ジェームズ・ヒンチクリフは自らの完璧さによって敗れた

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【2016.6.12/8.27】
インディカー・シリーズ第9戦 テキサス600
 
 
 スタートコマンドは洒落たもので、Drivers, restart your engines.である。本来6月12日に予定されていたテキサス・ファイアストン600(ところでいきなり余談を挿むと、600と名乗っているにもかかわらず実際のレース距離は583kmで、これは1.5マイルオーバルとして造られたテキサス・モーター・スピードウェイを1998年にIRL時代のインディカーが再計測したところ1周1.455マイルしかないことが判明してトラック距離を変更したのだが、周回数だけは1.5マイル基準のまま決めているからである。1.5マイル×248周で599kmという塩梅だ。なお冗談のような話だが、CARTが行った再計測結果は1周1.482マイルで、NASACARはずっと1.5マイルで通しているので、このコースには3つの距離が存在した)は、前日からの雨が路面に染みこみ、天気が回復してからも後から後から水が湧き出してきてレースを行えずに翌日に順延となったのだった。その順延日も路面を乾かすのに手間取ってスタート時刻が遅れ、どうにかグリーン・フラッグにこぎつけたものの、フルコース・コーション中の71周目に激しい雷雲がコースを覆って万策尽きた。次の週末にル・マン24時間レースへ参戦するドライバーも多く、それ以上の延期は不可能だったのだ。結局72周目以降は8月28日にして消化することが決定し、このたびあらためてエンジンに火が入れられた。76日の中断を挟んだ”re-“startだ。

 中断した時点で先頭に立っていたのはジェームズ・ヒンチクリフだったが、その順位はかならずしも実力を反映したものではなかった。ポールポジションはカルロス・ムニョスで、スタートから最初のスティントを完全に制圧してオーバル初優勝への期待を高めていたものである。ヒンチクリフは予選12番手にとどまり、また特段コース上でライバルを抜くでもなく、ただ最後まで給油を我慢していた41周目にジョセフ・ニューガーデンとコナー・デイリーの危険な事故が起きたおかげで先頭に残ったにすぎない。エド・カーペンターにしてもミカイル・アレシンにしてもおなじことだ。中断時に上位にいたうちの何人かは、あくまで「うまくやった」ドライバーだった。

 事故の処理に時間がかかり、豪雨がやってくる71周目までレースが再開されることなく赤旗となった結果生まれた偽りのリーダー、というと言葉は悪いが、しかし6月12日のままグリーン・フラッグが振られていたらヒンチクリフは即座に後続から追い立てられたはずだ、と考えるのは自然なことだろう。だが長い長い「中断」で、レースは湿った重い空気の下危うい路面を走る昼間から晴れて乾いた夜へと状況を大きく変えた。ここまで条件が変化してしまえばもはやトラックがおなじだけのまるで異なるレースで、それまでの速さはなんの展望ももたらさない。偽りのリーダーだったヒンチクリフはこのレースでもっとも優れたドライバーに変貌し、だれよりも速く、それでいてだれよりも巧みにタイヤを使いこなして長いスティントを乗りこなした。たとえば再開後最初のピットストップは、2番手を走っていたエリオ・カストロネベスより10周も後、ウィル・パワーやスコット・ディクソンと比べても5周後の120周目である。つねにいちばん遅くピットに向かったことによってラップリードは盤石のものになり、162周目には一時的に全車を周回遅れにした。けっして選手権を争えるほど器の大きいドライバーとは思えないのに、ヒンチクリフにはときどきこうした目を離せない瞬間がやってくる。思い出すのはたとえば2013年のアイオワだ。レースの90%以上もラップリードを刻んで信じられないほどの圧勝を見せたあのときと同じように、テキサスでの彼は完璧な勝利を演じようとしていた。

