【2015.5.9】
インディカー・シリーズ第5戦 インディアナポリスGP
21世紀におけるインディカーのシリーズ・チャンピオンは例外なくその後あるいはその年にインディアナポリス500マイルを優勝していると書いたのは昨年のことだが、その意味では今年のインディアナポリス・モーター・スピードウェイ=ブリックヤードのヴィクトリー・レーンで牛乳を飲むのはウィル・パワーだろうかと想定してもよい。オーバルコースを苦手とする印象も今は昔、一昨年のフォンタナは類を見ないほどの圧勝劇を演じたのだったし、昨季もシーズンの押し迫ったウィスコンシンで強すぎるほどの優勝を遂げて、過去数年にわたって阻まれ続けてきた王座を自らの下に手繰り寄せた。もとよりロード/ストリートコースの帝王として君臨しつづけてきたパワーにとって、もはやインディカーでやり残したことはたったひとつだけになり、そしてそのための準備はすべて整っているようだ。彼がインディ500を制したとき、ひとりのドライバーの完璧な最後の一頁が書き上げられる瞬間を全員が目撃することになるのだろう。
仮にそうなったとしたら、それはできすぎな美しい物語のように思える。一片の才能を武器に頭角を現した若者が、しかし致命的な弱点を抱えていたために強敵の前に何度も敗れ(パワーの王座を最終戦のオーバルレースで攫っていったのはいつもダリオ・フランキッティだった)ながら、やがて成長してついに悲願を達成する。そして挑む最後にして最大の栄誉、聖地への旅路――なるほどあらすじだけなら呆れて苦笑いを喚起しそうなほど王道を行く英雄譚が書けそうだし、若さを失ったパワーの時代に一区切りをつけて、新たな主役に目を向けることをインディカーが望むのなら、結実としてそうなるべきであるかもしれない。われわれはいつか新しい本を書かなければならなくなる。
とはいえ、目の前にいるのはウィル・パワーだ。インディカーで積んできたキャリアのあらすじだけ辿ればたしかに英雄的な物語を読み取れそうなのに、ドライバーとしての実像の――太平洋を挟んだ国からテレビを見ているだけで実像もなにもないものだが――パワーに美しいお伽話を一貫して完結させるような解釈は通用しそうにない。勝ったレースはしばしば完璧すぎるほど完璧で、対抗できる敵などひとりもいないように見えるのに、翌週には無意味に細いロープを渡ろうとしてあっさりと踏み外す。そういうドライバーであるパワーに、どうも英雄譚は似合わない。
とびきり速いドライバーであることはたしかだ。現在のインディカー・シリーズでもっとも速いと言っても、それほど多くの異論は出まい。ブレーキングはだれより深く、それでいてコーナーの頂点を外さずに捉える。ステアリング捌きは見た目に滑らかでいて力強さを内包し、後輪が暴れても正確な反応ですぐさま修正舵を当て過不足のない駆動力を車から引き出していく。ときどき愛嬌が過ぎてカメラ越しもわかるほど失敗することもあるが、目立つのはそういった場合だけだ。速いときのパワーは概して静かに後続との差を広げていく。
静謐な速さはレーシングドライバーのだれもが欲する最高の才能だ。当たり前のように先頭のグリッドからスタートして、背中を脅かされることもなく、しゃにむに前を捉える必要もなく、涼しい顔でリーダーに居座り続けるドライバーがいたとすれば、その他が対抗する術は偶然以外に存在しない。インディカーのパワーが勝つとき、彼は明らかに優勝への最短経路を知悉しているように見える。なのに、だ。にもかかわらず、精神状態が露骨なほど表情に浮かび、心の制御を苦手としていることを容易に想像させるこの34歳は、事実そのとおりであるらしく、しばしば破滅的で、狂信的で、滑稽で、無様な敗北の途へと自らの身を投じる。ステアリングの操作に粗さが目立つようになり、到底曲がれるはずのない角度でコーナーに進入しようとし、得意の深いブレーキングは手遅れになるほど深く入りすぎて前の車を撥ね飛ばす。そういった姿を見たのは一度や二度ではない。昨年レース中に科せられたペナルティはシリーズ・チャンピオンとしては不名誉なほど多く、6回を数えた。それでも選手権を譲らなかった事実は驚嘆に値するとしても、彼が弱点を克服して頂点に届いたのではなく、弱いままで王者となったことは間違いない。今季に入ってもすでに失態を演じている。アラバマの19周目、ピットアウトと同時にターン2のクリッピングポイントへと粗雑に寄っていた彼の目に、ごくごく普通に走ってきた佐藤琢磨の姿はまったく映っていなかったようだ(結果として、相手のレースは台無しにするが自分はちゃっかり上位に戻る得意な展開に持ち込んだのだが、ゴール後に映像を見せられたときはさすがに悪びれた様子だった)。
