トリスタン・ボーティエが戻ってきた!

【2024.6.2】
インディカー・シリーズ第6戦 シボレー・デトロイトGP
(デトロイト市街地コース)

インディアナポリス500マイルが明けた週の半ば、ジョセフ・ニューガーデンの美しい優勝をどのようにまとめようか頭を悩ませていたころ(頼まれたわけでもないのに、だれも読んでいない零細ブログの執筆に無駄な労力を割く日々だ)、何気なく確認したインディカーのニュースにわが目を疑った。 ”Breaking News” として” Dale Coyne Racing confirms new No.51 driver fot this weekend’s Detroit Grand Prix…” と書かれたiPhoneの通知から記事に飛んでみると、そこには “Frenchman Tristan Vautier is returning to the NTT INDYCAR SERIES this weekend” とあったのである。どのような事情があったかは知るよしもないが、新人のルカ・ギオットに代わり、トリスタン・ボーティエがデトロイトGPでデイル・コイン・レーシングの51号車を運転するというのだった。一読しての偽りない感想はこうだ――いやいや、冗談だろう? 直後には、メイヤー・シャンク・レーシングがインディ500の1周目でスピンしてレースを終えたトム・ブロンクヴィストとエリオ・カストロネベスを交代させるなどと、これまた意外な報も入ってきたが、ボーティエの衝撃の前にはすっかり霞んでしまった。

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トリスタン・ボーティエの美しい喪失は優勝へと回帰するだろうか

【2017.6.10】
インディカー・シリーズ第9戦 レインガード・ウォーター・シーラーズ600(テキサス)

ほんの2~3時間前はあれだけコース上にひしめいていたはずの車の群れはずいぶんと数を減らしてしまっている。テキサスは「レインガード・ウォーター・シーラーズ600」(5月のインディカーGP同様にレース名がころころ変わってついていけないのだが、昨年までのファイアストン600である)の残り5周、2週間前のインディアナポリス500マイル王者が舗装からコース外の草地へとタイヤを落とす一瞬のミスによって2年前のシリーズ王者を巻き込みながらスピンすると、コース上にはもう10台、最初から最後まで走り続けているリードラップの車に至っては6台しか残っていなかった。壁と見まごうばかりの24度バンクオーバルは、観客に興奮を提供する2列での集団走行を延々繰り広げたのと引き換えに数多の車をセイファー・ウォールの餌食とし、そのエネルギーを吸い尽くした末におもむろに進むイエロー・コーションの隊列に対してチェッカー・フラッグを振るった。
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佐藤琢磨のターン3は、シモン・パジェノーの初優勝のようなものだ

【2013.6.1-2】
インディカー・シリーズ第6-7戦 デュアル・イン・デトロイト
 
 
 今シーズン初の2レースイベントとしてベル・アイルで開催されたデュアル・イン・デトロイト(それがどうにも俗悪に見えるということを言っておくべきだろうか?)を、佐藤琢磨はおよそ何も得ずして終えた。シリーズ6戦目となるレース1はチームの燃料計算ミスによるガス欠でラップダウンの憂き目にあい、第7戦レース2では24周目のターン3でトリスタン・ボーティエにアウトから並んで進入した際にイン側の相手に右フロントタイヤを当ててしまい、反動で反対側のタイヤバリアへと流れてクラッシュした。イベント前には2位だったドライバーズランキングは2つのレースで21ポイントしか取れなかったことで6位へと後退し、チャンピオンシップで後れを取る結果となる。両レースともに後方グリッドから追い上げていたさなかのアクシデントであったことは惜しまれてよいが、それにしても意地悪い向きにはようやく佐藤琢磨らしくなってきたとほくそ笑むことくらいはできるかもしれない。率直にいえば、いくら好調でもやっぱりレースを失いやすいドライバーであることに変わりはないのだ。

