【2016.3.13】
インディカー・シリーズ開幕戦 セント・ピーターズバーグGP
2016年の選手権で最初に記録された得点はウィル・パワーの1点だった。2年前の一度だけ佐藤琢磨にその座を譲った蹉跌を除き2010年代の開幕すべてを自らのポールポジションで彩ってきたパワーが今年も飽きることなく予選最速タイムを刻んだのだったが、これはあたかも、観客に対してインディカー・シリーズの変わることない正しいありかたを教えているようにも思えてくる。いわばこれは競争ではなく、そうあるべきものとして執り行われる儀式である。きっと、セント・ピーターズバーグの指定席を短気な童顔のオーストラリア人が予約することによって、はじめてインディカー・シリーズは一年の始まりを迎えるのだ。いつものウィル・パワー、いつものチーム・ペンスキー。予定調和の開会宣言。前のシーズンの終わりから数えて6ヵ月以上もレースのない時間を過ごしてきた観客にとって、そんな儀式めいた繰り返しの出来事は、空白を埋めてふたたびインディカーの営みへと戻っていくのにちょうどよい心地よさを抱かせる。これはわれわれの知っているインディカーなのだと。
インディカーのさまざまな場所を俯瞰してみれば、当然ながら変わったことばかりだ。セント・ピーターズバーグのポールポジションがほとんど固定され続けた2010年代にしても、たとえばレーシングシートの多くをパワーとエリオ・カストロネベスにしか座らせなかったペンスキーでさえ、2014年に元チャンプカー王者のファン=パブロ・モントーヤを迎え、去年は下位チームだけで通算4勝を挙げたシモン・パジェノーを手に入れている。また反対に、十数年にわたってずっと関係を維持するカストロネベスが、40代を迎えて力の衰えを隠しようもなくなってきた。7年も経てばレーシングドライバーやチームのありようが同じであり続けるわけはないし、それどころかインディカー・シリーズそのものもずいぶん変化に晒され、遠くないうちに否応なく存亡の機を迎えかねない雰囲気が漂うようになった。そこまで変わってしまう物事のなかにあって、変わらないことに安堵したい瞬間があるとしたら、そうしたときに拠り所となるのが、たとえばインディアナポリス500マイルというレース(100回目となる今年、ついに冠スポンサーがついてしまったりはするものの)であったり、今回のようなセント・ピーターズバーグでひたすらに速いパワーであったりするのである。いつでも戻っていける道標。観客とインディカー・シリーズを繋ぐ結節点は、あるいはパワーの揺るぎない速さによって支えられている。
だというのに、素晴らしい走りで開幕を演出した当のパワーが肝心のスターティング・グリッドに並べなかったのだから、レースとは時にいたずらが過ぎようものだ。彼は初日の練習走行でタイヤバリアに激しく衝突して脳震盪に見舞われており、6度目のポールポジションを獲得したはずの予選後に決勝への出場を医師から止められたのだった。日本にも届けられた映像によると、予選を終えてピットへと戻ってきたパワーは、車を降りるなり頽れるように屈みこみ、ヘルメットも脱げぬままかたわらのコンクリートの壁に体を凭せかけてしまっていた。かような状態でだれよりも速く1周を走りきってみせたのには驚嘆するほかないが、さすがに何十周も走り続けるのを座視するわけにはいかなかっただろう。健康面からは妥当な判断だったと想像するものの、しかしこうしていつもどおりだったはずの開幕戦はその最大の拠り所を失って、まるで相貌の異なるレースへと移り変わっていくのかと思われたのである。
だが結局、ウィル・パワーのいないストリートレースなどというおよそ気の抜けたソーダにしかならないような状況も、ペンスキーの層の厚さによって安定的な秩序が保たれたまま進んだのだった。パワーに代わって先頭でスタートしたのはパジェノーであり、その後にモントーヤとカストロネベスが続いて、レースは確実に、ペンスキーが席巻するいつもどおりの、もっと言えば去年の再現のようなセント・ピーターズバーグとなった。実際のところ、今年のレースの大筋は去年の「パワー」だった部分を「パジェノー」に書き換えるだけでほとんどなぞることができてしまう。スタートからしばらくはパジェノーが不安のないペースで周回を積み上げ、タイヤがやや怪しくなるスティントの後半にモントーヤが老獪に差を詰めてくる。そして紙一重の差によって2人の順位が入れ替わると、最後には平穏なチェッカー・フラッグに至るのだ。おなじ車に乗るカストロネベスは10秒ほど遅れて優勝争いの蚊帳の外に置かれ、表彰台からも滑り落ちた。2年連続でシリーズ・チャンピオンとインディ500優勝の両方を経験しているドライバーに――すなわち昨年はトニー・カナーンに、今年はライアン・ハンター=レイに――抜かれたのである。