映るのは少女か老婆か

【2017.3.12】
インディカー・シリーズ開幕戦 セント・ピーターズバーグGP
 
 
 2017年のインディカー・シリーズはウィル・パワーがポール・ポジションを獲得して始まった。ごくごく当たり前に見知った光景だった。2010年からこっち、次の年もそのまた次の年も、昨年にいたるまでこの選手権はそういうふうに始まるものと決まっていた。正確にはこの間1回だけ日本人に特等席を譲っているのだが、そんなのはちょっとした例外だ。だから今年もセント・ピーターズバーグでいちばん速いのはパワーなのだと最初からわかりきっているのだったし、日本時間でいえば日曜日の未明にコーヒーを沸かしながら予選を見届けたあと、肩をすくめて「ほらね」とつぶやく以外の反応が起こるはずはなかった。それは何一つ意外なところのないタイムアタックで、だからわたしはその結果に心動かされることなく自分の出場するカートレースの身支度をはじめていた。待ち望んでいた開幕とともに過ごすには少々慌ただしい休日の朝だったが、自分や普段から活動をともにするチームメイトに関連する大会が3つもあって、わたしの心はまずそちらへと向いていたのである。

 その日は悲喜入り交じる一日だった。ストラテジストとして2組の仲間を優勝と2位表彰台に送り込むことに成功した、殊に後者は敗れこそしたもののピットからは完璧なレースを提供してみせたのだが、その後自らステアリングを握ったレースでは惨敗して、あらためてレーシングドライバーとしての才覚をなにひとつ備えていない事実を思い知らされたのだ。各地で行われているレンタルカートのレースにぽつぽつ出るようになって2~3年になる。すっかりわかっていることだが、どうやら自分はどれだけ人生を繰り返してもサーキットを戦う人間にはなれそうもない。大多数の人間がそうであるように、結局のところレースを見るほうがよほど向いているようなのだった。大井松田カートランドからの帰路、そうした失望を得たわたしの意識はようやくインディカーへと戻っていった。それはわたしにとって羨望と詮ない嫉妬をもって眺めるしかない遠い世界だった。

 圏央道を北上しながら今年のセント・ピーターズバーグでもまたパワーは敗れることになるのだろうという漠たる予感は得たが、それ以外はちょっと予想がつかなかった。最近はずっとシボレーと組むチーム・ペンスキーが上位を独占していたレースなのに、今年は例年になくホンダが好調だったからだ。春先はエンジンの掛かりが遅い(これは比喩である)チップ・ガナッシ・レーシングのスコット・ディクソンが開幕戦で2番手からスタートするのは少しばかり物珍しい光景ーー珍しいといえば、大スポンサーだったターゲットが撤退して、彼は白い的をモチーフにした意匠の描かれた、あの十何年と見慣れた赤い車を失っているーーだったし、もっと信じがたいことにはシュミット・ピーターソン・モータースポーツのジェームズ・ヒンチクリフがその後ろにいた。ともにホンダユーザーだ。あるいは5番グリッドの、アンドレッティ・オートスポートに移籍したばかりの佐藤琢磨がいきなり優勝してしまうのもありうる脚本だった。ペンスキーにとってはいつものように気ままなレースにはなりそうもない。才能を買って獲得したジョセフ・ニューガーデンが4番手からスタートするのは悪い事態ではないが、昨年王座についたシモン・パジェノーは予選14位に沈んでいた。さてもうひとりいたはずだが、3年近く優勝から遠ざかっている41歳に多くを期待するものでもあるまい。

 パワーが敗戦する予感は、過去の経験に根ざしている。彼はセント・ピーターズバーグの8年で7度のポール・ポジションを得たが、そのうち逃げ切って優勝したのはたった1回だけだ(皮肉なことに、4番手スタートだった2014年は優勝している)。しかも唯一のポール・トゥ・ウィンを果たした2010年は第2戦に設定されていたから、結局その印象に反してパワーがセント・ピートの開幕戦を完全に制したことは一度もないのだった。昨年など、練習走行の事故で脳震盪をあらわし、ついに決勝を走ることさえ叶わなかった。彼の開幕は、そんなふうに土曜日と日曜日の落差によって語られるしかないはずだった。もちろん、過去がそうだからといって未来もおなじように繰り返されることが決まるはずはないのだが、あらためて振り返ってみるとたしかにパワーは過去44度もポールシッターになりながら優勝は29にすぎず、それどころか表彰台に立ったのも55回である――それは同年代のライバルであるスコット・ディクソンがわずか27回のポール・ポジションから40勝をあげ、89度にわたって表彰台の美酒を堪能しているのと見事に対照をなす――のだから、予選の順位が決勝を保証しないのは明らかだった。しかして実際そのとおりだったのだ。パワーはスタートしてからタイヤに問題を生じてまったく速度を上げられないままわずか5周でヒンチクリフに先頭を譲り、3回ストップには早すぎる14周目にピットへ戻る他なくなった。以降は燃料を節約するために苦しい戦いを強いられ、最後はエンジンが悲鳴を上げてとどめを刺されることになった。こうしてパワーの日曜日はまたしても無為に費やされ、ポール・ポジションと優勝回数の差はまたひとつ広がった。これもまた、予選同様に何ら意外なところのない結果だった。

