259周目のラップリード

2013インディカー・シリーズ第5戦:第97回インディアナポリス500マイル
2013年5月26日

 低い気温と高い湿度のために重たくなった空気を押しのけられるクルマは1台もなく、このレースを最後にパンサー・レーシングとの契約を打ち切られることになるJ.R.ヒルデブランドのクラッシュによって導入された最初のフルコース・コーションが明けると、マルコ・アンドレッティとトニー・カナーンがお互いにお互いのドラフティングを使って何度も先頭を譲り合う展開となる。それはオーバルコースのレースではしばしば見られる示し合わされたリードチェンジに過ぎなかったが、だとしてもインディアナポリス500マイルという伝統の舞台で演じられるにはずいぶん露骨で、ずいぶんと穏やかな茶番だった。向かい風で速度が伸びないターン1でリーダーがインサイドを明け渡すシーンが1回めの給油タイミングまで20周以上にわたって繰り返されるうちに、レースに対する集中力が緩んだのかもしれない。F1モナコGPからずっとテレビの前に座り続けていたわたしはふと一昨年のアイオワのことを思い出していた。セブン – イレブンという巨大なスポンサーを失ったカナーンがアンドレッティ・オートスポートからKVレーシングテクノロジーに、つまり現代のインディカー・シリーズにおいては勝ち目のないチームへと移り、対してあいかわらずAASのシートに座りつづけるマルコの才能がどうも最初に期待したほどではないかもしれない、ということが十分すぎるほど理解されてきていた2011年の夏に、2人は一度だけ優勝を争った。241周目にインサイドを狙ってきたカナーンのラインを強引に閉めてスロットルを緩めさせたマルコが5年ぶりにキャリア2勝目を挙げたあのアイオワの空もまた、夜の闇のために直接うかがい知ることはできなかったが、すぐにでも雨を降らせんばかりの雲に覆われていたはずである。レースが終わると、カナーンは少しばかり危険なブロックで勝利を持ち去っていったマルコに対して、今回は許すとばかりに笑顔で肩を叩いていた。

 当時のわたしには、たとえ当人同士がそう思っていなかったとしてもそれが物悲しい光景に見えたものだ。2人はマルコがインディカー・シリーズに登場した2006年、アンドレッティ・オートスポートがまだアンドレッティ・グリーン・レーシングだったころから5年間をともに過ごしている。その時代の彼らを比較するのはほとんど野暮というものだ。デビューイヤーのマルコはインディ500を100分の6秒差で逃し、ソノマで最年少優勝を遂げるなど鮮烈な印象を残したが、結局はたまに速いが荒っぽく勝てないドライバーにしかなれなかった。チームメイトがシリーズチャンピオンとなった昨季、1勝もできないままその60%のポイントも取れずにシリーズ12位に終わった結果は、彼の能力を端的に証明しているといってもいい。対するカナーンはマルコがもっとも輝いていた2006年を含めて、すべてのシーズンでマルコを上回るポイントを稼ぎ出した。自分がチームオーナーならどちらを選ぶか、悩むまでもないだろう。それでも2010年が終わって彼らが別の道を歩むことになったとき、チームを離れたのはカナーンのほうだった。

 もちろんAASにまつわるドライバーの動き自体は、さほど特別な話ではない。それまでもこの名門には何人ものドライバーが所属して、その多くが違うチームへと移っていった。たしかに当時カナーンが失ったスポンサーは大きかったから、しばしば運転に金の必要なモータースポーツの中にあってはしかたのない離脱だった。ただ同時に、そういう問題だけではないことも察せられたはずだ。2006年以降、AASには去らなかったドライバーが1人いる。そう、マルコ・アンドレッティだけは、出ていく同僚に別れを告げることしかしてこなかった。結局のところ、根本的で覆せない事実として、マルコは「アンドレッティ」――マリオの孫で、マイケルの息子――で、そのほかの全員と同様にカナーンもそうではなかったにすぎない。当然、カナーンとマルコが直接天秤の両皿に載せられたわけはないのだが、ただチームに変わる必要が生じたとき、それは「アンドレッティ以外のなにか」が変わるという意味だった。

