セバスチャン・ブルデーの優勝はリスタートでなければならない

【2014.7.20】
インディカー・シリーズ第13-14戦 インディ・トロント

15歳くらいのときにはじめて触れて今年で33歳だからもう人生の半分以上、どちらかといえばわたしは長く米国のチャンピオンシップ・カー・レーシングを見続けていると言って構わないほうだろうと思っているのだけれど、それでもチャンプカードライバーとしてのセバスチャン・ブルデーにさほど強い思い入れを持っているわけではない。第4戦インディアナポリスGPの記事(「インディはどこから来たのか、インディは何者か、インディはどこへ行くのか」に書いたとおり、米国のオープンホイールレース界が2度目の分裂の憂き目に遭ったあと、フランス人である彼が国際F3000からF1移行に失敗し米国CARTへとやってきた2003年には、選手権の主流はことごとくインディカー・シリーズへと移っていて――チップ・ガナッシもチーム・ペンスキーも現在のアンドレッティ・オートスポートもすでにCARTではなくインディカーのチームだったといえば、だいたい想像はできるだろう――レベルの逆転は明らかになっていたし、インディアナポリス500もインディ・ジャパンも日本人ドライバーの参戦もみんなインディカーに集中していたから、もうCARTに熱い視線を向けることは難しくなっていた、というのが個人的な事情としてはある。レース界の動きを見ても、実際CARTはこの年かぎりで破綻し、翌2004年から経営主体がコンソーシアム、といえば多少聞こえはいいがようするに寄せ集めの集団になってチャンプカー・ワールド・シリーズへと選手権の名が変わり、ますます退潮の兆しが濃くなっていた。ブルデーが「最強の王者」として名を残したのはそこからチャンプカーが文字どおり消滅するまでの最後の4年間で、そんな微妙な時期のドライバーであったことが、わたしに彼の評価を定めさせなかった。

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マイク・コンウェイの勝利はただただ現象だった

【2014.4.13】
インディカー・シリーズ第2戦 ロングビーチGP
 
 
 朝も8時に近づき、外はだいぶ明るくなっていた。スタートから70分が過ぎたレースはすでに終盤の入り口へと差し掛かっており、日本人にとっては、ただでさえ憂鬱な週初の出勤にとりあえずは急き立てられることなくレース終了まで見届けることができそうだと、部屋の掛け時計に目をやって安心していたころのことである。最初のグリーン・フラッグからつけっぱなしだった照明を消して、差し込む朝日のせいでテレビ画面に自分の姿が映り込んでしまうのを避けるように見ていた怠慢な目にさえ、56周目のターン4に向かってライアン・ハンター=レイが飛び込んでいくタイミングはあからさまに遅すぎるように映った。ピットストップを遅らせる作戦が功を奏して先頭を走っていたジョゼフ・ニューガーデンは交換したばかりの氷のように固く冷たいタイヤで走行ラインをやや外側へとはらませていたが、それでもこのターンを守り切ってクリッピングポイントをかすめながら脱出しつつあり、攻めてくる相手に対して空間を残す理由など持ち合わせていなかったはずだ。普通ならたんなる牽制としての動きに過ぎず、次の長い直線での攻防に切り替わっていくべきところで、われわれは彼がハンター=レイであることをあらためて思い出すことになる。はたして2年前のシリーズ・チャンピオンはブレーキを制御することに失敗し、何度も犯してきた同種のミスをまたもなぞるように、初優勝を目指して奮闘していたニューガーデンの右リアを無意味に跳ね上げた。その瞬間、見た目に穏やかでありつつも捻じりあうような時間の削り合いが続いていたレースは霧散していったのだった。

 ブラインドコーナーの先で動けなくなった2台はさらに後続の追突を誘発し、合計6台の上位勢が一瞬にしてサーキットから消えた。そこからチェッカー・フラッグまではあまりレースと呼べたものではない。このような展開ではかならずといっていいほど生き残り、幾度となく勝利を手にしてきたスコット・ディクソンがこの日も多重事故の間隙を縫って先頭に立ったものの、昨季のチャンピオンが積んだ燃料はゴールまで走るにはわずかに足りず、そのディクソンと首位争いをしていたジャスティン・ウィルソンはバトル中の接触によってサスペンションを破壊された。結局ウィル・パワーを自力で抜いただけの3番手を走っていたマイク・コンウェイが給油のために退いたディクソンと入れ替わって首位でゴールした、そういう結末だったわけである。

