【2017.5.28】
インディカー・シリーズ第6戦 第101回インディアナポリス500マイル
死闘の果てに、佐藤琢磨はインディアナポリス500マイルを勝とうとしていた。199周目のターン1である。3番手の彼は前をゆくダリオ・フランキッティがチームメイトのリーダーを交わしていく動きに乗じてインサイドのわずかな空間を突き、盤石の1-2態勢を築いていたように見えたチップ・ガナッシ・レーシングの隊列を分断した。最内のラインを奪われたスコット・ディクソンは失速し、瞬く間に勝機を失ってしまう。対する佐藤の勢いはまったく衰えていない。ターン2で差を詰め、バックストレートでさらに近づく。ターン3の立ち上がりは完璧で、相手よりわずかに小さく回って一瞬早く加速を開始した。ターン4を抜けた先のホームストレートはこのとき向かい風だった。空気の壁に阻まれて伸びを欠く赤いチップ・ガナッシに襲いかかる。ターン1はすぐそこに迫り、フランキッティはドアを閉めきれず車を外に振る。佐藤はその空間に飛び込んだ。優位は圧倒的に内側にある。だれもが最終周での逆転を確信した瞬間だった。
だが、”I’m small, but I need a little bit more room.”――僕は小さいけど、もう少しスペースがいるんだと、佐藤は口にすることになる。2台がサイド・バイ・サイドでターン1に進入した刹那、フランキッティは左にいる相手をさらに内側まで押し込んだ。接触を避けるために、佐藤はコース外へ降りようとする。そこに引かれている白線を跨ぐだけならたぶん問題はなかった。だが200mphのスピードでコーナリングしながらグリップの低いそこをまともに踏みしめたリアタイヤは、次の瞬間ドライバーの意思から切り離される。制御は破綻した。2012年5月27日、決して数は多くないであろう日本のインディカー・ファンの悲鳴とともに、佐藤琢磨の乗るレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングの15号車は360度回転してセイファー・ウォールへと吸い込まれていった。
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英国F3のチャンピオンとなった佐藤琢磨がエディ・ジョーダンと固い握手を交わし、ジョーダン・ホンダからF1に参戦することが決まったとき、いずれ日本人として初めてグランプリ優勝者になると信じた人は多かった。まだ現在の形でのF2やGP3は存在せず、一方で国際F3000はすっかり有名無実化しており、欧州各国のF3がそれぞれに競争力を誇っていた時代である。その中でもひときわ高水準と目される英国であのアイルトン・セナに並ぶ年間12勝を上げた実績は、そのままF1での成功を約束させるに違いなかった。プライベーターとして一定の存在感を放ち続けているジョーダンというチームも、最初に踏み出す一歩としては適切に思われる。何より、外連味に溢れているがドライバーを見る目もたしかなオーナーに見初められたという契約までの経緯が、輝かしい未来を想像させていた。おぼろげな記憶が正しければ、エディ・ジョーダンはこんな趣旨のことをいったのではなかったか。すなわち、佐藤は実力だけでF1まで辿りついた初めての日本人だと。それまでの日本人ドライバーが、背景にある国家の経済力によってもたらされる資金とF1のシートを紐付けていたのは周知の事実だった。そうしなければならないほどの実績しかなかったのだともいえる。もちろん、佐藤とてメーカーに育てられたドライバーとして支援はあり、完全に手ぶらだったわけではない。ジョーダンは契約の見返りにホンダからエンジン供給料の値引きを得たとされていたはずである。だがその程度の優遇なら他国のドライバーも受けているものだし、まただとしても、佐藤が欧州の下位フォーミュラで限りなく明確な結果を出してF1に至った初めての日本人であることは間違いなかった。日本が、エンジンパワーで数々のサーキットを席巻しながら表彰台で国旗を見ることは叶わないモータースポーツ後進国がついに手にした、混じりけのない来歴を持った才能。彼はまぎれもなくそういう存在だった。契約の翌月には、ジョーダンが最高の選択をしたことを証明するかのように、F3世界一決定戦というべきマカオGPまでも制し、自身の経歴に新たな勲章を加えた。さらに驚くべきことに、彼はこのときモータースポーツの世界に足を踏み入れてまだ5年と少しを経ていただけだったのだ。幼少からレーシングカートを乗り回しているドライバーばかりのこの世界では異例に少ない経験とそれに見合わない多数のトロフィーは、まだ見ぬ大きな可能性を夢想させた。準備は完全に整い、疑いを差し挟む余地はどこにもなかった。その後、苦悩と長い回り道が待っているとは、だれも、佐藤自身も想像していなかっただろう。
