【2012.4.29】
インディカー・シリーズ第4戦:サンパウロ・インディ300
26周目リスタートの攻防は1回のブレーキングで決着した。並走するウィル・パワーに加速のタイミングを外されて引き離された佐藤琢磨は、しかしターン1へのブレーキングポイントをどう見ても10mは奥にとり、慎重に止まろうとしたパワーをコーナー進入前に交わしきってレースのリーダーとなった。サイド・バイ・サイドにすら持ちこませない圧巻のオーバーテイクを完成させた瞬間、日本のモータースポーツ年表の2011年5月2日欄にひとつの項目が書き加えられるのだと確信されたはずだった。日曜のレースが中断されて翌日に延期されるほどの大雨に見舞われたサンパウロで、佐藤琢磨はだれよりも速く、勇敢で、勝利に値するドライビングを遂行していた。
だが終わってみれば、このサンパウロは日本人にとっても「数あるインディカー・シリーズのなかの1レース」にすぎなくなる。リーダーとして迎えた次のフルコース・コーションで、チームはステイアウトを選択した。レースは規定周回まで届かず、2時間で終了することが確定していたから、チェッカーフラッグまでにもう一度コーションがあれば燃料は足りるという算段だった。それはリアルタイムでは妥当な判断にも思えたが、自分の力以外の状況変化に身を委ねるのはやはり最速のリーダーが採るべき戦術ではなかった。ギャンブルはレースに歓迎されず、あとは記憶のとおりである。あまりの混乱に辟易してみんな暴れる気が失せたのか、そろそろおとなしいドライバーしかコースに残っていなかったのか、残り30分ほどのレースは一転して上品に進行してしまう。グリーン・フラッグ・コンディションが途切れないままついに燃料は底をついて佐藤はピットインを余儀なくされ、追撃を再開したものの最後はオリオール・セルビアへのアタックを誤ってターン1をクリアできずにポジションを8位にまで落としたのだった。2日続けての徹夜で寝不足を通りこしていた日本のモータースポーツファンの意識はこうして睡魔とともに遠ざかることになる。年表に載せるつもりだった「日本人初のインディカー・シリーズ優勝」の項は、クリップボードに仮留めされたまま、ターン1の赤くペイントされたランオフエリアのどこかに置きっぱなしになった。
あれから1年が経って、去年を再現する雨が今にも落ちてきそうなサンパウロの68周目、白と青に塗り分けられたレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングのマシンが、並走するダリオ・フランキッティとエリオ・カストロネベス2台のインサイドに飛びこんだ。それが佐藤琢磨だと気づくのにほんのすこしだけ時間を要したのは、狭い市街地の2列リスタートでトップ争いに目が向いていただけでなく、このカラーリングと彼を結びつける回路がまだじゅうぶんにできあがっていなかったからだ。深いグリーンに彩られたロータス・カラーのマシンを降り、ホンダエンジンを追うようにRLLへ移籍した佐藤は、前戦ロングビーチのファイナルラップでライアン・ハンター=レイのペナルティ行為によって弾き出されるまで3位を走行したのを除いてほとんどまともにレースをできていなかったし、悪い流れを引きずるようにこの大会でもトラブルによって予選を走れず、最後尾スタートに甘んじていた。まだ何かを成し遂げてはおらず、サンパウロも成し遂げるレースとは思っていなかったから、ポジションにふさわしい目配りをしていなかったのである。クレバーなピット戦略で5位にまで浮上し、さらなる上位の可能性を期待させるほどのスピードもたしかに持っていたものの、すくなくともこのフルコース・コーションが解除される直前の時点ではおおよそのレースで1人か2人くらいはいる「奇襲とそこそこの幸運によって上位に食いこんだドライバー」にすぎなかった。
なるほど肝に銘じておくべきだろう。リスタートのグリーン・フラッグはいつだって佐藤琢磨のために振られるのだ。フランキッティとカストロネベスというリーグきっての名手どうしがターン1を奪い合おうとしているさらにその懐を、彼は勇敢に、深く深くえぐっていった。レコードラインを外れたタイヤはしかしロックすることなく路面を掴み、ドライバーのコントロールを受け止めてシケインの縁石をしなやかにかすめる。窮屈な左をクリアし右に切り返していくマシンが加速をはじめたときには、キャリア計40勝の2人から表彰台を奪い取るオーバーテイクが完了していた。