 たぶん本来なら、それこそハンター=レイの――そういえば彼が右を使うのか左を使うのか知らないが――足があと0.1秒早くブレーキペダルを踏みつけていれば、ありえない結果だったはずだ。勝った当のコンウェイが”Somehow, I got it done.”” It can’t believe I’m actually(in Victory Circle).”(http://www.indycar.com/News/2014/04/4-13-Conway-wins-40th-Toyota-Grand-Prix-of-Long-Beachより)とその順位に戸惑っているように見える。somehow、どういうわけか、彼は勝ってしまった。あるいはホンダの発表による、3位に入ったカルロス・ムニョスのコメントがすべての感情をよく表していよう。「自分の初めての3位フィニッシュが、多くのアクシデントが起きた結果であったことは素直に喜べませんが、それもまたレースだと思います。ロングビーチのようなストリートレースでは、なにが起こるか予測がつきません。インディカーのレースでは特にそうだと思います」(http://www.honda.co.jp/INDY/race2014/rd02/report/)。それもまたレース、勝ったコンウェイのことを「何も起きなかったドライバー」のなかでは最速だったとはいえるかもしれないが、そうだとしてもやはり幸運の2文字を想起せずにはいられない。3年前と同じようにだ。

 コンウェイがインディカー・シリーズで初優勝を遂げたのは2011年のやはりロングビーチでのことであるが、今回彼が悠々と最終ラップを回ってきたときに当時のことを鮮明に思い出したのは、2つのレースがともによく似た展開で勝者を選びとったからだ。まだ毎戦にわたって何か記録しておくなどといった徒労に身を投じていなかったこのブログが偶然にも書いていたところによれば、以下のような様子だった。

 今季すでにリスタートでやりたい放題に暴れまわっているエリオ・カストロネベスが、このときも無謀なタイミングでターン1のインサイドに突っこんであろうことかチームメイトのウィル・パワーを撃墜すると、煽りを受けたオリオール・セルビアの進路がなくなり、スコット・ディクソンも事故の脇をすり抜ける際に右フロントタイヤを引っ掛けられてサスペンションを壊した。予選でクラッシュして下位スタートに甘んじながら10位にまでポジションを上げていた佐藤琢磨がこの4台を尻目に6位に浮上するが、すぐさまグレアム・レイホールがその左リアに追突し、タイヤをカットされてスピン、レイホールもフロントウイングにダメージを負った。都合6台が消えてふたたび黄色の旗がコースのそこかしこで振られるようになったころには、コンウェイはなぜか、ということもないが3位を走っていた。

70周目のグリーン・フラッグで今度はハンター=レイがスローダウンし、コンウェイはほとんどなにもしないまま2番手になってしまった。フレッシュのレッドタイヤ、燃料もフルリッチで使える彼は速く、あっという間にライアン・ブリスコーを交わして、チェッカー・フラッグではもう6秒以上のリードを築いていた。GP2ウィナーに名を連ねながらもF1には届かなかった27歳のイギリス人が、アメリカの地で初めて表彰台の真ん中に立ったわけである。(当ブログ2011年4月28日)

 前を走っていた6~7台が事故に遭い、1台を自力でパスし、また1台が自滅して優勝した、そんなロングビーチをコンウェイは2度も経験したことになる。2011年の初優勝の際は、与えられた幸運がとても喜ばしいもののように思えたと、前掲文は結んでいた。前の年のインディ500で、まだ2年目のインディカードライバーだった彼はハンター=レイと接触し宙を舞うほどの大事故に見舞われて大怪我を負い、シーズンが終わるまでサーキットを走ることはできなくなった。シートも失いかけて、ようやくアンドレッティ・オートスポートと契約したのは年が明けて2月になってからのことだ。だから優勝は、勇気を携えて無事に帰ってきたことに対する報奨のようなもので、どんな僥倖に与ったのだとしても、彼はそれに足る試練を乗り越えてきたドライバーなのだと断言できた。当時のレースを実況していた村田晴郎がその瞬間に日本の放送席からおめでとうと叫んだのも、たぶんそういうところにある。

