【2014.6.28-29】
インディカー・シリーズ第9-10戦 ヒューストンGP
モータースポーツの置換不可能な単独性が、スタートからフィニッシュまでを最も速く走るために合理化された高度な反復にあるのだとすれば、レースの未来は反復を乱すあらゆるありふれた事件によって差異化されるのだ、と言うことが可能かもしれない。その過程で仮に「ありえたかもしれないもう一つの未来」といったものを想像するならば、たとえばヒューストンの2日間は酷似したふたつの事故を並べることで、レースにありうべき可能性を実際に出現させてみせたのだと思えてもくる。
つまりこういうことだ。土曜日に行われたレース1の33周目に発生した佐藤琢磨とミカエル・アレシンの、また翌日レース2の49周目に生じたエリオ・カストロネベスとセバスチャン・ブルデーの事故は、それがサーキットではごくごく一般的な失敗であることを証明するかのように、まったく同じターン6で、ともに序盤のリーダーが失速した結果2位走行中に後続から追い立てられていた最中という、そっくりな状況でもたらされた。先行車が後続のフロントにかぶせるようにしてアウト側のウォールへと追いやった見た目もよく似ていたこの事故によって、レースはチェッカー・フラッグへ向けてまったく正反対の道へと分かれていったのである。戦略かスピードか。同じ事故から分岐した2人の勝者が見せた異なる性質、カルロス・ウェルタスの抑制とシモン・パジェノーの奔放は、ふたつのレースが迎えたそれぞれの結末ではなく、あたかもひとつのレースが現実に分岐し、具現化したかのようだった。おなじ連なりの中で幾通りもの結果を示唆することがダブルヘッダーの価値だとするなら、ヒューストンの週末はまちがいなく成功に終わったのだった。
日曜日のレース2でシモン・パジェノーが後続につけた7.2622秒の差は、その稀有な才能をまたしても証だてるものだったと言える。ヒューストン市街地コースのそこかしこに設置された高い縁石を、障害など最初からないかのように静謐に踏み越えていくさまは、2年前に、やはり難しい縁石が備えられていたはじめてのボルティモアで3位表彰台に登ったときに見せたのとまったく変わることなく、だれよりも美しく魅惑的な光を放った。ボルティモア、デトロイト、ヒューストンなど、グリップレベルが低くバンピーなコースを迎えたとき、このフランス人からは一時たりとも目を離せなくなる。まるでひとりだけ特別なサスペンションが付いていると錯覚させるほど、彼はブレーキングで荒れた路面を確実に掴み、他のドライバーが不安げに姿勢を修正するコーナーを悠然と通り抜けていくのだ。破綻の予感をほとんど抱かせない静かで滑らかなコーナーワークこそ、弱小チームのひとつと言っていいシュミット・ハミルトン・モータースポーツでわずか1年半のうちに4勝を挙げた要因であることに疑いの余地はない。おなじ期間にそれより多く優勝したドライバーがウィル・パワー以外にいないといえば、パジェノーがやがて手にすべきものの大きさがわかるだろう。49周目から90周目までを一切の危機にさらされることなくリードしきったそのスピードは、彼に選手権を与えることこそインディカー・シリーズの成功なのだとまで確信させる力がある。
翻って土曜日のウェルタスの勝利が何かを証明したとは、なかなか言い切れそうにない。GAORAの中継で村田晴郎が何度も言い間違えたことからも窺えるように、「コロンビアの新星カルロス」といえば昨年のインディアナポリス500からしばしば才能を見せているムニョス以外なかったのが、どうやらもうひとり無視できない存在がいるらしいということはわかった。顔が少しロバート・クビサに似ていることにも気づく。「現在のリーダー」としてその名前が長い間画面に表示されていたおかげで、WeltasでなくHuertasというけったいな綴り――いやもちろん、たんにスペイン語なだけなのだが――であることも覚えた。だがそれだけだ。予選19番手でスタートした彼は48周目に導入されたフルコース・コーションのあいだに給油を済ませると、そこから一度も止まることなくフィニッシュへと辿りついた。その事実はもしかすると燃費走行ができる繊細さと賢さを示したことにはなるかもしれないが、第一にそれは羨望に値する得難い能力というほどではなく、第二に燃料は尽きてしまったもののおなじ作戦でより前にいたのはチームメイトのジャスティン・ウィルソンであり、第三にウェルタス自身も雨でレースが10周短縮されなければ確実にウィルソンと同じ結末を迎えていたと考えれば、やはり特別と名付けられる走りはなかった(しかもレースの4日後には車輌規定違反が判明してせっかくの初勝利にケチまでついたのだ)。作戦と堅実さを噛み合わせて勝利を持ち帰ったことは純粋に讃えられるべきではあるものの、その裏に何よりも大きな要因として幸運があったことは、ウェルタスの今後を予想するうえでどうしても雑音になってしまう。翌日のパジェノーが運をほんのわずかも必要とせず、その圧勝にクリアな未来を夢想できたのとは対照的だ。
そうしてみると、この週末におけるそれぞれの走りの強度はまるで違っている。しかしだからといって、もちろんそれは「この1回」における彼らの優勝に価値の高低があるということを意味するわけではない。以前にも書いたように、敗北は自らの走りの質によってその意義を示さなければならない無二の精神であるのに対し、勝利はただただ首位でゴールしたという事実を誇ればいい具体的な結果だからである。いくつかの偶然を味方につけたウェルタスと、なんらの偶然を頼ることのなかったパジェノーは、にもかかわらず勝利というひとつの記述によって同列に語られなければならない。
そして、対照的であったひとつずつの勝利を等しく捉えて互いに結びつけようとするとき、脳裡に浮かんでくるのはあのターン6以外にないだろう。レースは、あそこで起きた2件の事故によって2つのルートを選択し、それぞれ結末へと辿りついた。まだ証明されぬ才能が拾う勝利にも、証明済みの才能がいただくチェッカー・フラッグにも、レースは本当に分岐しうるのだ。そのことをより強く印象づけたのは、ターン6が、ほんらい一回きりであるはずの事故をおなじように繰り返すことでそこが分岐点であることをあからさまにしたからに他ならない。ヒューストンの2日間はターン6を特異点として、レースの、インディカーのありうべき可能性、それも「レースではどんなことでも起こる」といったアフォリズムめいた空言などでなく、実際の質量を伴うたしかな現象としての可能性が、つねに選ばれる瞬間を待っているのだと、われわれに教えてくれたのである。