たとえ熱心なファンであっても、佐藤琢磨のF1キャリアが結果としては失敗に終わった――という言い方が気に召さないのであれば最初に期待されたほどの成績を残せなかったことに強い異議は唱えないはずだ。佐藤がF1デビューした2002年、折悪しくスポンサーからの支援を大幅に削減されたジョーダンは、ほんの3年前に2勝を上げ、前年もコンストラクターズ部門で5位になったチームとは思えないほどの不振に見舞われている。開発は遅々として進まず、それどころかトラブルが頻発してテストすらままならないような状態だったから、新人にしてみればたしかに不運な始まりだった。だがそれにもまして、佐藤自身も悪評が立ってしまう程度にはつまらないミスや事故でレースを失った。モナコGPで真横を向いたジョーダンの黄色い車がトンネルから飛び出してくる映像を覚えている人もいるだろう。チームからの指示で同僚のジャンカルロ・フィジケラに進路を譲ろうとしてラインを外した際にタイヤかすで足を取られ、制御をなくしたのだった。あるいはスペインGPでもフランスGPでもスピンによってリタイアを喫した。デビューの年、直接的な本人の問題でレースを終えたのは実際のところこの3戦だけだったが、それが3ヵ月のうちに立て続けに起こり、悪いことにマシントラブルも重なって、チェッカー・フラッグまで車を運べないドライバーの印象が瞬く間に作られてしまった。シーズン後半にようやく持ち直し、最終戦の日本GPで初めての5位入賞を手にしたものの、結局はその年限りでホンダがジョーダンから手を引いたためにシートを失ったのである。
あるいは、1年目のこの蹉跌こそ佐藤のドライバー人生の歯車を狂わせたのかもしれなかった。1年の浪人を経てBAR・ホンダでレースドライバーに復帰してから2008年の途中に資金難に陥ったスーパーアグリF1が撤退するまでの正味5年のあいだ、彼を肯定的に見ていられた時期は正直なところ決して長くはない。BARが望外の好調に恵まれて当時最強を誇ったフェラーリに追随した2004年も、ジェンソン・バトンが10回の表彰台を記録したのに対して佐藤はアメリカGPの一度きりにすぎず、翌年以降車が戦闘力を失うとそれ以上の勢いで成績を落とした。バトンの契約問題がこじれた末にチームから追い出される形で移籍したスーパーアグリが奇跡のお伽話を紡いだのは2007年の開幕からほんの数戦かぎりのことだ。一方で事故は相変わらず多かった。「多かった」ということ自体が印象によった強調ではあるだろう。しかしたとえば2005年の日本GPでヤルノ・トゥルーリをリタイアに追い込んで決勝レースから除外されるほど厳しい罰を受けた接触は擁護できるものではなかったし、またたとえば最大のチャンスだった2004年のヨーロッパGPでは、ルーベンス・バリチェロのインに飛び込んでウイングを壊し、2位に浮上するどころか表彰台からも転落して最後にはエンジンブローで車を降りた。佐藤はアマチュアだといったバリチェロの感想に反し、わたしは今でも、あの事故の原因を先行する側が無理に空間を塞いだからだと信じているが、待っていたのが辛い結末だったことに変わりはなかった。そしてそうなった以上、どれほど論理的に状況を説明できたところでもはや原因の所在など焦点ではなくなってしまう。どちらが悪いのであろうと不可避のレーシングアクシデントであろうと、佐藤が、「あの佐藤琢磨」が接触した事実だけが否定的な文脈で語られる。彼のレースは時にそういうもので、ゆえに自らレースを失うドライバーという最初の評価が払拭されないまま残り続けた。F1での90戦のうち、完走扱いを含めてリタイアは30回、失格も3回を数える。もちろん彼のせいばかりではない。だが先ほども言ったとおりもう理由は問題でなくなっていた。結果に目を向けたとき、われわれが佐藤のF1の3分の1以上を溜息とともに過ごした事実だけが残っていたのだ。
