【2013.9.1】
インディカー・シリーズ第16戦 ボルティモアGP
エリオ・カストロネベスが自らの力で何事かをなそうとするような場面は、彼がそうすべき位置にずっと居座っているにもかかわらず訪れなかったし、もう訪れることを期待することにすらすっかり倦んでしまったといえば、何ヵ月も続いてきた展開をまたしてもなぞることになった見た目に派手なだけのレースへの咎めにもなるだろう。9月1日のボルティモアで選手権のリーダーが飛びこんだ9位という最終順位は、およそ本人以外には好ましい意味を与えなかったように思われる。2013年のインディカー・シリーズを刺激するためには車輌規定違反が認められたレースでしか勝てなかったドライバーを引きずり降ろすことしか手はないはずなのにとつぶやいたところで虚しいばかりだ。同僚のウィル・パワーがスコット・ディクソンをホームストレートの壁に追いやって自他ともども車を破壊したのは録画を見なおしても偶然でしかなく、先週のチーム・ペンスキーが見せた未必の故意がごとき事故に比べれば悪意を見出すことはほとんど不可能に近いものだが、結果としてレースから弾き出されたディクソンと、2回もフロントウイングを壊したうえにドライブスルー・ペナルティまで科されながら幾度となく繰り返されたターン1や3の事故を幸運にもすり抜けてトップ10にしがみついたカストロネベスの得点差が49にまで拡がり、自力での逆転可能性が消失したことだけが重くのしかかっている。目下の問題は事故によってタイトル争いの困難が増したということではない(わたし自身、チャンピオンシップそのものにはさほど興味を持っていない)。そうではなく、インディカーが、その中心として目さざるをえないポイントリーダーの恐れを是認しているかのような事態に付き合わされる不愉快にある。この段階になればはっきり問うことができる。今年のカストロネベスがなんの報いも受けないまま歴史にだけは名前を刻もうとしていることを、彼と利害を共有しないわれわれ観客までもが甘受しなければならないのだろうか。
唯一の勝利を上げたテキサスでシリーズの主導権を握ってから――当時書いたとおり、規定違反があったとはいえその勝利じたいは快哉を叫びたくなるほどのものだったのだが――、カストロネベスはつねに2位との得点差を計算しつづけるばかりの頽廃にまみれ、地位に恋々として勇気を欠くようになった。その姿は「チャンピオン」という甘美でありながら雄々しい響きから想像されるものとはかけ離れている。テキサスでの優勝が心地よさに満たされていたせいで、現状はよけいに落胆を感じさせるようだ。もちろんレーシングドライバーなら妥協による微かな前進に納得せざるをえない時期はあるものだし、むしろ一年を制するという遠大な目標のためにはそうであるべきことさえ理解するが、しかしいくつかの展開の綾によって選手権の2位がたびたび入れ替わり、彼自身が自分を最速と確信できる日がほとんど来なかったこともあって、ポイントリーダーの地位を失うのに怯える期間が必要以上に長引き、そしてリーダーの怯えがシリーズ全体に伝播したと感ずることも、受け止めなければならない現実になった。結局のところ、今年の選手権争いは結末の如何にかかわらずすでに失敗されているということである。シュミット・ハミルトン・モータースポーツのドライバーが(たとえそれがシモン・パジェノーという才能を疑いえない存在であったとしても)この時期にアンドレッティ・オートスポートの全ドライバーに対して上回っていることを想像したものなど、ひとりとしていないはずだ。
