【2015.6.27】
インディカー・シリーズ第11戦 MAVTV500
一度も足を踏み入れた経験がないにもかかわらず、1999年10月31日に起きた不幸なできごとによって、わたしはフォンタナという土地の名前をけっして忘れられないものとして記憶しつづけている。将来を嘱望されていたCARTの若手ドライバーだったグレッグ・ムーアの身に降りかかった災厄は、日本に住むひとりの高校生がはじめてモータースポーツで喪失感を抱いた事件でもあった。それはずいぶん身勝手な感情の現れ方だったといえるかもしれない。その5年前にF1を襲ったローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの事故死も、1996年にインディアナポリス500でポールシッターだったはずのスコット・ブライトンが永遠にスタートできなくなってしまったことも、同じ年にCARTトロントでジェフ・クロスノフの車が二つに裂けてしまったことも、またフォンタナのほんのひと月前にゴンサロ・ロドリゲスがラグナ・セカのコークスクリューに散ったことも、誤解を恐れずいえば流れてくる一つのニュースに過ぎなかったのに、まだ24歳だったムーアの突然の死だけが、心に大きな穴を穿っていったのだった。わたしはあのとき、自分の英雄を失う最初の経験をした。
ムーアの死だけを特別に受け止めている理由はいくつかある。ラッツェンバーガーとセナが世を去ったときはまだ中学生で、そのイモラに至るまでの足跡を自分の人生で見てきたことの一部として感じ取れるほど成熟した人間ではなかった(活躍していたころは子供に過ぎ、書物の上の伝説として割り切れるほど知らないわけでもないという意味で、わたし自身のセナに対する思いはたぶん前後の世代に比べて中途半端だ)。1996年当時はクロスノフが日本で走っていたという知識を持ち合わせているほど熱心といえず、31歳のカナダ人は数多いる後方のドライバーとしての認識に留まっていたし、ロドリゲスの悲劇は練習走行中に起きた事後的に知る種類のものだった。すべて悲嘆すべき事件だったのは間違いないが、しかしわたし個人の感情にとってはおそらくそれぞれに何かを欠いていたのであり、翻ってムーアの事故はすべて決定的な巡り合わせで起きた――理性を伴った感受性が高まる18歳のころ、その走りに一喜一憂するほど愛していたドライバーが、決勝レース中に死亡する瞬間を目撃する、それはまぎれもなく、わたしがはじめて真の意味で遭遇したモータースポーツの「死亡事故」だったのだ。関係者とは比べ物にならないほど遠くにいるひとりのファンに過ぎなくても心を覆う喪失感は耐えがたく、そのレースで1999年のシーズンが閉幕することだけを救いに思うほかなかった。やがてムーアのいないチャンプカーが再開し、本当は彼が座るはずだったチーム・ペンスキーのシートに今も現役を続けるエリオ・カストロネベスが収まって、時間が経っていくうちに自然のことわりとして悲しみは薄れていったが、レースは危険な営みであるがゆえにこそ人を殺してはならないという信念だけは胸に残った。
ムーアの死亡事故は米国レースの象徴とも言えるオーバルコース、それも最も平均速度が高まるスーパー・スピードウェイで起きた。確執の末に分裂したCART/チャンプカーとIRL/インディカー(と書くのはやや正確さを欠き、商標を巡る法廷闘争の結果IRLがインディカーを名乗れるようになるまでにはまだ数年を要するのだが)の勢力図が変化しはじめようとしていた時期でもある。絶縁状を叩きつける形で分裂、立ち上げられたIRLは、米国開闢以来の伝統とばかりに開催のすべてをオーバルレースとし、すでにロード/ストリートレースが半分前後を占めていたCARTに対抗しようとした。当初は分裂されたCARTの側が人気、実力ともに勝っていたが、決して強固な団体ではなかった――少なくとも、CARTがUSACに反旗を翻して設立されたときより遥かに脆弱な構成だった――IRLの支持も初開催から3年が経って広がりつつあったころだ。揺るぎようのない最大の祭典であるインディ500を押さえていたのが主因だったといっていいだろう。翌2000年には王者チームのチップ・ガナッシ・レーシングがインディ500に参戦して、CARTは崩壊への道を辿りはじめる。この「裏切り」に端を発した有力チームのシリーズ離脱を止められずに2003年に破綻し、後継のチャンプカー・ワールド・シリーズも2008年初頭に消滅した。いまも続いているインディカー・シリーズは、オーバルを中心としたIRLを源流としている。少し大仰に言えば、IRLを選ぶことによって米国は最高峰のレースがオーバルで戦われることを望んだということだ。そういう歴史のただなかに、ムーアの事故死もある。
ムーアののち、インディカーは仲間との別れを3度迎えることになった。2003年インディアナポリスでのテスト中にトニー・レナ、2006年マイアミの練習走行中にポール・ダナ、そして2011年にラスベガスで起きたダン・ウェルドンの死亡事故は、現在のところ最後、また21世紀では唯一、決勝レース中に発生したものだ。一度たりとも起きてはならないできごとにその多寡を論じるのは無益だが、2000年代に2件、2010年代に1件という事実だけにあえて言及するなら、けっして多い数字ではない。しかし2010年代のたった1件、いまだ記憶に新しいウェルドンの悲運な事故死は、現在に至るまで多くの課題をわれわれに投げかけている。
