【2015.4.12】
インディカー・シリーズ第2戦 ルイジアナGP
テレビ画面の向こうに見るかぎり、ルイジアナ州最大の都市ニューオリンズから南西に約10マイル、Lake Cataouatche(カタウアッチ湖と書くのが近いのかどうか、いまひとつ確信は持てない)の北岸に位置するノーラ・モータースポーツ・パークは、4年前に開業したばかりというわりに新しさを感じさせてこないサーキットで、初開催とは思えないほどすんなりインディカー・シリーズの風景になじんでいる。F1で次々と採用されるヘルマン・ティルケ設計のサーキットをはじめ、FIAグレード1に準ずるレーシングコースの多くが正規コースの外まで黒いアスファルトで舗装しているのにすっかり慣らされてしまった身にとって、敷地の大部分が緑で覆われ前近代的な風情を漂わせるノーラはもはや新鮮にさえ映り、これが米国のロードコースのありかたなのだという感慨を呼び起こしもするのだった。
長いストレート後にある最大減速区間の先こそ舗装されているが、大部分のコーナーで芝やグラベルトラップの砂が侵食しようかというほどアスファルトに迫り、コースとコース外に厳然たる境界線を引いているさまは、「コースの外の舗装」がドライバーのミスに対して必要以上の寛容をもって接している現在の趨勢よりも好ましいものに思える。たとえばシモン・パジェノー、ライアン・ハンター=レイ、セバスチャン・ブルデーの3人が束の間にレースから去った多重事故は、近代サーキットでは決して起きえない類のものだ。44周目ターン3から4にかけて、パジェノーがいう「ハンター=レイが自分にラインを与えず押し出してきた」のが正しいのか、ハンター=レイの「パジェノーが入ってくる空間はなかった。プロの動きではない」という言葉に理があるのかはともかく(といいつつわたしとしては個別の現象に言及するパジェノーに対して「入ってこなければいい」と一般論的な遠因に立ち返ろうとするハンター=レイの主張は議論の強度として分が悪いと受け止めている。なお純粋な被害者であるブルデーは同国人のよしみかパジェノーに理解を示しているようだ)、3ワイドの最も外にいたパジェノーが片輪をコース外へと落とした瞬間に車の制御を失ったのは、そこが降りしきる雨によって濡れそぼつ芝だったからに他ならない。白線によって仮想的に分かたれるのではなく、物理的な危険地帯として広がる「走ってはならない場所」は、立ち入ったドライバーに厳しい罰を与える。絵に描いたようなスピンでパジェノーの意思と切り離された22号車が駆動とはまるで無関係な方向へと滑っていき、ハンター=レイとブルデーを巻き込んでタイヤバリヤへと吸い込まれるさまは、本来モータースポーツの勇気と蛮勇が違う地平に存在し、足を踏み外したものを容赦なく突き落とすのだということをあらためて思い出させる。欧州に目を向ければ90年以上の歴史を誇るモンツァ・サーキットの難所パラボリカさえグラベルトラップを廃してアンダーステアを甘やかす時代だ。新規性の横溢によって失われていくものがある中、幸いだれにも怪我のなかったこの事故を演出した一事だけをもって、新しいはずのノーラ・モータースポーツ・パークは古めかしいことの価値を証明したと言ってよいだろう。こういうサーキットがまだ生きていく場所がある事実に、われわれは安堵できたりもするのである。
が、なにもかも手放しで褒められるものではなく、擁護できるのはそこまでだ。週末を通して降り続いた雨はこのサーキットの過酷な古きよき価値観を強調したが、あいにく新しいことの意義であるはずの機能性に欠陥を抱えているらしい――設備まで古くさい必要などないのだが――ことをも露呈してしまった。記念すべき初開催に合わせておそらく想定をはるかに超えた雨が到来したのは不運だったとはいえ、それにしてもコース全体にわたって排水性能は拙劣だったようで、とくに最終ターン付近に設けられた退避場所に溜まった水がコースへと流れ出して川を作っていたのは呑気にテレビ観戦に興じている立場からもお粗末に見えたものだ。雨の休まった決勝中はレーシングラインが乾いてドライタイヤを履いたほうが速い局面さえ訪れながら、一方でひとたび進路を変えればまったく消える気配のない水たまりの群れが待ち構えて、レースに過度の混乱を招いた。6回振られた黄旗のうち少なくとも3回は排水が機能していれば起きなかった事故を原因とし、それがなければもう少しレース全体が締まったかもしれない。全47周のうちフルコース・コーションは26周、最初にコーションが導入された16周目から数えると、ゴールまでの32周の間にレースが行われたのはほんの6周だった。その間完全なレーシングコンディション下に置かれた周回は、39周目のたった1周きりである。
そんなレースとも言えないレースの優勝者がジェームズ・ヒンチクリフだったことについて、率直に言えば語る理由はまずない。「戦略が当たった」と見出しを掲げるニュースもあったりはするのだが、大雨の懸念から開始時刻が1時間早く繰り上げられ、レース時間も120分の予定が直前になって105分へと短縮されたうえ、コーションの濫発によってゴールが勝手に近づいていった日曜日に戦略を問うても教訓を見出すことは難しい。「賭けに勝った」ならまだ実態に近いだろうか。いやそれも、はたしてヒンチクリフとシュミット・ピーターソン・モータースポーツに「賭け」に値する信念がどれだけあったかは疑わしいものだ。47周目にチェッカー・フラッグが振られたのはいかなる意味においても予定になかったまったくの偶然で、その不確定な瞬間に向けてなにかしようとすることはだれにとっても不可能だった。だから「戦略」や「賭け」といった積極的な意志が勝利を呼んだなどと意味づける必要はない、むしろ先頭に立つ機会があったので従ってみただけのヒンチクリフを、なぜかゴールのほうがわざわざ迎えにいってしまった、というくらい理解しがたいことが起きたとして無意味に還元するほうが、このレースを解釈するにふさわしいのではないかと思うのである。物事を深く探るばかりが優れた態度ではない。
