【2016.7.17】
インディカー・シリーズ第12戦 インディ・トロント
インディカー・シリーズのレースはその構造ゆえに論理の積み重ねにを断絶すると書いたのはつい先週のことだ。ゆくりなくやってくるフルコース・コーションが隊列を元に戻してあたかもさいころが振り直されるように展開が変わり、最後には大なり小なり偶然をまとった勝者を選び取る、そこにはスタートからゴールまで通じた一貫性のある争いが存在しないというわけである。もちろんこのことは競技者の努力がはかない徒労であることを意味するものではなく、賽によって翻弄されることを前提とした正しい戦いは存在する。周回を重ねる過程において、強い競技者は賽の多くの面を自分の名前に書き換えていき、弱者はやがてあらゆる面から名を消されて勝利の可能性を剥奪される。スタートから積み木をひとつずつ積みあげるようにレースを作っていくのではなく、そのようにしてレースを決定づける賽を偏らせようとするせめぎあいに、インディカーの特質はある。最後の最後に運に身を委ねなければならない事態がありうると知ったうえで、せめてその確率を支配しようとすること。必然と偶然が交叉する場所に、インディカーの勝者は立っている。
先週のアイオワでジョセフ・ニューガーデンが見せたのは、インディカーの賽のあらゆる面を自分の名で埋め尽くしてしまうやり方だった。最速のリーダーにとっては招かれざるフルコース・コーションが何度か訪れながら、そのたびに敵の逆転可能性をことごとく封じてみせた完璧な優勝を見てわたしは前回の文章を発想したのだったが、間を置かず開催されたこのトロントでは偶然にも対照的に、中途のレースリーダーと、さらには選手権のリーダーまでもが、前触れのないコーションになすすべなく呑み込まれて沈む結末を迎えた。書いたとおりである。ある瞬間に突如として賽が振られ、それまで築いてきた優位は霧消して別の名前が現れる。事後的に見ればそこは明らかにレースの転換点なのだが、実際に起こるまでその変転はけっして意識されない、そんな展開なのだった。
85周を費やすトロントのレースを難しくしたのは特にふたつのフルコース・コーションである。ひとつは45周目、スタート直後の順位争いが一段落して隊列が落ち着き、車同士の間隔も十分に開いてほとんど変化がなくなっていたころ、とつぜんターン5の縁石が破壊されて破片がコース上に散乱したことで導入された。タイヤを切ってしまう恐れのある縁石を交換ないし撤去するのではなく、割れ目を金槌で叩き角を丸めて済ますというジェレミー・クラークソンがやるような(Broken? Fix it with a hammer!)応急処置――考えようによっては、米国的プラグマティズムに満ちた合理的な補修――が行われている間に、後方を走っていたジェームズ・ヒンチクリフや佐藤琢磨をはじめとした7台がピットへ向かった。それが47周目のことで、レースはまだ38周を残している。満タン状態からレース速度で走れる距離は最大31周と言われていたから、この時点で彼らがレースに絡む可能性はほとんどないはずだった。ステイアウトした上位陣の秩序は保たれたままで、リスタートからほどなく54周目、すなわち最後の給油をいつでも行えるタイミングを迎える。最終スティントに向けて55周目にミカエル・アレシンとマルコ・アンドレッティが、56周目にエリオ・カストロネベスが、翌周にはセバスチャン・ブルデー、コナー・デイリー、ライアン・ハンター=レイがピットに入る。そしてリーダーが58周目に突入し、3番手のウィル・パワーがピットレーンに差し掛かったその瞬間に、後方のターン5、先ほど壊れた縁石にタイヤを乗せすぎて制御不能に陥ったニューガーデンがまっすぐ壁に刺さったのだった。
それはまさにゆくりなく振られた賽だった。レースはフルコース・コーションとなってピットが閉まり、先頭を走っていたスコット・ディクソンと選手権の首位であるシモン・パジェノーが取り残される。速度を強制的に落とされてすでに作業を完了した後方集団が追いつき、彼らは万事休した。60周目、ニューガーデンの車の撤去作業中に給油を終えてコースへ戻ったとき、ディクソンは13位に、パジェノーは14位にまで順位を下げた。しかもおもにこの5周のコーションによって燃料が節約できたために、47周目の給油組のうち何人かがゴールまで走り続けられる算段を得てしまったのである。ふたりは抜きにくいコースでなんとか奮闘したが、ジャック・ホークスワースとファン=パブロ・モントーヤおのおのの単独事故の助けがあってなお8位と9位まで戻ってくるのが精一杯だった。ピットが閉まる寸前にレーンへと進入していたパワーが逆転優勝し、タイヤがパンクして一度は戦線離脱したと思われていたカストロネベスが2位、そして38周を走り仰せたヒンチクリフが故郷で表彰台に登った。予選20番手だった佐藤が5位である。レースの半分、43周目のころには想像できない結果だった。