たしかに技術は進歩し、車は強い衝撃に曝されても広い生存空間を確保できるようになった。昔ならもしかしたら命を奪われていたかもしれないと思わせる事故を列挙すれば、この数年だけでも片手の指では足りそうにない。悲しい事故がなくなったわけではないが、それでもインディカーが物理的な「安全」を求め、多くを実現させてきたのはたしかである。だがそうだとしても、レースでの事故は必然の現象であり、そして事故になれば僅かな確率で最悪の結果に至ることもありえてしまう。いまの時代、それは車が極めた安全性を超えた、運不運で片づけるほかない偶然の重なりあいによって生じることだ。現代の安全水準ならムーアは救われたのではと思うが、前の車に乗り上げて空を飛び、コクピットの開口部がフェンスに向いて支柱と頭部が激突してしまったウェルドンの場合はそれでもどうにもならなかっただろう(もちろん「乗り上げにくい構造」は練り上げられ、実際「DW(Dan Wheldon)12」と名付けられた翌年の車に導入された)。
事故と安全性の関係はおそらく今後も変わらず、車の進化によってどれほど物理的な危険が低減しようと最悪の事態がその虚を突くように忍び寄ってくる可能性はつねに残るはずだ。それが人智の及ばない範囲の事象であるかぎり、最後の最後には籤引きに運命を委ねるようなものである。もちろん、モータースポーツは「事故の様態」という膨大な数の籤から「死」を取り除こうと不断の努力を払い続けているが、それでも紛れこみうるその一枚をだれかが掴んでしまう事態はかならず覚悟しておかなければならない。ウェルドンの事故がそういう種類のもの――技術を乗り越えてしまった不運――だったのなら。だとすれば、その死がもたらした真の教訓はより安全な車とコースを作る努力の要求のみならず、それ以上に、われわれがレースとどう向き合うかという精神への問いだったのではないだろうか。
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安全のために払われてきた努力に信頼は起きつつも、結局最後の瞬間には運命に身を任せるしかないという思いは、たとえばウィル・パワーの言葉に現れていよう。2014年のインディカー・シリーズ・チャンピオンは、「だれも大きな怪我をしなかったことが唯一喜ばしい」と、ムーアの事故から16年後に行われたフォンタナの500マイルレースに憤っている。佐藤琢磨との接触によって241周目に車を降りた彼はまた、こうも言う。「(ウェルドンの事故が起きた)ラスベガスのようだった」。
新しい空力パーツと気候条件が重なって想定以上のダウンフォースが生じた結果、インディカー史上最多となる80回の先頭交代が起こり、コースのあらゆる場所、あらゆる時間帯で車が3台並ぶ3ワイド、ときに4ワイド以上にもなる集団走行が展開された2015年のMAVTV500は、序盤こそ緊張を孕みながらも破綻なく進んだが、全体の半分を過ぎたころから危ういレースであったことを示唆する事故が相次ぐ展開となった。136周目にカストロネベスが両側の車に挟みこまれて車を壊したのを端緒として、158周目にはエド・カーペンターがチームメイトのジョセフ・ニューガーデンを巻き込んでスピンし、241周目にパワーと佐藤の事故が起きて赤旗中断を余儀なくされる。車輌や破片を撤去する間にレースが終了することを避けるための措置だったが、結局は再開後の249周目、ライアン・ハンター=レイとライアン・ブリスコーがぶつかり合って、チェッカー・フラッグはおもむろに続くフルコース・コーションの中で振られたのだった。「刺激的だったかもしれないが、狂ったレースだった」とパワーは嘆く。4度の事故はすべて集団走行でなければ起きえない種類のもので、それはウェルドンが事故死した2011年のラスベガス以来、インディカーが組織を上げて忌避しようとしてきたレースの有り様だった。あの事故を契機に、シリーズは密集状態を作り出さないよう注力してきた。「こんなレースをしていたらそのうちおなじことが起きる」とは、当時のラスベガスをその場で経験したパワーの偽らざる心境だろう。危機に直面するドライバーの立場として、それは当然に主張されることだ。あるいはパワーと同様に批判的だったトニー・カナーンは「ファンがどういうレースを希望しているかは理解している」としたうえで、「10万人のためならそういうレースをすることはできる。だけど、5000人しかいないのならばかげているよ」と述べる。ファン=パブロ・モントーヤはこうだ。「こんなふうに密集での走行を繰り返していては遅かれ早かれだれか怪我をする」――。
このフォンタナは多くの口から「ラスベガス以来」と、悲劇のレースになぞらえられて語られている。あのときの様態を再現することで、まるでレースの安全がいかにあるべきかという問いを、観客を含めたすべてのインディカー関係者に投げかけているようだ。たしかに事故は可能なかぎり避けられるべきであり、モータースポーツはだれひとり失ってはならない。その前提は全員が共有しているだろう。だがそのうえでなお、ラスベガスと似たレースになったからこそ、問われなければならないことが残っている。それがウェルドンの事故でも突きつけられた、われわれがレースとどう向き合うか、われわれはなにを求めてレースにかかわろうとするのかという問いに他ならない。
