関口雄飛とストフェル・バンドーンは日本で出会う、あるいは奇妙で魅惑的な、僕たちのスーパーフォーミュラ

CHAPTER 1

2016年9月25日に決勝が行われるスーパーフォーミュラ(SF)第6戦を前にして、観客がレースへと寄せる期待はさほど大きいものではなかっただろう。はたしておもしろいレースになるのだろうかという疑問はあって当然だった。まずもって、SFそのものが全体的にレース中の順位変動が少ないシリーズという前提がある。今のF1のように年間を通して1チームが独走することこそないものの、週末単位で見ると意外なほど上位の順位が固定されたまま終わる――速さを見つけたチームはたいてい日曜日の夕方まで速い――傾向が強い。今季ここまで、ややこしい展開になったのは7月の富士と9月の岡山レース2くらいで、それ以外の開催ではどこも予選3位以内のドライバーのうち2人は表彰台に登っている。6戦のうち5戦はホールショットを決めたドライバーがそのまま優勝した。もとよりSFとはそういうものだ。使用される車輌SF14は随所に工夫が凝らされ、コーナリング速度だけならF1を凌ぐとさえ言われるほど機敏な挙動を見せつつ、現代の高位フォーミュラカーとしては追い抜きもしやすいと評価される優れた車だが、そうはいっても空力依存的な設計の宿命から逃れられるわけもなく、オーバーテイクシステムの効果も限定的のため、当初喧伝されたほど至るところで順位が逆転する場面を演出してくれるほどの舞台装置ではないことは知れ渡っている(もちろんこれは「速い車ほど最初から前にいる確率が高い」というレースの構造的な本質にもよる)し、まして肝心の舞台のほうが直線は短くコース幅も狭いスポーツランドSUGOだ。派手な劇が繰り広げられる展開を望んでも詮ない。シーズンも最終盤に差し掛かった選手権の帰趨に興味を向けるにしても、それはサーキットの上に現れる戦いとはまた文脈が違う。どこからともなく現れてレースに波瀾を巻き起こす「菅生の魔物」もどうやら最近はSUPER GTのほうにご執心のようである。数台がスピンしてリタイヤする程度の揺らぎや、菅生らしくセーフティカーが導入される事態くらいはありえても、結局のところは今回も1周目のターン1を制した者がそのまま優勝するのだろう。68周のレースはじゅうぶん長い。だがチェッカー・フラッグが振られるのが7周目だろうと41周目だろうと、さして順位は変わらないはずだ。

はたしてレースの結果を見るかぎり、ほとんどそのとおりだったと言えるかもしれない。ちょうど彼岸の明ける一日が早い黄昏へと向かおうとするころ、ポールポジションからスタートしていた関口雄飛は傾いた日の光によってほんのり朱に染まったTEAM IMPULの車の中で歓喜のチェッカー・フラッグを受けている。4番グリッドながら作戦が奏功した中嶋大祐が14秒を置いて続き、2番手から中嶋一貴に抜かれて1周目を3位で通過していた野尻智紀が4秒遅れておなじ順位のままゴールした。完璧なスタートを決めながらもレース途中で一時的に3速ギアを失い後退したその一貴は後半に野尻を追いかける機会を得たが、予想どおりコース上で抜き返すこと能わず表彰台を逃している。終わってみれば、1周目と68周目で上位の顔ぶれはまったくといっていいほど変化せず、兄弟が入れ替わっただけのレースである。大祐のみならず、下位に目を向けても予選より順位を上げたのは早めにピットへと戻って周囲に車のいない空間を見つけて飛ばす作戦を採用したドライバーが多く、コース上で車同士が連なる戦いはほとんど起こらなかった。数えた限り、1周目と一貴のトラブルを除けば、テレビカメラが捉えた追い抜きの場面は3回か4回程度しかない。先頭交代にいたっては一度も起こらなかった。

こうやってラップチャート的に振り返るなら、菅生で行われていたのは典型的なSFのレースだったように見えるし、実際、おそらくそうした側面は顔を覗かせている。競技水準の高さはぼんやり伝わってくるものの、目に見えてわかりやすく興奮できる場面は少なく、興行性の伴わない退屈な――悔しいがその批判を真っ向から否定しきれない――カテゴリー。SFに纏わりつくこの課題は残ったままで、たまたまJ Sportsにチャンネルを合わせたサッカー好きやだれかに誘われてはじめてサーキットにやってきた観客に単純な娯楽を提供できたかといえば首肯しかねてしまう。だが、初心者にとっては地味に感じられる動きの少ないレースだったとしても、SFを、モータースポーツを見続けている熱心なファンのうちきっと少なくない数が2016年のシリーズを振り返って菅生こそ最高の一戦だったと言うだろう。まず、わたし自身がそう言いたいと思っている。ポールシッターが全周回を先頭で通過し、ファステストラップも記録して14秒差で圧勝した、俗にいうグランドスラムを達成した結果は、字面から連想するだけなら淡泊なものだ。しかし実際のレースは退屈どころか、息を凝らして一秒たりとも目を離してはならない責任を観客に強いるほどの緊張感に溢れている。菅生の20周目、魔物が最悪のタイミングで顔を覗かせたとしか表現できないような不幸が、完璧な走りを続けるリーダーだけを襲ったのだった。もちろんサーキットでは何だって起こりうるとみな知っているがが、そこで起きたわずか一度の事件はあまりに不公平で、整然としていたはずのレースはだれの目にも歪んでしまったように映ったはずだ。しかし、そのありうべき歪みを元のあるべき形へと戻してみせたのが、まさにリーダーとして不運に見舞われた関口雄飛だった。関口はたったひとりで、ただ速さのみによって、壊れてしまったレースのすべてを再構築していった、その過程のなかでモータースポーツの代えがたく美しい光景が何度も瞬間的に立ち現れては消えていったのである。