にもかかわらず、である。これだけ裏切られても、われわれは佐藤琢磨を諦めることができなかった。長い苦悩の時期の中、それでも微かに認められる才能の輝きに――シーズン途中の交代でいきなり入賞し、ミハエル・シューマッハを凌ぐタイムを叩き出し、フロントローに並び、チームの拙い戦略に泣かされながらも日本人2人目の表彰台に登り、激しいテールスライドを完璧なカウンターステアで抑え込んでスーパーラップを完成させ、スーパーアグリをもってマクラーレンに乗るフェルナンド・アロンソを鮮やかに抜き去った瞬間に――直面してしまったせいで、どうしても見捨てられなかったのだ。幾度となく失望を味わい、また繰り返されると学習したはずなのに、ほんの一時煌めく運動があまりに眩しすぎて、失望と同じ数だけ次の機会を待ち焦がれてしまう。手痛い失敗の先にまだ希望はあるのだと思わずにいられない瞬間がその走りには必ず潜んでおり、だからわれわれは次を見込んで視線を外すことができなくなった。次がある、次には、次なら、次こそ……。残した結果ではなく、垣間見える才能が未来に残すかもしれない「次」の可能性だけが彼のもとにわれわれを引きつけ、彼もまたその可能性の力よってキャリアを長らえてきたとすら思えた。舞台がF1からインディカー・シリーズへと移っても、ずっと同じだった。米国でも佐藤は脆く、しかしある瞬間に突如として眩い速さを見せて諦めることを許さないドライバーのままだった。市街地コースとオーバルコースが主体のシリーズで彼はたびたび壁の餌食となってわれわれを落胆させ、一方で、劣勢の車で3位に飛び込んだ2010年ミッドオハイオの予選や、優勝を手中に収めかけながらチームがフルコース・コーションの対応を間違って零れ落ちた2011年サンパウロや、その忘れ物を取りにいくべく68周目のリスタートでフランキッティとエリオ・カストロネベスを纏めて抜き去り、はじめて3位表彰台を手に入れた翌年のおなじくサンパウロなど、美しい瞬間によってわれわれに夢を与えた。
佐藤が凡庸で、才能の見えにくいドライバーだったらどれほどよかっただろうかと考えたことがある。安定しているが特別速いわけでもなく、ただ淡々と周回を重ねていくだけの、毎レース毎レース目立たないがいい仕事をしたと地味に讃えられるだけの佐藤琢磨だったとしたら、きっとこんなに期待し、落胆し、ふたたび次を夢に描き、また裏切られて悶えるほどに焦がれる日々を送らなくて済んだのではないかと。そんな人生がなかったわけではないだろう。ジョーダン・ホンダ、BAR・ホンダ、スーパーアグリF1、KVレーシング・テクノロジー、後にレイホール・レターマン・ラニガン・レーシング、A.J.フォイト・エンタープライゼズ……F3時代の輝かしい実績とは裏腹に、トップフォーミュラに上がって以降、彼が所属した中に勝利を義務づけられる水準のチームはひとつとしてなかった。2002年から2016年の15年間で佐藤のチームメイトが上げた勝利は0だ。佐藤はそういう場所で戦っていた。わずかに好調な時期はあっても、結局のところ勝利を現実の計算として明確な目標に据えられる機会はほぼ皆無だったのである。そうであるならば、順位を拾うレースを繰り返してキャリアをまっとうすることにも一定の価値はあったはずだ。インディカーでなら、もしかするとその中で優勝が転がり込んでくる幸運が巡ってきたかもしれない。だがおそらく佐藤自身がそんな自分を許さなかった。「No Attack, No Chance」のキャッチコピーに集約される理想。勝てなくても仕方のない車ばかりに乗っていたのに、彼だけはいつも勝たなければならないという厳しい信念の枷で自分の心を縛っていたように思える。勝利に、表彰台に、どんな状況であろうとひとつでも上の順位に。それが佐藤琢磨の唯一の正義だった。強固な信念を持つがゆえに、時に限界の一線を越えて破綻し、時にすべての歯車が噛み合って奇跡のような一瞬を見せた。もし彼が凡庸だったとしたら、たしかにこれほど焦がれることはなかっただろう。だがそんなドライバーにそもそも惹きつけられるはずもない。われわれは佐藤琢磨の非凡な落差をこそ愛した。その激流に呑まれて逃れがたく愛してしまい、長い苦悩に付き合わざるをえなかったのだ。
