【2013.4.21】
インディカー・シリーズ第3戦 ロングビーチGP
もちろん、最初はダリオ・フランキッティについて書くつもりだったのである。1997年3月にCARTでデビューし、250戦目という記念すべきレースをロングビーチで迎えたスコットランド人が、これまでにボビー・レイホールとゴードン・ジョンコックを上回る31勝を挙げ、29回の2位を獲得し、29のポールポジション(これは今回のレースで30になった)と112度にも及ぶトップ10フィニッシュ(これも同様に今回積み重ねられた)を記録していることも事前に調べてあった。このインディカー史上最多チャンピオンドライバーが今年に入って不調に陥った原因がアシュレイ・ジャッドとの離婚の影響なのか単に避けられない衰えがついに訪れたのかは知らないが、しかし第3戦にしてようやく昨季のチャンピオンとロード/ストリートコースのスペシャリストを抑えて反撃の足がかりとなるポールポジションを得たことで、原稿の構想はできたも同然だった。それにしてもだ。どう転んでもそれなりにまとまった文章を書けるだろうと思っていたところで、こういう結末が待っていたりする。まったく別の話題に書き換えようとしている自分自身の心変わりをわたしは責めることができそうにない。佐藤琢磨が表彰台の頂点にたどり着いたそのレースの生中継を最初から最後まで漏らさず見て、まだ少し呆然としているのだから。
思わず顔を覆いそうになったのは、73周目のターン8を立ち上がろうとしていたA.J.フォイト・レーシング#14のリアタイヤがほんの少しウォールに向かってスライドしたのを見た瞬間だった。チェッカー・フラッグとともに溢れる歓喜がすでに具体的な輪郭を伴いはじめていた時間帯に起きたちょっとした「事件」である。4番手スタートからグリーン・フラッグと同時にウィル・パワーを置き去りにし、23周目に全体的にマナーの悪かったこの日にあってこの上なくクリーンなパッシングでライアン・ハンター=レイを攻略した佐藤琢磨は、250回目のレースをリードしていた4度のチャンピオン経験者をピットワークで逆転すると、それから一度も先頭を譲ることなく優勝に向かって悠然とドライブしていた。最終スティントの開幕と重なった56周目のリスタートで、譲る義務があるにもかかわらず無意味に張り合ってきた周回遅れのチャーリー・キンボールが勝手に一人タイヤバリアに突き刺さっていったのを見届けると、第2スティントの終盤に差を詰めてきていたグレアム・レイホールを再び突き放し、攻撃のチャンスを一切与えなかった。もう10周以上にわたって独走が続いて、待ち望まれた初優勝のカウントダウンがコールされようかというころに、佐藤のリアタイヤはわずかに滑ったのである。
聞こえるはずのないタイヤのスキール音が聞こえた気にすらなったほど過敏に反応したのは、佐藤琢磨のキャリアの中にあったいくつかの出来事が思い起こされたからだ。わたしは以前、彼を指して「証明されぬ才能」と書いたことがある。彼に他のドライバーよりも数多い「辿りつけそうだった瞬間」があり、そして今までそのどれにさえ辿りつけなかったことを表すつもりの言葉だった。凡庸なドライバーではない。チャンスを手繰り寄せるだけの煌めく才能を見せながら、しかしそれは一度たりとも結実することがなかった、そういう意味である。少し記憶を引き寄せただけでも、たとえば2004年F1ヨーロッパGPは最終盤にルーベンス・バリチェロのインを突いたが失敗し、アメリカGPで3位表彰台を獲得したもののチームの作戦ミスによってそれ以上の結果を失った。たとえば2010年のミッドオハイオでは予選3番手ながらコースを横切る芝刈り機と化し、たとえば2011年サンパウロではイエロー・コーション時の判断に泣き、アイオワではトップバトルの最中のアウトラップでスピンを喫して、たとえば2012年インディ500は――まだ記憶に新しい。