***

毎年毎年、奇妙なくらい菅生と相性の悪いジョアオ=パオロ・デ・オリベイラがSPインコーナーからアウトコーナーにかけてスピンを喫してグラベルトラップに捕まったのは、ドライバーごとの作戦の違いも明確になり、レース全体がとりあえず落ち着きを見せはじめていた19周目のことだ。菅生9年間で4度目のDNFとなる元王者のミスは即座にセーフティカーを呼び込む結果となる。とはいえこれはレースにさほど大きな影響を与えないように見えた。上位陣には義務として課せられている1回のピット作業を終えていないドライバーがまだ何人か残っていたものの、SFではセーフティカー走行中もピットは開いたままだから、頭を抑えられてしまう前に飛び込んで給油してしまえば後方の車が追いつくまでの間にコースへ戻るのは難しくないし、そうなれば元の順位は維持される。テレビで解説を務めた土屋武士もそう述べて状況を的確に伝え、実際画面には少し慌ただしくはありながらも無事に作業をこなしてつつがなく復帰する数台の様子が映し出されてもいた。ここまでに作ったタイム差こそなくなってしまうが、その程度はレースにつきものの、受け入れるべき損失だ。菅生で抜くのは至難の業だし、隊列も混乱しておらず前の車が速く後ろのほうが遅い状態は基本的に崩れていない。セーフティカーが退いた直後の再スタートさえ注意すれば、オリベイラのスピンの前後でレースの様相はなにも変わらないはずである。

関口雄飛は速すぎたのだった。スタートからおよそ次元が違うと思わせる走りでレースを完全に支配下へ収めた関口が2位の野尻に14秒もの大差をつけていた、そんなころに件のスピンは起きている。早めに給油を済ませて最後まで走りきる作戦を採用していたオリベイラはそのとき、関口の48秒後ろにいた。菅生は1周70秒弱だから、言い方を変えれば関口より1周少ない20秒ほど前の場所で動けなくなったわけである。オリベイラは自分が犯したミスに頭を抱え、再スタートを諦めてステアリングを外し立ち上がって車を降りると、ガードレールの向こう側を無念そうに歩いてゆく。そうして運転手を失った車が取り残されたところで、ようやくセーフティカーが発令された。スピンの瞬間から約40秒後、それこそ関口にとって最悪のタイミングなのだった。「イン」と「アウト」2つの頂点をリズミカルに攻めなくてはならないSPコーナーはターン番号で表すと9と10(序盤にある左・右のS字カーブを2つで1組のコーナーと見るなら)でコースの後半に位置し、そこから短い加速を終えて高速で大きく回り込んでいく110Rコーナーを立ち上がるともうホームストレートを迎える。予選の速度なら、SFがこの区間に要する時間はおおよそ18秒だ。計算は難しくない。関口とオリベイラの差が20秒、スピンしたオリベイラの脇を関口が通過し、ホームストレートに至るまでの時間が、黄旗区間の減速を加味すると20秒、事故からセーフティカー導入までが40秒――すなわち「SC」と書かれた白い板がマーシャルポストで掲示された瞬間、関口はまさにコントロールラインに差し掛かろうとしていたのである。オリベイラより35秒後ろにいた野尻はピットレーンへと進路を変え、作業を終えてもともと走っていたなりの場所に戻った。続く一貴ももちろん問題はなかった。だが関口は速すぎた。速すぎたがために、SCを察知したチームからの無線でピットに戻るよう指示が出たときにはすでにその入り口を通過しようとしていたのだった。急坂を駆け上ってコントロールラインを迎えたその先には、セーフティカーが魔物の哄笑とともに待ち構えていた。

結局、オリベイラのスピンによって甚大な被害を受けたのは皮肉にもチームメイトの関口だけだった。ピットに入りそこねた関口に対し、他の16台はすべてピットストップの義務を消化しており、ゴールまでの48周を届く燃料を持っている。長いスティントにはなるものの、ヨコハマタイヤは最後まで無事に走れるだけの性能を持っていることがわかっている。全員が最後までただ走りきることに集中すればよいなか、リーダーただひとりが30秒以上を失うピット作業を残したまま、築いてきた差だけが水泡に帰してコースに取り残されたのだ。セーフティカーの後ろについた関口は、この信じがたい事態に頭を抱え、レース中にもかかわらずヘルメットのバイザーを開き何度も手を挙げて、失望と怒りと、抗議の意を表した。セーフティカー自体はやむをえないにしても、レースの理に逆行してまるで狙い撃ちにされたかのように速さが罰せられた不公平は、ドライバーとしてとうてい許容できるものではなかったのだろう。あれだけ突き放した後方集団はすぐ後ろに並び、いまピットに入れば最下位まで落ちるのは確実だった。

だから、おそらく当人まで含めて、だれもが関口のレースは終わってしまったと考えている。ここからやれることといったら、再スタート後にできるだけ速く走って後続との差を作り直すくらいしかない。セーフティカー前の関口は2番手に対して1周あたり0.7秒も速かったが、燃料タンクが空になるまで飛ばしに飛ばしたとしても、しかし入賞圏内に戻っていくばくかの得点を取り返すあたりが現実的な想定に思えた。おなじ要領で離し続けられたとして、30秒強を稼ぎ出すころにはレースが終わってしまう。残りの燃料が少なければそもそも猶予が足りず、そうでなくとも極端なハイペースを維持するのは簡単ではなく危険も高まる。長く走って周回遅れに出くわせばペースは落ちる。そんなふうにして失うタイムの積み重ねが関口を追い詰めていくはずだ。そしてたとえば給油を終えて5~6番手で復帰することになれば、もういくら速くても逃げる車を抜く術は少なくなってしまう。もし表彰台の一角を占められでもすれば襲ってきた不運に比べてだいぶ救われたほうだ。鮮烈な印象を残しながらも結果にはつながらなかった速さ、悲劇の徒花――関口が陥った状況は、そう思わせるに十分なほど困難なものだった。

だが、窮地に追い込まれてしまうほどに皮肉めいた速さは最後に関口自身を救い直した。この菅生を見つめていて、セーフティカーが退いてからの32周を忘れようもないはずだ。ふたたび加速を始めた関口はひたすら速い。外から見ているだけで、運転そのものが変わったのは明らかだった。セーフティカー時点での差からたしかなように序盤のペースも十分に優れたものだったが、後半の走りの前では霞んでしまう。コーナーへの進入速度が画面で見るだけでも明らかに高くなり、旋回中は前輪のグリップの限界を探るようにステアリングを小刻みに切り込みながら速度を落とさず駆け抜けていく。出口では一つ間違えれば粗いだけになってしまうほど大胆にスロットルを開き、狭いコース幅をいっぱいに使い切ってストレートに向け路面を蹴飛ばす。あたかも予選アタックのような、という陳腐な比喩では表せそうもない走りは、わずか数周の間に後続の姿を消し去っていった。25周目1分8秒235。たとえば1分7秒973、1分8秒088、たとえば1分7秒782、53周目1分7秒736ファステストラップ……。