 当の佐藤はレース2のフランス人ルーキーに対し、DNFに追い込まれたクラッシュそのものよりもレーススタート時の振る舞いについて強く怒りをあらわにしている(『ジャック・アマノのINDYCARレポート』2013/6/4)。自身も第4戦サンパウロでの執拗なディフェンスで物議をかもしたわけだが、たとえばそのとき他のドライバーから浴びせられた「俺がブロッキングだと思ったからブロッキングだ」といった程度の非難に比べれば、ボーティエが犯したらしい違反とそれに対して下されるべきだった措置を具体的に指摘する彼の言葉はすばらしく論理的だ。すなわち、スタート時にアウトサイドの並びだったボーティエは、最初のグリーン・フラッグ直前の、まだレースが始まっていないタイミングでインサイドにいた自分の前に割り込んできた。スタート前は2台がサイド・バイ・サイドで並んでいかなければならないにもかかわらず彼は加速してドアを閉め、ラインを失ってコンクリート・ウォール間際へと追いやられた自分はブレーキを踏まざるをえなくなった。この動きに対してはペナルティが科せられる必要があるはずだがスタート後にどれだけコクピットから訴えてもレース・コントロールのアクションはないまま、巡り巡って24周目、「本来ならそこを走っているべきではなかった」ボーティエ当人と接触して自分は必要のないリタイヤを喫してしまった、という顛末である。

 あくまで被害者側の証言なのでひとまず話半分に聞いておくのが公平ではあるとはいえ、語られている内容の整合性にはなるほど隙が見当たらず、本来ならレース・ストラテジストが発してもよさそうなレベルのコメントとさえいえる。実際に起こった(自分が観察した)現象とそれがどういう問題を孕むのかを的確に言語化してしまうこの技術は、レーシング・ドライバーとしてはなかなか得がたいものだろう。弁護士の息子として育ったことが関係しているのかどうか、そういえば2004年のバーレーンGPだったかラルフ・シューマッハと接触したときに滔々と自らの正当性を主張して相手にだけペナルティをプレゼントしたなんて過去があったのを考えても、これはF1時代からすでに備わっていた彼の生来的な能力なのかもしれない。言葉の端々に隠しきれない怒りこそ感じさせるが、少なくとも、危険な雨中のリスタートを強行したレース・コントロールに両手の中指を立てて抗議したまではよかったが逆に自分のほうが罰金を食らったウィル・パワーや、視線をF1に転じて無謀な追突をしてきたセルジオ・ペレスを「だれか殴ってやれ」と言ってのけたキミ・ライコネンに比べれば、ずいぶん理性的な反応ではないか(もっともふだん冷静なアイスマンのことだから、暴言にもきっと理由があるのだろう。酔っていたとか、アルコールを摂取していたとか、もしかして酔っぱらっていたとか)。

 おそらく世界を見渡しても、自分のクラッシュについてこれほど整合的な物語(ただ出来事を並べるのではなく、30分前の問題を遠因として挙げてしまうのである)を伝えられるドライバーはけっして多くない。その秀でた能力は疑うべくもないだろう。だがわたしがこの一件によって気づかされたのはむしろその正反対であろうこと、彼が長いトップフォーミュラのキャリアで数多のクラッシュを重ねてきた理由の一端だった。上の「すばらしく論理的」という記述には、実のところ皮肉がこもっている。ボーティエの動きを問題視するそのコメントはたしかに論理的なのだが、しかしまた論理的にすぎるのだ。一分の隙もなく紡がれた物語には、佐藤琢磨というドライバーがレースに対してある種の潔癖な理想を抱いていることを想像させる。考えてもみてほしい。ボーティエは「本来あそこを走ってるべきじゃなかった」(前掲リンクより引用)ドライバーで、佐藤自身は「いちゃいけない相手と」(同)レースをした。その説明が保身による自分勝手な解釈でないとすれば、まさしくそのとおりだろう。では、そんな「本来」「いちゃいけない相手」と、彼はなぜ、動機ではなく原因として、なぜ、接触することになったのだ? いつもながらのまわりくどい文章で核心を迂回しようというわけではない。答えは簡単だ。だとしても、ボーティエは現実にそこを走っていたのである。

