【2015.5.24】
インディカー・シリーズ第6戦 第99回インディアナポリス500マイル
いまこの文章を日本に帰国する飛行機の中で書き出している、などと少々格好をつけて綴れようとは、去年ライアン・ハンター=レイがインディアナポリス500を制したときには露ほども考えていなかった。3泊の米国滞在を終えた体は芯から疲れが滲み出てくるようで、まだ12時間以上続く飛行中のほとんどのあいだ、この狭いエコノミークラスの座席で眠ってしまうだろう。機内ですばらしい2日間の体験を最後まで書き上げることはきっとできないが、ともかくわたしは、少なくない量を記してきたインディカーの記録に、空の上で1ページを加えられる幸運に恵まれたのだ。
事の起こりは、昨年、ツイッターでお互いにフォローしているクル氏@Sdk0815がインディ500を観にいくことを決め、実際にフォンタナへ赴いてMAVTV500を観戦した顛末をツイートしている際、話に反応したわたしに対してふと「行かないんですか」とうながしたことだったかと思う(そのあたり、時期の記憶は定かでない)。正直なところ以前から迷いはあり、行きたい気持ちは大きい一方で、英語を読むことはできても書くのはまったくおぼつかなくて、聞く・話すなど絶望的なわたしの語学力ではぶじに旅ができるかどうかさえ不安だったし、まして米国は未経験の国で、何が起きるか想像もつかなかった。せめて妻が一緒ならとも考えたが、夫の比でなく多忙な彼女を1週間近く海外に連れ出すなど不可能なのもわかっていた。
それでも行こうと決意してしまったのは、というと葛藤の末になにかを乗り越え、決定的な理由を導き出したような印象を与えるが、実際のところ決め手などまったくなかった。強いて言えばそれがインディ500だったからというほかない。あるいは自分の青春に対する責任でもあっただろうか。テレビで偶然にもCARTを見て米国のレースに心を打たれたのはまだ中学生だった20年も前のことだ。以来、興味の対象を同じくする友人はひとりとしてあらわれず、だれともそれについて語らえぬまま10代を過ごし、グレッグ・ムーアの事故死にひっそりと涙を流す少年時代を送ったのである(F1が趣味の親友も、残念ながらインディ/チャンプカーまでは守備範囲外だった。当時ツイッターがあったらどんなによかっただろう)。ブリックヤードの愛称で知られ、米国レースの故郷であり、中心であり、象徴であるインディアナポリス・モーター・スピードウェイは、だからわたしの青春が向かう先でもあった。かの地に対する憧憬はつねにあり、それがオンラインでしか会話を交わしたことのない人に誘われたことで急に具体的な形をとったというわけなのだろう。やがてなんとなく、自然に、自分は5月になればそこにいるのだろうと納得していた。具体的なだれかを見たいわけでもない。佐藤琢磨の応援を目的としようというのでもない。ただわたしにとって、インディ500の中にいるという事実が必要だったのである。
心を決めてしまえばあとは動くだけで、IMSのウェブサイトからターン4を正面に見るスタンドの一角の席を買い、苦労しながら航空券とホテルを手配した。日本からインディアナポリスへの直行便など当然なく、乗り継ぎも効率が悪かったためにシカゴ・オヘア国際空港でレンタカーを予約し、府中の運転免許試験場へ出向いて国際免許証まで取る。帰国する日の朝にインディアナポリスからシカゴまで走らなければならないので、チェックアウトの時間を確認するためホテルにメールで問い合わせもした。そうこうしているうちに2015年のインディカー・シリーズが開幕すると足早に開催は重ねられ、気づけば5月の半ばを迎えていたのだった。まだ不安を抱えて緊張しながら日本を発ったのは5月22日の金曜日だ。天気予報はレース当日に強い雨が降る可能性が高いことを示していた。
