たった一瞬の勇気が人をチャンピオンにする

【2012.9.15】
インディカー・シリーズ最終戦:フォンタナ・MAVTV500
 
 
 ライアン・ハンター=レイがチャンピオンに足る資格を持っていた時間は、そう長くはなかった。ウィル・パワーに対し17点ビハインドで迎えた最終戦の残り21周までシリーズ逆転には届かないポジションを走っていたという意味でもそうだし、シーズン全体で見てもポイントリーダーでいた期間は短く、スピードに恵まれてもいなかった。それこそ第8戦から第10戦にかけて3連勝を記して首位に立ったときすら、どちらかといえば幸運によってもたらされた、いわば盛夏の前の一時的な綾であって、彼がダン・ウェルドンの遺作DW12で争われる2012年を制するなどちょっと考えにくいと思われたものだった。

 結局、シーズンが終盤に差し掛かると、速さと信頼性を兼ね備えたウィル・パワーが、ピットの位置やイエローコーションの不運に泣かされながらも3戦連続で表彰台を守ってリーダーの座を奪い返し、初めてのタイトルに地歩を固めつつあった。第14戦のボルティモアでハンター=レイが4勝目をあげ、ペンスキーが天候を読みきれずにタイヤ選択を誤りパワーを6位に終わらせたことで数字上は希望の残るポイント差で最終戦にもつれたとはいえ、シリーズが覆るほどの見通しは感じられない、というのがわたしの正直な感想だった。この勝利にしたところで、雨の中スリックタイヤで踏みとどまる作戦が的中し――もちろんスリッピーな路面を破綻なく走り切った技術は賞賛されなければならない――、イエロー・コーション明けのリスタートであわやジャンプスタートに見えたところを不問に付され、はてはオーバースピードでターン1に突き刺さりかけた(DHLのステッカーを貼ったマシンで、DHLの看板に!)ところをあやうく逃れた末のもので、逆転の予感を抱かせるには物足りなかったのである。

 ハンター=レイが、積み重ねたポイントに比して強い印象をもたらさなかったのは故ないことではない。予選で上位に来ることは少なく、決勝もスピードより戦略で……いやもっと言えば運によってライバルを押さえ込んだレースがしばしばあった。象徴的なのは第10戦トロントで、ルーティンをずらして早めに給油を行った直後にフルコースコーションとなり、アンドレッティ・オートスポートのマシンは労せずして先頭に立ったのである。たとえば、ハンター=レイは2012年のシーズンにおいて153周しかラップリードを記録していない。少なすぎるというわけでもないが、しかし419周をリードしたスコット・ディクソンの4割にも満たず、タイトルを争ったウィル・パワーの283周に対して半分強でしかなく、チームメイトのエリオ・カストロネベスの237周に負け、シリーズ17位だったアレックス・タグリアーニの93周の160%に過ぎなかった。何より自らが完了した1722周のうち8.8%しかリードしていない。レースに展開の綾というものがあるのなら、それに都合よく助けられがちだったのがハンター=レイで、裏切られつづけたのがパワーだった、と言ってもそう的を外してはいないだろう。

無作法もいささか目についた。第13戦ソノマでは終盤のリスタート明けにタグリアーニの無遠慮で軽忽なアタックに撃墜されてポジションを失い、レース後相手のピットに乗り込んでさんざん口論を繰り広げたが、何のことはない、ロングビーチでまったくおなじことをして佐藤琢磨をスピンに追いやったのはハンター=レイ自身なのだ。だから我慢して口をつぐめというのは飛躍だとしても、なるほど天野雅彦の言うとおり王者にふさわしい振る舞いには見えはしない。こういった行状を振り返れば、最終戦に持ち越されたチャンピオン争いは、しかし17という点差ほど白熱しそうもなかった。

***

 オート・クラブ・スピードウェイのトラック上でウィル・パワーがライアン・ハンター=レイと争っていたポジションは13番手で、チャンピオンの行方とはまったく無縁だった。56周目に、オーバルを得意とはしないパワーがインサイドで見られる典型のようなスナップスピンでセイファー・ウォールの餌食となってもなお、その道連れをすんでのところで逃れたハンター=レイに課された使命は6位の確保であり、彼の示していたスピードはその実現の困難を物語っていた。事実この日はじめて導入されたフルコース・コーションまでのあいだに、ハンター=レイはトップからおよそ半周、30秒の遅れを背負っていたのである。