 給油とタイヤ交換を終えてコースに合流したばかりのトニー・カナーンが迂闊な運転でターン3の空間を閉め、ミカイル・アレシンとの衝突を引き起こしてリアウイングを破損したのは26周目のことである。パワーの週末を簡単に見通せるほど予感に満ちていたレースだからこうした事態が発生することまで予想できた、と知った顔で述べ立てるつもりはない。ただインディカーの常なる教訓として、狭間の時間でこの種の事故が起こる場合はすくなからずあり、レースを動かしてしまう可能性を秘めていることを感覚の中に意識していることはできたはずだった。それは予感ではなく、ありうる事態だとあらかじめ知っているべきものである。事件でありつつもまた同時に日常のできごとである。そこではだれかが降って湧いた幸運に浴し、別のだれかの努力は一瞬にして水泡に帰する。リーダーは与り知らぬところでその座を失い、最後列にいたはずの人間さえがいつの間にか取って代わる。そんなふうにして、カナーンが撒き散らした破片を掃除するため即座に導入されたフルコース・コーションは確実にレースの様相を、数人のドライバーが浴する運命を変えた。パワーがいつも土曜日と日曜日で相貌を一変させるように、それは前触れなく、しかし特別な運不運もなく当たり前のこととして起こった。

 カナーンがアレシンと接触したのは当初の予定どおりにタイヤ交換と給油を済ませてピットを出ていったその周回で、多くのドライバーが同様の作業を行う頃合であることを意味している。全体の半分ほどのドライバーはすでにピットを離れて2スティント目に向かっており、もう半分はレース後半に向けてスタートから走り続けたままでいる、そんな時間帯に起こった事故だった。カナーンがいまだチップ・ガナッシの一席を占めていることへの疑義をまたしても重ねさせるこの接触は、それ自体は当たり前に生じうるものだ。事故がフルコース・コーションの呼び水になるのも自明だった。インディカーではどんなことだって黄旗を振る理由になり、ひとたび黄色に覆われたレースはまた最初からやり直される。ただ、それが狭間の時間に現れたために、運命は二手に分かれた。インディカーに馴染んだ観客であれば容易に勘づいただろう。あらかじめ給油とタイヤ交換を済ませていたドライバーは作業で失った時間が帳消しとなって悠然と順位を上げ、走り続けていたドライバーはリードを帳消しにされてしまった後でピットへ向かわなければならなくなった。レースは変転するのだ。

 起こるかもしれない事故は時として本当に起こる。事故は偶然ではない。それで不運と幸運が分かれたとしても、順番に巡ってくるだけの日常である。ただセント・ピーターズバーグで唯一いたずらな偶然があったと言えるとしたら、事故を起因として順位を落としてしまう人々、つまり走り続けたままコーションでコースに取り残されてしまったドライバーが、ことごとく上位にいたことだった。パワーこそとうの昔に後退していたが、ヒンチクリフは先頭を維持し、ディクソンも続いている。佐藤とニューガーデンは表彰台を争っている最中で、ことによるとそれ以上の結果を狙えた。あるいはアレキサンダー・ロッシやマックス・チルトンも十分なペースで追っていた。彼らは予選から決勝まで一貫して上位を走り、おそらくはそのために余裕を持ったピット作業のスケジュールを組んでいた。その余裕の狭間にことは起こったのである。全体の傾向として後方のドライバーが先にタイヤを換え、速いドライバーがそれを見てから動こうかという展開のなか、カナーンはものの見事に上位と下位を分断するちょうど中心のタイミングでアレシンと交錯した。そうして事故以前に8位までを占めていたドライバーたちはそっくりまとめて10位以降に下がり、代わって後方集団がまるごと上位に引き上げられたのだ。それはまるでだまし絵だった。絵がある瞬間に見る者の視点を裏切ってその姿をひっくり返し固着するように、レースもまた突如としてすべてが反転してしまっていた。横を向く少女が俯く老婆に。向かい合う二人の顔が1口の盃に。上位は下位に、下位は上位に。

