ルイス・ハミルトンの失敗

Pocket

 そろそろ美しい閉幕への道程を考えるべき時期に差し掛かった今シーズンのF1で評価を下げてしまったドライバーといえばフェラーリのフェリペ・マッサと、それから何と言ってもマクラーレンのルイス・ハミルトンだろう。今季から導入されたピレリタイヤによるグリップ低下でシーズン前から苦戦が予想されたマッサについてはあえて言うまでもないが、コーナーへの鋭い飛びこみが持ち味のハミルトンも、そのドライビングスタイルによってタイヤライフのコントロールに難を抱え、思いもかけない不調に陥ってしまった。

 シーズン中盤以降、顕著になったのはハンガリーGPのころからだが、コンビ2年目を迎えたチームメイトのジェンソン・バトンのパフォーマンスが伸長していくのと軌を一にしてハミルトンのミスが目立つようになった。予選ではつねにフロントローを争うほどの速さを持ちながら、レースでは一転、危険なアクションや接触を――とくにマッサとは何度も――繰り返し、しばしば「investigation」の文字情報を提供するハミルトンは、タイヤマネージメント以前の問題として、メンタルに大きなトラブルを抱えて平静さをどこかに置き去りにしてしまったようだった。もとよりアクシデントの少ないドライバーというわけではなかったが、アグレッシヴの度が過ぎての失敗が多かったこれまでに対し、今季後半のミスはただの焦りから引き起こされたようにしか見えないものばかりだ。

 ハミルトンの焦燥の原因の一部がチームメイトのバトンだろう、という話はシンガポールGP採点記事のコメント欄で少しばかりした。ピレリタイヤの特性をよく理解して速く安定的なペースを刻み、いざバトルになってもコーナーを俯瞰しているかのように広い視野をもってリスクなく戦い抜くバトンをチームが信頼するようになり、結果を残すのに比例してハミルトンのミスは増えた。単純に推測すれば、これはやはりチームメイトに追いつめられているということだろう。バトンが高いパフォーマンスを発揮すると、ハミルトンはきまって低調に終わる。たとえばこんなデータを完全に偶然の結果と言いきれるだろうか。今季のマクラーレンは、バトンが11回、ハミルトンが6回表彰台に登っているが、「バトンが上位でのダブル表彰台」が一度もないのである(ハミルトン上位の場合は先日のアブダビを含め2度ある)。マシンが表彰台圏内の戦闘力を持っていても、ハミルトンは自分に主導権がないとその力を発揮できない状態にあるのかもしれない。バトンが2勝を含む5連続表彰台を獲得したRd.11ハンガリーGPからRd.15日本GPまでが典型だろう。わずか5戦で101ポイントを積み上げたバトンに対しハミルトンは4位2回5位2回の44ポイントに沈んだのだった。先のアブダビGPで週末通してバトンに優越し気楽に制したことさえ、彼の精神面の不安定さを逆説的に証明しているように思えてくる。

 もちろんチームメイトに圧倒されてフラストレーションに潰されそうになるというのは、第一義的にはドライバー自身が対応すべきことである。F1の世界で最初のライバルとなるのはまずチームメイトであり、それを制したドライバーだけがステップアップしてワールドチャンピオンへの挑戦権を手にできるという評価体系が不動のものとしてあるのだから、同僚が手強いと泣き言を言うのでは話にならない。しかしF1がチームスポーツであるかぎり、チームがドライバーというひとつの戦力のメンタルケアに腐心する必要があるのもまた当然のことだ。ドライバーの心身のコンディションについて、チームは責任を持つ立場にある。なのにどうも、マクラーレンがハミルトンのメンタルに関心を向けているようには思えない。速いドライバーとして彼を尊重するが、それ以上のフォローに踏みこむ気まではないのではないかと感じることが多いのだ。

 焦りがふくらんできているハミルトンにとっては不幸なことだが、いかにもマクラーレンにふさわしい話ではある。だいたいこのチームは、ドライバーの感情の揺れとかプライドの保ち方などといったおよそ人間的な心の動きの機微に対する興味が欠落しているように見受けられる。優れた空力パッケージのクルマにハイパワーのエンジンを載せればレースで勝つには十分だと考えていて、コクピットの中身のことはドーナツの輪っかほどにも気に留めていない――ようは、空っぽだって構いやしないのだ――節があるのだ。ハミルトンをエースとして遇そうとしながらそのチームメイトとしてセカンドに徹させるわけにはいかないバトンを迎える危険性は移籍当初から一部のメディアで言われていたが、その懸念は予想どおり当たった。そもそもドライバー選びの段階でチームは組織の歯車が円滑に回る絵を楽観的に空想しすぎたとも言える。ちょっと長くF1を見ている人なら得心する話だろう。マクラーレンは昔からそういう失敗をするチームなのだ。