 あれから3年と一口に言うのは簡単だが、しかしレーシングドライバーのキャリアの中で見ればけっして短い時間ではないのであって、30歳を迎えたコンウェイの境遇もありかたもいまやずいぶん変わった。2012年のインディ500でまたしても宙を舞ってしまった彼はついにオーバルレースから退くことを決め、2013年はWEC=世界耐久選手権の空き時間にインディカーへとやってくるドライバーになっていた。そうだとしてもロード/ストリートコースでは変わらぬ才能を発揮して6月のデトロイトなどたった2日の間に優勝と2位を持ち去ってみせたのだったが、やはりインディ500を走らない瑕疵は深く、心をヨーロッパに置いてきたも同然に思えたものだ(なにせわれわれは、他をおいてもブリックヤードにだけは来たがるドライバーがたくさんいることを知っているのである)。今季ふたたびアメリカに重心を移し20号車のレギュラーになったといっても、引き続きWECの控えを務めながらオーバルはエド・カーペンターに任せてロード/ストリートしか走らない選択をした事実、あえて意地悪く言えばオーバルを捨てて逃げ出した事実を前にすると、結局のところ彼から純粋なインディカーのドライバーという姿を抽出しようとする試みは失敗に終わってしまうだろう。それはちょうど、年々日程から減っていくオーバルをそれでも走り続けるために20号車をコンウェイと共用する決断を下したカーペンターに対し、その態度こそがインディカーに欠かせない本質なのだとして、時代から取り残されつつあるのだとわかっていながらも好ましい視線を向けてしまうわれわれの感傷と対極にある。オーバルしか走りたくないカーペンターがオーバルを走れないコンウェイと組むのは自然な成り行きだったかもしれないが、アメリカのレースの精神がいまとなってもなおオーバルとともにあると信じるなら、結果としてエド・カーペンター・レーシングの20号車を貫くアメリカの純血に交配されたコンウェイは、その存在じたいがインディカーに対する皮肉になってしまったに違いないのだ。

 マイク・コンウェイにそういう態度で臨んでみるとき、今回のロングビーチで彼に舞い降りた僥倖の受け止め方は3年前とずいぶんと変わってくる。こう問うこともできるかもしれない。2011年にあらゆる幸運によって祝福されるべきインディカーのドライバーだった彼は、2014年になって、当時とおなじロングビーチで何かしら優勝に相応する価値を持っていただろうか。深夜暗くなった部屋で中継の録画を見なおしても、どうやら答えは否のままだ。だがおなじレースではじめて表彰台に登った新人が言っていたはずである、それもまたレースだと思います――。

 2週間前の開幕戦について、敗北は勝利の裏返しではないとして敗者に値する戦いをしたのは佐藤琢磨だけだったと書いた。セント・ピーターズバーグは佐藤ひとりを浮き彫りにすることによって、モータースポーツにおける敗北の意味を描き出したレースだった。では、勝ちえた6人が甲斐のない事故に泣き、優勝者自身が当惑するほど自らの価値を証明できなかったこのロングビーチにも意味を求めるとすれば、いったい何だったのだろう。

 録画を2度も見返してしまったわれわれが受け止めるべきは、おそらくコンウェイがなにもないままに優勝した事実それ自体である。レースが先頭から順位をつけていく営みである以上、全員がリタイアでもしないかぎり優勝者がいないことなどありえず、だれかはかならず結果表の一番上に載る。だとすれば、勝利とはほかのあらゆる条件とは無関係に、絶対に約束されたできごとにほかならないと導けよう。セント・ピーターズバーグの佐藤がそうだったように、敗北とはただ2位以下であるだけでは不十分な、レースに切り裂かれることではじめて資格を得られる形而上の精神だ。だがロングビーチのコンウェイが突きつけたのは、勝利がそんな精神性に関知することなく飛び越え、1位でゴールしたという具体的な事実ただそれだけをもって消去法的に選ばれる形而下の事象に過ぎない場合もありうるということではないか。なんらの価値を見出せないコンウェイに振られたチェッカー・フラッグが示唆したのは、すなわち敗北が勝利の裏返しではないのとまったく同様に、勝利もまた敗北の裏返しではありえないという関係性、捩れながらも絡み合う場所のない両者の姿だったのだ。

 形而上でなければならない敗北と、形而下でありうる勝利。すべてを振り絞ってなお先頭に立てない者がいる一方で、somehowとしか言いようもなく勝ってしまうドライバーがいる。それもまたレースだと思います、ムニョスの談話にはサーキットがもたらすあらゆる可能性が詰まっている。敗者が輝いたセント・ピーターズバーグと対をなすアンチテーゼとして、ロングビーチは必要とされなくてはならなかったということだろう。勝者はトートロジーに身を預けてただ勝者であればよく、その勝利に証明などなくて構わない。なにもなかったレースによって、モータースポーツのそんな一面の真実に観客は気づくことになる。もちろん、それを伝える役割を担ったのがほかでもなく、インディカーに無垢な精神を持たないロード/ストリート専門のマイク・コンウェイであったことは、きっと偶然ではない。