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 デトロイトのレース1を制したのはデイル・コイン・レーシングからスポット参戦したマイク・コンウェイだった。こういう結末を、わたしはかならずしも歓迎できたわけではない。2回にわたるオーバルレースでの大クラッシュで大きな怪我を負った経験を持つコンウェイは、そのためにオーバルレースを二度と走らないと決めた。オーバルを引退しただけでなく活動の拠点をヨーロッパへと戻したこのイギリス人は、にもかかわらずWECの片手間のようにデトロイトへとやって来て、呆れるほど速かった。それだけならまだしも、ひと月前のロングビーチではレイホール・レターマン・レーシングで参戦して、今回はデイル・コインなのである。「そこにシートがあるから」という以上の意味を見出せないまま走るドライバーに圧倒されては、乾いた拍手しかできなくなってしまってもしかたあるまい。結果を伝えるwebニュースが「コンウェイ今季初優勝」と書いているのにも陰鬱とさせられた。シリーズを争っていないコンウェイに「今季」なんてあるものか、ふらっと現れて優勝しただけだと言いたくなったりもするわけだ。

 もちろんそれはコンウェイの責任であるわけがなく、むしろ彼自身の振る舞いはインディへの郷愁にあふれているし、そのスピードには惜しみない賞賛を贈りたいと思う(べつに彼のことを嫌っているのではない)。2年前のロングビーチはほとんど運だけで舞い込んできたような初優勝だったが、土曜日のコンウェイに非の打ち所はなかった。愚痴っぽくなるのはあくまでインディカー・シリーズに対するこちらの心持ちの問題だ。本当ならウィル・パワーこそああいうレースぶりで圧勝しなければいけなかったのではと思ったところで結果が変わったりなどしないのだから、勝つべきではない(と信じ込んでしまった)ドライバーが勝ったといっても、現実がそうであるなら折り合うべきである。

 そんなふうに受け入れるのに一呼吸必要な現実があったことを思えば、翌日にもう次のグリーン・フラッグが振られたのだから、俗な金儲けにしか思えなかった2レースイベントにも一種の安定剤としての効果があったかもしれない。日曜日のレース2でもコンウェイのスピードに翳りはなかったが、終わってみればシモン・パジェノーがはじめて勝利する。序盤のラップリードこそコンウェイに制圧されたもののプライマリータイヤを履いた後半はどこまでも速く、フィニッシュでは6秒後方に封じてみせた。とくに第3スティントの終わりから最終スティントにかけてが初優勝のハイライトとして記憶されるべきだろう。最後のタイヤ交換後にダリオ・フランキッティに引っかかってタイムを失ったコンウェイの隙を見逃さずにプッシュし続けてピットワークでリーダーの座を奪い取ると、最終スティントではこの日最速だったはずのコンウェイと互角のラップタイムを刻んで、おなじ戦略でオルタネートタイヤを履いていた2番手のジェームズ・ジェイクスともども退けたのである。勝敗のキーとなるポイントで揺るぎなく速く走れる資質は、まぎれもなく一流ドライバーの持つそれだ。必要なときに必要なスパートを遂行することで、パジェノーは難しいレースを勝ちきった。彼は言う。「荒れたレースを冷静に、スマートに戦い抜いた」。

 ジェームズ・ヒンチクリフと佐藤琢磨に先を越されてしまったものの、昨季のルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得したパジェノーがインディで次に初優勝を果たすべきドライバーであることは明らかだった。しかしいまだ軸の定まらない混戦のシーズンとはいえ、その中でもやや戦闘力に欠けるシュミット・ハミルトン・モータースポーツでそれを遂げるのは、けっして簡単なことではなかったはずだ。トップチームに移ればすぐさまチャンピオンになれるという世間の評価はけっして大げさでない。わたし自身も、昨季あらゆるストリートコースでケータリングができそうなほど滑らかに縁石を踏むさまを見て、それだけでこのドライバーに勝利を与えることがインディカーの使命だと信じきってしまった(それは、F1で昔のセバスチャン・ベッテルに対して抱いた感情と同様のものだった)。逆転を生む戦術の遂行を可能にする高い技量によってその確信は証明され、デトロイトは幕を閉じた。