 今のマクラーレンを磨き上げたのは疑いなく2年前まで現場の最高権力者として君臨したロン・デニスだが、彼はオフィスの床に塵のひとつでも落ちていることを許さないとか、ドリンクの持ち込みすら禁じるとか(これは記憶違いによる不当な非難かもしれないが彼のキャラクターをほんの少しでも知っていれば素直に受け入れられそうなので事の真偽は何ら問題ではない)、バカでかくていけ好かないモーターホームを広げてパドック裏のスペースを占領し他のチームからうまく顰蹙を買うことに情熱を燃やすとか、そういうことにはむやみに熱心なくせに、あるいはそういう方面にばかり完璧主義だったからなのか、ドライバー絡みでは失敗が多い。なにせクルーの顔よりも、彼が着ているシャツについたシミを消すことのほうが重要なマネージャー――と、これはさすがにジョークであって、彼はスタッフを非常に大事にする人物だった――のすることである。かつてはアイルトン・セナとアラン・プロストを両者ナンバーワン待遇で迎えた結果20年も経った今もって語り草となるほど両者の関係を見事にこじれさせて対応に苦慮し、キミ・ライコネンのチームメイトにファン=パブロ・モントーヤを当ててこの我の強いコロンビア人にF1を嫌忌させ、それにも凝りずついには温室育ちの秘蔵っ子ハミルトンとプライドの高いフェルナンド・アロンソのペアによってチームをわずか1年で破綻させた。どれも速さと強さを持つドライバーのコンビだったが、好意的に見ても完全な成功を収めたとは言えそうもない。

 理想的に見えるラインナップは個々に理想的であるがゆえに、得てしてうまくいかないものだ。最高のドライバーで組み上げるチームがかならずしも成功しないことは歴代チャンピオンの待遇が逆説的に物語っている。全盛期のミハエル・シューマッハはフェラーリで完全な独裁体制を敷いてルーベンス・バリチェロを従え、ミカ・ハッキネンとデビッド・クルサードやフェルナンド・アロンソとジャンカルロ・フィジケラの間には明らかな才能の差があった。ハミルトン本人にしてからが、アロンソと組んでいた年は明らかに最速マシンに乗りながらチームメイトとの戦争に疲れはててキミ・ライコネンにすんでのところで栄冠をかっさらわれ、ようやくチャンピオンとなったのは、今ロータスでようやく働き場を見つけた「Non-flying Finn」とコンビを組んだ、マシンとしては劣勢の年だった。ハミルトンの2007年と2008年はいかにも教訓的だ。07年は2つの才能がぶつかりあって消耗した挙げ句お互いのポイントを食いあって1点差でシーズンを失い、08年はエースに余裕ができた(かどうかはあのドライビングを思い出すと自信がないのだが)うえにポイントが片方に集中した結果1ポイント差でランキングリーダーとなった。近年ドライバーの力が拮抗したチームでのチャンピオンとなると昨季のセバスチャン・ベッテルくらいしか思い浮かばない。そのベッテルにしても、今季はウェバーを圧倒してナンバーワンの地位を確たるものにした。

 最速のマシンを製造するように最速のドライバーだけを追い求めることが成功に直結するわけではないと、たいていのレーシングチームはわかっているはずだ。シューマッハを長く擁したフェラーリなどはとくにそれを心得ているように見える。F1の、とくにトップチームの方法論としてドライバーの役割に差をつけることはもはや鉄則だ。では、苦い経験を他のどのチームよりも多く重ねて反省しなければならない当のマクラーレンが今、何をしているのか? チームカラーという言葉があるように、F1にかぎらず組織というものはどれだけ構成員が変わっても意外なほどその相貌を変化させないということなのだろう。ホンダ、ブラウンという歴史を経ている今のメルセデスは、かつての面影などどこにも残っていないにもかかわらず、川井一仁によればクルマの特性というかぎりなく物理的な面でなぜかホンダ時代の悪癖が残り、シューマッハなどは露骨にそれを嫌がっている。それを考えれば責任者が現場を退いた程度のことでチームはそう簡単に変わったりしないのだ。マクラーレンはせっかくハミルトンが揺るぎないエースの地位を得てチームを掌握したところで、おなじイギリス人チャンピオンのバトンをわざわざチームに迎え、軋轢の元を抱え込んだ。そして今季、案の定ハミルトンの不調は引き起こされたのである。今回に関しては2人の仲がよいこともあって表面的な確執こそないが、ラインナップに端を発する不調という意味では過去とそう違いない。