佐藤琢磨のターン3は、シモン・パジェノーの初優勝のようなものだ

【2013.6.1-2】
インディカー・シリーズ第6-7戦 デュアル・イン・デトロイト
 
 
 今シーズン初の2レースイベントとしてベル・アイルで開催されたデュアル・イン・デトロイト(それがどうにも俗悪に見えるということを言っておくべきだろうか?)を、佐藤琢磨はおよそ何も得ずして終えた。シリーズ6戦目となるレース1はチームの燃料計算ミスによるガス欠でラップダウンの憂き目にあい、第7戦レース2では24周目のターン3でトリスタン・ボーティエにアウトから並んで進入した際にイン側の相手に右フロントタイヤを当ててしまい、反動で反対側のタイヤバリアへと流れてクラッシュした。イベント前には2位だったドライバーズランキングは2つのレースで21ポイントしか取れなかったことで6位へと後退し、チャンピオンシップで後れを取る結果となる。両レースともに後方グリッドから追い上げていたさなかのアクシデントであったことは惜しまれてよいが、それにしても意地悪い向きにはようやく佐藤琢磨らしくなってきたとほくそ笑むことくらいはできるかもしれない。率直にいえば、いくら好調でもやっぱりレースを失いやすいドライバーであることに変わりはないのだ。

 当の佐藤はレース2のフランス人ルーキーに対し、DNFに追い込まれたクラッシュそのものよりもレーススタート時の振る舞いについて強く怒りをあらわにしている(『ジャック・アマノのINDYCARレポート』2013/6/4)。自身も第4戦サンパウロでの執拗なディフェンスで物議をかもしたわけだが、たとえばそのとき他のドライバーから浴びせられた「俺がブロッキングだと思ったからブロッキングだ」といった程度の非難に比べれば、ボーティエが犯したらしい違反とそれに対して下されるべきだった措置を具体的に指摘する彼の言葉はすばらしく論理的だ。すなわち、スタート時にアウトサイドの並びだったボーティエは、最初のグリーン・フラッグ直前の、まだレースが始まっていないタイミングでインサイドにいた自分の前に割り込んできた。スタート前は2台がサイド・バイ・サイドで並んでいかなければならないにもかかわらず彼は加速してドアを閉め、ラインを失ってコンクリート・ウォール間際へと追いやられた自分はブレーキを踏まざるをえなくなった。この動きに対してはペナルティが科せられる必要があるはずだがスタート後にどれだけコクピットから訴えてもレース・コントロールのアクションはないまま、巡り巡って24周目、「本来ならそこを走っているべきではなかった」ボーティエ当人と接触して自分は必要のないリタイヤを喫してしまった、という顛末である。

 あくまで被害者側の証言なのでひとまず話半分に聞いておくのが公平ではあるとはいえ、語られている内容の整合性にはなるほど隙が見当たらず、本来ならレース・ストラテジストが発してもよさそうなレベルのコメントとさえいえる。実際に起こった(自分が観察した)現象とそれがどういう問題を孕むのかを的確に言語化してしまうこの技術は、レーシング・ドライバーとしてはなかなか得がたいものだろう。弁護士の息子として育ったことが関係しているのかどうか、そういえば2004年のバーレーンGPだったかラルフ・シューマッハと接触したときに滔々と自らの正当性を主張して相手にだけペナルティをプレゼントしたなんて過去があったのを考えても、これはF1時代からすでに備わっていた彼の生来的な能力なのかもしれない。言葉の端々に隠しきれない怒りこそ感じさせるが、少なくとも、危険な雨中のリスタートを強行したレース・コントロールに両手の中指を立てて抗議したまではよかったが逆に自分のほうが罰金を食らったウィル・パワーや、視線をF1に転じて無謀な追突をしてきたセルジオ・ペレスを「だれか殴ってやれ」と言ってのけたキミ・ライコネンに比べれば、ずいぶん理性的な反応ではないか(もっともふだん冷静なアイスマンのことだから、暴言にもきっと理由があるのだろう。酔っていたとか、アルコールを摂取していたとか、もしかして酔っぱらっていたとか)。

