ハイサイドのエリオ・カストロネベスはシリーズに安寧をもたらすのか

【2013.6.8】
インディカー・シリーズ第8戦 ファイアストン550
 
 
 えらいことに書いている途中であろうことかこの記事の主役であるところの勝者の車に規定違反が判明し、話の軸が心とともにぼっきり折れそうになった(いちおうペンスキー自身の説明としては「意図的ではなく、またむしろパフォーマンスを下げる違反だった」ということだが、もちろん本当かよと疑う権利がこちらにはある。まあ強いて言うなら、パフォーマンスを上げるために規則に明示された数字の範囲をすぐばれるように外すバカはいないわけで、ミスはミスなのだろうと思ってはいる)わけですが、それは措いてしまって公開します。あくまでそのように読んでください。ともかく今年の目標は全戦レビューなのです。そして今から書き直すには、ミルウォーキーはすぐそこに迫りすぎているのです。はあ。

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 トニー・カナーンがついにインディ500を勝ったのだから、という祝賀をもとにいささかの関連性もない連想を広げてしまうのが罪深いことだとわかっているにもかかわらず、8回のレースで刻まれてきた勝者の欄にようやくエリオ・カストロネベスとペンスキー・レーシングという見慣れた名前を発見すると、ついそれがシリーズチャンピオンへの予告のように思えてきてしまう。カナーンがあれほど焦がれたインディ500を弱小チームに移ってから制してしまったのと同じ年に、15年にわたっていまだチャンピオンだけを獲得していないカストロネベスが、不調に陥ったペンスキーでなぜかそれを実現させてしまうという物語を組み立てるのには抵抗しがたい誘惑がある。

 事実ポイントスタンディングを眺めると、状況はあたかもこの"スパイダーマン"を後押ししているかのようだ。スコット・ディクソンとは1レース分の差が開いて、ダリオ・フランキッティやウィル・パワーの姿は見えず、直後に控えているのはマルコ・アンドレッティとライアン・ハンター=レイだが、マルコがチャンピオンの器だと思っている人もハンター=レイがカーナンバー1をつけている理由をまだわざわざ覚えている人もいるはずがないだろう。もちろんトニー・カナーンと佐藤琢磨は、王座に値するクルマを運転していない。シモン・パジェノー? まさか。

 もちろんこれははてしなく乱暴な把握にちがいないなのだが、思い描く展望に慎重さを欠いてしまう程度には、前世紀から連れ添っているカストロネベスとペンスキーは混乱するいまのインディカーに対する鎮静剤として縋りたくなる組み合わせである。彼らがバンク角24度のテキサス・モーター・スピードウェイで18台をラップダウンに追い込む圧勝を演じたことで、インディカーは今年はじめていままでどおりの居心地を手に入れた。とりあえず安定を取り戻したかのように見えるこの結果は、そのままシリーズの様相を左右する要素になりそうだ。もしカストロネベスが2013年を制するようなことがあれば、6月8日のテキサスはシリーズの転換点という構図として描かれることになるだろう。もしくはテキサスが全体に敷衍されて転換点として機能しないかぎり、カストロネベスのチャンピオンはせめて運によってしかもたらされえないと言うべきかもしれない。だれのパフォーマンスも安定しないのであれば、シリーズは毎戦のようにくじを引く抽籤会になるしかない。だが少しでも、最低限昨季程度のゆらぎに回帰していくとするなら彼がいま立っているのはこのうえなく優位な場所になる。もはやスタートラインは揃うことなく歪んだままだ。

 かならずしも、ベテランが勝ったという事実だけでそのままシリーズに安寧の訪れを想起できるわけではない。その勝者が過去に5度チャンピオンとなっている(にもかかわらず、カストロネベスの3回の優勝はすべて裏切られた)という過去を読めばテキサスは重要なレースなのかもしれないが、築かれてきた歴史に意味を求めて、伝統によってのみ波乱が鎮められたのだと言うわけでもない。ただレース序盤の席捲をマルコ・アンドレッティから奪い去ったカストロネベスが、ハイサイドのラインを走り切ることで見せつけた暴虐性こそ、今季のインディカーが見失っていたものだったと断言することはできる。日本での中継で、村田晴郎は下位チームの努力よりも、上位であるべきチームの失策こそが混沌の原因に見えると述べた。ここに表出するのは「あるべきインディの不在」にほかならないが、インディカーを愛する彼が発した言葉によって浮き彫りにされたその嘆息にも近い現状を、われわれは受け止めざるをえないだろう。混戦に強度というものがあるとするならば、今季のそれはあまりに弱々しかった。わたしはこれまで今年のインディカーは変わったのだと何度か書いてきたが、あえていまそれを翻してみせるのもさほど難しいことではない。変わったのではなく、ただ空白だったのだと。

 テキサスに雀色のときが終わろうとするころ、エリオ・カストロネベスは一貫して楕円の外側であるハイサイドを走り続けていた。外へ、外へと自らを送り出していくそのレーシングラインは最短距離を求めて内側の白線すれすれを走る他の車に対して異質で、いくぶん乱暴さえ感じさせた。レース序盤のまだ日が残っていた時間にだれより速かったアンドレッティ・オートスポートのマルコ・アンドレッティですら、直射日光の消失で路面温度が下がっていくとともにフロントタイヤが応答しなくなっていくように見えた中、カストロネベスは外連味など一切ないままシボレーエンジンの回転を保ちつづけ、リーダーが処理に苦労していた周回遅れを苦もなくアウトから呑みこんでいった。テレビで見ていても、ターン3へと飛びこんでいく勢いの差ははっきりわかった。

 ハイサイドを走りつづけられる車とドライバーの組み合わせには、そのことだけをもってレースの美しい過程を見出すことができてしまう。距離の損失を埋めてなお余りあるそのスピードは、それがスピードであるがゆえに暴力的な勢いでトラックを蹂躙し、インサイドに汲々とする車を卑小な存在へと変え、戦略も燃費もあらゆるものを塗りつぶす。そこにある暴虐的な振る舞いに身を委ねるということ。カストロネベスがテキサスで演じきってみせたハイサイドのレースこそモータースポーツを見ることの快楽の一つであり、今年のインディカーに見出しにくかったものだったのだろう。問われるべきは結果としての勝者がだれであるのかではなく、勝者のありかたという過程にほかならないのだ。97周目のリードチェンジは、そのことを痛烈に示唆する教訓として投げかけられている。ハンドリングに不安を見せつつあったマルコ・アンドレッティはコーナーのインサイドを譲らずに最短距離を行こうとするが、カストロネベスに比べればそれはやはり卑小でありすぎた。わずかながらサイド・バイ・サイドに持ち込んだものの、報いを受けるように2台の周回遅れの後方にはまったアンドレッティ・オートスポートは乱気流にも見舞われて身動きが取れなくなってしまう。迷いなく大外を行くカストロネベスの前には大きな空間が生まれ、ただスピードをもって彼はそこに向かって加速していく。もはや抵抗できるものはだれ一人としておらず、レースはあるべき姿に向かって収束していった。残りの131周はもう、暴虐によって制圧された時間を噛み締めていれば、それでよかった。

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