失った優勝を取り戻そうとたゆまぬ全力疾走を続ける関口を見ながら、わたしは不意にジョセフ・ニューガーデンを思い出していた。デビューからわずか4年でトップチームのチーム・ペンスキーのシートにまで登り詰めた際立つ才能がまだサラ・フィッシャー・ハートマン・レーシングで開花の時を待っていたころ、はじめての優勝に向けて突き進んだ2014年インディカー・シリーズのミッドオハイオをである。レース途中に数台を抜いて2番手を走っていたニューガーデンは、燃費を頼りにペースをコントロールしようとしていた先頭のスコット・ディクソンが先にピットへと向かうと同時に猛然と速く走りはじめた。直後に1分7秒1493のファステストラップを記録した周回は映像が捉えていなかったが、その翌周の走りは今でも鮮明に思い出せる。ターン5の出口でグリップの限界をほんのわずか踏み越えるテールスライドを抑え込み、ターン6~8「エッセ」を軽やかに切り返す。ターン9で砂を巻き上げるほどぎりぎりまで縁石を使って立ち上がると、「雷の谷」を一気に駆け下りて高速区間を抜け、ターン12「カルーセル」へ。この日すでに2度も鮮やかな追い抜きを決めていた大きな中速コーナーへ直線的に進入し、ステアリングを小さく小さく切り足しながら信じられない速度で旋回する。最終コーナーを抜け、短いホームストレートからのターン1はあくまで鋭い。この息が詰まるほど緊張感に溢れた百数十秒によって、すでに給油を済ませたディクソンに対し逆転可能な差を稼ぎ出したニューガーデンは、まだ見ぬ優勝に向けてピットレーンへと入っていったのである。

これさえ思い出せばいま世界からモータースポーツがなくなっても生きていけると思えるほど、この走りはわたしにとって鮮烈な記憶だ。だが当時のニューガーデンでさえ必要とされていたのは数周を限りなく速く走ることだったのだから、関口の挑んだ全開走行はきっとその何十倍も困難を極めただろう。実際、ラップタイムの推移にはその走りが一歩踏み外せば転落しかねない危険を孕んでいたと思わせるものがある。5周目に少し速いタイムを出して以降、セーフティカー直前の19周目までは機械のような正確さで1分9秒弱のペースを刻んでいたのと対照的に、後半の関口のタイムはあまり安定していないのだ。レース再開後すぐの24周目にいきなりその時点での最速ラップを叩き、5周連続でそれを更新し続けて28周目にはじめて1分7秒台に入れると、そこから0.2秒ほどペースが遅くなる。36周目にぽんと7秒台に戻ったと思えば、その2周後にはいきなり0.5秒、1分8秒4まで落ちた。次の7秒台は42周目で、それからふたたび0.2~0.4秒落ち込んだものの今度は46周目から4周連続で8秒を切り、47周目には19周ぶりに最速ラップを記録。直後にまた1分8秒3、そして53周目にこの日最後の最速ラップ1分7秒736が生まれた。燃料が軽くなるにつれて直線的にタイムが上がっていったわけでも、タイヤの消耗に応じてペースが停滞したわけでもない「乱高下」は、つねに限界を求め、時に限界を超えていた可能性を示唆しているようだ。

だが関口は決定的な破綻だけは来さずに周回を重ね続けた。そしてたとえ行き過ぎた踏み込みでタイムを落としたとしても、結局のところだれよりも速かった。25周目から53周目まで、関口を上回る周回を記したドライバーはひとりとしていない。それどころか、この間に2位以下が記録した最速タイム――中嶋大祐の1分8秒865――さえ、関口のいちばん遅いそれに0.4秒も及ばなかったのである。関口は速く、危うい魅力を放ち続けた。10秒が11秒に、11秒が12.5秒に、14秒に。後方との差は走れば走るだけ異様な勢いで広がっていく。中継で伝えられたところによれば、チーム・インパルの監督を務める星野一義は周回遅れが近づいてくるとそのチームのガレージを訪ねて進路を円滑に譲ってもらうよう頼んでいたといい、実際にどのドライバーもミラーに映った次の瞬間には背後に迫ってくる圧倒的に速いリーダーに最大限の敬意を払って道を開けた。もちろんそれは追いつかれた場合の責務なのだが、義務以上に、この日の関口には積極的に譲りたくなる雰囲気があったかもしれない。さしてタイムを失うでもなく周回遅れをやりすごし、やがて1位と2位は35秒差に達する。そうして55周目の最終コーナーを立ち上がると、ひとり奇妙なタイミングの給油を受けるべくピットへとステアリングを切った。もはやなにも憂えることはない。まるでウイニングランの予行をするかのように、関口はピットレーンをおもむろに進んでいく。レースは長い緊張からようやく解かれ、後には困難な冒険を達成したドライバーへの感嘆だけが残った。

2年前のニューガーデンの挑戦はピットクルーのばかげた不注意によって終わりを告げたが、インパルがそんな愚を犯すはずもなく、給油を終えた関口はふたたび先頭で、しかも大祐より6秒も前でコースへ戻っていった。セーフティカーが明けてから三十数分間で、一台も抜かず、しかし16台を抜き去ったとも言えるだろう。残りの13周は余韻にすぎない。1周目を制したポールシッターが1位を確定させたことで、レースは元に戻り、そのまま終わった。そう、つまり結果だけ見るならポールシッターがファステストラップを記録し全周回をリードする、これはいかにもありそうなSFのレースだった。だがそこに至るまでの過程には、外乱で生じた歪みを直そうとしたリーダーの苦闘が溢れていた。速さだけがすべての不運を凌駕し、正しさを引き戻していく。関口が成し遂げた優勝の価値とは、レースに宿るかもしれないそういった神秘を、現実のものとして示してみせたことにもあったのだ。気づけばもう28歳になる。早くから将来を期待され、10代にしてすでにGT300で優勝しながらその後のキャリアを遠回りしてしまった「遅れてきた新人」は選手権首位へと躍り出る2勝目を上げた。それは、派手な追い抜きが一度もなく、ダイジェスト映像ではすべてを伝えきれない、その場を過ごした人間こそが潜ってゆける美しい90分の物語だった。

レース後の優勝監督インタビューで星野は目を潤ませながら、テレビの音声に載せるには不適切とされる表現で関口を讃え、続いて「F1連れてっちゃおう」と大きな夢を口にすることになる。良くも悪くも直情径行で、情熱を少しも衰えさせないまま年を取ったかつての「日本一速い男」が心から発したであろう言葉は、レースの興奮と相まってあるいは本当に実現するのではないかという誘惑とともにわれわれの耳へと届いた。これほどのドライバーを、日本に、SFに留めておくのは「惜しい」。この菅生の後なら、そんな気持ちが全員に芽生えても不思議はなかった――。

