セバスチャン・ブルデーの優勝はリスタートでなければならない

【2014.7.20】
インディカー・シリーズ第13-14戦 インディ・トロント

15歳くらいのときにはじめて触れて今年で33歳だからもう人生の半分以上、どちらかといえばわたしは長く米国のチャンピオンシップ・カー・レーシングを見続けていると言って構わないほうだろうと思っているのだけれど、それでもチャンプカードライバーとしてのセバスチャン・ブルデーにさほど強い思い入れを持っているわけではない。第4戦インディアナポリスGPの記事(「インディはどこから来たのか、インディは何者か、インディはどこへ行くのか」に書いたとおり、米国のオープンホイールレース界が2度目の分裂の憂き目に遭ったあと、フランス人である彼が国際F3000からF1移行に失敗し米国CARTへとやってきた2003年には、選手権の主流はことごとくインディカー・シリーズへと移っていて――チップ・ガナッシもチーム・ペンスキーも現在のアンドレッティ・オートスポートもすでにCARTではなくインディカーのチームだったといえば、だいたい想像はできるだろう――レベルの逆転は明らかになっていたし、インディアナポリス500もインディ・ジャパンも日本人ドライバーの参戦もみんなインディカーに集中していたから、もうCARTに熱い視線を向けることは難しくなっていた、というのが個人的な事情としてはある。レース界の動きを見ても、実際CARTはこの年かぎりで破綻し、翌2004年から経営主体がコンソーシアム、といえば多少聞こえはいいがようするに寄せ集めの集団になってチャンプカー・ワールド・シリーズへと選手権の名が変わり、ますます退潮の兆しが濃くなっていた。ブルデーが「最強の王者」として名を残したのはそこからチャンプカーが文字どおり消滅するまでの最後の4年間で、そんな微妙な時期のドライバーであったことが、わたしに彼の評価を定めさせなかった。

もちろんCCWSにはやがてインディカーでも活躍することになるウィル・パワーやジャスティン・ウィルソン、グレアム・レイホール、シモン・パジェノーなどがおり、彼らを破り続けた事実はいま振り返ればすばらしいと言えるものの、最後の王がほとんどの場合王朝衰退の比喩になりうるように、終焉に向けての4年という侘びしさを伴う状況がその実績を好意的なだけの文脈に置くことをためらわせてしまった。スポーツカーカテゴリーで参戦する耐久レースでは優れたドライバーでありつづけたがそれはとりあえず別の話だ。今回2014年のトロント・レース1においてブルデーがようやく1位でチェッカー・フラッグを受けたとき、それは7年ぶり32回目の優勝だと紹介されたが、しかし以前の31勝に「インディカー」でのものはただのひとつも含まれていない。そこに(CCWSはまぎれもなくチャンピオンシップ・カー・レーシングの正統な選手権だったという意味においての)形式性以上の価値を見出すことは、CCWSの終了後欧州に帰ってから、2年目のシーズン途中でシートを失ったF1と、カテゴリー自体が失敗に終わったスーパーリーグ・フォーミュラでの失意を経てふたたび米国に戻って以降の成績を見るかぎり、容易ではなかった。彼が通算勝利数の欄を凍りつかせている間に、CCWS時代のライバルとして名前を挙げた先の4人は、合わせて28回もヴィクトリー・レーンで歓喜を味わっている。一方で、復帰後のチーム力に問題があったといってもトップ10フィニッシュすらほとんど見られなかったその(特に2013年前半までの)パフォーマンスと、しばしばクレバーとは程遠い接触事故や単独でのミスを犯す運転を見ていると、敬意を欠いていることは承知のうえで、オープンホイールレースでのブルデーはもはや優れた戦いの場に姿を現すことのない過去の、いや誤解を恐れずにいえば最初から米国の分裂が生んだ徒花の王者でしかないのではないか、と考えもしたのである。去年のトロント、あの、トロフィーの受け取り方を忘れてしまった(もちろん、きっと台座に固定されずただ置かれただけのクリスタルトロフィーのほうに問題があって、それを取り落として粉々に砕いたことに悲壮感はなかったのだが)と思わせるほど久しぶりに表彰台へ辿りついたトロントのレース1を見たあとでさえ、優勝したわけでもないのにドーナツターンで喜びを表現したことが志の低さを感じさせて失望を禁じえなかったし、翌日のレース2でふたたび3位表彰台を獲得してもまだ疑念は残り続けた。あれからもう、1年が経つ。