インディ500を前にしたいま、はたしてどちらのウィル・パワーが現れるのか想像もつかない。とりあえず、インディアナポリスGPでは完璧なほうのパワーだった。ポールポジションからのスタートは直後の多重事故に巻き込まれる危険からもっとも遠く、3周目以降は一転してゴールまでフルコース・コーションが一切入らなかった純粋なレースを、それが自分にとって当たり前の日常だと言わんばかりに、波乱の匂いを消し去って逃げ切ってしまう。ラップリードは82周中65周、54点満点はひたすら優雅だ。
とくに、63周目以降のレース支配は特筆されるべきものがある。2週間前に終盤の圧倒的なハイペースでジョセフ・ニューガーデンの心胆を寒からしめたグレアム・レイホールが、またしても2位に浮上してパワーを凌ぐラップタイムを刻みはじめたとき、もう7年も遠ざかっている優勝に手が届きそうに見えた。1周1秒弱、ときには1.5秒。それほどの勢いで差が縮まっていけば、だれだって攻略は時間の問題だと思う。テレビの実況も含めて、見所の少なくなっていたレースにパワーの強さの打破への期待も相まって、レイホールの追走に期待の眼差しを向けたのは無理からぬことだろう。
だが静かなときのパワーはいつまでも静かだ。レースに激しい攻防の火がつくのを予感させていたレイホールがいよいよ2秒差にまで迫ってきた瞬間、あたかもそこに物理的な不可侵領域があると錯覚されるほど2人の距離が固定された。レイホールのタイヤ性能が劣化した面もあったろうが、パワーは背後に迫る影を十分に引きつけつつ、それ以上は一歩も間合いを詰めることを許さなかったのだ。それまでの勢いの差が幻だったように2人のラップタイムはおなじ数字を刻み、そしてそれはチェッカー・フラッグまでなにも変わらなかった。直前まで渦巻いていた熱量は急速に去り、拍子抜けするほど静かにレースは終わった。
レースを支配する、とはこういうことをいうのだろう。序盤から中盤にかけて適切な差を築き上げ、ゴールにかけては闇雲に走るのではなく、速さの使いどころを厳選して間違わない。抵抗を諦めないドライバーの姿を見て無責任な観客が期待する熱にひたすら水をかけながら、冷たく、静かに、そっとレースを閉じる。過去にはセバスチャン・ベッテル、ここ2年はメルセデスAMGチームが席巻するF1なら珍しくもない光景だが、運の要素を排除しないインディカーでは容易ならざる仕事だ。それを特別でもなくやってのける数少ないドライバーがパワーという人で、だから彼はインディカーでもっとも速いのだと言い切れよう。少なくとも、インディカーのサイコロを振った場合にウィル・パワーの目は出やすいようにできている。
だとしたら――。5年前なら、インディ500をウィル・パワーが勝つなんて予想は一笑に付される程度のものだった。だがシリーズ・チャンピオンとなり、ブリックヤードを舞台とするインディアナポリスGPを勝ったいま、いよいよ100年以上の歴史を誇るそのレースの大本命だと言い切れるようになっただろうか、といったところで思考は巡っていく。自分の勝利のためにレースの熱を鎮める沈着な火消しである一方で、彼はいまだ粗暴な放火魔としての一面を残している。だからやっぱりわからない。たしかにインディアナポリスGPは今季のすべての優勝のうちでもっともドライバー個人の力が優れて見えた完全さを備えていた。だれかに真似をしてみろといってもチームメイトですら難しく、おなじように振る舞えばインディ500だってあっさりと、熱量を奪いながら優勝してみせることができるはずだろう。それはレース、あるいは選手権という営みの一貫性を信じるかぎり、ごく自然な予想であるに違いない。しかし、だとしてもだ。圧勝した次のレースで静かな自分を忘れたように童顔の裏から悪魔を覗かせるウィル・パワーを知っているかぎり、そう言い切るには少しばかり勇気を要しそうである。