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それにしても、シカゴに着いて早々、レンタカーの受付待ちで図らずも遭遇したのが武藤英紀なのだから、この旅は最初から幸運だったのだろう。かつてインディカーに参戦し、今回のインディ500を訪ねようとしていた――主目的がどういうものかは知らなかったが――彼は、移動中という完全に個人的な時間であったにもかかわらず、不躾に声をかけた日本人に快く応じて右手を差し出し、あまつさえ一人でインディアナポリスまで運転しようとしているのを見て取って「気をつけてください」と道中の無事を祈ってくれた。正直なところ突然の遭遇に舞い上がって気の利いたことはなにも言えなかった(GAORAの解説に来ると雨でレースが延期になることを引き合いに「降らせないでくださいね、武藤さん」などと冗談を飛ばせればよかった、ということもないだろうが)のだが、異国の地で尊敬の対象であるレーシングドライバーと言葉を交わせたことで、旅の前途に光が射したように思えたものだ。
翌朝、インディアナポリスまでの道のりはひたすら退屈で、米国らしくところどころコンクリートで舗装されたがたがたの州間高速道路65号線を、借り受けたシボレー・クルーズに乗って70mphで抑揚なく走っているうちになんの物語もなく着いた。道の途中で標準時間帯が変わって気づくとiPhoneの時計は1時間進んでおり、高速道路を降りるころには正午前になっている。投げ捨てたくなるほどわかりにくいカーナビを無視し、中心部に向けて東バーモント通りを走るとユニバーシティ・パークの周囲が閉鎖されており、騎馬隊の姿が見えてパレードが行われる雰囲気に満ちていた。もともと時間的にパレードを見るのは難しいと思って下調べせずインディアナポリス入りしたので、この遭遇もまた大きな幸運だった。交通規制にしたがって北デラウェア通りを右に曲がると1回15ドルの民間駐車場(イベントに際して近所の民家が土地の時間貸しに走るのはどの国も変わらないのだろう)にと折よく空きがあったのですぐさま車を止め、人波をかき分けて――と言ってみるものの、想像したほど混んでいたわけではない――公園の中へと歩を進める。
地元の高校生と思しき若者たちの出し物や、ブラスバンドの行進、スポンサーの露出がひととおり過ぎると、翌日のスターティンググリッドの逆順で、シボレー・カマロのコンバーチブルに乗った出場ドライバーたちがゆっくりと公園周りの道路を回りはじめる。24番手スタートの佐藤琢磨が目の前を通る際、すでに恋しくなりつつある日本語で声援を送る。唇が「ありがとう」と動いたのがわかる。予選6列目の紹介で歓声が大きくなるのは昨年優勝したハンター=レイが登場したからだ。ファン=パブロ・モントーヤもなかなか人気が高い。4列目にはエド・カーペンターが妻子とともに手を振りながら近づいてくる。昨年と一昨年のポールシッターに対して敬意を込めて名前を呼んだところ、なぜかとびきり美人な奥さんのほうがThank you.と目を合わせてくれた。3列目のジョセフ・ニューガーデンの認知度は初優勝したばかりにもかかわらずまだかならずしも高くないようだが、これまで書いてきたようにわたしにとってはもっとも敬愛するドライバーで、周囲の薄い反応に焦れて名前を叫びながら親指を立てると、同じようにこちらに親指を向けてくる。2列目スタートのドライバーとしてエリオ・カストロネベスとトニー・カナーンのブラジル人ふたりが現れると同時にひときわ大きな歓声が上がった。
直後のことだ。現役を退いてからの長い時間を示すふくよかな体を青いシャツで包んだ老人が、同じようにカマロに乗って拍手に応えながら近づいてくる。その銀髪と、皺の刻まれた穏やかな笑顔を認めて、わたしは信じられない気持ちで居住まいを正し、直立した。アル・アンサーがいる。手を伸ばせば届く距離にいる。その事実だけで涙が出そうになり、思わず手で口を覆った。もちろんいま75歳になった老人の現役時代を知っているわけではない。彼が最後にインディ500の決勝を走ったのは、わたしが見はじめる少し前の1993年のことだ。優勝となればそこからさらに6年を遡らなければならない。だがその名声は息子の活躍を通じて子供だったわたしの心にも深く刻み込まれており、長じて多少なりとも歴史に詳しくなれば偉大な経歴に対し畏敬の念を当然に抱きもする。40歳でCART-インディカーに移って通算4勝、チャンピオン2回。