 カナーンが移籍したとき、KVレーシングはすべての歴史を見渡しても3回の優勝しか見つけることができないチームで、その数はカナーン自身が挙げてきた勝利の5分の1でしかなかった。そこはいかにも、キャリアの晩年を迎えた往年の名ドライバーが自らの経験を捧げる最後の働き場だった。加入後の2年間、彼のキャリアに勝利が積み重ねられなかったのも自然な成り行きだ。惜しいシーンがなかったわけではない。去年のインディ500では終盤に7周ラップリーダーになったものの、祭典は彼の初優勝を拒むようにチップ・ガナッシを勝利へと誘った。2011年のアイオワでマルコにブロックされて勝利を逸したのは、2年間で2回あった2位のうちの1度の結末である。だがほとんどそれだけだ。インディアナポリスでマルコとカナーンが繰り返したリードチェンジにわたしの記憶が喚起されたのは、裏を返せばそれくらいしか優勝を争った思い出がないということでもある。

***

 オーバルコースの開催が全体の1/3を割り込んだ今季のインディカー・シリーズは、なにか別のカテゴリーを見ているように様相を違えたものになってしまった。チップ・ガナッシの不調は昨季を考えればけっして予想不能とはいえないレベルだったが、歩調を合わせるようにペンスキーまで噛み合わせるべき歯車を失い、あろうことか開幕から4つのロード/ストリートレースでウィル・パワーに勝利を与えそこねた。アンドレッティ・オートスポートの3勝もパフォーマンスの安定性を証明することにはならず、元F1ドライバーの日本人が勝利し、そのブロッキングと思われたラインコントロールが不問に付されたりもした。いやそもそも、「元F1ドライバーの日本人」がアメリカのカーナンバー14をつけていることからして、開幕前にはありえない話に思えた。

 そうしてみれば、荒天で延期さえ心配されたインディ500で、だれもラップダウンへと飲み込まれない30台のパレードラップが延々と重ねられた不思議も、実際はさほどおかしななことではなかったのかもしれない。おかしなことが繰り返されれば、それも日常になっていく。いまやKVレーシングを運転するトニー・カナーンのインディ500初優勝なんていう分の悪そうな勝負にも、賭け金を配分しなくてはならなくなった。これがすでに2013年のシーズンだということを忘れてはいけない。

 レースのあとで、カナーンはインタビューに対して「幸運だった」と答えることになる。197周目のリスタートと同時にライアン・ハンター=レイのドラフティングから抜けだしてターン1を制圧した直後、燃料戦略だけで上位に来ていたダリオ・フランキッティがアンダーステアからセイファー・ウォールに突き刺さって、レースの幕はイエロー・フラッグとともに降ろされた。それが、カナーンが初めてインディ500を制した瞬間だった。残り3周半がレーススピードで行われていたら、また序盤のような、しかしもっと苛烈なトップ争いに巻き込まれて、結末の予想などできそうもなかった。その意味で「幸運」は謙遜でもなんでもない、率直な心持ちだったにちがいない。しかしまた、その言及はかならずしも正確ではなかった。この日2番目に多い34周のラップリードを記録し、つねにトップ10圏内を走ってバトルを制し続けていたカナーンは、振り返ってみればまぎれもなく、だれよりも勝利に値するドライバーだった。彼は正しく走り、勇気とともにポジションを奪い取ることで勝者となった。どんな展開で得られた勝利だとしても、それは揺るぎない事実だったのである。

 ところで、命を賭けるでもなくテレビで観戦しているだけのわれわれには、97回目のインディ500にふたつの解釈を用意できるようだ。ひとつは、おかしなことばかり起こるイベントが続く中、トップチームを去ったトニー・カナーンの初めての優勝を拒まなかったインディ500が、68回ものリードチェンジを許したうえ、眠気を誘うパレードラップを続けて普段なら勝ち目のないドライバーにもチャンスを与え、最終的に22台をリードラップに居残らせるというまったくオーバルらしくない=インディ500にふさわしくないレースへと変貌してしまったと見ること。またあるいは、アメリカのレースの象徴であり、たとえば去年や3年前のフランキッティ、一昨年のダン・ウェルドン、’09年のエリオ・カストロネベスといった「アメリカのドライバー」ばかりを勝たせてきたインディ500が、勝者のリストに付け加えるべきドライバーとしてインディカー・シリーズを初期から彩ってきたカナーンをついに迎え入れたのだと受け止めること。

 わたしはレース中盤の退屈を忘れ、後者の喜びとともに2013年のインディ500を記憶しておくことにする。忍耐が報われた瞬間には、レースの展開や勝ち方などどうでもよくなるのだろう。ゴールを待たずに涙を流すのも無理はい。あまりに長く順番を待たされすぎた。トニー・カナーンはフルコース・コーションの中おもむろにインディ500のトップチェッカーを受け止める。それは彼にとって、実に通算259周目、13年かけてレースを1回走りきってなお1/4以上を余すほど積み重ねてようやくたどり着いた、真実のラップリードだったのだ。

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