レースの意味は文脈によって規定される

【2016.8.22】
インディカー・シリーズ第14戦 ポコノ500
 
 
 フォーメーションラップの隊列が整わずにスタートが不成立となり、2周目にあらためてグリーン・フラッグが振られた直後も直後、ターン1でのことである。強豪チームへの移籍の噂が現実味を帯びて伝えられているジョセフ・ニューガーデンが、ロシア人ドライバーとしてはじめてインディカーのポール シッターとなったミカイル・アレシンを苦もなく抜き去った瞬間、そこからゴールまでのあいだにすべての敵を置き去りにしていく展開が頭をよぎった。予選の意味などまるでなかったように最初の加速であっさりと先頭を奪うその様子が、ニューガーデンがレースのすべてを支配し尽くしたアイオワ300にひどく似かよって見えたからだ。6週間前と違うとすれば最初のスタートに失敗していたことで、これによってアレシンは早々とラップリードのボーナス1点を得た。それはもしかしたらアレシンにとって「幸運」だったのかもしれない、すなわちニューガーデンが圧倒的な速さで逃げていってしまえば、ことによると安全な黄旗に守られた1周目がポールシッターにとって最初で最後のラップリードになる可能性だってあると、その場面を見ながら勝手な予感を抱いたわけである。

 過去の物語になぞらえるだけの予断にたいした意味はない。1周2.5マイルのポコノを走るニューガーデンは結局アイオワほどに速くなく、むしろアレシンこそがこの日の支配者のひとりだった。スタート周のターン3で佐藤琢磨がスピンを喫したことで導入されたフルコース・コーションを経てレースが再開されるとほどなく先頭を奪還し、じつに3スティントにわたってその場所を維持する。2番手に収まって燃料を節約するような小細工も弄さなかった。ここまで逃してきた初優勝への渇望をそのまま走りに映したようにどのスティントも全開で走り続けたことは、32周目、61周目、93周目、120周目、148周目のピットストップが22台のうちほぼ3番目以内、多く最初に行われた事実に示されている。幸運が舞い降りる可能性をいっさい期待せず、正面から優勝の玄関ドアをノックする走りは、報われるにふさわしいものだっただろう。

 あるいはライアン・ハンター=レイである。リーダーとしてレースを支配したのがポールシッターに対し、事故によって予選を走れず、21番手からという対照的なスタートを余儀なくされた彼は集団の中での走りによってコースに集まる視線を支配した。グリーン・フラッグが振られ、佐藤がスピンした数十秒後にはもう14位を走り、リスタートからたった30周のあいだにニューガーデンまでをも抜いて2位に上がってしまうのだから、ほとんど冗談のような速さに違いなかった。こうしてまだ実績のないアレシンを先頭に、かつての王者であるハンター=レイと、これから王者になるニューガーデンが続く。この日もっとも速い3人が揃った40周目あたりからの約110周は、心地よい静謐に貫かれている。少しずつ篩い落とされて勝利の資格を失っていく後続、適度な順位変動、何回かの先頭交代。ときどき、他のドライバーが戦いに加わる。たとえばアレキサンダー・ロッシ。たとえばカルロス・ムニョス。だが結局は、アレシンがレースをコントロールし、ハンター=レイが速さをひけらかしつつ機を窺い、ニューガーデンが付き従う図式に収斂していくのである。途中のピットで、ロッシが進入してくるチャーリー・キンボールに気付かずピットレーンに合流しようとして接触し(ようするに先々週のアレシンとおなじだ)、すぐ前で発進しようとしていたエリオ・カストロネベスに乗り上げる事故はあったが、レースを乱しうるそうした危険があったにもかかわらず、レースの相貌にはまだなんの変化も起きていなかった。