それ以前からずっと参戦していたインディ500では最多となる4度優勝した3人のうちの1人であり、連覇を経験した5人のうちの1人であり、その両方を達成した史上唯一のドライバーである。29年間で通算4356周を走行し、うち644周のラップリードはいまだだれにも塗り替えられていない記録として輝く。434周で現役最多のスコット・ディクソンがもう1レースまるまるリードしてもまだ届かないほどの記録だ。そのアル・アンサーが、憧れの地でもっとも成功した、雲の上の存在だった伝説が、目の前でにこやかに手を振っている。表情が読み取れるほど近くにいる。インディアナポリスに来たのだという確信が広がって、わたしは手を叩いた。雲ひとつない快晴の下、それから最前列に並ぶシモン・パジェノーとウィル・パワー、そしてポールシッターのディクソンがやってくるまで、ずっと拍手を続けた。
夕方になって市内のホテルにチェックインするとき、同い年くらいと思しきスタッフに日本から来て英語はあまり得意ではないんだというと、彼はぜんぜん問題ないと笑い、重ねて500かいと尋ねてくる。もちろんと答え、米国に来るのもはじめてだけど、すばらしい経験をしていると付け加えた途端、そりゃあいい、歓迎するよと両手を広げる。そのやりとりを隣で聞いていた白髪の翁がこっちを見てウインクし、俺は43回目だ、よく来たなと右手を上げた。すばらしい、信じられない、とわたしはその手のひらに自分の手を打ち付けてハイタッチを交わす。彼は楽しんで、と高らかに言い、友人と連れ立って外へ出て行った。部屋に入るとようやく緊張が解けて思わず眠りそうになるが、クルさんと夕食をともにする約束を昼間にしている。iPhoneを取り出してツイッターを起動し、ダイレクトメッセージで到着した旨を告げる。
日本ではオンラインでしかやりとりしたことのない日本人同士が、米国の、それもさほど大きくない町ではじめて会うというのも不思議なものだが、少し年上のクルさんは普段のつぶやきから想像していたとおりの物腰柔らかい紳士(と旅の終わりに本人にそうメールすると彼はただのおっさんですと笑うのだったが)で、中心部のレストランでやたら量の多いクリスピーチキンとハンバーガーにふたりとも若干辟易しつつ、翌日の展望や昔のレースの思い出から、佐藤琢磨への期待、米国について、仕事についての話まで途切れることなく盛り上がる。会う前は初対面の人といったいどう話せばいいものかと緊張していたのに、おなじ趣味とは強いものだ。クルさんはまだIMSでF1アメリカGPが開催されていたころに見に来たことがあるというが、そのときとは雰囲気がまるで違うらしい。やはりインディ500に来ているのである。ふたりの心配はなにより天気だが、予報は当初よりちょうど一日ずれて、雨は月曜日からになるだろうと変化していた。
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ありがたいことにクルさんがホテルまで車で迎えに来てくれて、いよいよIMSへ向かおうかという日曜日の午前8時前、しかし空はどんよりと曇っていた。予想どおりの大渋滞にはまり、1時間で1マイルしか進まない車列のなかで悶々としているうちに、降水確率0%の予想はあっさりと外れ、ついに雨が降ってくる。ワイパーを動かさなければならないほどの降りで、これが続けば当然レースなどできようはずがないが(いつかのパワーみたいにならなきゃいいけどと両手の中指を立てる仕草を車内で真似てふたり笑ったのだが、見咎められて誤解される可能性を考えればこれはけっこう危ない真似だった気がする)、祈るように検索して雨雲レーダーを見つけると雲の塊は頭上にあるそのひとつだけで、西の方はなにも映っていない。実際、なかなか近づいてこないサーキット上空は雲が切れかけていて、開催を危うくするほどの雨にはなりそうもなく、安堵する。