一流ドライバーなら、もちろん同じくらい逸したチャンスはある。だがそれは勝利との表裏のうちに存在するものであって、何も得ずして失った数ばかりを指折り数えられるドライバーなどそうはいない。J.R.ヒルデブランドに何回チャンスがあった? 2011年インディ500ファイナルラップのターン4でセイファー・ウォールの餌食となった、あの1度きりだ。佐藤は何度も歓喜に手をかけては握りそこねてきた。それを知っているから、わたしはわずかなオーバースライドを看過できず全身に緊張を走らせたのだ。だが彼はそんな一人の日本人ファンの焦燥とは裏腹に、何事もなかったかのように――いや違う、見ているこっちが神経質になっていただけで、きっと本当に何事もなかったのだ――ターン8をクリアして、バックストレートであるイースト・シーサイド・ウェイへと加速していった。
もし佐藤琢磨というドライバーに勝利するときが訪れるとして、わたしは、それは運によるものでも完勝でもなく、傷ついた接戦の先にあるのだろうとなんとなく考えていた。圧巻のレースはできそうにない。サバイバルレースで生き残っている可能性が高いとも思えない。生き死にを懸けて細いロープを渡ることに挑戦する勇気によってキャリアを重ねてきたドライバーだ。幾度死んだとしても、いつかバランスを崩すことなく駆け抜けるように渡りきってしまえるときが来るのではないか、そういう勝利しかありえないのではないかと思っていた。だがそういう浅はかなセンチメンタリズムをレースは受け入れたりしない。この日の彼はあまりに速かった。その背中を脅かすポテンシャルを持ったドライバーなど、コース上にありはしなかったのである。1周、また1周とラップが積み重ねられるたびに、後続との差はコンマ数秒ずつ、確実に開いていった。4度のグリーン・フラッグと1回のオーバーテイク。あったのはほとんどそれだけだ。A.J.フォイト#14は、傷一つなく美しいままだった。
レース・ストラテジストのラリー・フォイトはレース後に言っている。"Takuma made it look too easy. It made me so nervous watching it out there."。たぶん彼は知らないだろう。佐藤の経歴を見届けてきた日本のファンは、きっと当事者であるはずのあなたの何倍も緊張していたし、その緊張は最後まで続いた。佐藤が残り2周となる79周目の半分に差し掛かるころ、20秒ほど後ろでオリオール・セルビアとトニー・カナーンがターン1でクラッシュして、レースに最後の波紋を投げかける。もう一度仕切りなおしがあれば、レイホールは限界までチャンスを窺うだろう。その可能性に怯えるには十分なほど、この日のレイホールの出足は速かった。だが冷静に考えれば2台の止まったマシンを片付ける時間があるわけもなく、リスタートの機会は訪れそうになかった。そのことを悟ってようやく、気持ちがほぐれていった。
きっとだれが先頭を走っていたってインディはおなじように処理したにちがいない。だが見ている人間がそこに粋を見出すのだって勝手なはずである。壊れた2台がターン1のアウトサイドを塞いでしまっても、レースはフルコース・コーションにならなかった。80周目、ホワイト・フラッグを受けたA.J.フォイト・レーシング#14が事故現場の横をすり抜けていく。佐藤琢磨は一人だった。一人であるべき勝者だった。だから、ということにしておいてもいいだろう。レースはスローダウンされず、彼はターン2、3、4と、何周にもわたって繰り返されてきた一糸乱れぬ完璧なコーナリングをファイナルラップにも再現した。追いついてくる者がいるはずもなかった。そして、7周前に無用な心配をしたターン8を立ち上がったときのことだ。待ち望まれた初勝利が孤高とともにあったことを刻むのに十分な猶予が与えられたのが誰の目にも明らかになったその後に、ようやく、普通のタイミングよりいささか遅れて、終戦を告げるイエロー・フラッグは振られたのだった。