嘘」にも近い大言壮語ばかりだった。彼らだけに問題があったわけではないにせよ、「次のレースでのアップデート」がことごとく成績に結びつかなかった一年を思えば、たしかにいま垣間見える自信など信じられなくもなる。

 だがわたしのホンダに対する懐疑とはこうした技術的進歩の遅れの中にあるわけではない。もっと根源的な、レーシングチームとしての意味そのものにかかわることである。「ただ遅いだけ」ならば、マクラーレン・ホンダの幻想が破れたことに落胆はしつつも、ここまで冷ややかな気持ちになる理由などなかった。むしろ離れつつあるF1と日本の関係をあらためて結んでくれるかけがえのない存在と受け止めることさえできた。彼らがレースを戦おうとする集団であったなら、せめて戦う姿勢を装える集団だったならーーそれだけで構わなかったのに、そうですらないことこそ、現在のホンダが抱える最悪の空虚である。わたしは虚しくも確信しているのだ。F1といういまだ世界最高峰のレースの場において、にもかかわらずホンダという組織のやろうとしていることは、断じてレースではない。

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 パワーユニットが導入されてはや2年、新時代の動力源を謳われていたはずのそれは、以前の自然吸気エンジンに比べて不評に塗れ、世界中で加速しているといわれるF1離れの原因のなかでももっとも主要な犯人と見なされている節さえある。ハイブリッド化で音が静かになりサーキットから迫力が消え失せたという批判に始まり、まるで耐久レースのように燃料の総搭載量と瞬間流量を制限したためにレースが無意味にわかりにくくなった、速く走ろうとするドライバーを抑えつけて限界に挑ませなくなった、開発制限が厳しすぎて勢力図が固定されてしまうなど、ファンや関係者が不満を述べたてる要素は枚挙にいとまがない。環境への持続可能性をアピールして導入されたわりに、肝心な「F1の持続可能性」にはなんら貢献していないという問題もある。複数の動力を統合する複雑なシステムのせいでPUは年間使用料2000万ユーロともいわれる高級品となり、中小チームはあいかわらず破綻が噂されるような財政状況から脱せないほど大きな負担を強いられたままだ(そして費用捻出のために腕よりも金に覚えのあるドライバーが採用されて、ファンの心はますます離れていくわけである)。結局、この2年間のPUはF1の発展に寄与するどころか、高コストなだけで退屈なレースが繰り返されるという課題を具体的な形で示した悪しき象徴に祭り上げられるだけだった。本題ではないので詳細は省くが、この危機的な状況に対し、FIAとPUを供給するメルセデス、フェラーリ、ルノー、ホンダの4社は、2017年か遅くとも2018年に採用するPU規則改正案を協議している最中である。

 PUにまつわるそうした話し合いを報じるもののひとつとして「AUTOSPORT web」に短い記事が掲載されたのは2015年12月半ばのことだ。Motorsports.comの報道内容を紹介するその記事によれば、コスト削減の一環としてPUでも複雑で高価なシステムであるMGU-H(熱エネルギー回生装置)の廃止が提案されていたが、4社のうち唯一ホンダだけが反対して合意に至らなかったのだという。その理由についてホンダF1の総責任者である新井康久は「ホンダはハイブリッドテクノロジーを開発するためにF1に参戦したのであり、それができないのであればF1活動を続ける意味はない」と述べたということだった(「AUTOSPORT web」2015年12月16日付「PU新規則案に3基制限。MGU-H廃止はホンダが反対」[http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=70126](http://as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=70126))。

 悪意を持ってこの部分だけ切り取れば喫緊の課題であるコスト削減に対してホンダが抵抗し進展を遅らせている、などと読むことも可能ではあるが、もちろんそんなわけはなく、企業の思惑が絡みあった綱引きの一例といった程度のニュースである。たとえばこれ以前にFIAから提起されたPUの供給価格に上限を設けて中小チームを救済する案はフェラーリの反対にあって潰えており、ホンダだけが自己の主張を押し通しているわけではない。総論の議題を共有しつつ各論で足並みがまったく揃わないなど、F1の世界ではよくある話だ。