 このレースの結末について、過ぎたるはなお及ばざるがごとし、などと纏めるのがうまいやり方だとは思えない。だが結果から遡る形で全体を俯瞰したとき、ヒンチクリフの不運は、皮肉にも他のドライバーと比べ突出して上手にタイヤを使えすぎてしまったことと、そのために周回遅れを生みすぎてしまったことだということはできる。本来なら自分を優位に引き寄せるはずだったそれらの運動が、しかし同時に「かろうじて生き残ったライバル」にも勝機を与え、スタートラインを引き直してしまった。先述したように120周目に再開後最初のピットストップを済ませたヒンチクリフは、そこからほぼ均等に40周強のスティントを刻むようにレースを進め、206周目に最後のタイヤ交換を行っている。ゴールまでは42周だ。その時点でリードラップに生き残っていたのはグレアム・レイホール、トニー・カナーン、エリオ・カストロネベス、エド・カーペンターの4人だけで、それぞれ202周目、197周目、183周目(トラブルがあったために早かった)、204周目にピットに入っていた。ヒンチクリフにくらべてタイヤの消耗が速く、どうしても先行して動かざるを得なかったのである。どのドライバーも燃料を考えればゴールまで行けるものの、ただでさえ劣勢なタイヤの勝負に直面し、しかもリーダーより長い距離を走らなければならない。どう考えてもヒンチクリフの優位は揺るぎないように思われたが、213周目にカーペンターが迂闊な動きでディクソンと接触(そろそろカーペンターをオーバル・マスターと持ち上げるのはやめるべきだろう。昔ならいざ知らず、今となってはオーバルだけを走るという事実があるにすぎず、特に優れているわけではなくなった)してフルコース・コーションを呼びこんだことでレースの可能性が一気に広がった――ヒンチクリフにとっては広がってしまった。このコーションでレイホールたちは長いスティントを捨て去り、もう一度ピットに戻って新しいタイヤを得た。さらにその後、カーペンターがリタイヤに追い込まれるスピンに起因したものを含めて2度導入されたコーション中に、カストロネベスとカナーンがさらに1度ずつ、そしていつの間にかリードラップに戻っていたシモン・パジェノーも新品タイヤに履き替えた。彼らは余分なピットストップを行ったが、他の多くが周回遅れになったおかげで何の苦労もなくヒンチクリフのすぐ後ろに戻ってくることができた。不動のリーダーとしてステイアウトを貫いたヒンチクリフは、気づけばもっとも長い履歴のタイヤで最後のリスタートからゴールまでの9周を戦わなければならなくなったのである。

「すばらしいレースだった」。レース後に、ヒンチクリフとレイホールは口を揃えて言った。たしかにその9周は、挑戦的で、公正で、力強く、繊細な、インディカーのオーバルの魅力がすべて詰まった最高の時間だった。逃げゆくヒンチクリフに対し、レイホールが、カナーンが、パジェノーがコーナーのたびにインを突き、はたまたアウトから飲み込もうと、集団で襲い掛かる。全員が入れ替わり立ち替わり何度も先頭を交代し、コーナーのたびに隊列は組み替えられたが、しかし唯一コントロールラインだけはヒンチクリフが押さえ続けた。タイヤの状態を考えれば驚嘆するほかない。240周目も、241周目も、242周目も、ラップリーダーは変わらないまま、やがてパジェノーが脱落した。白旗が振られる247周目に至っても、カーナンバー5は先頭を守り続けた。つまりこれは、ヒンチクリフが優勝するレースなのだった。だが、「ぼくたちはすべてをリードした」と言う彼は、こう言葉を続けなくてはならない。「重要だったもの以外、すべてをリードしたんだ」。たった一回きりである。本人が言うとおり事実上すべてを支配し、まったく揺らぐことのなかった完璧なラップリードは、248周目に途切れた。その周回だけ、レイホールがターン3から4にかけて巧みにインを突いて先頭に立ち、すぐさま順位を戻そうと反撃に転じたヒンチクリフよりも0.006秒だけ早くコントロールラインを通過したのだ。それは2ヵ月半かけた583kmを走り終える周回でもあった。レイホールはこのレースではじめてラップリードを記録し、少し先走って右手を上げた。その頭上ではチェッカー・フラッグが振られている。

「"TK"に称賛を、グレアムに祝福を贈るよ」と、2位に終わったヒンチクリフは失望を交えて接近戦を演じたライバルを讃えるのだった。もし彼があれほど群を抜いて綺麗にタイヤを使えていなかったなら、もし最終スティントに向けてのタイヤ交換があと数周早かったなら、おそらく213周目のコーションでほかのドライバーがそうしたように新品タイヤへと換える決断を下すことができただろう。あるいは、リードラップにもっとたくさんの車が残っていれば、レイホールたちも後方に沈むことを怖れてタイヤ交換に踏みきれなかったかもしれない。どちらに転んだとしても――「すばらしいレース」には少し足りなくなるところだったが――ヒンチクリフはもっと楽に走り、たぶん逃げ切ることができた。終盤までリードラップを維持し続けたもっとも手強いライバルが、もっとも手強い状態で真後ろについてくるような展開にさえならなければ。それを万全ではない状態で迎え撃たなければならない状況に追い込まれなければ。たら、れば――。すべてを手中に収めたと思っても、ままならない敗因は、後悔の種は残るということだろう。完璧さえも牙を剥く。レースはときに、そんな哀愁とともに終えられたりもするのである。

***

 ところで8月31日、レース後の車検でヒンチクリフの車のスキッドブロックが規定の厚さを下回るほど削れていたことが認められたとして、インディカーはドライバーズポイントとエントラントポイントをともに25点剥奪すると発表した。どうやら、レースとはやはりままならないものであるらしい。

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