もちろん、パジェノーがここに至ってランキングの3位に浮上したこと自体は自然な帰結といってよい。全体のレベルについて論難したくなるほど大荒れに荒れたボルティモアのレースを制したのが29歳の遅れてきた才能だったことはインディカーにとって慊焉としないもので、勝利を渇望する69周目の一途な機動は障害をはねのける勇気を身にまとって表現することこそモータースポーツにとって欠くべからざる瞬間であることを直感させるし、ただ不注意によって壁に吸い込まれていくドライバーが多かったボルティモアにあって勇気の行使を誤らなかった数少ない存在でもあった。先週のソノマでチャーリー・キンボールを相手に清々しく敗れたのも含めて、カストロネベスに冒されたここ数戦の硬直からもっとも自由に振る舞いつづけ、勇気を失っていなかったのは、選手権を争っていたはずのスコット・ディクソンでもライアン・ハンター=レイでもマルコ・アンドレッティでもなく、たしかに彼であった。自らが犯した直前のミスに乗じてすぐ外側に並びかけてきたセバスチャン・ブルデーを削り、押し出すようにしながらもターン8を先に制したその決着の瞬間は、ともすればマナーに欠けて見えたものの、そこで発揮される勇敢さだけがレースを制するのだという信念を投げかける運転だったと感じ入らせるものがある。チャンピオンを目前にし、幅寄せしてきた相手に手を挙げて抗議することしかできないいまのカストロネベスからはもはや見つけられない情動だ。もしあの場にいたのがカストロネベスだったら、パジェノーのような覚悟を見ることはできなかったのだと断言しても構うまい。それは、なによりもカストロネベスがそこにいなかった、いる資格さえ持っていなかったことが証明している。 先頭集団から置き去りにされていた皮肉きわまりない幸運によって多重事故を容易に回避しただけの彼の目に、パジェノーの後ろ姿が映ることはなかっただろう。
ソノマでもボルティモアでも、勇気ある勝者のはるか後方で自分のありよう以上でも以下でもなくただフィニッシュラインへと辿りついただけだったにもかかわらず、カストロネベスは展開とチームメイトに救われていまの地位に留まることを許されてしまった。救われただけにすぎなくても、レースの数だけは消化され、延命装置は稼働をやめない。今季の全周回を走行している唯一のドライバーという程度の記録が、なんの慰めになろう。もし10月の3レースを残すのみとなったシーズンでここ2戦のような展開が繰り返されるようなことがあれば、われわれは臆病な尊敬されざる1勝どまりの王者の誕生を目にすることになる。それは言うまでもなく不幸に決まっているが、しかしもっと不幸なのはそんなドライバーがエリオ・カストロネベスであること、むしろ心より敬意を払われるべきキャリアを重ねてきたドライバーであることだ。CARTでのデビューから15年、勇敢さと少々の無謀さと、迂闊さと愛嬌と、そしてなによりコースを問わない速さによって数多くの魅惑的な勝利を積み上げてきた彼を、われわれは愛してやまなかったはずである。オーバルでもロード/ストリートでも等しく速いこの純粋なインディカー・ドライバーの優勝は28回を数え、そのうちには最高の栄誉であるインディ500の3勝が含まれる。足りないのはシリーズ・チャンピオンだけだと何年も言われ、事実みんなその瞬間を待ち望んでいた。だというのに、と言うほかない。われわれが悲しむべきは、待ち焦がれた悲願と、叶えられるやもしれぬ現実と、しかしそこに現れることのない彼の本質との落差である。いざ現実に巡ってきたチャンスでは得点以外にチャンピオンを証明できるものがなにもないほどの怠惰なドライバーに堕してしまった皮肉を眼前に突きつけられて、現状の無惨さが際立ってしまう。それを不幸と言わずしてなんと言えばいいのか。
仮にこのままカストロネベスが2013年を逃げ切ることになったとしてもそれは浅薄な勝者にほかならず、もし臆病なままに逆転を許して終わるようなことがあればただの愚かな敗者となることは明らかだろう。そのどちらもが望まれる結末でないことは論を俟たない。ならばこそ、われわれはうわべの戴冠ではなく名誉を守るために、カストロネベスが最終戦までにいまの地位をいったん退く、退きかける儀式が執行されることを願う必要がある。恐れを払いのけてリスタートのターン1に向けて深く飛びこんでいく彼を呼び覚まし、勇気とともにシリーズを制する姿を見届けられるように、あるいは、勇気とともにシリーズを失う姿を見つめられるように。