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佐藤琢磨はピーキーであることを好むドライバーである。ピーキーなマシンのドライブを好む、というのではない。彼自身が一心不乱に「ピーク」を見つめ、一気に登りつめようとして――あまりの急角度にしばしば転落する、そうであることにレーシングドライバーとしての意思をすべてささげているように思えるということである。彼のレースはしばしば情熱的であり、それはインサイドへの指向に象徴される。伸るか反るか、彼のレース人生を彩るのはつねにインへと切れこむ一瞬の情動だ。たとえばシケインでヤルノ・トゥルーリとクラッシュした2005年のF1日本GP、たとえばF1における日本人最高位に手が届きかけた2004年ヨーロッパGPターン1でのルーベンス・バリチェロとの接触、またたとえばF1時代唯一の表彰台となった同年アメリカGPで見せた、バックストレートエンドでのオリビエ・パニスに対するパッシング。間違っても「高速コーナーの手前で揺さぶりをかけてラインの自由度を奪い、外からかぶせて抜き去る」というような芸当が、実際のところはともかく、イメージされるようなドライバーではない。インサイドこそが佐藤琢磨の生きる場所であり、死に場所でもある。インへインへと飛びこんでいくから、自然とコーナリング角度は「急」になる。「ピーキー」なのだ。
ピークは情動の頂点であり、また危険の頂点でもある。生き抜いてみればこれほど心震えるものもないが、モータースポーツは残酷に繊細だ。わずかでも越えてしまえば、その先の切り立った崖下にはリタイアの黒い淵が待ち構えている。その危ういピークを求め続けるのが佐藤琢磨のドライビングだと言っていい。以前に書いたこととも重なるが、佐藤琢磨はインサイドというピークに生きることで周囲の魂を揺さぶってドライバーとしてのキャリアを形成し、インサイドというピークで死ぬことで周囲の信頼を集めきれずにそのキャリアを不安定なものにしてきた。RLLの規模のチームでステアリングを握るいまの姿は、生き死にを繰り返してきた彼にとって自然な帰結でもある。最高の果実を求めて恐れず死地に赴く生き方はチャンピオンに切りかかっていくチームにこそふさわしい。はたして佐藤琢磨はそれを遂げた。フランキッティとカストロネベスは彼の深いブレーキングになすすべなく、重要なポジションを明け渡した。
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1年前の忘れものを探しに来てみれば、少しばかり褪せていたのかもしれない。3位に上がった後の残り5周で前を行くパワーやハンター=レイと渡り合えるスピードは出せず、昨年失ったものを取り返すチャンスは来なかった。4年ぶりにフルシーズンを戦うRLLは勇気を得ただろうが、もちろんこの結果ひとつでトラブルの多いチームの問題が解決するわけでも、また佐藤がミスのないドライバーに生まれ変わるわけでもないし、次こそは優勝だと息巻くほど楽観的になれるわけでもない。われわれ日本のファンが佐藤琢磨に成してほしいと願ったこと、彼自身が成したいと決意したことは、まだ達成されていない。
だがそれでもなお、2012年4月29日のサンパウロ、68周目のターン1は記憶される必要があるだろう。われわれは、佐藤琢磨に夢を見て、F1から去ってもなお見捨てられなかった、その根源を知っている。だからあのパッシングが琢磨なのだと言いきることができる——ピークを追い求めるピーキーな琢磨だったからこそ、あの瞬間が訪れたのだと確信できるのだ。真に最高の結果ではなかったかもしれないが、これはたしかにひとつの到達点にちがいない。ひとつのコーナーで見せた1度きりの運動に、佐藤琢磨のキャリアすべてが凝縮されたのだから。
F1のあのときから8年を経て、彼は表彰台へ戻った。シャンパンの栓の抜きかたは、どうやら忘れていたようだった。