 PUの行く末がF1の未来を左右するかもしれないとはいっても、これは議論の過程で出てきた些細な争いのひとつにすぎないだろう。しかし、である。にもかかわらず、その記事を読んだわたしの胸の内に浮かんできたのは紛うかたなき負の感情だった。2015年のシーズン中から抱いていたホンダに対する冷淡な不信感、拭いがたい違和感が決定的なものになっていく心の動きを押しとどめることができなかった。幼稚な態度とレースに対するこのうえない軽侮な意識――文字に起こせばほんの数十字でしかない新井の主張が、まさにこの一年間のホンダを寸分の違いもなく象徴するものだったのだから。

「ホンダはハイブリッドテクノロジーを開発するためにF1に参戦した」「それができないのであればF1活動を続ける意味はない」。報道が過不足なく事実であるならば、新井の発言はどう読んでもホンダの都合がすべての、きわめて身勝手なものである。主語にはホンダ以外のだれも含まれておらず、ホンダにとっての意義以外に語っていることもなにもない。そこにはF1という視点や、自分たちがマクラーレンと組んで参戦しており、パートナーに一定の責任を負っているといった他者の視点いっさいが欠落しているのだ。他のメーカーにしてみれば、ホンダのためだけの議論を見誤った論理など知ったことではないと一笑に付しても構わない内容である。ハイブリッドを捨てたくないという主張の内容を問題視したいのではない。そこに企業としてのホンダの思惑があるのは当然のことだ。そうではなく、目下の環境全体に対する知見が求められているなかで自分の希望だけを口にする子供っぽい幼稚な態度に呆れるのである。

 たとえば遡ること約2ヵ月、2016年の規則で定められていたPUの追加開発要件を大幅に緩和する改正案が合意に達した際にメルセデス責任者のトト・ウォルフが発した言葉と比べてみよう。「TOPNEWS」によれば、メルセデスにとって2年のあいだ築いてきた優位を失う可能性もある提案を拒否しなかった理由を、ウォルフは「F1のためには競争力のあるチームの増加が必要」だと考えたためだと述べている。「ホンダとルノーは我々と同じレベルで戦いたいと望んでいる。だから我々としても強硬路線をとって、常に自分たちに有利な方向へとルールを利用するわけにはいかない」「時にはライバルたちに息がつけるだけの余裕を与えることも必要」「『エンジン開発は凍結され、ライバルたちは追いつくことができない』という議論を省くことが適切」……。「公平な戦いの場があること、それが重要だ」(以上「TOPNEWS」2015年10月22日付「メルセデス「エンジン開発凍結の緩和はホンダとルノーにチャンスを与えるため」」[http://www.topnews.jp/2015/10/22/news/f1/131341.html](http://www.topnews.jp/2015/10/22/news/f1/131341.html) より)で締めくくられるウォルフの話と、ホンダの主張の質の違いは歴然としているではないか。

 もちろん、メルセデスが自己の利益を度外視して全体に奉仕する清廉な精神を持っている、といいたいわけではまったくない。勝者の余裕も含まれているだろうが、端的にこれはある種のレトリックである。「F1に携わるメルセデス」としてはあまり独走しすぎて客離れを引き起こすのも好ましくない。少々不利になったとしても戦力を均衡させたほうが興行面や露出を考えればむしろ都合がよいといった思惑を、「F1のため」「公平な戦いの場」などの美辞で化粧するとこうなるのだ、と読むのはさほど難しくはないだろう。問題は、翻ってどうやらホンダにこの程度の建前を仕立てあげる能力がないことである。先の一件にしても、わたしのような素人ですら「F1がモータースポーツの最高峰でありつづけるためには、最先端テクノロジーの追求をやめてはならない」とか「いったん採用したシステムをわずか数年で廃止するのは技術に対する敗北であり、後退を意味する。それはF1のイメージを損ねる行為だ」とか、「それらしい」理屈を適当に並べることは可能なのだ。たしかにウォルフの発言はメディアに向かってなされたものであり、新井のそれは内輪の会合で話していた内容が漏れ伝わったらしいという差はある。だが「われわれにとって意味はない」などという理屈になっていない理屈が他者への説得になりうると考えているのなら、だれを対象にして話したのであろうとたいして変わりない。ハイブリッドの必要性を述べるにしても、主語を「ホンダ」から「すべての自動車」に変えるだけで印象は違ったものになるだろう。言葉の問題にすぎないといわれるかもしれないが、言葉とはその選択だけで状況を左右しうる重要な戦略資源でもあるのだ。ホンダは一年を通してこの武器をまったく制御できず、稚拙な物言いで問題を不用意に拡大することさえあった。今回のこともそのほんの一例である。