ペンスキーの1-2-4、1位モントーヤと4位カストロネベスという結果は、1年前とまったく同じだ。2位のパワーがパジェノーに置き換えられた、それだけの違いだった。レースの途中には、フルコース・コーションを味方につけてあわや新人として初優勝を果たすかと期待を抱かせたコナー・デイリーの快走や、10台以上が巻き込まれて中古車屋のように車が並んだターン4での多重衝突事故があったりしたが、結局それもこれもレースに華を添える彩り以上の意味は持たなかった。というよりその程度のことはインディカーにとって不可避に起こりうる、これもまたいつもどおりの事象であって、特別な驚きに満ちているわけでもないというべきだろう。終わってみればインディカーらしいインディカー、セント・ピーターズバーグのペンスキー、けれどパワーがいないのはちょっと寂しい。このレースを評するとしたらそんなところだろうか。
レースを振り返ると、ルカ・フィリッピとマルコ・アンドレッティの事故で導入された46周目からのフルコース・コーションがすべてを決めた。“ポールポジション”からスタートし、1周目からコーション中にピットインする48周目までずっと盤石に先頭を走り続けていたパジェノーが優勝を逃す結果に終わったのは、56周目のリスタートの際に不用意ともいえるほどぽっかりと開けたままだったインサイドをモントーヤに突かれたからだった。ターン1の入り口で車体を並べさせてしまうほど加速が遅れたのは優勝に一番近いところを走るドライバーの挙動としてはいささか迂闊で、押さえるべき点を押さえ損ねた代償を最悪の形で払わされたと言っていいだろう。たとえばパジェノーがターン1を明け渡してしまったのとちょうどおなじリスタートで、14番手を走っていた佐藤琢磨が完璧なタイミングで隊列のインサイドに潜り込み、抉るようなブレーキングによって瞬く間に3台を抜き去っている。いかにも佐藤らしいピーキーなライン取りのコーナリングはチームメイトのジャック・ホークスワースにまで接触しかねない危うさを孕んでいた(レース後のホークスワースはその動きに対して苦情を口にしたのだった)ものの、危険を受け入れて足を踏み出しほんの一本しかない細いロープを渡りきったことで、このレースにおける彼の運命は大いに変わった。直後のターン4でグレアム・レイホールとカルロス・ムニョスの接触を起因として10台以上が巻き込まれる大事故が起こったのだが、2人のすぐ後ろまで順位を上げていた佐藤はすんでのところでそれを回避し、フロントウイングをわずかに破損するだけで切り抜けたのである。スタート直後の接触でリアタイヤを切られ、一時は21位まで順位を下げていた佐藤は、この最大の難所を乗り越えたことによって最終的に6位でレースを終えることができた。リスタートで交わしたホークスワースも生き残ったものの、事故現場を通り抜ける際にフロントを大きく壊し、後ろからも激しく追突されているのだから、あのオーバーテイクの価値は計り知れないものがあったのだった。
レースのちょうど半分が終わった56周目に告げられた2度目のスタートは、そんなふうにしてレーシングドライバーの正しさを照らし出している。パジェノーと佐藤にとって、また他の多くのドライバーにとっても、そのリスタートはレースのすべてだった。結果論としてそう言うのではなく、インディカーではやり直しの緑旗が状況を変貌させる可能性を、ドライバーがつねに絶対の前提として共有していなければならないということの、これは証明である。そこで正しく振る舞ったドライバーが正しい結果を得る、とは限らないのがレースの残酷なところだが、少なくとも間違った者が美酒を浴びることはない。48周目までを完璧に制圧し、最多ラップリードまで獲得したパジェノーは、しかしあの瞬間のほんのわずかな怠惰によって偶然ではなく敗れるべくして敗れ、逆に佐藤は危険を冒すことでより高い場所に辿りついた。インディカーらしいレースなどというものがあるとしたら、それはおそらく、スタートからゴールまでが一本のなだらかな稜線に沿って論理的に進んでいく場合の多い欧州のカテゴリーと違って、今回のようにほとんど脈絡なく唐突に訪れるやり直しが絶えず間違えた者を篩い落としていく過程のことである。これがF1なら、パジェノーは安穏として逃げ切り優勝を収め、佐藤のレースは実質的に1周目で終わっていただろう。パジェノーが掴み損ねた優勝と、佐藤が手にした6位。彼らの最終的な順位は、インディカーという営みのなかでどう振る舞うか、その違いが顕わになった結果に他ならない。結局のところ、このセント・ピーターズバーグは、パワーが圧倒した予選から、ペンスキーの支配する決勝、その精神に至るまで、徹頭徹尾変わらぬ「インディカー」を再認識させるように貫かれていたのである。長すぎたシーズンオフを埋めるために設えられた舞台だったかのように。