Chapter 2

2015年から2016年にかけてのシーズンオフ、スーパーフォーミュラの話題の中心はまちがいなくストフェル・バンドーンだったはずだ。F1はマクラーレンの控えドライバーをすでに2年間務め、GP2を圧倒的な大差で制したばかり、将来の世界王者候補と目される23歳のベルギー人がF1の席が空くのを待つ間にレース経験を重ねるためホンダの繋がりでSFに来る、といった話は早くから伝わっており、秋が終わるころには正式発表を待つだけというところまで確実視されていた。2015年のGP2予選11回中4度ポールポジションを獲得した基礎的な速さはもちろん、スタートも巧みで、接近戦に優れなによりレースが抜群にうまい。マクラーレンのレギュラードライバーであるフェルナンド・アロンソをまさに髣髴とさせる走りで次々と優勝を攫い、同僚の松下信治が2年間多くの場面で敵わなかった才能がSFで見られるとあって、日本のファンの多くが色めきたっていたと記憶している。ホンダがモータースポーツ活動計画でその名を発表したのは年が明けて2月12日になってからだったが、同僚となる野尻をはじめ何人かがひとりの新人について直接言及し、小林可夢偉が「絶対に優勝できない」と言い切るなど、最近ならその小林が日本に復帰した際と同様に熱を帯びたドライバー動向だった。はたして欧州水準の能力に極東の地域フォーミュラは蹂躙されてしまうのか、それとも返り討ちにして日本に優れたレースがあると証明するのか。バンドーンの走りは、日本がどの位置にあるかの目印になる――少なくとも、比較材料のひとつにはなる。近年「世界」との繋がりをほとんど持たなくなっていたSFは、GP2王者の参戦によって久しぶりに彼我のあいだに架かる橋を手に入れたのだった。

しかも偶然の巡り合わせによって、SF開幕前にバンドーンの肩書にはさらに箔が付いた。オーストラリアGPの大事故で負傷したアロンソに代わり、バーレーンGPに出場する機会を得て「F1ドライバー」となったのだ。岡山でのSFテスト参加を急遽取りやめ、機上の人となって説明書を読み込んだというバンドーンは予選でいきなりジェンソン・バトンより上位の12位に飛び込み、決勝ではさらに順位を上げて10位入賞と、最高の結果を持ち帰った。1点だけ、1レースだけとはいえ、前年散々苦しんでいたマクラーレン・ホンダにシーズン最初の得点をもたらし、デビュー戦にして世界王者経験者を完全に上回ったことで、まだ未知の部分があったバンドーンの能力に疑いの余地はなくなった。SFが迎えるのは、まちがいなく最高水準のドライバーなのだと。

そのようにして始まった一年が過ぎてみれば、バンドーンの9レースはだれにとってもすこぶる幸せな結果になったように思う。F1入賞ドライバーとしてふたたび日本に戻ったバンドーンは開幕戦の鈴鹿でいきなり3位表彰台に登り、F1以上に華々しいSFデビューを果たした。その後もレースを重ねるごとに順応を見せ、7月の第3戦富士で早くもポールポジション、9月の第5戦岡山レース1で初優勝、そして10月最終戦鈴鹿レース2で有終の美を飾る充実したシーズンを送った。すべてが完璧とはいかずうまくいかない日もあったが、随所に見せるスタートの鋭さ、接近戦の冴え、レースの巧みさ、それらを支える基礎的な速さはGP2時代とまったく変わらずわれわれの前に現れたものだ。3度の表彰台、うち2勝は国本雄資と関口雄飛に並ぶ最多タイで、小林の挑発的な予想を見事に覆してみせている。選手権では3年目になる同僚の野尻にほぼ倍の得点差をつけて総合4位に入り、主要カテゴリーでことごとく成果の出なかった2016年のホンダにあって数少ない明るい話題をもたらした。ホンダ系のドライバーではもちろん最上位で、他に勝ったのは山本尚貴が1回だけだったのだから傑出した成績と言っていいだろう。見知らぬ土地、聞いたことのない言語、異なる文化、初対面の関係者、そしてもちろん車輌やサーキットにレースのスタイルなど、バンドーンが数々の未知に直面しながら戦っていたことは想像に難くないが、にもかかわらず発揮された煌めきはF1で勝ちうるドライバーの資質の高さをまざまざと知らしめるものだった。

だがまた、そうは言ってもSFが徹底的に荒らされたわけでもなかった。不慣れな環境や相対的に劣勢の車という事情があったにせよ、バンドーンが独走する興ざめの展開は訪れず、あるいは期待外れに終わって日本への情熱を疑うようなことにもならず、その存在は瞬く間にSFへ溶け込んで風景の重要な一部となっていった。GP2王者は他の優れたドライバーとまったく変わらず正当に順位を争い、時にスピンやオーバーシュートを犯し、惨敗もリタイアも喫し、そして勝利を上げた。バンドーンは自分自身がどの国でもおなじように戦える事実を証明したが、それは同時に、SFがバンドーンを受け入れて見劣りしない水準を備えている事実も証明することになった。選手権4位という絶妙な順位は、われわれにある種の希望を与えもしよう。バンドーンがF1を勝てるというのなら、きっと日本にだってそれに相当する力を持ったドライバーがいるはずではないか。それはSFとWECを掛け持ちし、一度F1にスポット参戦したアンドレ・ロッテラーかもしれない。中嶋一貴はかつてニコ・ロズベルグに完敗してしまったが、経験を積んだ今ならまた違うかもしれない。これから現れる若いドライバーがSFを勝つとすれば、そのままF1級の素質があることを意味するかもしれない。激戦のシーズンを制した国本雄資や、菅生で夢を見た関口雄飛にはGP2王者に勝ったと曲がりなりにも口にする資格があるだろう。われわれはバンドーンという外部の視点を通してSFの場所を知ることができた。「世界」に対する多少正確な距離感を得たのである。

