【2014.8.17】
インディカー・シリーズ第16戦 ウィスコンシン250
わたしにとってはインディカー・シリーズとF1だけがその対象になるのだが、ひとつのカテゴリーをずっと追いかけているとレースで「これから起こること」が大まかに予想できるようになってくるもので、たとえば前回書いたようにジョセフ・ニューガーデンが優れた才能を見せているときに限ってパフォーマンスに見合った結果を得られないことは、過去の経験の積み重ねによって導かれる結論なのだといえる。もちろんそれが統計的・科学的な意味のないバイアスのかかった経験主義であることは承知のうえであり、人間の悪い性として、繰り返される偶然的な悲運に自分勝手な物語を見出してしまっているに過ぎない。しかしたとえばこのミルウォーキーでつねに表彰台を争える位置を走っていたニューガーデンが、ライバルと異なるピット作戦をとったがために希望のない5位に終わった――悪くはない、悪くはないのだが――結果を見ると、どうしても物語に繰り返しの一行を書き加えたくもなってしまう。かつてそうだったように、またしても、彼は勝てるかもしれなかったレースを失ったと。
そういった意味において、131周目にカルロス・ムニョスがターン4のセイファー・ウォールに接触したことで導入されたフルコース・コーションは、レースを真っ二つに裂く展開の分かれ目になる物語の始まりとなってもおかしくなかった。序盤でスピードを誇ったリーダーが時間の経過と同時に好調の芯を外していく光景は珍しくもなく、というより250マイルも走っていればおおむねそうなることのほうが自然で、われわれは何度も、ポールシッターや最多ラップリーダーがふとした拍子でオーバルコースの中に敗れ去る瞬間を見てきたのである。まして、このときほとんどすでに最多ラップリードを確定させるほど圧倒的に速かったウィル・パワーは、ニューガーデン同様にこのコーションでステイアウトを選択していた。マルコ・アンドレッティを含めたった3台しか採用しなかった少数派の作戦が正解なのかどうか、その時点ではわかりようもなかったが、レース後に「捻った作戦が裏目に出て、ポイントリーダーは選手権に必要な順位を捨て去ってしまったのだ」と書かなければならなくなる未来は当然にありえただろう。告白すれば、あのとき実際にわたしが見出そうとした物語はコーションによって切り裂かれるレースそのものだった。たぶんパワーは失敗するだろうと思い、それによってもたらされる選手権の混戦についても書く準備ができていたほどだ。知ってのとおりその浅はかな予想は簡単に裏切られることになったわけだが、自己弁護が許されるなら、おなじ作戦を採ったマルコがリスタートの3番手から13位まで順位を落とした惨状からして、見当外れなだけの予想でもなかったように思う。結局、ただ単にパワーひとりがいつまでも、つまりスタートからゴールまで、スティントの最初から最後まで、あまりに速すぎた、それだけのことであった。引用すべき物語はオーバルでありうべきそれではなく、ペナルティを受けながら2位へと舞い戻った、今年のテキサスだったということだろう。作戦が一般的な観点からは間違っていたのだとしても、パワーはふたたび「速さによって自分自身を救った」のだった。
もしこの日のパワーが常識的な範囲で速いドライバーに過ぎなかったなら、140周目のリスタートから10周も経たないうちにトニー・カナーンによって先頭の座を奪われていただろう。コーションでステイアウトしたパワーはピット作業を完了したばかりのカナーンより14周も古いタイヤを履いており、そしてミルウォーキー・マイルは明らかに使い古したタイヤを嫌っていた。しかし、文字どおりコーションが明けると同時にマルコとニューガーデンをやすやすと攻略した新品タイヤのカナーンをもってしても、パワーを捉えることはできなかった。せいぜい一度か二度ばかりインを窺うバトルを仕掛けることに成功しただけで、それもチョップで沈められるか、懐にこそ飛び込んだものの踏みとどまれず、逆にハイサイドでスロットルを開けるパワーに呑み込まれる結末を迎えた。そしてカナーンのタイヤが15周程度であっさりとグリップを失いつつあったころ、パワーはさらに15周古いタイヤでベストラップを叩き出して、観客全員に信じがたいものを見たと思わせて諦念の苦笑を導いてしまうのだ。カナーンはなんとか後ろに食らいついてはいたものの、それでもまだ100周ほどを残していたこの時点でチェッカー・フラッグが振られレースが終わってしまっても、大した違いはなかっただろう(実際、結果を見ればそのとおりだ)。