おなじトロントのエキシビション・プレイスを中心とした市街地コースで開催されたダブルヘッダーのレース2をマイク・コンウェイが制し、2014年インディカー・シリーズの選手権争いはいったん歩みを止めた。それは、オーバルから退いたために選手権の担い手ではなくなったコンウェイ自身が、あたかも優勝によってその存在感をレース全体に伝播させたかのような結果だった。彼の勝利は、その立場ゆえなかば必然的にポイントスタンディングを固定化させるということなのだろう。上位はようやく不運の連鎖から脱した佐藤琢磨をはじめ、すでに選手権から脱落している、あるいは脱落しつつあるドライバーが多くを占め、ランキング2番手のウィル・パワーがかろうじて3位に入ったものの首位逆転には至らないままだ。このレースの1位から順に選手権の順位を並べてみれば、いかに普段から顛倒した結果だったかわかる。22、8、2(これがパワーだ)、13、20、17、6、9……。首位のエリオ・カストロネベスは中盤までレースをリードしながら多重事故に巻き込まれて12位フィニッシュに終わり、強豪と呼ぶべくもないシュミット・ピーターソン・ハミルトン・モータースポーツにあって今季も奮闘を続けるシモン・パジェノーはトラブルのために47周しか走れなかった。レース1でランキング3位を失っていたライアン・ハンター=レイも、8点に留まったパジェノーをほんの少しの差で交わして再逆転したにすぎない。かといって次につけるファン=パブロ・モントーヤが迫ってくることも、復調の兆しを見せつつあるチップ・ガナッシ勢がそれを結果に結びつけることもなく、状況はほとんど変化しないまま、ただただレースがひとつ消化されたのである。エース2人が選手権を争うチーム・ペンスキーにしてみれば双六の駒がひとつ進んだといえるが、40周目前後には同僚同士で接触するほど壮絶なリード争いを繰り広げていたことを思えば逃したものも大きかった。せめて3位との差だけは広がったことを収穫とすべきなのだろう。

コンウェイの勝因を挙げるとするなら、ロングビーチでもそうだったように何割かは幸運だったと言っても差し支えないはずだ。レース途中に降りだした雨が濡らした路面が終盤に向けてふたたび乾きつつあったころ、13番手でしかなかった彼がリードラップの中では真っ先にドライタイヤへと交換した直後の44周目、あまりに素敵なタイミングでセバスチャン・サベードラがターン3のタイヤバリアへと突き刺さった。すぐさまフルコース・コーションが導入されると同時に今季復活した「ピットクローズ」ルールによってピットが進入禁止となり、他の車はタイヤを交換することのできないままペースカー先導の低速走行を余儀なくされる。やすやすと隊列に追いついたコンウェイは、レインタイヤで最後まで走り切る賭けに出た(結局、これはうまくいかなかった)4台を除く全車がピットに向かうのを尻目にコースに居残って悠々とドライタイヤ勢の先頭に立ち、リスタートのグリーン・フラッグが振られるやいなやレイン勢を手もなく捻ってあっさりとリーダーになったのだった。後方で起きた多重事故はもはや彼の関知するところではなく、赤旗によってレースの最後にたった3周のスプリントが残されても、それくらいの紛れにこのロード/ストリートの専門家が怯えるはずはなかった。

平常なピットストップを行えたのはムニョスとコンウェイのふたりで、うちコロンビア人の方は周回遅れだったうえに結局トラブルで止まってしまったから、本当に恵まれたのはコンウェイだけだ。サベードラのミスが数周前後しただけでこんな結果にはならなかったと考えれば、その勝利がある程度まで運に助けられたものだったのは間違いない。路面が少しずつ乾いていくコンディションの下、リスクを負って早めにドライタイヤを履いた判断の背景にはおそらくドライバーの技術へのたしかな信頼があって、事実コンウェイはそれに応えて偶然を味方につけ、すばらしい報酬を手に入れたのだが、走っていたポジションと、ポイントを考えなくてもいい立場が決断を導いた側面も即座に否定はできないだろう。真意は知る由も、そしてべつだん知るつもりもないが、可能性の話をすれば選手権を放棄し一回一回のレースがすべてである彼は安定を擲つ動機をほかのだれよりも持っており、それゆえ軽やかな前進に身を任せられたと見ることもできる。ペースカーに押さえつけられ多重事故に立ち尽くした後続とはまるで別のレースを走っていると思わせるほど開放的だったコンウェイの最後9周が、シーズンに囚われないことで現れたものだったとしたら。だとしたら、対をなして重く停滞した後続集団のレースが、順位を混乱させて選手権を凍らせてしまうのは自然ななりゆきだったかもしれない。

