【2021.7.4】
インディカー・シリーズ第10戦 ホンダ・インディ200・アット・ミッドオハイオ
(ミッドオハイオ・スポーツカー・コース)
レースは80周目、すなわち最後の周回を迎えている。2番手を走るマーカス・エリクソンが、画面の端からひときわ勢いよく左の低速ターン6へと進んでいき、下りの旋回で一瞬後輪の荷重が抜けたのかゆらりと針路が乱れたのを認めたときには、瞬時のカウンターステアですぐに体勢を立て直し、さらに坂を下りきって切り返しのターン7へと駆けていくのだった。0.6秒強のすぐ先には、何度かの不運によって今季いまだ優勝のないジョセフ・ニューガーデンが逃げていて、エリクソンの意志に満ちた旋回と比べるとずいぶんに余裕を持って、それとも必要以上に緩慢にこの小さいS字コーナーを回っているように見える。カメラが横に流れ「HONDA」のロゴマークを掲げたゲートをくぐる2台を見送るとすぐ、今度はターン8を斜め前から見下ろす画面へと切り替わって、やはりのたりとした印象を伴いながら向きを変えるニューガーデンと対照に、エリクソンは明らかにブレーキングを遅らせて高い速度で進入し、内側の縁石に片輪を少しだけ深く載せたと思うと、後輪だけが外へ流れ出して進行方向が急激に変わるのである。なめらかな曲線が乱れ、フロントノーズを巻き込んであるいはスピンに至るかとさえ見えた次の瞬間、しかし再度のカウンターステアによってチップ・ガナッシ・レーシングの赤い車はコーナーの出口に向き直す。曲線はあるべき形を取り戻し、ターン9へと続いてゆく。
登りながら進入し頂点から脱出へ向けて下りに変わるこのコーナーで、坂の陰から姿を現したエリクソンは頂上でまた均衡を崩し、四輪ごと外に滑っていこうとするが、みたびカウンターを当てて事なきを得た――目を瞠る、勝利の渇望が表層に溢れた、感情的な運動がつらなる。もっともその情動は一方で、速く走るためには明らかに行きすぎで厳然たる無機質な効率を欠いており、ターン9を立ち上がった先、「雷の谷」と名付けられた急激な下りの直線からターン10にかけて2台の差がかえって0.8秒にまで拡がる結果をもたらすことにもなる。それからチェッカー・フラッグまでにコーナーはもう3つしか残っておらず、高速で飛び込むターン11にも、最後の大きなブレーキングを要するターン12「カルッセル」にも、最終ターン13にも、逆転の機会は与えられなかった。ニューガーデンとチーム・ペンスキーは10レース目にして2021年の遅すぎる初優勝を遂げ、エリクソンは0.8790秒差の2位に留まった、そんな結果がインディカ-・シリーズの10戦目に残されている。
このミッドオハイオの、特に最終スティントに現れた顛末を、今季のインディカーへと敷衍してみようとしても、さほど突飛な試みではないかもしれない。たとえば、チーム・ペンスキーはトラブルや展開の綾にさんざん翻弄されて、勝てたはずのレースをいくつか落としもした。そういうときに頼みとなるのは結局速さ以外にない。だから彼らが勝利を得るとしたら、ゆらぎの少ないレースを最初から最後まで主導するような形でしかありえないだろうと推測され、実際ミッドオハイオのニューガーデンはポール・ポジションから後続との差を少しずつ拡げてどのスティントでも先頭を譲らずに逃げ切ってみせた。そのように勝つしかなかった、ということでもあろう。だがまた、80周のうち73周をリードしたそのレースは、数字上の割合ほど支配的であったわけでもなく、むしろ不安に苛まれる収束を迎えもした。今季のペンスキーがここまで敗れ続けた理由は、ただ不運に泣き続けていたからだけではなく、まさにこうした支配的なレースを支配しきれない、わずかながらの根源的な速さの欠如にもあったからだ。デトロイトのレース2を思い出せば、スタートから67周目まで1周も洩らさず先頭に立ち続けたニューガーデンは、しかし最後の3周でタイヤの限界を迎えてパト・オワードに手もなく捻られ、7秒弱の大差をつけられて2位に甘んじている。レースの要諦で盤石に地位を固めるどころか追い詰められていく展開は、このミッドオハイオでも変わらなかった。65周目の時点でエリクソンと7.3秒を隔てていたにもかかわらず、わずか15周で背中を脅かされてかろうじてチェッカー・フラッグへと辿り着いた、安堵を伴う優勝だったのである。(↓)
もちろん、これはレースの場面の一部しか切り取っていない見方である。ニューガーデンは最終スティントでエリクソンにこそ追い詰められたものの、3位以下に対してはつねに速く、20秒以上の差を築いてゴールしたからだ。だがそうだとしても、彼がレースのすべてを制圧できなかった事実はあって、その不完全さが、ようやく得た初優勝もまだ勢力図を塗り替えるほどではなく、大局的には今季の趨勢の範囲の中にあることを思わせる。これまで何度も見たレース展開のなかの、ありうべき結末のひとつ。そういう意味で、このミッドオハイオは2021年のシリーズとたしかに相似形をなしている。