 おそらく世界を見渡しても、自分のクラッシュについてこれほど整合的な物語(ただ出来事を並べるのではなく、30分前の問題を遠因として挙げてしまうのである)を伝えられるドライバーはけっして多くない。その秀でた能力は疑うべくもないだろう。だがわたしがこの一件によって気づかされたのはむしろその正反対であろうこと、彼が長いトップフォーミュラのキャリアで数多のクラッシュを重ねてきた理由の一端だった。上の「すばらしく論理的」という記述には、実のところ皮肉がこもっている。ボーティエの動きを問題視するそのコメントはたしかに論理的なのだが、しかしまた論理的にすぎるのだ。一分の隙もなく紡がれた物語には、佐藤琢磨というドライバーがレースに対してある種の潔癖な理想を抱いていることを想像させる。考えてもみてほしい。ボーティエは「本来あそこを走ってるべきじゃなかった」(前掲リンクより引用)ドライバーで、佐藤自身は「いちゃいけない相手と」(同)レースをした。その説明が保身による自分勝手な解釈でないとすれば、まさしくそのとおりだろう。では、そんな「本来」「いちゃいけない相手」と、彼はなぜ、動機ではなく原因として、なぜ、接触することになったのだ? いつもながらのまわりくどい文章で核心を迂回しようというわけではない。答えは簡単だ。だとしても、ボーティエは現実にそこを走っていたのである。

***

 デトロイトのレース1を制したのはデイル・コイン・レーシングからスポット参戦したマイク・コンウェイだった。こういう結末を、わたしはかならずしも歓迎できたわけではない。2回にわたるオーバルレースでの大クラッシュで大きな怪我を負った経験を持つコンウェイは、そのためにオーバルレースを二度と走らないと決めた。オーバルを引退しただけでなく活動の拠点をヨーロッパへと戻したこのイギリス人は、にもかかわらずWECの片手間のようにデトロイトへとやって来て、呆れるほど速かった。それだけならまだしも、ひと月前のロングビーチではレイホール・レターマン・レーシングで参戦して、今回はデイル・コインなのである。「そこにシートがあるから」という以上の意味を見出せないまま走るドライバーに圧倒されては、乾いた拍手しかできなくなってしまってもしかたあるまい。結果を伝えるwebニュースが「コンウェイ今季初優勝」と書いているのにも陰鬱とさせられた。シリーズを争っていないコンウェイに「今季」なんてあるものか、ふらっと現れて優勝しただけだと言いたくなったりもするわけだ。

 もちろんそれはコンウェイの責任であるわけがなく、むしろ彼自身の振る舞いはインディへの郷愁にあふれているし、そのスピードには惜しみない賞賛を贈りたいと思う(べつに彼のことを嫌っているのではない)。2年前のロングビーチはほとんど運だけで舞い込んできたような初優勝だったが、土曜日のコンウェイに非の打ち所はなかった。愚痴っぽくなるのはあくまでインディカー・シリーズに対するこちらの心持ちの問題だ。本当ならウィル・パワーこそああいうレースぶりで圧勝しなければいけなかったのではと思ったところで結果が変わったりなどしないのだから、勝つべきではない(と信じ込んでしまった)ドライバーが勝ったといっても、現実がそうであるなら折り合うべきである。

 そんなふうに受け入れるのに一呼吸必要な現実があったことを思えば、翌日にもう次のグリーン・フラッグが振られたのだから、俗な金儲けにしか思えなかった2レースイベントにも一種の安定剤としての効果があったかもしれない。日曜日のレース2でもコンウェイのスピードに翳りはなかったが、終わってみればシモン・パジェノーがはじめて勝利する。序盤のラップリードこそコンウェイに制圧されたもののプライマリータイヤを履いた後半はどこまでも速く、フィニッシュでは6秒後方に封じてみせた。とくに第3スティントの終わりから最終スティントにかけてが初優勝のハイライトとして記憶されるべきだろう。最後のタイヤ交換後にダリオ・フランキッティに引っかかってタイムを失ったコンウェイの隙を見逃さずにプッシュし続けてピットワークでリーダーの座を奪い取ると、最終スティントではこの日最速だったはずのコンウェイと互角のラップタイムを刻んで、おなじ戦略でオルタネートタイヤを履いていた2番手のジェームズ・ジェイクスともども退けたのである。勝敗のキーとなるポイントで揺るぎなく速く走れる資質は、まぎれもなく一流ドライバーの持つそれだ。必要なときに必要なスパートを遂行することで、パジェノーは難しいレースを勝ちきった。彼は言う。「荒れたレースを冷静に、スマートに戦い抜いた」。

