【2013.8.25】
インディカー・シリーズ第15戦 ソノマGP
それが事件であったことは疑いようがない。そして、たんなるひとつのアクシデントとしての事件にとどまらず、もしかするとスキャンダルへと発展しかねないことも間違いないだろう。インディカー・シリーズの第15戦で起こった危険な事故について、規則は一方の当事者であるスコット・ディクソンに罰を科すことを決定した。選手権のリーダーを直下で追いかけているディクソンは、レースで最後となるタイヤ交換と給油を終えて発進する際、眼前に配置されたペンスキー・レーシングのピットでウィル・パワーのタイヤ交換作業を終えたばかりのクルーを撥ねとばした。レースを解説していた松浦孝亮の第一声が「ディクソン終わった」だったことからも察せられるように、事故は、ホイール脱着用のエアガンを踏みつけたり置いてあるタイヤに接触したりするのと同様に、あるいは起きうる事態の深刻さを考えればより重い罰則の可能性を直感させるものだった。一度は完全に宙を舞ったそのクルーと、巻き込まれた2人はみな幸いにも打ち身程度で済んだものの、轢かれた側のペンスキーと轢いた側のチップ・ガナッシ・レーシングの関係者が揉めているような映像に代表された喧騒ののちに、はたして今季4勝目をほぼ手中に収めていたはずのディクソンは事故の責任を問われてドライブスルー・ペナルティを宣告され、序盤から続出したフルコース・コーションのために維持されていた隊列に呑み込まれて15位でレースを終えることになる。パワーとおなじくペンスキーでドライブするエリオ・カストロネベスに対してほとんど同点にまでなろうとしていた選手権ポイントはレースの終了とともに39点差にまで拡大し、シーズンは4戦を残すのみとなった。ソノマ・レースウェイの64周目は、その1周の最後に生じた出来事によって、あるいは2013年のインディカーのすべてを左右しようとしている。
事故についての議論が収まることはおそらくない。レース後に出された “That’s probably the most blatant thing I’ve seen in a long time”「長い間見てきた中で、たぶんいちばんあくどいやり口だ」というディクソンの披瀝は「加害者」とは思われないほどの悪態と言ってもよいが、彼とは違って利害を持たず、操縦席の外からレースを長い間見てきたわれわれもまたおなじように感じられるにちがいない。事態を仔細に眺めてみれば、ペンスキーのピットでウィル・パワーの右後輪脱着を担当したクルーは作業を終えた直後に――すぐ後ろにいたディクソンが走り去るのをその場で待てばいいのに、そうすることもなく――古いタイヤを片付けにかかり、わざわざ接触しやすい持ち方でディクソンの進路を妨害するように抱えて、ジャッキマンが発進するパワーの車を押そうと身構えるその後ろ足よりもさらに後方を悠然と歩いていたところでタイヤごと飛ばされる形で事故に遭遇した。だから、いささか四角四面に現象にこだわれば、ディクソンはクルーを轢いていない。クルーのほうが当たれとばかりに突き出したタイヤに、そのとおり接触したにすぎない(「すぎない」と言ってしまってもいいだろう)のだから、正当な進路を塞がれたのはむしろ自分の方だと主張することもできるし、事実コメントにはそういう怒気がこもっている。あの行動にあきらかな一定の意図を、ハンロンの剃刀では削ぎ落としきれない悪意を見て取ることは容易なはずだ。戦略担当であるティム・シンドリックは頑として否定するだろうが、しかしペンスキーにとって、それはたまたま映像が衝撃的に見えてしまっただけの、発生しても構わない事故だったのではないか。
たしかに、チームのガレージごとに整然と区切られ一度に1台しか作業が許されないF1と違い、十数台が入り乱れることもあるインディカーのピットではしばしば物理的な妨害が行われ、名物になってもいる。前後の車のピットイン/アウトのラインを最大限窮屈にするためタイヤを自分の領域ぎりぎりの端に置いておくのは、とくにコース上の全車がピットイに飛び込んでくるようなフルコース・コーション中の日常的な光景で、むしろその程度の嫌がらせを平然と際どくやってのけることこそピットロード側で作業をするクルーが持つべき資質のひとつでさえあるだろう。