バンドーンがSFの競争力を証明する基準となり、本人自身もその競争の中に身を置いて新鮮な経験を積んだ。日本のファンは国内に居ながらにして世界の一端を垣間見ることができた。その価値を知っている人間に対しては、大きな宣伝効果もあったに違いない(家の事情でどうしても実現できなかったが、わたし自身現地観戦に行くつもりでいた。実際に行った人もいるだろう)。だれにとっても幸せだった循環を残して、バンドーンは1年限りで日本を去ってゆく。シーズン途中の9月には、バトンが休養(のちに事実上の引退)を宣言したことで空いたマクラーレンのF1シートに収まることが発表されていた。すべて最初から決まっていた筋書きどおり、その計画にはいささかの遅滞もなかったといったところだろうか。一方でSFにも、今度は2016年のGP2王者ピエール・ガスリーがレッドブルを伴って参戦する計画があるという気になるニュースが伝わってきている。この記事を書いている時点ではまだ複数のチームと交渉中の段階だが、本人の希望も強く可能性は高いようだ。2年連続で直近のGP2王者が「F1の準備」のためにSFへとやってくる。はたしてこれは偶然の一時的流行にすぎないのか、それとも毎年とまでは行かずとも続く者が現れてある程度定番の方法になっていくのか。そうなったとき、途切れているSFからF1への道筋は再接続されることになるのだろうか。

***

星野一義は、感情が高ぶる瞬間に口走ったことだったにせよ、菅生を制した関口雄飛を「F1に連れていこう」と言ったのである。鮮烈で夢見心地な勝利に浮かされた心に、その言葉は心地よく響きもしよう。だがSFを見ているような、すなわち多くはF1にも通暁しているようなファンならきっと、現実に引き戻されたときそれがとうてい実現不可能な夢だと首を振る。才能に疑義があるという話ではない。現在のSFドライバーの最上位陣なら、成功するかどうかはともかくとして能力的に箸にも棒にもかからないなどということはありえないだろうし、関口もその一人として挙げられる。だがそれでも、彼らにF1を運転する機会が訪れるかと問われて肯定する日本のファンはほぼいないだろう。能力を俎上に載せる以前、もっと根本的なところから、関口の、そしてほとんどのSFドライバーはF1と無縁な場所を走っているのだから。

そもそも、純粋に形式的な問題がある。関口はF1に出場するために必要なスーパーライセンスを受ける資格を持っていない。FIAによる2015年の規則改正で、スーパーライセンスを取得するには「18歳以上、最低2年のジュニアフォーミュラ経験」を満たし、そのうえで原則的に「各カテゴリーの年間順位に応じて設定されるスーパーライセンスポイントを直近3年間の合計で40点以上」獲得していることが必要となったが、全日本F3に乗っていたのが5年前でSFに上がったばかりの関口は15点(2016年SF年間3位)しか持っておらず、万が一どこかのF1チームが今すぐにでも契約したいと話を持ちかけてきたとしても2017年のレースに乗りようがないのだ。2017年もSFに出場するなら、王者となった場合に限りようやくその翌年の資格を得られるのだから道は長い。この状況はSFを主戦場とする他のドライバーも変わらず、いまSFだけで40点以上を持っているのは2014年1位の中嶋一貴と、3年間で3位2回2位1回のロッテラーしかいない。レース数や格の違いもあり、GP2や欧州F3の王者が40点を獲得できるのに対し、最高でも25点しか得られないSFで「一発合格」は不可能である。SFにいるかぎり、まず構造的にスタートラインが遠い。

あるいはまた、年を取りすぎている。関口はSFに乗って1年だが、キャリアを迂回してきたこともあり2016年末には29歳を迎える。これは今季のF1に当てはめると上から8番目に相当する年齢だ。セバスチャン・ベッテルやニコ・ヒュルケンベルグと同い年と言えば、もはや新人としてなにかを覚える時間が許される年齢でないのは明らかだろう。2017年はここからニコ・ロズベルグ、フェリペ・マッサ、ジェンソン・バトンの30代3人が去り、若返りがいっそう加速する。満25歳でフル参戦を開始するバンドーンですらいまや遅い部類に入るにもかかわらず、仮に2018年に関口がF1の準備を整えられたとしても、30~31歳の未経験者に声をかけようというチームがあるはずはない。

これも関口に限った話ではなく、そもそもSFの年齢層はF1に比べてかなり高い。米国のインディカー・シリーズもそうだが、明確にステップアップと位置づけられるGP2などと違い、国内の最高峰カテゴリーという地位を有するSFは優れたドライバーが「卒業」せず乗り続けるため新陳代謝がさほど活発ではないからだ。またF1の場合は能力の高い一部のドライバーだけが上位チームに居残って年を取り、下位が頻繁に入れ替わることで若返っていくが、SFの場合はそういった階層が存在しない事情もある。2016年のドライバー平均年齢を見ると、F1が27.1歳、SF30.3歳、インディカー31.5歳(同年の満年齢)。F1は23人中12人が25歳以下であるが、SFは24歳のウィリアム・ブラーとバンドーンが最年少で、もっとも若い日本人は25歳の中山雄一だった。インディカーは25歳が4人、23歳と24歳が1人ずつ、逆に40代が3人も走っている。対してF1直下のGP2は実に平均22.4歳。30代がいないどころか20代後半に突入しているのもセルジオ・カナマサスとジョニー・チェコットJr.の2人だけで、あとは25歳以下がずらりと並ぶ。しかもその後ろにはもっと若いGP3やF3.5 V8のドライバーが隙あらばシートを奪おうと列をなしており、各チームには「テストドライバー」がわんさかいるような状況である。移籍市場においての原則が「「次」は「今」より若い」だとすれば、SFのドライバーは全員がすでに時間切れだ。国内ではキャリアの行き止まりであるゆえ上が空くことはなく、さらに小林や一貴のように海外から主戦場を移してくるドライバーもいる。下から上がってくるドライバーのデビューは自然と遅くならざるをえない。少ない時間はますます消費され、そこにスーパーライセンス資格取得に最低2年かかる制度が追い討ちをかける。SFの構造はF1に向かってできていないのだ。

そしてもちろん、金がない。F1に乗るための持参金にまつわる話は2年前に書いたので繰り返さないが、世界選手権で戦うために必要とされる集金力はますます高まっているようである。関口をはじめ欧州で実績のないSFドライバーが慢性的な財政難に悩まされるチームに潜り込もうとすれば、50億円支払っても足りないくらいではないだろうか。日本のモータースポーツの経済規模からして、これだけの捨て金はどこからも出てこない……。

前身のフォーミュラ・ニッポン時代から、すでに日本のレース体系とF1は隔絶されていると評されてきた。時代の変化に伴い、その溝は対岸の見えない大河のように、ますます深く、幅広くなっている。こうして大枠だけで捉えてみても、もし日本人が本気でF1に行きたいと願うなら、さっさと日本のレースなど捨てて最初から欧州で戦う以外にありえないとわかるはずだ。すでにGP3もGP2も持参金競争が激化して健全さが失われていると言われて久しいが、そこが戦うべき土俵であることは揺るぎない事実である。