 わたしにとってレース1がどうしようもない現実だったとするのなら、レース2は理想がひとつが現われた瞬間だった。コンウェイの勝利には(彼自身の事情とは別に)失望を禁じえなかったが、それもパジェノーの初優勝によって回復してしまう。目まぐるしく相貌を変えるインディカー・シリーズで、デトロイトの2日間はちょうどうまいぐあいにコインの裏と表を1回ずつ出してみせた。ここからはわずかばかりの寓意を汲み上げることができそうだ。レースには現実もあれば、理想もある。あってはならないことを受け入れるべきときも、あるべきことが実現するときも、平等にやってくる。片方だけなんてことはない。

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 佐藤琢磨は、トリスタン・ボーティエはそもそもその場にいるべきドライバーではなかったのだと言う。それが間違いのない事実だとして、ではそんな幽霊と接触して自分だけレースから退場することにいったいなんの価値があったというのだろう。たとえ認めがたいことだったとしても、現実にボーティエはそこを走っていた。にもかかわらず直角ターンでアウトから並びかけるというリスクの高い勝負で抜き去りにかかったドライビングをいま振り返ると、まるで、より多くのポイントを持ち帰ることではなく認めてはならない現実を解消することを唯一絶対の使命としていたようにさえ見えてくる。「そうあるべき」だった、ボーティエのいないレースを取り戻すためのサイド・バイ・サイドに殉じて、そのクラッシュは起きた。そしてそれこそが、佐藤琢磨が過ごしてきたキャリアそのものなのではないのだろうか。今にして、過去のクラッシュのうちのいくつかは今回と同様にして犯されてきたのではないかと思えてならなくなっている。

 すでに書いたように、ボーティエに対する佐藤の非難は論理的だ。だが同時に、それはあまりに論理的すぎ、正しすぎるという印象も与える。例にあげたバーレーンGPでの件でもそうだが、彼の理知的な振る舞いにはともすれば危うい過剰さがつきまとう。そこには彼の正しさ以外の事象が存在しないと言い換えてもいい。身勝手な論理での言い訳が巧みという意味ではなく、自分の正当性を正しく認識し、的確に抽出してみせられるということである。繰り返すがそれが特筆すべき能力であることに疑問の余地はない。

 しかし、と思う。ゆえにこそ、彼は自らの殉教者になってしまう。理知的でありすぎるために、心の奥底にある純粋な信念を理性が強固に補強して不可侵の無謬性をまとわせ、やがてもはや自分自身でさえ撥ねのけることができなくなっていく。"no attack, no chance"――その言葉どおり佐藤琢磨はいつも自分を貫いてきた。彼の中にはつねに理想があり、それは正しかった。だが、クラッシュという現実はその崇高さや強度とは無関係に、ひとりのドライバーが抱く理想を跳ね返すときがあるということなのだ。たとえば去年のインディ500のように。たとえば9年前のヨーロッパGPのように。あのときも佐藤琢磨の動きは完璧だった。それでも、彼の理想が描いたレーシングラインの先にはダリオ・フランキッティやルーベンス・バリチェロが理想を無に帰せしめる現実として文字どおり物理的に立ちふさがっていたのである。チェッカー・フラッグを受けることなくレースを終えると、突いてでたのは現実に呑み込まれる前に抱いていた理想と、それを妨げた相手の具体的な問題点だった。その物語は2013年にしたのとおなじように完璧で、やはり完璧でありすぎた。

 秘めたる理性に破綻がないからこそ正しく形作られすぎた信念によって、現実との折り合いがつきにくくなってしまう。佐藤琢磨の印象的なクラッシュは、彼の中にあるそんな齟齬からしばしば生じたのだと、今わたしはようやく悟ることになった。それがコインの裏表だった2レースイベントによって引き出されたのは、もちろん偶然ではないのだろう。ヨーロッパから気まぐれのようにやってきて勝ってしまうドライバーがいれば、待ち望まれた優勝をついに果たしたドライバーもいる。マイク・コンウェイの現実とシモン・パジェノーの理想を結んだ線上で、佐藤琢磨はリタイアした。きっとやむをえないことだ。理想だけが重たくなった歪なコインを投げたとしたら、反対側の現実ばかりが出るに決まっているのだから。