サーキットの前まで来ても駐車場まではまだ遠く、渋滞の列はとぎれない。交通整理のスタッフに渡された地図ではかなりの迂回を求められている。先に降りて博物館の見学や土産の物色などをしてくださいというクルさんの言葉に、悪いと思いながらも甘えさせてもらい、博物館に近い南のゲートから入場した。午前9時15分、とうとうこの時が来る。地下通路をくぐって足を踏み入れたIMSのインフィールドに立ち尽くすと、もう言葉は出てこなかった。目の前の博物館の建物はところどころに錆びが浮いているなど案外古びていて、入り口のガラス扉など少し白く焼け濁っている。もちろん自動ドアなんていいものはついていない。その正面には星条旗とレーシングフラッグが整然と掲揚されている。向かって右から黄、黒、赤(この2つは使われないでほしいものだ)、チェッカー、青、白、緑。振り返るとオーバルコースに沿って広がるスタンドが、少しずつ青さを取り戻しつつある空にむかって伸びている。雲は急激な速さで北東へ向かって流れ、日差しが強くなってきていた。風が強い。列に並んで博物館に入り、受付で8ドル支払う。どこにも入館料が書いておらず、聞くまで値段がわからないのは米国らしいのかどうか。しばし歴史に身を沈め、2011年にダン・ウェルドンが優勝したときの車に追悼して外に出た。ウェルドンはその年の最終戦で事故によって亡くなっている。
上には上がいるもので、博物館を出てから40分かけてようやく着いた席の左隣に座っていた婦人とちょっとした自己紹介を交わした後に、自分ははじめて来たんだけどと水を向けてみたところ、なんと56回目の観戦だという。半世紀以上、それこそ昨日拝むように見つめたアル・アンサーも、おなじく4度の優勝を誇るA.J.フォイトも、マルコ・アンドレッティの祖父であるマリオも、彼女の歴史の中で扱えてしまうということだ。グレートだのエクセレントだのと思い浮かぶかぎりの賛辞を口にして握手してもらい、会話を続ける。日本でもインディカーは人気なの? 彼女が尋ねている内容はなんとかわかる。率直に言って、あまり知られてないと思う。でも熱狂的なファンはいる。佐藤琢磨が走っているおかげかもしれない。あなたもやっぱり佐藤の応援に? それもないわけじゃないけど、とわたしはたどたどしく返事をして、20年前にはじめて日本のテレビでインディカーを観てマイケル・アンドレッティを好きになったことや、ずっとここに来たいと思い続けていたことをどうにか伝える。彼女は頷きながら下手な英語を理解しようと努め、最後にわたしがMy dream has come true today.と告げると、それはとても素敵な日よ、とハグしてくれる。やりとりが聞こえていたのか、前の席の男性が振り返ってハイタッチを求めてきた。と、小気味よい音とともにわたしと手を合わせた彼は隣に座る「Mrs. 56th」の顔を見て驚き、去年も会ったのを覚えていないかと興奮気味に質しはじめる。何十万と観客がいる中で信じがたいことだが、毎年来ていればそういう偶然も起こるのだろう。ふたりが盛り上がり、会話の主役から退いたわたしは厳かな気持ちでオーバルコースを見渡す。ターン3から目の前のターン4、ホームストレート。遠くに聳えるコントロールタワー「パゴダ」は仏塔の意味が示すとおり日本風の建築だと博物館の映像で説明されていた。小さく佇む順位表示塔の向こうには、昨年決着の場となったターン1が霞んでいる。やがてペースカーの運転を担当するNASCARの伝説ジェフ・ゴードンが登場した。会場が揺れるとともにドライバー紹介が始まり、全員が立ち上がって声援を送る。
最初の組にライアン・ブリスコーが現れたと思ったら、Mrs. 56thが妙にはしゃいでいる。レース中も指差し確認しながらなにかをチェックしているから思い切ってだれを探しているのか訊いてみたら新聞を指してブリスコーがどうなっているか知りたいと言うのだった。どうやら贔屓のようで、金色の車が前を通るたびに右手を挙げている。たしかにオーバルレースで観客席にいると状況把握は難しいから、iPhoneでライブ・タイミングを開いて見せ、今21位で、ジェームズ・ジェイクスとジャック・ホークスワースの間を走っている、悪くないペースだと教えると満面の笑みで感謝され、ようやくこの旅でなにか一つ返せたような気になる。彼女は新聞を片時も離さず、リタイヤしたドライバーにいちいちバツ印をつけながらレースと真剣に対峙していて、56回の重みを垣間見る。