たしかに、バンドーンはSFを経てF1に主戦場を移す。もし2017年にガスリーが来日するなら、次の年にはまた新たなF1ドライバーがSFから「誕生」するだろう。若手を次々と試すレッドブルグループの方法論からして、カルロス・サインツJr.かダニール・クビアトどちらかと交代でトロ・ロッソのシートを得ることはほぼ間違いないと思われる。SFからF1への潮流? いや、否だ。仮に欧州出身のドライバーによるSF経由の出世ルートが今後確立するとしても、それはSFがF1への途上で存在感を発揮するようになることを意味しない。バンドーンにしろガスリーにしろ、すでに欧州で結果を出し、F1のシートをほぼ確定させてからSFへやってきた、あるいは来ようとしている。バンドーンなどは偶然とはいえSFを走る前からすでにF1で入賞していた。彼らにとってSFは目的地でもなければ能力を証明して売り込む場でもなく、待ち時間を有効活用するための修業の場、誤解を恐れずにいえばよくできたキャリアの腰掛けである。SFの鋭敏な車輌と高水準のレース、異文化への順応はドライバーとって重要な経験になるだろう。だがキャリア構築という点から見れば、F1を手中に収めている彼らにとってSFというシステムが影響を及ぼすところはなにもない。日本でどういう結果になろうと、彼らは確実にF1へ行く――そしてそれは、裏を返せば日本の下部レースからSFまでひとつずつ上がってきた日本のドライバーがどうあろうと確実にF1へ行かないことを示している。その理由の一部は書いたとおりだ。そもそもSFで戦う意味の前提がまるで違う。

東京と大阪を結ぶ高速道路の一路線である伊勢湾岸自動車道に、高速道路側と一般道側の両方から乗り入れられるサービスエリアとして「刈谷ハイウェイオアシス」が設置されている。利用者は別々の駐車場に車を止め、おなじ施設を利用し、空間と時間を共有するが、それぞれの路線は接続されておらず、一般道から高速道路へ、高速道路から一般道へ乗り換えることはできないという、近年増加中の形態の代表とも言える休憩所だ。バンドーンと関口や国本の関係はそんな構造を思わせる。ともにSFという場で過ごし、おなじサーキットでおなじレースを戦いながら、その立場は分かたれたまま混淆しない。日本のルートはここが終点だ。フォーミュラでのキャリアは頂点に達し、ドライバーは長期間にわたって留まる。そしてバンドーンのように欧州での実績を引っさげてSFを借りるドライバーは、そこで一時を過ごした後にふたたび本線へ戻り、F1に向けて走り去ってゆく。両者の間で乗り換えは生じない。ひとところへ集まった互いのレース人生は、しかしけっして合流することなくふたたび分岐する。ガスリーもかならずそうなる。それに次ぐドライバーが今後も現れるなら、SFはきっとそのままであり続けるだろう。

違う立場どうしが空間をともにして付き合う社交場。交叉しない人生の交叉点。バンドーンが来たことで、ガスリーが来ようとしていることで、SFは世界でも類を見ない奇妙な姿のカテゴリーになろうとしている。きっと普通なら、関口とバンドーンが出会うはずはなかった。(1年だけ欧州で活動したとはいえ)日本で生き続ける者と欧州の本流に沿ってF1まで突き進んでいく者、おなじレーシングドライバーという職業ではあってもふたりの人生にかかわりはほとんどなく、これほど近づく場所など本来は存在しないはずだった。しかし世界の片隅にはSFというレースがあった。そここそ、異質なものどうしが異質なまま交流する場になりうると発見されたのである。バンドーンがGP2でやるべきことを失い、かといって内定しているF1のシートにも空きがないという状況に陥ったこと自体は偶然であっても、そうなったバンドーンが選んだ先がSFになるのはなかば必然だったのだろう。バンドーンはSFを求めることができたし、SFにはバンドーンを受け入れる素地があった。その素地とは何なのか。わたしが考えるひとつの回答は、SFにまつわる文化、歴史、感情といった、いわば日本のレースを形作るありかたそのものである。

CHAPTER 3

2015年3月18日に開かれたスーパーフォーミュラ概要説明会で、運営元である日本レースプロモーションの白井裕社長は、SFを「名実ともに世界の三大フォーミュラカーレースのひとつとして、F1、インディカーと並び称されるカテゴリーにまで発展させる」と述べている(http://archive.as-web.jp/news/info.php?c_id=8&no=63934)。これは公式ウェブサイトに掲載している「SUPER FORMULA シリーズ概要」も同様であり、自らの意味を「「日本からアジアへ」」展開し、「「F1、インディ、そして自身を第3極」として位置付け」られるレースの場だと規定している(http://superformula.net/sf/about/)。すなわち、世界選手権ではありつつも欧州を政治的中心地とするF1と、米国選手権であるインディカー・シリーズ、そしてアジア随一のモータースポーツ大国で開催される日本選手権を同格のものとし、世界のフォーミュラレーシングの最上位集団を三者で形成するという理念の許、フォーミュラ・ニッポンから生まれ変わったのがSFなのだ、と言えるだろう。もちろん今のところ「日本からアジアへ」の展開が大きく実現しているとは言い難いし、経済規模や経営力、ドライバーの社会的認知度や名声も比較にならないF1とSFが同じ格と見なす者もいない。SFの理想は、いまだスローガン以上の意味を見出せるものではない。だが建前に過ぎないとしても、少なくともSFが自身をF1へ至る過程に置かれたカテゴリーでないと宣言していることはたしかだ。F1だけを見据えて階段を登っていくドライバーがいるように、インディカーで無数の栄光を獲得するドライバーがいるように、SFをキャリアの頂点としてSFで終わるドライバーが増えていくことこそ、SFの求める地位のはずである。星野一義をして「連れていこう」と言わしめたほどの圧勝劇を菅生で演じた関口雄飛がそれでもF1に行くことのない理由はすでに挙げたとおりだが、たとえ「行きたくとも行けない」のが実情だとしても、才能の残留自体はSFにとって歓迎すべき未来であるはずだ。理念として三極のひとつを掲げる以上、SFはF1やインディカーと緩やかに繋がりつつも、一線を画することを志向しなければならない。