そしてこの相似は、唯一位相の異なる速さを身にまとってリーダーを追いかけ、追い詰めた存在がエリクソンだったことにも見えてこよう。昨年以前を思うと、ペンスキーの前にチップ・ガナッシが立ちはだかるとすれば、すなわちそのドライバーはスコット・ディクソン以外にありえなかった。ペンスキーにとってディクソンこそが唯一無二の敵であり――事実過去の結果から明らかだ、2013年以降、ペンスキーがシリーズ・チャンピオンを逃したとき、戴冠したのはかならずディクソンだった――、チップ・ガナッシにとって頼れるドライバーはいつまでも唯一ディクソンしかなかった。ライアン・ブリスコー、トニー・カナーン、チャーリー・キンボール、マックス・チルトン、エド・ジョーンズ、フェリックス・ローゼンクヴィスト、その他のスポット参戦者たち……インディカーを見つめるファンならきっと名前をよく知った、才能に欠けるとは思われない面々が、しかしだれもかれも、時折目を引く速さを見せるだけに留まってディクソンに及ばずチームを去った。それが今季に入って様変わりしている。移籍してきたばかりのアレックス・パロウはディクソンより先にシーズン2勝目を上げて10戦目でもまだ選手権をリードする立場にあり、2年目のエリクソンもとうとうインディカ-初優勝を果たした。もちろん、その優勝はウィル・パワーの不測のトラブルによる幸運な拾得物であったのはたしかだが、しかしペンスキーが取り落してしまったものを拾ったのがディクソンではなくエリクソンだったことに、このチームの仄かな変化を感じもする。今回もそうだ。チップ・ガナッシは3台で2位から4位を占めたが、勝利への意志をもってリーダーを追いかけたエリクソンがいて、爆発的ではないが堅実で十分に速かったパロウが続き、さらに10秒離されたディクソンは数台が連なる後続の隊列の先頭としてゴールするしかなかったのである。ディクソンはレースの戦いの場に姿を現せず、「観客」のひとりとなって4番目の順位を得るに留まった。2021年がチップ・ガナッシにおいて絶対的だったエースが立場を軽くしていく年となるのだとすれば、このミッドオハイオは、それを象徴的に示す相似のレースと見ることもできるだろう。(↓)
本来ならディクソンが担うはずだった敗者の役割を、エリクソンが負った。たとえこの一戦のなりゆきにすぎなかったのだとしても、その事実には意味がある。「敗れる」とは、特別な地位に自らを導くことだ。敗北とは単に優勝できなかった結果を、優勝以外のすべての順位を意味するのではない。そうではなく、いまレースの流れの中に埋没しようとする自分の場所を飛び出し、リーダーを、前を走る敵を追いかけて力を尽くし、すべてを擲ってなお及ばなかったときにのみ生まれる精神の昂揚である。誤解を恐れず言えば、優勝するのはある意味で簡単だ。先頭でチェッカー・フラッグを受ければそれで済む。すべての成立したレースにはかならず、どんな形であっても1位となる者がいる。それこそデトロイトのエリクソンが、望外の形でそうなったように。だが敗者は、かならずしもそこにいるとは限らない。敗れる精神を伴わず順位を得た者を敗者とは呼ばない。勝利を諦め、自らレースを閉じようとする者にその昂揚は与えられないのだ。だとすれば、まさに敗れたエリクソンのなんとすばらしかったことか。彼は美しい敗北の物語を紡いだ。ターン6の乱れ、ターン8の緊迫、ターン9の恐慌、そしてその3つのコーナーに至るまでの、7.3秒を埋めた15周の長い長いスパート。彼が示した意志は今季のどんな場面よりも情熱的で、抜きどころの少なく隊列の連なりやすいミッドオハイオの最後に膨大な熱量を供給したのだった。そうして、破綻の際を抑え込み、敗色が限りなく濃くなったカルーセルになお小さく入り込み、何度も修正舵を当てて駆け抜けていく。レースがコーナー2つを残すのみとなっても、弛まず前だけを見据える情動の現れだった。
勝者に匹敵する、あるいは勝者をも凌ぐ速さと、その速さを勝利のためだけに注ぎ込むこと。そのふたつが両立して、人ははじめてレースに「負ける」ことができる。意志だけがあっても、後方に埋没していれば甲斐はない。速さを持っているのに、順位を守るために用いるのは堕落にすぎない。そうした振る舞いに甘んじる者は敗者たりえない。正しく敗者になること。勝利と紙一重の敗北に塗れること。それは優れたドライバーの証で、裏を返せばそういうドライバーだけが本当の、正しい勝者になることもできる。かつてのディクソンのチームメイトは、思えば勝利以上に敗北の物語こそが不足していたし、ゆえに彼らのだれもディクソンに及ばなかった。だが今季は違う。インディアナポリス500でのパロウといい、チップ・ガナッシにはディクソン以外の優れた敗北が現れはじめている。いま、ニューガーデンを追い詰めて届かなかったエリクソンも、とうとう彼自身の物語を得た。なかば幸運によって得た初勝利より、この2位こそが彼の価値を限りなく高めただろう。このミッドオハイオは、そういった新しい発見を得るためのレースだった。ずっと似たような時代が続いてきたインディカーにも、微妙な変化が訪れていることが、ニューガーデンとエリクソンの戦いを見るとよくわかる。ペンスキーのぎこちなさや、チップ・ガナッシの変容。その過程を知りたいと願うなら、まずこのレースから振り返ってみるべきなのだろう。■
Photos by :
Matt Fraver (1, 4, 5)
Joe Skibinski (2)
Chris Owens (3)