 ジェームズ・ヒンチクリフと佐藤琢磨に先を越されてしまったものの、昨季のルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得したパジェノーがインディで次に初優勝を果たすべきドライバーであることは明らかだった。しかしいまだ軸の定まらない混戦のシーズンとはいえ、その中でもやや戦闘力に欠けるシュミット・ハミルトン・モータースポーツでそれを遂げるのは、けっして簡単なことではなかったはずだ。トップチームに移ればすぐさまチャンピオンになれるという世間の評価はけっして大げさでない。わたし自身も、昨季あらゆるストリートコースでケータリングができそうなほど滑らかに縁石を踏むさまを見て、それだけでこのドライバーに勝利を与えることがインディカーの使命だと信じきってしまった(それは、F1で昔のセバスチャン・ベッテルに対して抱いた感情と同様のものだった)。逆転を生む戦術の遂行を可能にする高い技量によってその確信は証明され、デトロイトは幕を閉じた。

 わたしにとってレース1がどうしようもない現実だったとするのなら、レース2は理想がひとつが現われた瞬間だった。コンウェイの勝利には(彼自身の事情とは別に)失望を禁じえなかったが、それもパジェノーの初優勝によって回復してしまう。目まぐるしく相貌を変えるインディカー・シリーズで、デトロイトの2日間はちょうどうまいぐあいにコインの裏と表を1回ずつ出してみせた。ここからはわずかばかりの寓意を汲み上げることができそうだ。レースには現実もあれば、理想もある。あってはならないことを受け入れるべきときも、あるべきことが実現するときも、平等にやってくる。片方だけなんてことはない。

***

 佐藤琢磨は、トリスタン・ボーティエはそもそもその場にいるべきドライバーではなかったのだと言う。それが間違いのない事実だとして、ではそんな幽霊と接触して自分だけレースから退場することにいったいなんの価値があったというのだろう。たとえ認めがたいことだったとしても、現実にボーティエはそこを走っていた。にもかかわらず直角ターンでアウトから並びかけるというリスクの高い勝負で抜き去りにかかったドライビングをいま振り返ると、まるで、より多くのポイントを持ち帰ることではなく認めてはならない現実を解消することを唯一絶対の使命としていたようにさえ見えてくる。「そうあるべき」だった、ボーティエのいないレースを取り戻すためのサイド・バイ・サイドに殉じて、そのクラッシュは起きた。そしてそれこそが、佐藤琢磨が過ごしてきたキャリアそのものなのではないのだろうか。今にして、過去のクラッシュのうちのいくつかは今回と同様にして犯されてきたのではないかと思えてならなくなっている。

 すでに書いたように、ボーティエに対する佐藤の非難は論理的だ。だが同時に、それはあまりに論理的すぎ、正しすぎるという印象も与える。例にあげたバーレーンGPでの件でもそうだが、彼の理知的な振る舞いにはともすれば危うい過剰さがつきまとう。そこには彼の正しさ以外の事象が存在しないと言い換えてもいい。身勝手な論理での言い訳が巧みという意味ではなく、自分の正当性を正しく認識し、的確に抽出してみせられるということである。繰り返すがそれが特筆すべき能力であることに疑問の余地はない。

 しかし、と思う。ゆえにこそ、彼は自らの殉教者になってしまう。理知的でありすぎるために、心の奥底にある純粋な信念を理性が強固に補強して不可侵の無謬性をまとわせ、やがてもはや自分自身でさえ撥ねのけることができなくなっていく。"no attack, no chance"――その言葉どおり佐藤琢磨はいつも自分を貫いてきた。彼の中にはつねに理想があり、それは正しかった。だが、クラッシュという現実はその崇高さや強度とは無関係に、ひとりのドライバーが抱く理想を跳ね返すときがあるということなのだ。たとえば去年のインディ500のように。たとえば9年前のヨーロッパGPのように。あのときも佐藤琢磨の動きは完璧だった。それでも、彼の理想が描いたレーシングラインの先にはダリオ・フランキッティやルーベンス・バリチェロが理想を無に帰せしめる現実として文字どおり物理的に立ちふさがっていたのである。チェッカー・フラッグを受けることなくレースを終えると、突いてでたのは現実に呑み込まれる前に抱いていた理想と、それを妨げた相手の具体的な問題点だった。その物語は2013年にしたのとおなじように完璧で、やはり完璧でありすぎた。