かくして、われわれが見たのはウィル・パワーを失っただけの、いつもどおりの開幕戦という風景だった。はたしてこの結果は今季のこれからを示唆するものであるだろうか。開幕前テストから予選に至るまでの戦闘力の比較を鑑みればレース結果は順当すぎるほどに順当だったが、それでもペンスキーにとってはもう少し控えめに終わったほうがよかったのかもしれない。毎年毎年、このチームが制圧してみせるシーズンの序盤は、ことごとく最終的な敗北に向かう過程でしかなかったからだ。春の間は呆れるほど速いのに、その速さに甘えているうちに勝利を物にする強さだけが少しずつ剥離していき、季節の移ろいとともに追い上げてくるチップ・ガナッシやアンドレッティ・オートスポートの影に怯えて保守的な態度が覗いてレースから目を背けるようになってしまい、最後に勝負どころを間違えて暗転する悲劇――もしくは喜劇――が完結する。ペンスキーが過ごしてきた2010年代とはおおむねそのようなもので、それはエースドライバーがだれであっても変わらなかった。2014年を除いて、パワーもカストロネベスもモントーヤも、みんな選手権の短くない期間をリードしながら最終戦かその手前で転がり落ちた。だから今年も同様になるなどと短絡的に予想するのは浅薄に過ぎるが、あまりにも同じことが繰り返されすぎているのも事実だから、無碍に却下できずについつい同じ結末を想像してしまう。
ただ、ひとつ気にかかることはある。もしかすると、まさに唯一の異同であったパワーの不在が、繰り返された展開の打破に翻る可能性が少しばかりあるのではないか。前半戦の優位を後半に入って吐き出すことの多かったパワーが、最初からここまでの負債を背負ってシーズンを戦うことで、何か変化が起きるかもしれない。1年前のセント・ピーターズバーグを思い起こすと、パワーがモントーヤに敗れたのは最後のピットストップで2秒も余分に停止する羽目になった(どこにも言及された形跡がないが、遅れた理由はピットクルーによるリアジャッキの下ろし忘れだったとわたしは確信している)からだったが、そのとき彼は順位を失った怒りを隠そうともせずに速いタイムを刻みつづけて差を縮め、ついに101周目、あろうことかチームメイトと自分をまとめてリタイヤに追い込みかねない追突さえ犯したのだった。それは論理としては当然に許容されえない事故だったが、そこで見せた暴発気味の機動はまた、自分の本来を取り戻そうとするレースへの純粋な動機の実現、賢しらなところの一切ない感情の発露であるようにも見えた。こうしたいかにもパワーらしい情動が彼自身を推進し、今年の選手権全体に波及して現れるとしたら。つまり追い上げる立場のペンスキーというあまり例のない状況が今季の主体になることがあるとしたら、あるいは強く踏み固められてきた轍に嵌まることなく違った結果をもたらしうるのではないかと思えてならないのだ。少なくとも、セント・ピーターズバーグでモントーヤにリーダーの座を明け渡して以降のパジェノーが、レースそのものを脅かして動かす存在になることなく、分別のある大人として2番手に安住し、一度として何かをなす予感を抱かせないまま自らレースを閉じてしまった落胆を思えば、期待を寄せたくなる対象は自然と定まってしまう。いわんや、去年と同様に開幕戦を制したモントーヤが、もし去年と同様にシーズン後半で走りを鈍らせるようなことがあれば、遅れてきたペンスキーが最後の主役を奪い去ってもけっして不思議ではない。
もちろん、2013年や昨年を見るかぎり逆境に陥ったパワーがさほど強い存在であるとは思わない。シーズン単位でもレース単位でも、たとえばスコット・ディクソンやかつてのダリオ・フランキッティに比べてその点で一歩劣ることは否めまい。その本質はどこまでも先行逃げ切りにあるはずだ。ただ一方で、彼の唯一のシリーズ・チャンピオンが、7月までリードを許していたチームメイトのカストロネベスを第15戦のミッドオハイオで逆転して獲得したものであったことも事実である。どちらのパワーが顔を覗かせることになるのか、鍵となるのは彼自身による適切な感情の制御だろう。苦境に陥ったときに湧き上がる情動に従って無謀なブレーキングなどに身を任せるのか、暴発寸前で耐え切って信じがたいほど速い姿を見せてくれるのか。これからその態度や表情を見逃してはならない。大きな目を必要以上に見開き、自分を誇示するように顔を引きつらせていないかぎり、また逆に何もかもを諦めたように深く息を吐いたりしていないかぎり、パワーはシーズンを放り投げることなく、集中を保ったままレースを戦ってくれる。そうであれば彼は間違いなく今季に適度な緊張感を与えるだろうし、そんなシーズンをわれわれはきっと心から楽しむことができる。変わらない開幕戦でただひとり失われたウィル・パワーは、それゆえに変化をもたらす中心として、目が離してはならない存在になったのである。