ところでおなじ「概要」ページには、「今年(※2016年)、前年のGP2チャンピオンで今F1に最も近いと言われるストフェル・バンドーンの参戦が発表され、(※SFは)世界のトップドライバーが目指すカテゴリーとしての地位を確立しつつある」とも書かれているが、これにやや妙な引っ掛かりを覚えないでもない。底意地の悪い解釈と誹られるのを承知で言うと、つまり前段で自身を同格の極と宣言しつつ、この記述についてはF1を上位のものと置いてその価値に頼っているようにも読める。矛盾しているわけではないが、気にしはじめればちぐはぐなようにも感じて落ち着きを失くすのだ。なぜ「前年のGP2チャンピオン」ではなく、あえて「前年のGP2チャンピオンで今F1に最も近い」である必要があるのだろう。もちろん筆者に意図など皆無に違いない。バンドーンのF1参戦が既定路線と捉えられていたのは単純に事実であるし、またF1に近いと書いたほうが読者もレベルを想像できると、せいぜいそのような理由で何気なく付け加えられた修飾節に決まっている。もしわたしがバンドーンを紹介するとしても、おなじように書くだろう(Chapter 2の冒頭で、実際にそうしている)。読む側にとっても、それはごくごく自然な記述として違和感もなくすんなり入ってくるはずだ。だからこれは難癖と受け取ってもらって構わない。ただ、この違和感のなさ、ほとんど無意識のうちに起こるF1への接続こそ、じつはSFが持つひとつの特徴なのだとわたしは考えているのである。

これも「概要」ページで紹介されていることだが、SFの源流は1973年に創設された全日本F2000選手権であり、そこから全日本F2選手権、全日本F3000選手権、フォーミュラ・ニッポンという流れを経て現代に辿りつく。名前から想像されるとおり、SF以前は現在のGP2と同様、純然たるF1の下位カテゴリーという時代が長かった。「概要」には「F3000時代にはミハエル・シューマッハーやハインツ・ハラルド・フレンツェンが、90年代中盤に入るとラルフ・シューマッハー、ペドロ・デ・ラ・ロサ、エディ・アーバイン、高木虎之介らが活躍しF1を目指す猛者たちがこぞって参戦した」と、当時日本を走っていた錚々たる名前が書き連ねられている。ミハエル・シューマッハはそれこそバンドーンに似て勉強のためにスポット参戦しただけだが、フレンツェンやアーバインなどは実際に日本で人生を変えた。ふたりとも欧州のF3000(格としては現在のGP2に相当する)では芳しい結果を残せずにいたものの、全日本F3000で評価されてF1に上がり、やがてグランプリ優勝者となったのだ(なお星野はフレンツェンに対し「日本でくすぶっていないで早くF1に行け」と激励されたと伝わっている。四半世紀前から何一つ変わっていないわけだ)。デ・ラ・ロサはジュニア・フォーミュラ卒業後から日本へと活動の場を移し、わずか2年で全日本F3選手権、フォーミュラ・ニッポンおよび全日本GT選手権(SUPER GTの前身)のすべてを制してF1に進んだ。高木もF1に至るまでずっと日本で走っていた。ここには挙げられていないが、鈴木亜久里も片山右京もきちんと日本での経験を経てF1へ巣立っていった。日本人ではじめてF1にフル参戦を果たした中嶋悟からして、国際F3000の経験もあるとはいえ下位カテゴリーでの主戦場は日本だ。日本のフォーミュラレーシングがF1を頂上とするピラミッドの中間地点として機能していた時代が、短いながらもたしかにあったのである。

米国のインディカー(チャンプカー)が、近づいたり遠ざかったりする時期はありながらも、F1より古い歴史やオーバルレースという独特の形式のおかげもあって一貫して独立した存在であり続けた――厳密には世界三大レースのひとつとして100年の伝統を誇るインディアナポリス500マイルがF1世界選手権に組み入れられた時代があったが、ほとんど有名無実だった――のに対し、SFはそもそもの成り立ちとしてF1の下部に位置するものだ。また日本ではバブル景気期にF1ブームが爆発的に訪れ、他の種目に波及しきる前に去っていったため、一般的に自動車レース=F1の固定観念が強い。詳しくない人が見ればSFは「F1のようななにか」もっといえば「F1そのもの」だろうし、モータースポーツファン、ともすれば関係者の間でも、現在の理念に反してSFを「F1を目指す猛者たちがこぞって参戦した」時代の続きに置いてしまう感覚は更新されていないように思う。かくいうわたしも例外ではない。ジョセフ・ニューガーデンの鮮烈な敗戦や、その後の初優勝を目撃したとき、この若い米国人がやがてインディカーの頂上に駆け上がり、シリーズ・チャンピオンを、なによりインディ500を手にする未来を夢見たが、心に「F1」の言葉が浮かんでくることはいっさいなかった。あるいはF1で成功できず母国に帰ったアレキサンダー・ロッシが2016年に奇跡的なインディ500優勝を成し遂げたときも、F1に戻ってほしい、戻るべきなどとは露ほども考えなかった。だが関口の菅生を見届け、星野の感涙を目にした瞬間、Chapter 1の終わりに書いたように「これほどのドライバーを、日本に、SFに留めておくのは「惜しい」」という思いが、現実の壁が立ちふさがることは想像しつつも、そしてSFはSFで完結すべきと理解しているつもりであっても、少しだけ頭をよぎったのである。菅生のレースを解説した土屋武士もまた、すさまじい勢いで後続を突き放していく28周目の関口を評して「(このレースを逆転するほどなら)そのままF1行っちゃったほうがいいですね」と述べている。Twitterを眺めていても同様だった。わたしの見ている範囲でしかないが、多くのフォロワーその他が、星野の発言を受けてとはいえ、「行ってほしい」にせよ「いや無理だよ」にせよF1と関連付けて関口を語らざるをえなくなっていたのだった。

SFがスローガンを先行させる形で独立した存在を志向しようとしても、かかわる人すべての意識からF1を振り払うことは難しい。「F1に最も近いドライバーが参戦」「F1より美麗な車輌」「F1より鋭い挙動」「F1より高いコーナリングスピード」「鈴鹿の第1セクターならF1より速い」(と、これはバンドーンの発言だが)、「F1連れてっちゃおう」、F1より、F1なら、F1に比べて……SFの言説にはところどころにF1がつきまとう。それを悪いと言いたいのではない。ただ、わたしを含め、人々がSFという風景のどこかにF1を重ね合わせ、SFの側もまたその印象にある程度依存している現実があることは確認しておきたい(この点、ブログ『Downsizing Mind』「スーパーフォーミュラの可能性と限界」(http://ameblo.jp/juckoji/entry-12170928031.html)ですでに詳しく論じられており、本稿は二番煎じにすぎないが、当該記事とわたしの感覚はかなりの部分一致するものである)。インディカーはインディ500によって自己を証明する。F1はまさに「Formula」の1番であることに価値を置く。しかしSFは自らを規定し拠って立つ基準の一部を自分自身の内に持たず、F1に委ねている。その原因のひとつが書いてきたように歴史的経緯にあることは間違いない。