 秘めたる理性に破綻がないからこそ正しく形作られすぎた信念によって、現実との折り合いがつきにくくなってしまう。佐藤琢磨の印象的なクラッシュは、彼の中にあるそんな齟齬からしばしば生じたのだと、今わたしはようやく悟ることになった。それがコインの裏表だった2レースイベントによって引き出されたのは、もちろん偶然ではないのだろう。ヨーロッパから気まぐれのようにやってきて勝ってしまうドライバーがいれば、待ち望まれた優勝をついに果たしたドライバーもいる。マイク・コンウェイの現実とシモン・パジェノーの理想を結んだ線上で、佐藤琢磨はリタイアした。きっとやむをえないことだ。理想だけが重たくなった歪なコインを投げたとしたら、反対側の現実ばかりが出るに決まっているのだから。

マイク・コンウェイには幸運に与る価値があった

【2011.4.17】
インディカー・シリーズ第3戦 ロングビーチGP
 
 
66周目にペースカーが退いてグリーンフラッグが振られたとき、マイク・コンウェイのことを気にしていたのは彼自身と、レースストラテジストくらいのものだっただろう。1度目の給油ミスで大きく順位を落とし、最終盤のリスタートでは11位を走るにとどまっていた彼が優勝を狙うには、コースは少しばかり渋滞していた。レース後のインタビューで神妙な面持ちながら喜びを抑えきれずにいたオーナーのマイケル・アンドレッティにしたところで、どうやってライアン・ハンター=レイを勝たせるかしか考えていなかったにちがいない。レーシングチームなんて大概そんなものだ。

妙なことは起こるものである。リスタート時の隊列を2列にするようレギュレーションが変わり、フルコースコーション明け直後の事故は増えた。1列スタートよりもスタート直後の密度は圧倒的に高くなり、ラテンの血が騒ぐのか今季すでにリスタートでやりたい放題に暴れまわっているエリオ・カストロネベスが、このときも無謀なタイミングでターン1のインサイドに突っこんであろうことかチームメイトのウィル・パワーを撃墜すると、煽りを受けたオリオール・セルビアの進路がなくなり、スコット・ディクソンも事故の脇をすり抜ける際に右フロントタイヤを引っ掛けられてサスペンションを壊した。予選でクラッシュして下位スタートに甘んじながら10位にまでポジションを上げていた佐藤琢磨がこの4台を尻目に6位に浮上するが、すぐさまグレアム・レイホールがその左リアに追突し、タイヤをカットされてスピン、レイホールもフロントウイングにダメージを負った。都合6台が消えてふたたび黄色の旗がコースのそこかしこで振られるようになったころには、コンウェイはなぜか、ということもないが3位を走っていた。

70周目のグリーン・フラッグで今度はハンター=レイがスローダウンし、コンウェイはほとんどなにもしないまま2番手になってしまった。フレッシュのレッドタイヤ、燃料もフルリッチで使える彼は速く、あっという間にライアン・ブリスコーを交わして、チェッカー・フラッグではもう6秒以上のリードを築いていた。GP2ウィナーに名を連ねながらもF1には届かなかった27歳のイギリス人が、アメリカの地で初めて表彰台の真ん中に立ったわけである。

***

クラッシュはレースの華、醍醐味だ、という言及はときおり見かけないこともないが、わたしはそれを見るたびに穏やかならぬ心境になる。4輪モータースポーツの最高峰をF1に置けば、たしかに幸運なことにアイルトン・セナ以来17年ドライバーの死亡事故は起きていない。この間F1の安全性が飛躍的に高まったのは事実だが、その努力を認めつつも同時にただの幸運に過ぎなかったということは、2000年のモンツァと2001年のアルバートパークでクラッシュによりちぎれ飛んだタイヤの直撃を受けてマーシャルが死亡する事故があったことを考えればすぐにわかることだ。F1は安全かもしれないが、しかしだれもが言うほど安全なわけでもない。平均時速がF1とは比べものにならない(そして残念なことに、一部のドライバーのレベルもF1とは比べものにならない)インディカーにはもっと危険が潜む。1999年に高校生だったわたしはフォンタナでグレッグ・ムーアというカナダの若い才能が失われたことに悲嘆した。CARTでだれより好きなドライバーだったのだ。ポール・ダナがマイマミで亡くなったのも、まだせいぜい5年前の話である。