 それはインディカーのオーバルにとってはなんの変哲もない日常的な風景だ。だがこうした場面をずっと眺めていると、観客としてその担い手に愛着が湧いてくる。良質な時間を提供してくれているドライバーのだれかひとりに勝ってほしくなり、また勝つべきだとさえ思えてくる。純粋な速さでいえばハンター=レイを称揚することができた。21番手のスタートから隊列のすべてを呑みこむ走りは平板なレースに次々と刺激を与え、アイオワのニューガーデンとはまた違った興奮を呼び起こしている。もちろん、アレシンが勝つなら最高だ。2週間前に確実だった初優勝が手からこぼれ落ちた苦労人が、ポールポジションと最多ラップリードを携えて完璧な雪辱を果たす……そういう瞬間を目撃できればどれほど幸せな気分に浸れることか。ニューガーデンの鮮烈なスパートが見られるならそれもよい。いずれにせよ勝つのは彼らのうちのだれかだろう。その中で、ハンター=レイの興奮を取るか、アレシンへの感傷を取るか、はたまたニューガーデンの才能を取るかという好みの軸足をどこに置くかの違いがあるにすぎない。そんなレースとして見届ければいい。

 正直にいって、その視界にウィル・パワーの存在は入ってきていない。8番手スタートにすぎなかった彼はレースの序盤ずっと息を潜めており、選手権を争うシモン・パジェノーと似たりよったりの10位前後を走り続けていた。ときどき先頭付近にまで顔を覗かせるのは上位勢がピットストップを行って一時的に後退したときくらいで、自分がピットに戻る順番がめぐってくればまだ集団に埋没していった。最初のスティントが終わって9位、次のスティントでも9位、100周目にいたってどうにか8位、レースはあっという間に半分を過ぎる。こう振り返るといかにもそのままの順位で何事もなくチェッカー・フラッグを受ける結果を迎えるように見えるではないか。だがパワーはそのころから、ハンター=レイのような興奮も纏わぬまま、アレシンのような感傷とも無縁のまま、目立たぬ衣に身を包んでひたひたと速度を上げていたのだった。少なくともわたしにはそう思える。ピットストップのたびに細かくセッティングを変更していたのが奏功したのだろうとは想像できるが、それでも5スティント目のピットストップがひととおり済んだ158周目にパワーが涼しい顔で先頭に立っていたことは、軽く動揺を誘われるほどに意外な光景だった。

 もちろん、これはたんなる観客としての油断、観察の失策である。128周目からのスティントで、パワーは142周目にあれだけ注目していたはずのアレシンを、また151周目には自己最速タイムを記録してニューガーデンを自力で交わしており、ハンター=レイの早めのピットストップに伴って先頭に立っている。レースの行方を揺さぶり、目を離してはならないはずだったこの追い上げを、しかし前半の印象があまりに薄かったために軽視していただけだ。ことこの時期に至ってアレシンをはじめとした序盤の主役がみな選手権にかかわりのないドライバーであることも錯覚に拍車をかけた。パワーとパジェノーがそろって苦労するさまを見るうちに、わたしはこのポコノを、選手権の文脈からは切り離された類のレースだと信じきってしまっていた。だからこそ選手権の担い手であるふたりは、姿を見せないままに終わるのだろうと。

 100周目を迎えたころは事実そのようなレースだったはずである。だが500マイルのオーバルはときに一貫性を失う。選手権から切り離され、1回性のなかに現れ消えるアレシンたちの情熱に支配されていたポコノは、意識の外にあったはずのパワーが先頭に立ち、さらに残り42周のところでパジェノーが予想外のアンダーステアによってセイファー・ウォールへと吸い込まれていったことで、にわかに選手権に具体的な意味を与えるレースへと変貌した。そして、そのような意味を持つレース、パワーとパジェノーが残酷な対比を描くレースとして語られるならば、それまでの展開が嘘だったかのように、選手権とかかわらないドライバーに勝ち目はなくならざるをえないことも示されたのだ。レースの意味が変わるとき、その担い手も変わる。163周目のリスタートで明らかに速いのはハンター=レイだったが、突如として一時的な電装系の不調で失速し、周回遅れになるという信じがたいトラブルに見舞われた。アレシンは164周目の一度だけパワーから先頭を奪い返したものの、それだけだった。序盤のリーダーは最後まで遅くはなく、つねにパワーの後ろぴたりとついて可能性を探っている。だがその見た目には近い距離とは裏腹に最後のリーダーは少しも揺らぐことなく、機会は一度も訪れなかった。

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