レースは最後に振られた賽によって決定づけられる。ディクソンとパジェノーはコーションに阻まれて確実だった表彰台を逃し、パワーはほんのわずかな時間差で救われて勝利した。こうした結末を、運の善し悪しで片づけてしまってもそうおかしなことではないだろう。ニューガーデンが自身57周目のターン5を問題なく通過していれば順位にはなんの変化も起きなかった、コーションのタイミングは予想できるものではない、パワーの優勝やヒンチクリフの表彰台、佐藤の浮上は幸運にすぎず順位はレースの正しさを反映していない……。このトロントについてそう語ることが不当とまでは思わない。だが書いたように、インディカーのレースの中途が賽の面をめぐるせめぎあいであり、確率をいかに自分へと寄せられるかの勝負にあるのだとしたら、必然と偶然の交叉点に結末が現れるのだとしたら、敗者のほうは結局のところそのコントロールに失敗したと言うべきではないか。結果にはたしかに偶然が伴っていよう。上位の順位を決定的に左右したのはニューガーデンの事故だが、「あの瞬間にコーションになった」現実はいかなる意味においても予定されていたことではない。だが「あの瞬間にコーションになるとすれば」という前提の水準に思考を移した場合、まちがいなく必然的な結論が導かれているはずである。先にピット作業を完了したライバルがおり、まだ自分が走り続けているなら、その狭間でコーションが起きればどうなるかは自明の理屈だ。インディカーのロード/ストリートレースにおいて最後のピットを必要以上に遅らせるのは、すなわちわざわざ賽の面から自分の名前を減らしていくことである。パワーがピットレーンに進入した瞬間、準備された賽は一時的にその名で占められた。そしてディクソンたちが給油して平衡が元に戻る前に、それは投げられてしまったのだ。確率の高いパワーの面が上を向くのは、当然の成り行きだった。
それにしても解せないのは、ディクソンとパジェノー(と、じつはモントーヤもだ)をむざむざ沈めたチップ・ガナッシ・レーシングとチーム・ペンスキーの態度である。他のドライバーたちの動きを見れば明らかなように、54周を過ぎればいつピットに入れてもよかったはずなのに、彼らはなぜわざわざ走らせ続けて無用のリスクを抱えたのだろう。もちろん、給油を遅らせることが有利になる場合もある。「賽が振り直されなかったとき」だが、そこで生まれる得と、結果そうなったように大きく順位を失うコーションの危険を天秤にかけて、前者を選ぶ合理性がどこかにあるのだろうか。とくにペンスキーだ。なんといっても、彼らは6月のデトロイトで最後の給油までの走行を引き延ばした挙げ句コーションに見舞われてカストロネベスから優勝を奪っているのである。もちろん今回はカストロネベスを先に呼び戻し、パワーもすんでのところで間に合わせて1位と2位を占めているから、チームの総体としてはうまくいったと言えるかもしれないが、選手権の首位を行くエースの扱いに失敗したことはたしかだ。本当に、彼らはなぜ58周目になってもパジェノーをコースに留めたのだろう。当然、燃料には余裕がある。残っていたタイヤがパワーたちとは異なっていたか――しかしこの日のトロントは赤も黒も新品も中古も決定的な差となるほどの違いはなかった。給油時間を短くしてディクソンを逆転しようと試みたか――好機というには心もとない。チーム内の同時ピットを嫌がったのか――インディカーではさほど問題にはならないし、55周目や57周目に戻せばよかった。ドライバーが求めた――チームの側から命令すべきだ。どんな合理的根拠を想像しようとしても、2位から14位にまで落ちるようなリスクと引き合う利益があるとは思えない。それとも、あらかじめ決めてあったスケジュールに従って動こうとしただけで、それを阻害したコーションを不運と嘆くだけで済ませているとでもいうのだろうか。
そうだとしたらあまりに愚劣だが、1秒以下の単位で進んでいくレースに愚かさは付き物なのかもしれない。真相は詳らかにしないものの、とくにペンスキーについては今回のような詰めの甘さが結果として2010年代の連敗に繋がったのだと考えるのはさほど不自然でないようにも思われる。ようするに彼らはその速さに反して偶然をコントロールすることがどうにも苦手なのだ。結局、最後の偶然でリーダーが翻ったトロントと、リーダーがあらゆる偶然による変転を封じきったアイオワというこの2週間の一対を見てみれば、インディカーにとっての偶然とは必然の側から手繰りよせて手の内に収めようとする争いの中心に位置する構造なのだと気付かされるだろう。偶然にすべて抗うのは難しい。だがそれは決して、インディカーが神頼みで気まぐれなさいころゲームに支配されていることを意味はしないのである。