佐藤琢磨のラインと武藤英紀の絶句、それから象徴でしかない話

【2013.5.5】
インディカー・シリーズ第4戦 サンパウロ・インディ300
 
 
 テレビの前で聞いているかぎり、解説の武藤英紀は視聴者を意識して慎重に言葉を紡ごうとしているようだった。2008年のルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した、つい2週間前までインディカー・シリーズ日本人最高位という記録の持ち主だったこのドライバーは、自らが過ごした3年間の経験によって、それが罰則を受ける可能性がある走行であることを、レースの熱量を奪わぬように、また己の言及が実現しないことを望むように曖昧な言い方で口にした。72周目には「いまのブロッキングはちょっと……」と絶句し、そして翌73周目、「2回目ということで(ペナルティを)取られる可能性ありますね」と示唆している。下位カテゴリーからアメリカのレースにまみれてきた武藤の文化のなかに、それは育まれていない動きだったかもしれない。少なくとも、彼の知るアメリカはそれを許さないと直感したのだと想像することはできるだろう。サンパウロ市街地コースのバックストレートエンドで、佐藤琢磨が若いジョゼフ・ニューガーデンと開幕戦の勝者であるジェームズ・ヒンチクリフの攻撃を次々と凌いだときのことである。

 2010年のエドモントンでのレースで、インディカーはひとつの事件を引き起こした。チェッカーフラッグまで残り3周のことだ。フルコース・コーションが明けるリスタートの際、先頭を走るペンスキーのエリオ・カストロネベスはチームメイトのウィル・パワーに対し、インサイドのラインを徹底的に主張した。まだ2列リスタートが導入される前のシーズンである。パワーはカストロネベスの横に並んでいたわけではなく、あくまで真後ろから加速をはじめていた。左の最終ターンから右のターン1へ、幅の広いホームストレートを斜めに横切るのが本来のレコードラインだが、カストロネベスは後ろからの攻撃を警戒してまっすぐに進む。パワーは一瞬だけインサイドに未練を見せたものの、空間を見出せずすぐさまアウトへと飛び出した。懐へ飛び込むような意思を表現することは一切なく、速度を高く保ってターン1の進入でかぶせるように並びかけて、ペンスキーの2台はサイド・バイ・サイドのままエイペックスをクリアしていった。

 このバトルによってもたらされた結果が最終的にこの年のチャンピオンの行方をも左右することになるのだが、バランスを崩したパワーがスコット・ディクソンにインサイドを明け渡して3位に後退したレースの経緯は本題ではない。物議を醸したのは、襲いかかってきたチームメイトのラインを一度も潰さず、最初から最後まで一貫してインサイドを守り続けただけのエリオ・カストロネベスが、そのバトルから1分もしないうちにレース・コントロールにブロッキングの違反を取られて黒旗を提示されたことだった。原文を発見することができなかったが、当時のルールは大意として「後方から追ってくるドライバーのためにインサイドを空けなければならない」というものだったと記憶している。この規則を根拠に、過度なディフェンスをしたわけでもないカストロネベスはピットのドライブスルー・ペナルティを科せられたのである(実際には彼はその裁定を受け入れずに無視し、レース後にタイム加算の罰を受けた)。

 規則の解釈の範囲に収まるペナルティだったとはいえ、先行側の守備権利をほとんど認めないかのような規則がトップバトルに適用されたことはじゅうぶんに刺激的だったようで、インディカーは批判にさらされ、結局行きすぎだったことを認めるかのようにブロッキングについて見直しがなされている(注:条文が変更されたかどうかは調査できていない)。2011年のルールは「追ってくるドライバーのアクションに対して走行ラインを変更したり、追い抜きを防止・妨害するために通常と異なるラインを通ってはならない」(9.3.2)であり、さらに2013年には後半部分((must not) use an abnormal racing line)が削除されて「追ってくるドライバーのアクションに対して追い抜きを防止・妨害するために走行ラインを変更してはならない」(9.3.2)へと簡略化された。ずいぶん「レースらしく」なったように見える。現在レース・ディレクターを務めるボー・バーフィールドによれば、「自分から動いてラインを保持する場合はディフェンスできるが、他のクルマの動きに反応して動いたのならブロックできない」という解釈のようだ。

 その基準に照らして見れば、佐藤琢磨の走行は許容範囲にあったということだろう。サンパウロのバックストレートは完全な直線ではなく左・右・左にややうねっており、うねりのエイペックスをかすめるようにして直線的に走ったことで悪質なブロックのように見えただけではないか、と言ったのはインディ500に出場予定のライアン・ブリスコーだ。GAORAのブログでも同様の見解が示され、ブロッキングにはあたらないと結論づけられている(『こちらGAORA INDYCAR実況室』「ブロッキング判定」2013年5月7日付)。ただ論争があるのは事実で、佐藤とおなじホンダエンジンユーザーであるスコット・ディクソンなどはツイッターでのレース・コントロール非難が喧しい。この項で行為の是非や判断そのものに立ち入ることはしないが、いずれにせよ公的な結論はすでに出ている。「no further action」だ。

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 口ぶりから察するに、武藤英紀は低くない可能性で#14にペナルティが適用されると受け止めていたはずだが、視聴者や自身の期待、そして実際に下された裁定に反してそう思わざるをえなかったことと、彼が2010年にインディカーを去ったこととは、たぶん無関係ではない。それは武藤が直接的な体験や知識として2011年以降のブロッキングルールを知らないことを意味しているのではなく、変容するインディに呑まれていないということである。彼のなかのアメリカは佐藤のラインを許容しなかったかもしれないが、いまのインディはきっと、他ならぬ佐藤が2週間前の優勝に続いて先頭を走っていた事自体がその象徴なのだと言える程度には、彼の知るアメリカではないのだ。

