D席にて、あるいは日本GP観戦記のようなもの

Photo by Wolfgang Wilhelm

【2018.10.7】
F1世界選手権第17戦 日本グランプリ

F1を見るためにはじめて鈴鹿サーキットへ足を運んだのは大学生のときで、新人のフェルナンド・アロンソがミナルディを走らせていた年だから、つまり2001年と決定できる。昔は日本GPといえばシーズンも押し迫った時期におこなわれるものだった、ひょっとするとこの年は最終戦だったろうか。ああ、だからなのか直前になってジャン・アレジが突然に引退を表明して、中日スポーツはモータースポーツ面の多くを惜別に割いていたのだ。それを友人と2人読みながら名古屋駅で近鉄電車に乗りかえサーキットへと向かう、記憶がたしかなら快晴の金曜日。日本で人気の、しかもこのときジョーダン・ホンダに乗っていたドライバーが臨む文字どおり最後のレースに対する餞にと他のチームがさて手を抜いたのか、午後のフリー走行でトップタイムを記録して、翌日の中スポはやはりアレジ一色になった。たぶん1分35秒4だか6だか、それくらいのラップだったと、ぼんやり数字を覚えている(まったく記憶違いの可能性もある)。たしか前年のポール・ポジションより速かったから上々ではあるはずなのだけれど、もちろんF1の進化はそんな甘いものではなく、みんなが本気になった――のだろう――予選が始まるととたんに1秒も2秒も更新されてアレジは集団に埋没し、60分後にはすでにチャンピオンを決めていたミハエル・シューマッハが大方の予想どおり驚嘆すべき速さで1位になっていた。やがて成し遂げる選手権5連覇の2年目、いまとなっては追憶の彼方に去ったフェラーリ黄金時代の一頁といったところだ。アロンソはといえば万年最下位のミナルディにあってすでに注目を集める存在だった、なるほどその才能は素人目にも明らかで、ホームストレートから臆する素振りもなく1コーナーへと飛び込み、2コーナーに向かって一気に減速しながら旋回する後ろ姿の妖艶な滑らかさが、チームメイトのアレックス・ユーンとまるで違っている。彼のコーナリングの軌跡はまったく歪みなく一本の曲線を描き、ちょっと見ただけなのに、僕と友人はとんでもないのがいる、あれはものが違うと囁きあう、いやちがう、耳の調子がおかしくなるくらいに甲高く響くエンジン音の隙間を縫って怒鳴りあうほどだった。実際タイムはすばらしく、予選ではアロウズとプロストを上回ったはずだ(Wikipediaあたりで確認すれば正確な記録はすぐわかるが、あえて調べずにおこう)、繰り返すとミナルディ、往時を知っている人なら「あの」と自然に付け足したくなるチームで。それはあの年に何度かテレビで見た場面ではあったのだけれど、あらためて目の当たりにしたときの衝撃といったらなかった。僕はアロンソを、たった4年後に世界王者となる同い年の走りを目にして、専門知識のないただの観客であっても、そこにいるだけでなにかが「わかる」ことはあるのだと知ったのだ。これだけで、当時住んでいた木造アパートの家賃に匹敵する大枚を叩いてA席に座った意味はあった。
続きを読む