一昨年はF2で走行中に転がってきたタイヤがコクピットを直撃するという不運によりヘンリー・サーティースが死亡した。直後にF1でフェリペ・マッサのヘルメットに150g程度の部品が当たって、しかしそれだけで彼は気を失ってフェラーリF60がなんのコントロールもないままタイヤバリアまで直進していった。両者の事故に大きな差があるわけではない。「いまこれを書いている最中にも世界のどこかのサーキットで」という常套句めいた言明はさすがに大袈裟が過ぎるだろうが、死も、紙一重の生還もいまだ往々にして起こる。

2010年5月30日、インディ500のラストラップでクラッシュしたマイク・コンウェイは重傷を負った。燃料節約戦略に賭けたライアン・ハンター=レイが健闘むなしくガス欠となってスローダウンしたところにコンウェイが追いつき、オープンホイールでもっとも危険な前後関係でのタイヤ干渉が起こって、ドレイヤー&レインボールドの青いマシンは巻きあげられ宙を舞った。クルビット機動のように背面回転したマシンは緩衝壁を飛び越えて観客席目前のフェンスに激突し、コクピットブロック以外はすべて吹き飛んで路面へと落ちた。200mphというレベルの速度帯でのクラッシュである。一目危険な事故なのは明らかだった。

2003年だったかのテキサスで起きたトーマス・シェクターとケニー・ブラックのクラッシュや、2007年F1カナダGPでのロバート・クビサの事故が最悪の事態にならなかったように、コンウェイもすぐにばらばらになったマシンから救出され、生命の無事は確認された。だが左足の骨折と胸部圧迫骨折を負った彼がその年のトラックに戻ってくることはなかった。まだインディ2年目の、トップ10に顔を出すか出さないかといった程度のドライバーが陥るには十分な苦境だ。毎レース欠かさずテレビで観戦してもてぎにもいそいそと足を運ぶ、日本人としてはそこそこインディカー・シリーズが好きな部類に入ると思われるわたしにしても、事故の衝撃はダリオ・フランキッティとウィル・パワーのチャンピオン争いが白熱する夏以降にはすっかり薄れていた。少しずつ才能を発揮しているように見えてはいたが、それでも今年のクビサのように「いなくて寂しい」と思えてしまうほど、コンウェイに存在感があるわけではなかったのだ。少なくとも海の向こうの同盟国で明け方スナック菓子と甘いコーヒーを口にしながら怠惰にレースを観ているだけの人間にとっては、それっきり姿を見なくなっても不思議ではなかった。アンドレッティ・オートスポーツと今季の契約を結んだというニュースを目にしたときには、少し意外に思ったものだ。マイケル・アンドレッティが才能を認めたのか、それともいかにもこの競技にありがちな疑い方をするならトニー・カナーンがスポンサーの縮小によってチームを去らざるをえなくなった後のいい財布なのだろうか、という具合に。

そういう品のないものの見方はやめておこう、前者が正しかったということだ。初戦、2戦目と速さが結果につながらず、ロングビーチでもピットワークの問題で下位に落ちた。レースではときに引き受けなければならない不運であり、リスタートのあとをうまく立ちまわって9位くらいでフィニッシュすればじゅうぶん褒められる日だったはずだ。なのに、妙なことは起こるものである。わずか5周のあいだに7人のドライバーが道を開けて、なぜかコンウェイは圧勝してしまった。いくらインディカーがアクシデントとそれに伴うフルコースコーションが多いレースと言ってもちょっとありえないくらいの勝ち方であるが、しかしどうにも愉快でしかたない。モータースポーツには悲しい事故もある。1人の力のないファンでさえ、それに向き合わなければならないことがある。それでも、そこにかかわるすべての人々の不断の努力によって華やかな地上最速のショーは回っていくものだ。危険がそばにあるとわかっているから、モータースポーツは安全のための方策をひとつひとつ積み上げてきたし、これからも積み上げていく。コンウェイは200mphのエアボーンから生還し、休養は必要だったもののおなじマシンのコクピットにちゃんと戻ってきて、だれよりも速く167マイルを走りきった。彼は少しだけ、安全性を高めてきたモータースポーツの歴史に救われたのだ。コンウェイがフィニッシュラインを越えたとき、GAORAで実況を担当していた村田晴郎氏はまずなにより「おめでとう!」と寿いだ。あまりないことだが、きっとだれもがそう思うレースだった。あらためてマイク・コンウェイの最初の勝利に乾杯しよう。そして、彼を勝利の場へと戻してくれたモータースポーツを祝福しよう。