 ハンター=レイにとって幸運があったとすれば、この日のフルコース・コーションがおおむね望ましい頃合いに導入されたことだった。パワーがクラッシュした56周目にはじまり、74周目、108周目といったタイミングは、ほとんどすべてのチームにステイアウトではなくコーション中の給油を選択させた。それはハンター=レイ自身にとっても例外ではなく、突飛なギャンブルに出て失敗するリスクを考慮せずともイエロー・フラッグのたびに失ったギャップをリセットすることができたのである。パワーが一時的にレースに復帰してポイントを積んだことで逆転王者の条件はさらに厳しく5位へとかわったが、それでもなんとか、周回遅れという決定的な終戦を逃れることはできていたのだった。

 ただ、何度リスタートがかかっても、ハンター=レイが戦闘力を発揮して王者への渇望を見せる瞬間は来なかった。182周目にライアン・ブリスコーがオーバーステアによって壁に向かっていったとき、8位を走っていたハンター=レイはまたも20秒のビハインドを背負っており、スピードに欠けることは明らかだった。ピット作業によって6位に上がったにもかかわらず、190周目のリスタートでやはり加速と同時に前のマシンからあっという間に引き離された上に後方から4人のドライバーに脅かされて、順位を失うのは時間の問題に思えた。隊列のラインがインとアウトに大きく分かれ、また合流することを繰り返す独特の見栄えのバトルが展開されるこのハイスピードオーバルのレースをテレビで見ながら、わたしはまだハンター=レイがシーズンを制することをまったく信じることができなかった。

 アンドレッティ・オートスポートのスピードに逆転の光明を見出すことは不可能なはずだった。190周目、グリーン・フラッグと同時にハイサイドのトニー・カナーンから執拗にアタックを仕掛けられ、ハンター=レイは中央にラインを取った。グラハム・レイホールにドラフティングに入られる。チームメイトのマルコ・アンドレッティにインサイドを押さえられた。前では佐藤琢磨とアレックス・タグリアーニが接触せんばかりの接近戦を繰り広げている。行き場はなかった。激しいバトルのさなかに放り込まれて、ハンター=レイは5台に囲まれた。集団の中で、劣勢は明らかだった。

 だが彼は、この日初めてチャンピオンのための戦いを見せる。乱気流の中心という極めて危険な位置を走らされ、次の瞬間フロントのダウンフォースが抜けてすべてを失ってもまったく不思議はなかった。それでもなお、ハンター=レイは自分の空間を譲らなかった。最大のリスクに晒される場所で、臆することなくスロットルを開け続けたのである。トップ5に通用するスピードはまだなかったが、前だけを見つめて6位を守り続けた。ダーティー・エアーを浴びながらも後続を紙一重でしのぎ続けるその姿は、とても感動的な、今年のモータースポーツでも白眉となる美しい苦闘だった。

 そして勇気は報われる。229周目、3位を走っていたタグリアーニのホンダエンジンが白煙を吐き出した。ハンター=レイはとうとう、2012年の権利を得たのだった。

***

 ウィル・パワーは、無力な最終戦によってチャンピオンを失った。2年前と同様にリーダーとしてスタート・コマンドの声を聞いたにもかかわらず、やはり2年前と同様に自らの愚かなミスによってキャリアの頂点を台無しにした。レースで有利な立場にいるドライバーがしばしば犯しがちなように、ボルティモアでコンサバティブになりすぎ、フォンタナで戦いに加わる気力を持てなかった。リアを潰したマシンから降り、ピットへと戻ってきた彼の顔からはすでに勇気が失われていた。堂々とリスクを受け入れ、それを乗り越えたハンター=レイに対し、パワーが喫したスピンはあまりに繊細にすぎたのだ。彼は、モータースポーツが紡ぐ因果の報いを正当に受けたのだろう。トラックに留まらないドライバーに勝利が与えられることなど、決してありはしない。