近年のインディカーは人気の低迷に歯止めがかからず、迷走の度合いを深めている。開催期間を3月から8月までと短く設定することでシーズンの終わりをNASCARとずらし、注目を集めようとするこの2年間の試みもうまくいかなかったようで、結局来年から元に戻す方向で議論が進みはじめた。何よりオーバルレースの凋落は目を覆わんばかりだ。最近は観客動員数の公式発表もされなくなったが、おおよその調査でストリートコースの半分以下、毎日試合のある野球より人が集まらないレースも珍しくない。少数のために危険なレースをするなんてばかばかしいというカナーンの気持ちもわからないではない。
だがそうやって憤るカナーンの言葉には、自家撞着あるいは循環が含まれているようにも聞こえはしないか。10万人が望むなら受け入れられるが、5000人しかいないスタンドのためにそうするわけにはいかない。なるほどしかし、10万人が5000人になってしまったその理由は何で、責任はどこにあるのだろうと考えれば、その嘆きは自分自身の胸に刺さりかねない。CARTのデビューからインディカーへと移り、21世紀を戦い続けてきた40歳にならわかるはずだ。インディカーから観客が去っていった原因は車の「進化」によって年を追うごとに接近戦をできなくなったオーバルレースへの失望であり、それを埋め合わせるようにストリートレースを増やして客を誘導した結果である。そのうえウェルドンの事故以来、隊列が伸びる一方のオーバルからはますます人が離れていっている。テレビを見ていて空っぽの客席を寂しく思う人も多いはずだ。今回のフォンタナの観客は、5000とはいわないまでもしかしわずか2万人に過ぎなかったという。
フォンタナのようなレースをするために9万5000人を取り戻す必要がある。カナーンがそう言っているのだとして、だがその9万5000人はフォンタナのようなレースが見られなくなったから離れていったわけである。この循環こそ、現代のインディカーが直面する課題に違いない。IRLのCARTに対する勝利はオーバルの勝利に他ならず、それは米国のレースが何を拠り所にするかという精神の選択が意味されていた。しかし皮肉なものである。IRL/インディカーはやがて設立当初の姿を失ってオーバルを毀損し、ロード/ストリートコースを増やすことで打ち倒したはずのCARTそっくりに変貌――あるいは変節した。そしていま、偶然蘇った古き良き時代の様態に近いレースさえ、当事者たるドライバーから拒絶されるようになったのだ。もはやこの20年に何の意義があったのかさえわからなくなる。おなじ場所に戻ってくるのなら、いったい何のためにIRLはCARTから分かれ、何のためにCARTは消滅したのだろう。そこには結局、当事者の思惑が渦巻くマネーゲーム以上の意味はなかったのだろうか。あるいはインディ500を中心としたオーバルへの郷愁などただの幻想で、そんなものはまったく望まれていなかったのだと、そういうことなのだろうか。なぜIRLは選ばれたのか。選ばれたIRLはなぜ、CARTに戻っていったのか。インディカーがいまの状況をただ続けていくなら、そう遠くないうちにインディ500を除くオーバルレースは死に絶えるだろう。インディ500を孤立させないために数レースがあてがわれるように残るだけで、あとは開催しようにもできなくなるに違いない。いや、現状がすでにそうだとも言える。ロードコースの半分以下の観客しか入らないオーバルを続ける価値など合理的な観点からは失われつつある。
フォンタナの「狂ったレース」は、本当はずっと前から岐路に立たされていたのに、将来を左右する分岐に見ないふりをして徐々に観客の減り続けるレースを漫然と消費していたインディカーへの警告だったのかもしれない。危機が顕在化したレースだったからこそ、われわれは問題意識を共有し、考え、決めようとすることができる。これ以上こんな「危険な」レースは続けられないと排除していくのか、それとも足を運ばなくなった9万5000人にとって価値のある「刺激的な」レースだったとしてインディカーの原点に立ち返る契機とするのか。これは人々がレースに何を求め、どう向き合って、乗り越えていくのかという問題である。IRLとCARTが分裂した危機的な状況で選択を迫られたときと同じだ。ウェルドンを思い起こさせる危険な集団走行のレースによって、その死が人とモータースポーツとの関わり方のすべてに問いを向けていたことを突如として再認識させられたのである。われわれはその問いに答えを出すことにしよう。IRLの理念を捨て去り、集団での戦いを排除して退屈なオーバルを自然死させていくのか、リスクを承知のうえで前後左右の車に近づくレースを増やし、そのうえで安全を最大限に確保できるよう望むのか。「インディカー」とはどんな存在で、どんな精神であり続けるべきなのか……。賛否の分かれたレースの後だからこそ、きっと、心のうちを見つめなおさなけばならないはずである。