べつにヒンチクリフ2年ぶりの優勝を貶めようという意図はまったくなく、わたしはどんなレースにもそういう勝利があっていいと考えている。「幸福な家庭はみな一様に似ている」とは有名な『アンナ・カレーニナ』の冒頭だが、レースの勝者は「結果表の一番上に名前が載る」という共通点によって、お互いの価値をある面では一様にする。「不幸な家庭がいずれもそれぞれに不幸である」ように敗北の形が多様で定まらないのとはまったく反対に、勝者はあらゆるレースでかならず1人選ばれるゆえに同質性を持つ存在で、内実にかかわらず一番にゴールした事実だけでトロフィーを高らかに掲げる権利を手にする。それはレースそのものが描き出した価値とはまったく別にあるものだ。なにがどうだったのであろうと、表彰台の上で満面の笑みを浮かべたヒンチクリフには優勝したことだけで讃えられてよい。だれかにとって幸運が舞い込んでくる日というものがモータースポーツには年に一度くらい訪れる、それだけの話だ。
それに、このレースにならなかったレースがいかに難癖をつけたくなるものだったとしても、影響はきっとこの1回きりで今後に波及したりはしないだろう。2015年のシーズンが終わってみて、雨で失われたルイジアナGPが選手権の行方を大きく揺さぶったと振り返らなければならない事態は起きないはずだ。一昨年3勝(これはドライバーが挙げた勝利数としてこの年2番目に多いものだった)したにもかかわらず選手権にまったく絡めず、アンドレッティ・オートスポートを放出されてすでにキャリアの階段を下り始めているヒンチクリフが今後ポイントを大きく重ねていく姿は想像もできないし、3位のジェームズ・ジェイクスや4位のシモーナ・デ・シルベストロがチャンピオン争いを演じる展開になど1ドルだって賭けたくない。ファン=パブロ・モントーヤとウィル・パワーの順位は2つしか違わず、それなら開幕戦の攻防のほうがよほど結末を左右する点差である。唯一痛恨だったのはパジェノーだが、しかし事故の結果は原因がどうあれ自分自身で引き受けなければならないものだ。結局、われわれはルイジアナが波乱に満ちたことだけを覚えて、あとのことをすべて抽斗に仕舞っておけるだろう。次の日曜日、ロングビーチをチーム・ペンスキーが支配すればなにもかも元通りになる。コーションでレースが壊れるまでの間、勝利の可能性を感じさせたのはセント・ピーターズバーグ同様このチームだけだったのだから。
だったら――。この日チームでひとりうまくやって2位に残ったエリオ・カストロネベスの存在は選手権に大きく関わると言えるかもしれない。しれないのだが、わたしはそれに首肯するのを躊躇ってしまう。たしかに、狙って獲ることが難しかった表彰台に登った彼は、インタビューでいつものように自分を支える仲間に対して感謝を述べ、人の良さそうな笑みを浮かべていた。その姿に抱くのは好感ばかりであるのだが、こうしたレースで上位に残って選手権を生きながらえていくのは過去2年の経緯をも髣髴させすぎる。一昨年ディクソンを襲った不運や昨年2倍ポイントレースで稼いだ得点によって最終戦まで戦ったカストロネベスは、その計算上の可能性よりも遥かに頼りないレースしかできずにシーズンを過ごしていた。どちらの年も、優勝という絶対の価値を伴わない順位、気づいたら5位以内でゴールするといった敗北と呼べない敗北で手にした「数字上の収穫」が彼に力強さを与える機会は訪れなかった。彼にとっての得点とは選手権への駆動力ではなく、延命装置を機能させるだけのものだった。何かしたわけでもなく2位になったルイジアナGPもまた、だから同じようなものではないかと、どうしても経験的な推測を振り払うことができないのだ。
ルイジアナの結果がシーズンを左右しないとは、そのようなカストロネベスの存在感も含むものだ。なるほどここで得た40点は大きな価値があるように見える。だが強力なチームメイトであるモントーヤやパワー(あるいはパジェノーを含んでもよい)がほとんど不可避の不運に泣いたレースでひとりだけ展開を味方につけて笑えてしまうことが、じつのところ逆説的にカストロネベスの弱さを証明したようにも見える。つまり選手権を争わないであろうドライバーたちの近くでゴールしたとは、そういう相手と似たような動きをしたという意味でもあるからだ。レースを支配しかけたペンスキーであるならば、波乱に満ちた展開によって損をすべきだったとさえ言いきれよう。そうならなかった、できなかったカストロネベスは、「実力以下の高得点」という捻れた分不相応の結果を得てしまった。その結果は、まちがいなく計算のうえで彼に有利を与えたが、この2年の経験上、精神の充実をもたらすと確信させるものではない。
もちろん得点は絶対的なもので、レース展開によって恣意的に増やされたり減らされたりなどしない。事実いまのインディカー・シリーズ公式ウェブページを見てみれば、カストロネベスは普段見たことのないような真顔で堂々とランキングの2番手に載っている。何が不満なのか、それこそ難癖ではないかと怒られるだろうか。たしかに自分勝手な解釈の仕方であることを否定するつもりはない。だが、黄色に塗れた波乱の影が色濃く残っているこの段階で選手権を戦っているベテランを現在のわたしがまだ信じきれないのも、否定しがたい心情なのである。