24番グリッドの佐藤の名が呼ばれてふたたび前の男性とハイタッチし、健闘を願う。彼は1周目に佐藤とセージ・カラムが衝突した際にも振り返って「カラムがドアを閉めやがった」(「やがった」と書くのは翻訳の暴力かもしれないがそう聞こえたのだ)と憤慨し、レース中はずっとラジオを聞きながら、事故の影響で周回遅れになっていた佐藤が何度目かのフルコース・コーションを利用していよいよ最終盤にリードラップを取り戻そうとしていたとき、Sato is back to lead lap. Hes very fast! と親指を立てた。最初はこちらが日本人だから寄り添ってくれているのかと思っていたところ、その喜びようを見るにどうやら彼自身が佐藤のファンだったらしい。佐藤のレース自体は女神に微笑まれず終わってしまったが、巡り合わせばかりは仕方のないことだろう。カラムとの事故にも言いたいことはもちろんあるものの、3周遅れの32位から13位まで順位を上げた努力は讃えられるべきに違いない。中南米系の顔立ちをした右隣の席の男性が、モントーヤが紹介されるとなにが気に入らないのか小さくブーイングの声を上げる。彼はレース後憮然とした表情で席を立ち、勝者だけに許される牛乳を飲むモントーヤの映像に目もくれず出口に向かって歩を進めることになるわけだ。昨日のパレードと同様に一番人気はカナーンで、名前の発表とともに大歓声が巻き起こった。レースでもオーバーテイクを成功させるたびにみんなが右手を上げて歓喜を表している。2時間半ほど後、残念ながらターン4でセイファーウォールの餌食となり、ちょうどわたしがいる場所の目の前で止まってしまうことになるのだが、彼は車を降りても変わらずヒーローで、盛大な拍手に包まれレースから去るのだった。
グリーン・フラッグは間近だ。ディクソンまで紹介が済んでしばらくすると陸軍関係者のスピーチがあり、フローレンス・ヘンダーソンが「God bless America」を歌い上げて、翌日の戦没将兵追悼記念日に向けた式典となる。異国――かつて戦争をした、現在の同盟国――の兵士たちに敬意を払うべく、帽子を脱ぐ。司教らしい人の話はなにを言っているのか半分もわからなかったが、追悼の礼くらいはわきまえているつもりだ。このころには雨の心配どころか強すぎる日差しに難儀するほどで、事実帰国して風呂にはいると皮膚が大いにしみた。場内アナウンスが聞こえて、これから国歌独唱があり、ターン3の方角から航空機がフライバイするというが、実際にA-10サンダーボルトが飛来してきたのはわたしの真上、ターン4方面からだった。
そして、もしかするとレースよりも待ち望んだ瞬間がやって来る。スタートコマンド直前に歌われる「Back Home Again in Indiana」の調べが耳に届いて、わたしは涙を堪えられない。引退したジム・ネイバースに代わって登場したコーラスグループ「ストレイト・ノー・チェイサー」のア・カペラ・アレンジに合わせて旋律を口ずさむのは難しかったが、それでも唇を動かしていると、Mrs. 56thがわたしの背中をぽんぽんと叩く。back homeではない。againでもない。ウォバッシュ川を照らす月明かりを夢に見ることもできない。だがいまこうして、インディアナに、憧憬のブリックヤードに、20年を経て辿りついたのだ。「Then I long for my Indiana home」と歌い終え、拍手の中で目元を拭うわたしのI’m glad to be here.という言葉に、彼女は本当によかったわと笑いかける。スタートコマンドのために年老いたマリ・ハルマン・ジョージが現れた。もうすぐエンジンに火が入り、99回目のインディ500が始まろうとしている。
【謝辞】
本文中にあるとおり、今回の旅は「クル」さん@Sdk0815にきっかけを頂戴して(ご本人いわく「焚き付けて」)実現し、また現地でもはじめて米国を訪れるわたしを気にかけていただき、ホテルからサーキットへの移動をはじめたいへんお世話になりました。もちろんご本人には直接お礼を申し上げましたが、この場であらためて感謝の意を述べたいと思います。書いたようにツイッター上で素敵な人柄を忍ばせる氏は、実際にお会いしても印象が変わることのないすばらしい方でした。ほんとうにありがとうございました。