 結局、ライアン・ハンター=レイがシリーズをリードしていたのは、夏の1月ほどと、あとはシーズン最後の20周だけのことである。だが失うものが生まれた最後の20周で、彼はすべてのリスクを追い求めて、乗り越えた。235周目のリスタートで佐藤琢磨にバトルを仕掛けてハイサイドに張りつく。インサイドで事故が起これば巻き込まれかねないラインを恐れずに走り続け、スピードでは敵わないはずだった佐藤を制した。240周目、カナーンのクラッシュとともに突如示された赤旗中断も、もう関係無かった。残り8周、ふたたび佐藤琢磨との壮絶なバトルに身を委ね、彼は堂々たるチャンピオンの資質を示した。喪失に恐れを抱かず、勇気とともに前だけを見据えるドライバーにこそ、勝者の資格がある。2012年最後の20周で、ハンター=レイはたしかにチャンピオンとして生まれたのである。250周目のことだ。まるでインディ500のファイナルラップを再現するかのように、インサイドの佐藤琢磨がリアを振り出してスピンに陥った。タイヤスモークとともにレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングのマシンがセイファー・ウォールへ突き進んでいく。間近で起こった最後の危機も、全開のスロットルでかいくぐった。ファイナルラップで起きた混乱の中、レースの決着をチェッカーより一足先に告げる最後のイエロー・フラッグが振られたそのとき、ライアン・ハンター=レイは、もう4位を走っていたのだった。

佐藤琢磨が戻ってきた表彰台

【2012.4.29】
インディカー・シリーズ第4戦:サンパウロ・インディ300
 
 
 26周目リスタートの攻防は1回のブレーキングで決着した。並走するウィル・パワーに加速のタイミングを外されて引き離された佐藤琢磨は、しかしターン1へのブレーキングポイントをどう見ても10mは奥にとり、慎重に止まろうとしたパワーをコーナー進入前に交わしきってレースのリーダーとなった。サイド・バイ・サイドにすら持ちこませない圧巻のオーバーテイクを完成させた瞬間、日本のモータースポーツ年表の2011年5月2日欄にひとつの項目が書き加えられるのだと確信されたはずだった。日曜のレースが中断されて翌日に延期されるほどの大雨に見舞われたサンパウロで、佐藤琢磨はだれよりも速く、勇敢で、勝利に値するドライビングを遂行していた。

 だが終わってみれば、このサンパウロは日本人にとっても「数あるインディカー・シリーズのなかの1レース」にすぎなくなる。リーダーとして迎えた次のフルコース・コーションで、チームはステイアウトを選択した。レースは規定周回まで届かず、2時間で終了することが確定していたから、チェッカーフラッグまでにもう一度コーションがあれば燃料は足りるという算段だった。それはリアルタイムでは妥当な判断にも思えたが、自分の力以外の状況変化に身を委ねるのはやはり最速のリーダーが採るべき戦術ではなかった。ギャンブルはレースに歓迎されず、あとは記憶のとおりである。あまりの混乱に辟易してみんな暴れる気が失せたのか、そろそろおとなしいドライバーしかコースに残っていなかったのか、残り30分ほどのレースは一転して上品に進行してしまう。グリーン・フラッグ・コンディションが途切れないままついに燃料は底をついて佐藤はピットインを余儀なくされ、追撃を再開したものの最後はオリオール・セルビアへのアタックを誤ってターン1をクリアできずにポジションを8位にまで落としたのだった。2日続けての徹夜で寝不足を通りこしていた日本のモータースポーツファンの意識はこうして睡魔とともに遠ざかることになる。年表に載せるつもりだった「日本人初のインディカー・シリーズ優勝」の項は、クリップボードに仮留めされたまま、ターン1の赤くペイントされたランオフエリアのどこかに置きっぱなしになった。

 あれから1年が経って、去年を再現する雨が今にも落ちてきそうなサンパウロの68周目、白と青に塗り分けられたレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングのマシンが、並走するダリオ・フランキッティとエリオ・カストロネベス2台のインサイドに飛びこんだ。それが佐藤琢磨だと気づくのにほんのすこしだけ時間を要したのは、狭い市街地の2列リスタートでトップ争いに目が向いていただけでなく、このカラーリングと彼を結びつける回路がまだじゅうぶんにできあがっていなかったからだ。深いグリーンに彩られたロータス・カラーのマシンを降り、ホンダエンジンを追うようにRLLへ移籍した佐藤は、前戦ロングビーチのファイナルラップでライアン・ハンター=レイのペナルティ行為によって弾き出されるまで3位を走行したのを除いてほとんどまともにレースをできていなかったし、悪い流れを引きずるようにこの大会でもトラブルによって予選を走れず、最後尾スタートに甘んじていた。まだ何かを成し遂げてはおらず、サンパウロも成し遂げるレースとは思っていなかったから、ポジションにふさわしい目配りをしていなかったのである。クレバーなピット戦略で5位にまで浮上し、さらなる上位の可能性を期待させるほどのスピードもたしかに持っていたものの、すくなくともこのフルコース・コーションが解除される直前の時点ではおおよそのレースで1人か2人くらいはいる「奇襲とそこそこの幸運によって上位に食いこんだドライバー」にすぎなかった。