同様に、降り続いた強い雨がスタートを阻み、フォーメーションラップの数周を走っただけで翌日の午前中に延期になった(さんざん待たされた挙句レースは見られなかったわけだが、日本のモータースポーツファンにとっては博覧強記にして愛に満ちた小倉茂徳の語りを生放送で3時間半も聞ける機会に恵まれたのだから慊焉としない事件だったのではないか)、つまりはじめから停滞に飾られた土曜日のレース1も、やはり選手権に大きなインパクトを与えず終わっている。

レース1をポール・ポジションからスタートしたセバスチャン・ブルデーは、スタートしてからもスピードを鈍らせることなく後続を突き放し、早々にカストロネベスから戦意を奪って2位を確保する走りへと切り替えさせた。全65周のうち58周をリードした圧勝は今季の優勝シーンの中でもひときわ優れたもので、チャンプカー4連覇の王者が戻ってきたと思わせるに十分な結果かもしれない。だがまた、カストロネベスがついに本気で追走することなく、ブルデーの強さが必要以上に際立った、裏を返せばひどく単調になった展開によって、彼の置かれている現状がより鮮明に見えてしまったとも言えるだろう。ちょうど同時期に開催されているツール・ド・フランスになぞらえれば、マイヨ・ジョーヌが総合優勝を争わない選手のアタックを容認したようなものだ。ブルデーはたしかに優勝にふさわしく速かったが、カストロネベスにも彼を脅威としない理由があった。逃げていたのは、結局トロントがスタートした時点でランキング12位で、54点を上積みしてもまだ10位にとどまるドライバーだったのである。ブルデーは勝利することで選手権に何かしらの動きを与えることはなく、むしろ首位を封じ滞らせて終えるのみだった。そういう現状とともに彼は走っている。

書いたとおりわたしはチャンプカーのブルデーに強い眼差しを向けていた観客ではないが、それでも、7年待った優勝が選手権の熱量を伴わないものだった現実、彼がそのような状況で走らざるをえなくなっている現実は、レース後に紹介された過去の輝かしい実績を見れば寂しく思う。CCWSのブルデーは最初から最後の年までずっと王者でありつづけた。つまり彼の勝利はすべて、選手権において重要な位置を占めていたはずだ。翻って今回の「インディカー初勝利」にそのような運動が望めなかったことは明らかで、これをもってチャンプカー最後の王者が戻ってきたと考えるのはまだ早いのではないか、この一回の優勝でブルデーのすべてを祝福することはむしろ憚られるべきではないかと思えてしまう。

もし、かつてのブルデーを真の姿としていまだ求めようというのなら、彼が米国チャンピオンシップ・カー・レーシングの正統な王者であり、「32勝目」を挙げたと称えるのなら、この優勝を心地よくワインに酔うための一度きりの思い出に留めてはならない。このトロントは苦労を重ねたチャンプカーの王者が辿りついた美しい結末ではなく、7年間振られ続けたイエロー・フラッグがようやく明けるリスタートであるべきに違いない。表彰台で落とすことなく掲げた一番大きなトロフィーは彼の真実のまだ半分で、もう半分はきっと、今後ふたたび積み上げられていく勝利と選手権の絡み合いの中にこそ眠っているはずだ。マイク・コンウェイのように軽やかな一回性に生きるのではなく、その圧勝が選手権を巻き込んで重層的な躍動をもたらすこと。偉大なチャンプカーの王者だったセバスチャン・ブルデーがそういう未来によって偉大なインディカーの戦士でもあることを証明するのであれば、やがてそれを見届けてから、そのときあらためて2014年のトロントが復活に向けたほんの始まりだったと振り返る機会を待ってみたいと、いまはそういう気分でいる。

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