何年も何年も希望と失望の交換は続いていた。2002年にわれわれが佐藤に抱いた期待感は、2005年も、2007年も、2012年になっても、少しも変わらずに保存され続けた――薄まることも、満たされることもなく。彼を追いかけることは、いつまでも証明されぬ才能の証明を試み、いまだ見えない真の姿を発見しようとする旅に他ならなかった。きっとどこかに理想の佐藤琢磨がいて、いつかそこに辿りつけると、みながそう信じていたはずだ。壮絶なスピンを喫した2012年のインディ500は、歓喜と失望の交叉点に生きる彼の、いわば象徴的な集大成でもあっただろう。その情熱はまたしても具体的な結果に繋がらず、しかしまたしても希望を浮遊させて「次」を呼び寄せた。米国の伝説的ドライバーにしていまは自らの名を冠したチームのオーナーを務めるA.J.フォイトが、貪欲に勝利を求め続けた末に散った戦いぶりを見て翌年から自分のもとに置くことを決めたのは知られた話である。フォイトもまた、まだなにも成し遂げていない佐藤琢磨の可能性に囚われたのかもしれなかった。ストーブリーグでなかなか去就が定まらず、年が明けてからようやく契約に漕ぎ着けることを繰り返していた佐藤だったが、それから4年の幸せな時間を偉大な人物のもとで過ごすことになる。その意味でインディ500でのスピンは間違いなくキャリアを延命し、安定させた。そして2013年、ロングビーチGPを迎える。一日千秋と言うなら、もういくつの秋を見送ったかわからなかった。待ちに待った初優勝は、苦しみ傷つき続けた過去とは無関係に、思いがけない大差で手中に収まった。
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2007年のスーパーアグリF1がそうだったように、A.J.フォイト・エンタープライゼズの好調は一夜かぎりの夢だった。ロングビーチの後、目立ったのはサンパウロで最終周の最終コーナーまで先頭を走って2位になったのとミルウォーキーで109周の最多ラップリードを記録したことくらいで、ほかはすべて2桁順位でシーズンを終えている。佐藤の優勝がチームとしては11年ぶりだったことを思えば、むしろそれが本来の姿だった。かくしてたしかな結果を手に入れながら、われわれはふたたび佐藤琢磨を探す日々に戻っていった。今日は速かった、次はもっといいレースができる。前向きな結果の後には、落胆もまた何度かやってきた。ポコノのピットレーンでブレーキをロックさせ、ライアン・ハンター=レイを巻き添えにしてリタイアしたのは苦い記憶だ。優勝の前と後で状況はさほど変わらなかった。相変わらず彼の手元に勝てる車はなく、隠れた才能がまだ奥底に眠っているようなもどかしい感覚だけが周囲を浮遊していた。
忘れがたいスピンを喫した2012年は、35歳となる年だった。一般的には肉体的負担の大きいトップフォーミュラでの戦いが終わりに近づいていくころだ。残された絶対的な時間はどう考えても多くない。次、次、次……消費していけば時間の流れの前にいつか「次」は尽きてしまう。だとすれば、あのインディ500とロングビーチは、もしかすると佐藤琢磨の辿りついた佐藤琢磨らしい最後の場所になるかもしれなかった。もう次はない。希望と失望を繰り返しながら輪郭をほのめかすだけで10年以上も証明されなかった才能は、ついに存在を確かめられないまま終わる。なかったとも、あったともわからない。そんな結論を導いて総括してもいい頃合いだった。失望の果てに打ち捨てるのではない。ただ静かに、佐藤琢磨を探す旅を未完のままにやめるだけだと。
だが今季、A.J.フォイトが搭載エンジンをシボレーへ変更することを決意し、ホンダから離れるわけにはいかない佐藤は結果としてアンドレッティ・オートスポートに移籍した。どんな楽天家でも40歳を迎えるスポーツ選手の環境がすべて好転すると想像するのは容易ではないが、彼はとうとう自らの信念とチームの視線が寸分違わず一致する強豪へ移ったのだった。新しい次が継ぎ足され、そしてその日は本当に訪れた。そう、苦難の果てに、佐藤琢磨はインディアナポリス500マイルを勝った。速さと、冷静さと、チームをミスから救い出す力強さと、技術に溢れたアタックのすべてを完全に兼ね備えて、100年の歴史を誇る世界一のレースに勝ったのだ。レース中盤、ピットの不手際で大きく順位を落としながらも少しずつ元の位置に戻り、やがて176周目のターン1でオリオール・セルビアを、さらに179周目のおなじコーナーでカストロネベスとエド・ジョーンズを大外から纏めて抜き去ったのがすべてだった。