映るのは少女か老婆か

【2017.3.12】
インディカー・シリーズ開幕戦 セント・ピーターズバーグGP
 
 
 2017年のインディカー・シリーズはウィル・パワーがポール・ポジションを獲得して始まった。ごくごく当たり前に見知った光景だった。2010年からこっち、次の年もそのまた次の年も、昨年にいたるまでこの選手権はそういうふうに始まるものと決まっていた。正確にはこの間1回だけ日本人に特等席を譲っているのだが、そんなのはちょっとした例外だ。だから今年もセント・ピーターズバーグでいちばん速いのはパワーなのだと最初からわかりきっているのだったし、日本時間でいえば日曜日の未明にコーヒーを沸かしながら予選を見届けたあと、肩をすくめて「ほらね」とつぶやく以外の反応が起こるはずはなかった。それは何一つ意外なところのないタイムアタックで、だからわたしはその結果に心動かされることなく自分の出場するカートレースの身支度をはじめていた。待ち望んでいた開幕とともに過ごすには少々慌ただしい休日の朝だったが、自分や普段から活動をともにするチームメイトに関連する大会が3つもあって、わたしの心はまずそちらへと向いていたのである。 続きを読む

勝者は正しい中からしか選ばれない

【2016.6.4-5】
インディカー・シリーズ第7-8戦 デュアル・イン・デトロイト
 
 
 土曜日のレース1で42周目にフルコース・コーションが導入されたとき、ポールシッターにして、そこまで倦怠的ですらあるほど完璧だったシモン・パジェノーが最後の給油へと向かったのは自然な成り行きで、当然の正解であることを信じて疑わなかった。そのときチーム・ペンスキーは4位までを独占する態勢を築いてレースを支配しており、パジェノーとともに2番手のウィル・パワーと4番手のエリオ・カストロネベスを同時にピットへと呼びこんだのは同僚と公平に勝負させるためで、雨が降ってくることも予想されていたなか3番手のファン=パブロ・モントーヤをステイアウトさせ、チームとして安全に勝利を取りにいったのだろうと受け止めたものである。もちろん優先されるのはレースと選手権でともに首位をゆくパジェノーであって、その存在を中心に据えて取るべき行動を機械的に決めていけば作戦はなかば必然的に決定する、ペンスキーにとってはそういうレースだったはずだし、最後のスティントはそんな最速チームの仕上げをあくびを噛み殺しながら見ていればいいように思えた。パジェノー、今季4勝目おめでとう。近年まれに見るハイペースでの勝利は選手権を大きく引き寄せたのだと、そういう結論なのだろう。あるいは、もしかするとパワーがちょっとしたいたずらをしかけるくらいの波瀾はあるのかもしれない、とその程度だった。
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おかえりにはまだ早くても

【2015.7.12】
インディカー・シリーズ第12戦 ウィスコンシン250

物質的な文房具であると同時に文字量を現す慣習的で不可思議な単位でもある「原稿用紙」の枚数に換算してwebの文章を量ることにさほど意味があるとは思われないものの、ともあれ毎週のように行われるレースについて金になるでもないのに10枚から書き続けてほぼ3年、数えたことはないがおそらく400字詰めにして700枚くらい積み上げ本の2~3冊にも届きそうな分量になればいいかげん新しく書くこともなくなってくる、などといった言い訳をするようになってはこのブログもそろそろ寿命が尽きかけているだろうなと自覚するのだが、せめて延命のためにおなじことを繰り返すのを許してもらうなら、気づけば20年くらい米国のオープン・ホイール・レースを見てきた身にとって、セバスチャン・ブルデーとはなかば哀愁をともなって口にしなければならない名前である。今回のウィスコンシンに優勝したことで歴代8位タイとなった34勝、33回のポールポジション、選手権4連覇と「輝かしい」実績は一見すると目が眩まんばかりだが、近寄ってよくよく磨いてみるとどうやらその光は少々鈍いようにも感じられる。知ってのとおりその成績のほとんどすべてが米国チャンピオンシップ・カー・レーシング分裂の歴史の中で滅亡したチャンプカー・ワールドシリーズで記録したもので、ブルデーが王者になった2004年から2007年はその最後の4年、つまり没落する王朝の最後の支配者だったのである。彼がチャンプカーにいたのはすでに多くの有力チームがインディカー・シリーズへと戦いの場を移した後のこと、そこで勝ち続けることがどれだけ才能を証明してくれるのかはわからなくなっていたころだ。チャンプカーが消滅し生まれ故郷の欧州へ「実績」を引っさげて戻ったF1でのキャリア構築はセバスチャン・ベッテルという強力すぎる同僚を前にして失意のまま終わり、ふたたび米国へ、今度はインディカーのドライバーとしてやってきたときには満足なシートが残っているとは言い難かった。チャンプカー時代には相手にもしていなかったウィル・パワーが有力チームのペンスキーで活躍するようになったことを思えば、回り道が過ぎたのだろう。スーパーリーグ・フォーミュラなどという今となっては歴史の徒花でしかないようなカテゴリーにさえ参戦したのは、傍目にはどうしても時間の無駄遣いに見えてしまう。人生の選択が少しずれて2008年にインディカーの新人として走っていれば、といっても詮ないことだしその架空の別世界なら成功が保証されたとも約束されるものではないが、2011年にあれほど苦労せずに済んだだろうかとも思わずにいられない。いくらドラゴン・レーシングの戦闘力が貧弱極まりないものだったとはいっても、復帰してからのブルデーは、チャンプカーの栄光が幻だったかのように、決して速いとは言えず、クレバーでもなく、ときどきつまらないミスでレースを失う程度のドライバーにすぎなかった。それも2年以上、状況の変化や不慣れを理由にできる時間が終わってもなお、そうだったのだ。
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語りえぬことに口を開いてもろくなことにはならない