もちろん集中を欠かせない当人にとっては楽な戦いではなかっただろうが、無責任な傍目からは快適なクルージングの時間に見えるものである。よい旅を、と言いたくなるくらいに。実際、コーション中の133周目から187周目、そしてピットタイミングのずれを挟んで193周目からフィニッシュの250周目まで、パワーはラップリードを記録し続けた。周回遅れの集団に捕まるなどほんの少しの危険な時間帯はなくもなかったが、最後には選手権の可能性をほとんどなくしている同僚のファン=パブロ・モントーヤに背中を守られて、選手権を引き寄せる優勝を手に入れたのだった。たった1回のコーションがレースに瑕をつけるという何度となく見てきた物語は、勝手で安直な想像でしかないということであって、パワーがその速さによってあらゆるできごとを吸い寄せたミルウォーキーに、事件の起こる気配は、レースが引き裂かれる可能性は、どこにもなかった。
2010年のウィル・パワーは、ポイントリーダーとして迎えた最終戦で25位に終わり選手権を失った。次の年も、また次の年もそうだ(厳密に言えば2011年の「最終戦」については本来なら註釈が必要だが、本題ではない)。インディカーの風景の中に彼が数年をかけて積み上げてきた物語があるとすれば、それはだれもが知るとおりシーズンの最後の最後に敗れるドライバーというものである。ロード/ストリートレースのスペシャリストとして名を馳せていた彼はオーバルコースで行われる最終戦を前に重圧に押しつぶされたような不安に満ちた顔をし、悪い予感を的中させて予定された物語どおりの結末を迎えると、途端に絶望を思わせながらもどこか安堵の混じったような表情を見せた。そんなふうに落ち着きなく心情の変化を表面に出してしまうレースが3年も続けば、だれしもその帰結に意味を付与したくなる。昨年ついに、選手権と無関係な最終戦となったフォンタナで衒いなく圧勝したことすら、技術的な面においては弱点のオーバルを克服してシリーズチャンピオンへの前途を照らす結果であるように思われたが、しかし同時に精神的な面においては最後に選手権を失う彼自身の物語性を強化したようにも思えた。
いま、パワーは39点差を持ってシーズン残り2戦に臨もうとしている。次のレースは得意とするソノマだから、余程のことがないかぎりポイントリーダーの立場で最終戦を迎えることになるはずだ。またフォンタナがポイント2倍に設定された500マイルオーバルであるために、ソノマで王者を決められないことも確定している。8月31日までのあいだに、きっとあの3年間のことはさまざまな人の口の端に上り、直接間接を問わずパワーを圧していくだろう。われわれは最終戦の彼についてどうしても敗北の悲劇を見てしまう。それは彼自身が積み上げてきた歴史が発生する重力そのものだった。
パワーはあるころから、己の物語の重力に引かれていく場面が多くなった。ロードで他を圧倒しながらオーバルで沈む男、ベビーフェイスの裏に粗野な面を隠し持ち、自分本位のドライビングに身を任せる男、追い詰められると途端に余裕をなくし、ともすればすべてを周囲の責任にする男――インディカーを見続けている人には馴染み深い彼の個性は、時を経るごとに印象深いできごとによって物語化され、キャラクターとして認識されるほど固定されていった。その最たるものがあの3年間の最終戦だったのだと言えるだろう。振る舞いによって物語を著し、そうし続けることによって強固に形成された自らの枠組みから抜け出せなくなって悲劇、ときには喜劇を再生産する。そして新しい物語もまた枠組みとなって、自分自身を押さえつける……。2010年からのウィル・パワーは、かいつまんで言えばそういうキャリアを積んできたのだ。
だがそれも終わりにしていい頃合いだ。ミルウォーキーに想像されたのが作戦の失敗によってレースが切り裂かれる物語だったのだとしても、そして実際その物語にまみれたドライバーがいたとしても、パワーだけはただ速さによってそれを断ち切った。以前書いたようにスピードはドライバー自身を救う何より得難い友人であり、それを手放さないかぎり、パワーはきっと過去に積み重ねてきた自分の重力から逃れることができるはずだ。かつて彼を阻んできたダリオ・フランキッティはもはや馬上の人ではなく、パワー自身もオーバルに泣き濡れるドライバーではなくなった。そうやって時間の流れの中に役者は少しずつ変化している。気づけば、物語の書き換えも望まれるときがきたのだろう。