最高級の鮮烈なパッシングによって先頭を行くマックス・チルトンの背後につけたことで、佐藤は正面から優勝争いに飛び込む権利を手に入れた。2度のイエロー・コーションを経て最後の11周、ダウンフォースを少なめに設定していたらしいチルトンは直線が速くなかなか仕掛ける機会を持てなかったが、レースが残り5%を切ってもなお焦るそぶりは一切見せず、カストロネベスに抜き返されても泰然と機を窺い続けた。我慢は実った。カストロネベスの執拗な攻撃にさらされたチルトンは先頭を守りきれず、乱気流を受けてとたんに失速すると、ホームストレートで佐藤をも振り切れなくなる。残り6周。標的が入れ替わる形で2番手に戻ったことで勝機は広がった。この日のアンドレッティにとってはチップ・ガナッシよりチーム・ペンスキーのほうがわずかに与しやすい相手だった。アンダーステアの徴候を来し加速の鈍ったカストロネベスを、佐藤はまたしても外からパスしていく。インサイドに活路を求めインサイドに散った5年前とは違い、この日の佐藤はだれよりも強いアウトサイドの支配者だった。一本しかない道を突破しようとするのではなく、内も外も、自在に選び取ることのできたこの奥行きの深さが勝因の一つだっただろう。199周目、最後のチャンスに賭けてアウトから迫ろうとする相手にラインを与えず封じ切って、勝負は決着した。ホワイトフラッグが振られたターン1、一度失速したカストロネベスはもう届かない場所にいる。ターン2を立ち上がっても、バックストレートを抜けても、近づくに能わない。ターン3、ショートストレート、最後のコーナリング……。もう何も起こるはずはなかった。
日本人として初めてのインディ500制覇。手に入れたタイトルの重みを思うだけで身は震えよう。だが最後の5周、興奮を通り越して声すら出ず、呆然と涙を流しながらレースを見つめていたのは、ただ成し遂げた事績の大きさゆえばかりではない。この日の彼は信じられないほど完璧だった。速さという土台に築かれた奥深い駆け引き、自らの信念と折り合いをつけて勇敢さと自制心を両立させたアタック。逆境を跳ね返す決然たる意志とその意志をタイヤのグリップの中に収める冷静さが均衡する精神力。ライバルへの敬意。チームのクルーやスタッフに置く全幅の信頼と車に対する絶対の自信、そして不運にまみれないこと。いままでけっして揃わなかった要素がすべて噛み合ったとき、彼はこれほどまでに強く、美しく、鮮やかで、完全なレースをやってのけてしまう。これがわれわれの見続けた佐藤琢磨というドライバーだった。2002年のころから、きっとみなこの佐藤琢磨を探し求めていた。幾多の事故に失望し、不安に駆られ、それでも目が離せなかったのは、佐藤琢磨の理想がどこかで形をとって現れることを信じていたからだ。15年の時を経てそれは現実となった。佐藤が信じた自分は間違っていなかった。それを信じたわれわれもまた間違っていなかった。2017年のインディ500は、ただ日本人がはじめて優勝したという偉業であると同時に、あるいはそれ以上に、きっと佐藤琢磨にまつわる全員の信念が結実した瞬間だったのである。
真実の佐藤琢磨を探そうとする旅は、今度こそ本当に終わりを迎える。もちろん彼の現役生活がこれで終わるわけではない。偉業の興奮が収まれば、今度はシリーズ・チャンピオンへの挑戦も待っている。ふたたび歓喜の時が訪れ、また失望する時が来るかもしれない。だがだとしても、見え隠れするばかりだった才能の証明を求め続ける必要はなくなった。もう次を渇望し、理想への想像を巡らせなくてもいいのだ。そこに佐藤琢磨がいることは、たしかに証されたのだから。2017年5月28日のことである。われわれが追い続けた日本人は、われわれが理想とした以上に尊く、この世で唯一の牛乳を飲むに値する最高のレーシングドライバーなのだと、世界中が知った。
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今まで漠然と思っていたことを秀逸な表現の文章で形にして貰いました。
ありがとう。
全部が腑に落ちる文章でした。
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