 コーションが明けてからチェッカー・フラッグまでの80周は、分断され反転したレースがその姿を固定するまでの過程だった。先頭に立ったパジェノーは、もともと予選14位なりの存在だった。昨季はじめてチャンピオンを獲得したフランス人は1周目に目の前で起きた事故を利して9番手まで上がっていたものの、この日はあまり強いドライバーとはいえず、中団に埋没したまま良くも悪くも画面を独占することなくレースを終えることになる――少なくとも一人の観客にはそう見えていた。まして37周目にパジェノーを交わして先頭に立ったセバスチャン・ブルデーに目を向ける機会があるはずがなかった。予選を走れず最後尾からの追い上げを余儀なくされていた彼も、スタート直後の事故とコーションで順位を上げていたとはいえ、その後は集団の中で少しばかり速い存在に過ぎなかった。幸運な先頭を得た二人がもといた後方集団に相応する速さしか備えていなければ、レースは80周の間に元の姿に戻ってもおかしくはなかった。だがひとたび相貌を変えただまし絵がしばらくその姿を保存するのとおなじく、彼らはレースの反転によって得た場所を維持し続けた。インディカーでは珍しいことではない。レースが変わるとき、ドライバーも、車もまた変わっている。速さも遅さも永遠ではありえない。まるで順序が逆のようだが、ブルデーもパジェノーも先頭に立ったことで先頭に立つべき存在になったーー物理的にはありえないことなのにそう考えずにいられないほど、彼らは突然、いつの間にか、速くなっていた。順位が入れ替わったことで手に入れたその速さによって本来の上位を封じ、そうして最後まで走りきった。

 一方でヒンチクリフは逆の形でレースに自らを捧げてしまった。6周目に自力でパワーを交わしたころ、彼は明らかにコース上で最高のドライバーだった。何事もなくレースが続いていれば、少なくともカナーンの事故が混乱を呼ばない時期に訪れていれば、最後まで先頭を保ったままゴールしても不思議はないと信じられるほど、その速さはたしかなものに思えた。だが10位まで順位を落としたコーションが明けて再スタートの緑旗が振られたとき、もはや魔法が解けてしまったようにいかにも10位がふさわしい速さしか持っていなかったのだ。皮肉なもので、先頭争いから置き去りにされ勝機を見出せないまま集団に埋没する姿はまさに序盤のパジェノーそのものだった。彼らは立場が入れ替わると同時に本質までもが入れ替わったようだった。レースは見かけを変えるとき、本当に変わりうる。反転は反転のまま固定される。たとえばヒンチクリフのありさまとはそういうものだった。ニューガーデンもロッシもおなじように、序盤の速さを二度と取り戻すことなくレースを終えた。

 あるいは佐藤とディクソンは反転に抗おうとした。序盤に3位を走っていた佐藤は周囲の強敵同様、事故によって順位を失ったが、元の正当な場所、おそらく彼自身がそこにいなければならないと信じた場所を回復するため、リスタート後のターン1に信じがたい角度で飛びこんでいった。それは信念に殉じて自らを滅ぼしかねない危険を帯びたピーキーなブレーキングで、チームメイトになったばかりのライアン・ハンター=レイを道連れにしてレースを終えてもおかしくはなく、相手がすんでのところで回避したおかげで救われたものだったが、ともあれ佐藤はこのブレーキング一発だけで5つ順位を上げ、やがて本当にパジェノーの後ろまで戻ってきた。対照的にディクソンはふだんと変わるところなく落ち着きはらったまま、時間をかけて前の車を一台ずつ丁寧に交わし、とうとう91周目に佐藤をも抜いて3位を得た。序盤に上位集団にいた中で26周目の事故を経ても存在感を保ったのは結局この二人だけだ。レース後のディクソンは言う、コーションはたしかにレースを変えてしまった。だがディクソンと佐藤自身は何も変わらなかった。そのドライバーとしての一貫性が彼らを上位に呼び戻したのだ。

 小さな破片は落ちていたけれどそれは壁にぶつかりにいかなければ踏めないような場所にあった。だからどうしてイエローになったのかわからない、とディクソンは恨む。実際、あの瞬間にさえコーションにならなければ、ブルデーもパジェノーもハンター=レイも順位を上げることはけっしてなかった。その意味ではたしかにレースは様変わりし、勝者を入れ替えた。マタイによる福音書に曰く、かくして、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる――。だが仮に幸運に与った面々を除いたとして、このレースの「本当の結果」が見えてくるかといえば、つまりディクソンが優勝し、佐藤が2位表彰台に登るもうひとつのレースが存在しえたかといえば、きっと話はそう単純ではない。たとえばヒンチクリフが悠々と逃げ切ってしまうような仮定は否定しがたく残り続ける。ブルデーたち、ヒンチクリフたち、ディクソンたちの三様はレースがただ運のみによって決められる遊戯ではないことを示している。幸運や不運ではなく、それらによってゆくりなく手に入れ、失っていく力によって彼らは勝利し、また敗北するのだ。目の前の絵がひとたび相貌を転じると、視点をふたたび設定しなければもはやその姿にしか見えなくなる。レースは突如として変わる。見た目の順位だけでない。およそすべてが変わってしまうのである。

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  1. ピンバック: 不公平なほどの公平、あとの者は先になり、先の者はあとになる | under green flag | portF1

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