【2015.5.30-31】
インディカー・シリーズ第7-8戦 デュアル・イン・デトロイト
 
 
 最大の祭典であるインディアナポリス500マイルから5日空いただけでもう次の決勝が始まるのだから、関係者はもちろん、現地からようやく火曜日の夜に帰宅した日本人ならずとも少しは落ち着けと言いたくなろう。天も似たような気持ちだったのかどうか、インディ500には遠慮した雨雲を、大きな利息をつけてデトロイトに引き連れ、混乱に満ちた週末を演出してしまうのだった。土曜日のレース1、日曜日のレース2ともに突きつけられた赤旗は、レースを唯一断ち切る旗としての暴力によって、今季ここまでかろうじて認められてきたシリーズの一貫性を奪い去っていった。このブログはレースにおいて複雑に絡みながらも始まりから終わりまで一本につながる線を見出し、テーマとして取り上げて記していきたいと考えているが、気まぐれな空模様や凹凸だらけの路面、そして数人のドライバーの不躾な振る舞いと楽観的すぎる(あるいは悲観的すぎる)チームの判断は、デトロイトの週末からあらゆる関連性を切り離し、すべての事象に因果のある説明を与えようとする態度を拒否するようだった。なぜレース1でカルロス・ムニョスが勝ち、レース2をセバスチャン・ブルデーが制することになったのか、もちろん原因を分析して答えることは可能だが、その原因に至る道筋にはまったく理解が及ばない。はたして土曜日の始まりには、インディ500がそうであったように、結局チーム・ペンスキーのための、付け加えればこの都市を地元とするシボレーのための催しになるとしか思えなかったダブルヘッダーは、わたしの頭にいくつもの疑問符を残したまま過ぎていこうとしている。
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セバスチャン・ブルデーの優勝はリスタートでなければならない

【2014.7.20】
インディカー・シリーズ第13-14戦 インディ・トロント

15歳くらいのときにはじめて触れて今年で33歳だからもう人生の半分以上、どちらかといえばわたしは長く米国のチャンピオンシップ・カー・レーシングを見続けていると言って構わないほうだろうと思っているのだけれど、それでもチャンプカードライバーとしてのセバスチャン・ブルデーにさほど強い思い入れを持っているわけではない。第4戦インディアナポリスGPの記事(「インディはどこから来たのか、インディは何者か、インディはどこへ行くのか」に書いたとおり、米国のオープンホイールレース界が2度目の分裂の憂き目に遭ったあと、フランス人である彼が国際F3000からF1移行に失敗し米国CARTへとやってきた2003年には、選手権の主流はことごとくインディカー・シリーズへと移っていて――チップ・ガナッシもチーム・ペンスキーも現在のアンドレッティ・オートスポートもすでにCARTではなくインディカーのチームだったといえば、だいたい想像はできるだろう――レベルの逆転は明らかになっていたし、インディアナポリス500もインディ・ジャパンも日本人ドライバーの参戦もみんなインディカーに集中していたから、もうCARTに熱い視線を向けることは難しくなっていた、というのが個人的な事情としてはある。レース界の動きを見ても、実際CARTはこの年かぎりで破綻し、翌2004年から経営主体がコンソーシアム、といえば多少聞こえはいいがようするに寄せ集めの集団になってチャンプカー・ワールド・シリーズへと選手権の名が変わり、ますます退潮の兆しが濃くなっていた。ブルデーが「最強の王者」として名を残したのはそこからチャンプカーが文字どおり消滅するまでの最後の4年間で、そんな微妙な時期のドライバーであったことが、わたしに彼の評価を定めさせなかった。

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