 マクラーレンのこの手の失敗は珍しくもないわけだが、その煽りを受けたハミルトン個人の問題に話を戻せば、彼の現状が2007年にアロンソとぶつかりあったころと決定的に違うのは、その背中に孤独を感じることだ。彼がロン・デニスに目を付けられ、マクラーレンによって下位カテゴリーから大事に育てられてきたことはだれもが知っている。ハミルトンとマクラーレンは一体でありその関係は揺るぎないもので、07年のハミルトンとアロンソは、速さという意味では互角――か、アロンソの証言を信じてチームでハミルトンが優遇されていたのだとすればドライバーとしてはアロンソが上回っていたか――でそれが確執の原因ともなったが、ハミルトンにすれば最終的にチームがかならず味方についてくれたし、事実チームが修復不可能になってどちらかが移籍しなければならなくなったとき、フェラーリへと去ったのはやはりアロンソの方だった。

 だがマクラーレンはイギリスのチームであり、新たに迎えたバトンはイギリス人のチャンピオンである。チームはスペイン人を冷遇したようにバトンを扱ったりはしない。スタートラインではまったく対等に、そしてシーズンが進んでどちらかにウェイトを置くべき段階になれば成績に応じて、きわめて正当に2人を遇することになる。きっかけはたぶんちょっとしたミス一つ、モナコでの接触だったり、雨のカナダでのスピンだったりしたのだろう。だがそのミスのためにバトンが優位に立ったとき、ハミルトンはこれまでのような自分だけに向けられる絶対的な庇護を失った。もはやチームは彼だけのものではなくなってしまった。客観的に見ればまっとうな対処なのだが、これまでのことを考えれば相対的にハミルトンの味方は減ってしまったも同然だ。断片的にしか伝わらないテレビの画面や雑誌での報道を通じてさえそれはなんとなく感じ取れるし、彼から漂う孤独感として表出し印象づけられたりするのだろう。

 マクラーレンは彼を見捨てているわけではない。事実ことあるごとに危険なアクションを繰り返すハミルトンについて、チームはそのたび擁護してきた。だがそれは外に向いたフォローであり、チームの中だけで見ればそれでもバトンより優先してもらえるといった優遇される雰囲気があるわけではないのだ。リソースが少しずつ上位のバトンへと傾いていくのをハミルトンは実感したりもするのだろう。彼にしてみれば、チームの関心が自分から離れていくというのは初めての経験で、それが当然のことだとはわからない。ハミルトンはたぶん、そのパフォーマンスにふさわしいレベルで扱われている。だがそれは、彼にとってはどうしようもなく寂しいことなのだ。

 ようするに、今のハミルトンは弟に親の興味が向いて拗ねている兄のようなものである。そういう面も含めて、ハミルトンが自分を育ててくれた親も同然のチームに対し甘えがちだというのはたぶん正しい。たしかにハミルトンを箱入り娘のように大事に育てすぎたのはマクラーレンだし、そもそもあらゆる性格のドライバーを総合的にマネージメントしなければならないのがチームというものではある。とはいえ結局のところ、ハミルトンが抱える甘えは彼自身の問題として解決しなければならないことだ。

 チームにおける全能感を失って、ハミルトンは落ち込んでしまった。シーズン序盤にトラブルやピット作業ミスでポイントを失いながら着実にパフォーマンスを上昇させてきたバトンとは対照的だ。チームを転々とし、幾度となく地位を築きあげてきたバトンの揺るぎない強さは今のハミルトンが望んでも手に入らないものだ。彼はいま陥っている内向きの問題を解決するための経験をほとんど持っていない。チームの関心が自分に向かないならばそうさせる努力をしなければならないが、その努力の源泉はまさにチームの関心であった。そうやってレースを戦ってきたのだ。卵と鶏、どちらが先かという話ではないが、テレビを通じて見るハミルトンの精神にはモチベーションのジレンマがしばしば覗く。

 幸いなことに、ハミルトンが依然としてナチュラルに速いドライバーであることに変わりはない。だがレーシングチームの一員として戦う強さならバトンが一枚も二枚も上をいく。それは多分に過ごしてきた人生の強度に根ざした力であり、一朝一夕に同じレベルに到達できるものではない。ハミルトンは今初めて、バトンが乗り越えてきた苦労の一部を知ったばかりなのだ。その差についてどう思い至り、考えるのか——今の苦悩の受け止め方によって、かつての史上最年少チャンピオンがこれから過ごす憂鬱の長さも変わってくるかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です