ただ、これだけではSFがF1に頼る理由を説明できても、SFが歴史を経て生まれ変わり、現在の理念としてはF1を離そうと掲げていることの説明はできない。答えを出すには、もうひとつピースが必要となりそうだ。F1という大樹に少しだけ肩を預けながらも、自らを三極のひとつと位置づけるSFの捉えがたいありかた、SFがいまのSFである理由。複雑な顔を覗かせるSFを考える最後の要素として提示するのが、日本のモータースポーツにまつわる心情なのである。

***

Twitterなどで見る多くの人に程度の差こそあれ共通すると感じられ、他ならぬわたし自身がそうであるのだが、日本のモータースポーツファンはきっと、欧米への憧憬と羨望と劣等感と、裏返しとしての日本に対する矜持といったどこか複雑な感情を、自分の愛する競技に対して抱いている。われわれは、自分たちが生まれ過ごしている日本がこの分野で立ち遅れた国だと知っている。われわれにとってモータースポーツは「先天的」なものではない――日本はモナコGPもインディ500もル・マン24時間レースも持っていない。社会的な認知度はそれほど高くなく、いまだに暴走行為との区別がついていないような扱いを受けることさえある。そんな寂しさを抱えながら、われわれは外へと眼差しを向ける。日本の日曜日の夜、ときには深夜から翌朝にも及び、迫りくる出勤時間に怯えながら叫ぶ。世界にはなんてすばらしいレースがあるのだろう!

しかし翌週には富士スピードウェイの観客席から1コーナーを見下ろしてこう思うのだ。日本にはSUPER GTがある。スーパーフォーミュラもF3も開かれるし、そこに人材を供給するジュニア・フォーミュラだって充実している。日本には優れたモータースポーツの文化があるのだと。実際、「レースの文化がない」といったありがちな論評(ためしに「日本 モータースポーツ 文化」で検索してみるといい。出てくるページの主題は多く「根付いていない」だ)とは裏腹に、日本には豊饒な文化が備わっているとわたしは信じている。この国では頂上カテゴリーのレースに数万の観客が足を運び、ドライバーに、車輌に、チームに、時にはそのスタッフにさえ視線を注ぐ。育成ピラミッドの最下層から上層までを一国――しかもこの世界の中心である大西洋周辺からもっとも遠い土地――でまかない、年に一度の世界選手権では競技者に最大限の敬意をもって歓待する。独自の発展を遂げて速さではなくドリフトの美しさを競うD1グランプリが発祥したのは、他ならぬこの地である。そこに文化がないというのなら、世界中どこを探してもモータースポーツの文化といった高邁なものなど存在すまい。日本GPが常時開催されるようになって30年、鈴鹿サーキットはF1においてすっかり伝統的な価値を持つコースになった。この間多くの国がおもに行政主導で近代サーキットを建設してはF1の誘致に成功し、そして数年のうちに消えていったが、こうした国々にモータースポーツの「文化」があるのか。われわれが憧れる欧州のいくつかのF1グランプリでは、圧倒的な世界王者がいつもどおりに独走して圧勝したというだけの理由で、表彰式でブーイングが巻き起こりもした。低俗としか思えないそんな行動が「文化」とやらに根ざしているとでもいうのか。もちろんこれは極端な物言いだ。近代の進歩はめざましく、欧州には長い歴史と美しい雰囲気があり、逆に日本に拙劣な部分は数多い。だが一部の拙劣さをもって文化がないというのなら、どこの国にも似た程度には文化がないと言って構わないだろう。日本に瑕があるとしたら文化の不在ではなく、文化を語る言葉の不在であり、文化に対する無理解な言葉の蔓延である。だがそれはモータースポーツと呼ばれるものの中心ではない。

辺境に位置している痛切な自覚と中央への憧れと、その辺境で独自に文化を育ててきた自負と。日本のモータースポーツの根底には、ふたつの感情が絶妙に均衡しながら流れている。そしてこの感情の合流点こそ、現在のSFの姿を捉える最後の鍵だとわたしは考える。新しく現れた自国の英雄がいつかF1へと旅立てることをファンや関係者が心の底から望む一方で、外国にけっして引けを取らない高水準のレースが構築されている、下層ではない場所。われわれは「F1よりコーナリングスピードの高いSF」を誇りに思いながら、日本のドライバーをF1へと送り込みたいという気持ちをまったく矛盾なく両立させることができる。そうした両義性、SFの「柔らかい部分」こそ、GP2とF1の狭間を過ごそうとするバンドーンを引き寄せ、また日本も1年で去ることがわかっていたバンドーンを自然に歓迎した要因なのではないかと思えてならないのだ。それはたぶん、減少しているとはいえオーバルレースを中心的象徴とし、自国の英雄に自国の最高のレースを制することを第一に望むであろう硬質な米国のインディカーではできないことだった。

関口がF1ドライバーになる可能性は、「残念ながら」ほとんどないのだろう。彼はこの先数年にわたって訪れるキャリアの頂点を、日本で戦うドライバーとして味わうに違いない。現在において、日本でステップアップしていくことはそうやってレース人生を日本で完結させるのと同義であり、そしてSFを頂点とする日本のレース体系の理想形である。わたしはそれを、才能あるドライバーたちを国内で見続けられるありかたとして歓迎したいと思う。一方、バンドーンは日本を一時の止まり木にしてF1へと走り去っていく。ピエール・ガスリーがそれに続くかもしれないし、その後にはもっと若い世代が控えているのかもしれない。いずれにせよそんなF1との繋がり方もまた、SFが自ら望む姿のひとつである。それもわたしは歓迎したい。その両方をみなが望み、その両方をSFは実現する。「われわれ日本」として異なる極になろうとしながらも、憧憬の対象であるF1と相似形を保つレース。近づくはずのない人生どうしが近づき、近づきながらも交わることのない奇妙な、しかしとびきり魅惑的な場所。スーパーフォーミュラとは、日本のモータースポーツの縮図に他ならない。そこに広がっているのは、われわれの心を正確に反映した世界なのである。

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