 それだけではない。規則改正をめぐるこの些細なやりとりには、ホンダF1の根源的な過ちまでが覗いているとわたしは考えている。滑稽だとは思わないだろうか。最初に書いたとおり、サイズ・ゼロ・コンセプトで極端に小さいPUの設計を強いられたホンダは、2015年のシーズンでどこよりもMGU-Hを使いこなせていないメーカーだった。だとすれば、よほど逆転の秘策を持っていないかぎり(ほぼまちがいなく持っていなかったわけだが)MGU-Hの廃止はホンダをもっとも利する提案だったはずである。にもかかわらず、彼らだけがそれを受け入れず廃案にした。転がりこんできた勝利の可能性を、自分からむざむざ放棄したようなものだ。レーシングチームとしてはおよそ考えられない判断に思える。

 レーシングチームとしてはーー。つまりそういうことなのだろう。新井は「ハイブリッドが開発できないのであればホンダがF1に参戦する意味はない」と主張したわけだった。導かれる解釈はどうやらひとつしかなさそうだ。つまり勝利の可能性に興味を示さず、技術開発できなければ意味がないとまでいう以上、ホンダにとってはF1など、レースで戦うことなどどうでもよく、偶然に自分たちの求める実験場ができたのでただ乗りする程度のものにすぎない。わたしがホンダに対して冷淡で、憤りさえ感じるもっとも大きな理由はそれだ。レーシングチームがレースによって己を証明する存在だとするならば、現在のホンダは決してレーシングチームではないということである。挙句の果てにそれを憚るでもなく自ら堂々と宣言してみせるような恥知らずを、どうして尊敬できるものか。

 一回きりの言葉尻を捉えた話ではない。たとえば昨年の7月、開幕からの不調に業を煮やしたマクラーレンが外部から技術者を招くよう要請したのに対してホンダが全面的に拒否したというニュースが伝えられたが、その理由は「自社の若手技術者育成のため」というものだった。あらためて文字数を費やす必要はないだろう。ここに浮かんでくるのも、レースをないがしろにし自分たちだけの論理を振りかざす愚にもつかない振る舞いである。ホンダの一年間は一事が万事こんな調子だった。F1というレースの場で、ホンダという組織がやろうとしていることはレースではなかったのだ。

 2013年にホンダのF1復帰計画が発表されたとき、当時の伊東孝紳社長はハイブリッド開発に期待を寄せつつも、同時に「ホンダは創業以来、レースに参戦し、勝利することで成長してきた企業です。これまで世界中のお客様が応援してくれたのも、我々がレースに挑み、勝つ姿に共感してくれていることを、あらためて認識しなければならないと考えています」といったのだったが、いまとなってはこの最初の宣言さえが空疎に響く。いったいいまのホンダのどこをどう見れば「レースに挑み、勝」とうとしていると信じられるだろう。もちろん、いまのF1は単純な世界ではない。巨額の金が動く商売の場であり、十数億人からの注目を利用する広告宣伝の場であり、ホンダがいうように最先端の技術が投入される開発競争の場であることもたしかだ。純粋に車を走らせるだけの娯楽だった時代など何十年も昔に過ぎ去って、そこには様々な人間がおのおのの魂胆を抱いて集っている。だがそうだとしても、あるいはゆえにこそ、F1の中心にはレースがある。皮相な思惑を剥ぎとっていったときに、結局はレースを戦おうとする純粋な精神が結晶となって残るからこそ、その他のあらゆることが果実となって生まれてくる。レースを失えば、F1にはなにもない。

 だから、F1を戦うとはレースを絶対の目的とすることだ。断じて手段としてはならない――携わるすべての人間がそうしたとき、この世界は崩壊に向かうしかないのだから。はたしてわたしは、いまのホンダがレースに対して真摯に対峙しそれを目的としてすべてを捧げられるとも、勝利を望むパートナーに向かって自分たちも目標を共有しているといいきれるとも、まったく思わない。たとえなにかの拍子で今季のマクラーレン・ホンダが速さを得ることがあったとしても、ホンダが己の振る舞いを見つめなおそうとしないかぎり、あいかわらず彼らを信じないままだろう。ホンダは、「創業以来」の目指す場所だったレースを、いま自ら冒涜していることに自覚的なのだろうか。そうでないなら、せめてレースから無関係を装ってくれたほうがまだ諦めもつくというものである。