 なるほど肝に銘じておくべきだろう。リスタートのグリーン・フラッグはいつだって佐藤琢磨のために振られるのだ。フランキッティとカストロネベスというリーグきっての名手どうしがターン1を奪い合おうとしているさらにその懐を、彼は勇敢に、深く深くえぐっていった。レコードラインを外れたタイヤはしかしロックすることなく路面を掴み、ドライバーのコントロールを受け止めてシケインの縁石をしなやかにかすめる。窮屈な左をクリアし右に切り返していくマシンが加速をはじめたときには、キャリア計40勝の2人から表彰台を奪い取るオーバーテイクが完了していた。

 佐藤琢磨はピーキーであることを好むドライバーである。ピーキーなマシンのドライブを好む、というのではない。彼自身が一心不乱に「ピーク」を見つめ、一気に登りつめようとして――あまりの急角度にしばしば転落する、そうであることにレーシングドライバーとしての意思をすべてささげているように思えるということである。彼のレースはしばしば情熱的であり、それはインサイドへの指向に象徴される。伸るか反るか、彼のレース人生を彩るのはつねにインへと切れこむ一瞬の情動だ。たとえばシケインでヤルノ・トゥルーリとクラッシュした2005年のF1日本GP、たとえばF1における日本人最高位に手が届きかけた2004年ヨーロッパGPターン1でのルーベンス・バリチェロとの接触、またたとえばF1時代唯一の表彰台となった同年アメリカGPで見せた、バックストレートエンドでのオリビエ・パニスに対するパッシング。間違っても「高速コーナーの手前で揺さぶりをかけてラインの自由度を奪い、外からかぶせて抜き去る」というような芸当が、実際のところはともかく、イメージされるようなドライバーではない。インサイドこそが佐藤琢磨の生きる場所であり、死に場所でもある。インへインへと飛びこんでいくから、自然とコーナリング角度は「急」になる。「ピーキー」なのだ。

 ピークは情動の頂点であり、また危険の頂点でもある。生き抜いてみればこれほど心震えるものもないが、モータースポーツは残酷に繊細だ。わずかでも越えてしまえば、その先の切り立った崖下にはリタイアの黒い淵が待ち構えている。その危ういピークを求め続けるのが佐藤琢磨のドライビングだと言っていい。以前に書いたこととも重なるが、佐藤琢磨はインサイドというピークに生きることで周囲の魂を揺さぶってドライバーとしてのキャリアを形成し、インサイドというピークで死ぬことで周囲の信頼を集めきれずにそのキャリアを不安定なものにしてきた。RLLの規模のチームでステアリングを握るいまの姿は、生き死にを繰り返してきた彼にとって自然な帰結でもある。最高の果実を求めて恐れず死地に赴く生き方はチャンピオンに切りかかっていくチームにこそふさわしい。はたして佐藤琢磨はそれを遂げた。フランキッティとカストロネベスは彼の深いブレーキングになすすべなく、重要なポジションを明け渡した。

 1年前の忘れものを探しに来てみれば、少しばかり褪せていたのかもしれない。3位に上がった後の残り5周で前を行くパワーやハンター=レイと渡り合えるスピードは出せず、昨年失ったものを取り返すチャンスは来なかった。4年ぶりにフルシーズンを戦うRLLは勇気を得ただろうが、もちろんこの結果ひとつでトラブルの多いチームの問題が解決するわけでも、また佐藤がミスのないドライバーに生まれ変わるわけでもないし、次こそは優勝だと息巻くほど楽観的になれるわけでもない。われわれ日本のファンが佐藤琢磨に成してほしいと願ったこと、彼自身が成したいと決意したことは、まだ達成されていない。

 だがそれでもなお、2012年4月29日のサンパウロ、68周目のターン1は記憶される必要があるだろう。われわれは、佐藤琢磨に夢を見て、F1から去ってもなお見捨てられなかった、その根源を知っている。だからあのパッシングが琢磨なのだと言いきることができる——ピークを追い求めるピーキーな琢磨だったからこそ、あの瞬間が訪れたのだと確信できるのだ。真に最高の結果ではなかったかもしれないが、これはたしかにひとつの到達点にちがいない。ひとつのコーナーで見せた1度きりの運動に、佐藤琢磨のキャリアすべてが凝縮されたのだから。

 F1のあのときから8年を経て、彼は表彰台へ戻った。シャンパンの栓の抜きかたは、どうやら忘れていたようだった。