だがこうした空間の削り合いなどの慣習は、裏を返せばピットの中でお互いが自ら侵しえない領域を暗黙裡に規定しあっている事実を、現実のピットボックスの存在よりも鮮明に示しているにほかならないし、だからこそ接触に対する罰則が無条件に甘受すべきものとして共有されてもいるのである。ディクソンはごく自然に、いつもどおり、相手の領域をかすめるように発進し、その当然の進路上をペンスキーのクルーは歩いていた。blatant――「あくどい」また「露骨な」という意味もある――なる非難からは相手が領域の外、もはや存在が尊重されるべくもない空間であからさまに接触を試みた(ように見えた)ことが窺えるが、そこはたしかに侵されてはならず、侵された覚えもない場所だった。
だがどれだけ声を荒らげようとも、ディクソンの非難が届く先はない。ペナルティによって失った何もかもを取り戻す方策がないことはもちろん、万が一相手を事後的に罰する僥倖に恵まれたとしても、本当に裁きたいのは事故の当事者のパワーではなく選手権を争うカストロネベスであり、この直接のライバルはコース上の出来事において完全に事故と無関係だからだ。規則は現実の危険を罰するために存在しているのであり、裏に潜む悪意のすべてを汲み取って裁きを与えるようにはできていない。たとえピットクルーの行動に明白な悪意が存在したことを証明できたとしても、カストロネベスが手にした結果を覆すことは難しいと理解できるからこそ、ペンスキーは安全を破壊する誘惑に抗わない道を選んだ。それが特定のだれかの決断と指示であったと推測はしないし、また本当に具体的ななにかがあったとも思わない。ただ、あたかもチームの一般意志として賢明なクルーが自然にそう動く程度には利益をもたらす行動だというだけの話である。
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ペンスキーがシーズンの利益に重きを置いたことは、しかしウィル・パワーの勝利に影を落とした。彼にとって待ち望まれていたはずの今季初優勝が祝福されざるものになってしまったのは、軽傷とはいえクルーが怪我を負ったことや疑惑によってディクソンから勝利を奪い去ったことによるものではない。すでにチャンピオンの可能性をほとんど失っているパワーはレースの前に、初めてのチャンピオンへと歩を進めるカストロネベスをチームメイトとしてできるかぎり援護したいとインタビューに答えている(過去数年、自分自身がチャンピオンを争う立場にあったときには得られなかったにもかかわらずだ)。そして事故は、まさしくカストロネベスをこれ以上なく援護した。レースを実況した村田晴郎が端的に指摘したように、あの瞬間のペンスキーにとっては、接触の咎をディクソンに負わせ罰則へと誘導することが最高の結果で(実際それは果たされた)、そのためにパワーを犠牲にすることを厭う理由はなかったはずなのである。エリオ・カストロネベスを選手権で優位に戦わせ、最終的にポイントリーダーのままシーズンを締めくくること。その一事だけに関心を向けたとき、もはやパワーの順位はチームとしての意義をほとんど持ちえなくなってしまっている。
パワーにとって不幸なことに、ピットにはペンスキーとカストロネベスの最大の脅威となったディクソンをblatantに妨害できるだけの要素があまりにも揃いすぎていた。先頭を走るディクソンを追いかけていたパワーはコース上のバトルで勝利しその得点を削ることでチームに貢献できる可能性を持っていたが、チームは目の前に用意された、より安易で、効果的で、利益の大きい一手を採用したのである。それは肉体的に厳しいソノマで懸命に厳しいレースペースを刻んでいたパワーの努力を蔑ろにし、完全に無視するような選択だった。結局、スキャンダラスに引き起こされたあの瞬間はペンスキーの、ディクソンではなくパワーに対する「blatant」の証明として突きつけられているように見えてきてしまう――彼の背後で発生し、彼自身が当事者でありながら、彼を主体とする事故では微塵もなかったのだ。あるいは当事者であったゆえにむしろ、主体たりえないことをより強く思い知らされたと言うべきかもしれない。85周目に至るまでパワーは責任を問われることなく優勝を遂げたが、そこにペンスキーの意志はこもっておらず、ただひたすらに結果としての勝利でしかなかった。レース後の喜びにペーソスを感じさせるところがあったとしたら、きっと本人がその意味をよく理解していたからに相違ない。