 歴史家が未来からインディカー・シリーズを記述しようとしたとき、おそらく2010年はひとつの目印として旗を立てられることになるだろう。ブロッキングルール見直しの契機となった事件の発生のみならず、たとえば史上はじめてロード/ストリートコースでのレース開催数がオーバルコースを上回ったのもこの年であり、以降のインディカーは急速にオーバルレースの数を減らしてかつて対立したCARTのような相貌を見せるようになっていく。またたとえば(これがいかにも日本人による見方であることは承知のうえだが)、武藤英紀と佐藤琢磨が交叉したのも2010年だ。すなわち、ヨーロッパでもアメリカでもない場所を出身とした日本人のうち、アメリカでキャリアを構築しなおしたドライバーが去り、F1の表彰台までたどり着いたドライバーが現れて定着した年でもあったのである。アンチ・ヨーロッパだったアメリカのレースがヨーロッパへと融合していく過程――オーバルが全体の3分の1を割り込み、ブロッキングの適用条件が緩和され、佐藤が優勝を遂げ、F1と同一レイアウトとなるインディアナポリス・ロードコースでの開催が計画された2013年にいたるまでのインディカーの大きな流れが、2010年を境にできあがったと記すことはさほど困難ではない。

 武藤英紀がアメリカの空気を吸収してインディカーに上がってきたのに対し、佐藤琢磨は、ほとんど純粋にヨーロッパでのキャリアを積み終えた後に、「ホンダ」という共通項を手繰ってアメリカに移ってきた。その佐藤がインディのCART化≒ヨーロッパ化と軌を一にしてアメリカに適応していったのは、佐藤の視点からすれば偶然でしかない(それは彼の能力のなせる業だった)が、しかしインディカー側の視点に立てば示唆を発見することもできるだろう。インディカー・シリーズの起源をCARTではなくIRLに求めるなら、佐藤はラインナップの中でF1表彰台の経験とともに移籍してきた初めてのドライバーであり、ルーベンス・バリチェロがいた昨季を除けば唯一のドライバーでもある。昨季のサンパウロやエドモントンでの表彰台や先のロングビーチの優勝は、なにも「日本人」「アジア人」という冠を掲げなくとも、ヨーロッパで成功体験のあるドライバーがアメリカでも同等かそれ以上の成功を収めたという意味で、インディカーとF1が最接近した瞬間という意味で十分に歴史的な出来事だったのだ。インディカーはその変化の中で、佐藤琢磨の優勝を受け入れたのである。

 インディカーとF1は、そのどちらをも走りきった佐藤琢磨という存在を結び目として重なりあう場所を生もうとしており、その流れに逆らおうとするのは難しくなっている。たとえばサンパウロで下位に沈んだチップ・ガナッシのドライバー2人、ダリオ・フランキッティとスコット・ディクソンが、直接見たわけでもない佐藤のライン取りやそれにペナルティを科さなかったレース・コントロールを批判しているが、不調をかこつ彼ら自身の焦燥や苛立ちをひとまず措けば、ここには根底にオーバルとともに息づいていたアメリカの文脈があると受け取ることができる(もともとブロッキングの禁止は、接触が命の危険に直結するオーバルでこそ強い意味を持つものだ)。ルールブックの文言が変わろうとも、アメリカのレースはブロッキングを許さないはずなのだと、アメリカに生きてきたドライバーである彼らはそれを信じて皮肉めいた非難を口にしているわけだ。だが本当のところは、彼らの信念とは裏腹にアメリカがヨーロッパへ近づくなかでルールが――レースのルールのみならず、その精神のルールこそが――変わりつつあるにすぎない。オーバルでの事故で死亡したドライバーの名を冠したシャシーの誕生と同時に覇権を手放したことの意味を解していない彼らはそれに気づいていないだけだ。気づかないからこそ勝てなくなったのだということにも気づいていない。

 今は日本で走る武藤英紀にとってのアメリカもまた、佐藤琢磨のラインを許容することはないはずだった。だからこそ彼は実況席で何度もペナルティの心配を口にし、自分に言い聞かせるようにおなじ回数だけ「だいじょうぶだと思う」と打ち消したのである。だがその不安をよそにレース・コントロールは何らの動きも見せず、最終ラップの最終ターンにタイヤの限界からブレーキングの乱れた佐藤をクロスラインでオーバーテイクして勝利を奪い取ったヒンチクリフもフェアなバトルだったと笑顔を見せた。「異邦の他者」だったドライバーが優勝したロングビーチにインディカーとF1の接近を見て取ることができるのなら、このサンパウロは、元F1ドライバーの内にあるヨーロッパが許されたという事実によってまたひとつの歴史を築いたといえるのかもしれない。佐藤が決然たるラインでジョゼフ・ニューガーデンの攻撃を凌ぎきったとき、武藤英紀は言葉を失った。アメリカのドライバーとして生きた彼にとって自然な感情の発露だったはずのその絶句は、しかしそれが向けられた佐藤自身を象徴とするインディカーの変容を前にして、もはや文字どおり絶句のまま虚空へと消えていくほかなかったのである。

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