優雅な閉幕は優れた資質の証明である

【2016.9.18】
インディカー・シリーズ最終戦 ソノマGP
 
 
 2010年代のインディカー・シリーズを振り返ってみると、2015年までのあいだに選手権2位を獲得したドライバーが3人しかいないことがわかる。2010年から2012年の3年連続でウィル・パワー、2013年と2014年のエリオ・カストロネベス、2015年のファン=パブロ・モントーヤである。6年間の3人は共通点を持っている。全員がチーム・ペンスキーに所属していたことには気づきやすいはずだ。この間ペンスキーが王者を輩出した(つまり選手権で1位と2位を独占した)のは2014年にパワーが制した1回きりで、あとはチップ・ガナッシ・レーシングが4度、アンドレッティ・オートスポートが1度だから、近年このチームの勝負弱さは筋金入りである。だが仔細に見れば似通っているのは車ばかりではない。6年間のいずれも、彼ら3人はそれぞれシーズンのうちにポイントリーダーになったことがあった。開幕直後のちょっとした波瀾の結果などではなく、勢力図のじゅうぶん固まりつつある夏場に、けっして短くない期間である。それどころか、6季中4季は最終的に2位だった彼らが「その年もっとも長い期間首位にいたドライバー」で、2014年を除くと「シーズン最終戦または最後から2番目のレース」を迎えた際に選手権をリードしていたのも彼らだった。ようするに3人とも、王者になりうる十分な機会を持っていたにもかかわらず、逆転――いくつかは確実に歴史に残る大逆転――で敗れたのである。

 2010年のパワーは17戦中15戦を首位で過ごしている。ペンスキーのレギュラーシートを獲得したこの年、開幕戦のサンパウロと第2戦のセント・ピーターズバーグを連勝して主導権を握ると、6月5日のテキサスで一度ダリオ・フランキッティに首位を渡したが、続くアイオワですぐさま奪回して第13戦ソノマが終わった時点で513対468とじつに48点のリードを築いた。だが第14戦シカゴランドからケンタッキー、もてぎとことごとくフランキッティを下回って19点差まで詰め寄られ、とどめに最終戦ホームステッドの事故で25位に終わって602対596の6点差で敗れてしまう。勝利数だけならフランキッティの3勝に対しパワーは5勝と圧倒しており、まだオーバルが主流だったころのインディカーでオーバルを苦手としていたゆえの悲劇だった。翌年はフランキッティと目まぐるしい首位争いを演じて圧倒はできなかったものの、それでも16戦中7戦で首位に立っている。東日本大震災の影響でロードコースへと変更になったもてぎを制した後、ポールポジションを獲得したケンタッキーで19位に沈んで逆転を許し、最終戦のラスベガスで再度の逆転に賭けたがレースはダン・ウェルドンの死亡事故で中止された。この年も勝利は6対4で上回りながら、オーバルでの得点が明暗を分けた。

 フォンタナの56周目でスピンすることがなければ、2012年はパワーの悲願が達成された年になっていたかもしれなかった。17点差を巡って選手権を争っていたライアン・ハンター=レイとの13位争いのさなか突如としてスナップオーバーに見舞われ、最高の機会を手放したのだ。車が完全に壊れ、諦めて呆然としていたところチームが必死で修理しているのを知り慌ててレーシングスーツを着直す一幕もあったが、結局24位で12点に終わり、勇気を持って4位まで攻め続けたハンター=レイにわずか3点の逆転を許した。シーズンが深まるにしたがって追い詰められたように表情を険しくしていったこの年、パワーは15戦中11戦を首位で過ごしている。圧倒的な有利を吐き出して、3年連続で「最終戦」での逆転を許したのだった。

 2013年は主役がカストロネベスに替わる。安定して上位でゴールして地道に得点を積み重ね、チップ・ガナッシの不調もあって第10戦アイオワ終了時に92点差をつけていたものの、7月に入ってスコット・ディクソンが3連勝を記録してあっという間に追い込まれた年だ。本人が後に振り返ったとおり、守りに徹するばかりで走りから攻撃性を失ったカストロネベスは少しずつ貯金を切り崩し、第18戦ヒューストン・レース2でついに逆転を許した。その間、ソノマでディクソンがすぐ前にいたペンスキーのピットクルーと接触してペナルティを受ける「疑惑のピット」や、ボルティモアでパワーがディクソンを撃墜する事件がカストロネベスを「援護」したが、頽廃的な走りしかできずに幸運を頼みとするやりかたが長続きするはずもなく、ついにギアボックスの故障というありうべき不運が自らにも降り掛かって万事休したのである。最終戦フォンタナで再逆転を狙った走りは情熱的で、それまでに失っていた熱量を取り戻して余りある美しさを備えていたが、それを見たのはすべて手遅れになった後だ。カストロネベスは19戦中12戦で首位にいながら、第11戦から最終戦までの9レースで、ディクソンの4勝337点に対し0勝2位1回のみの218点に留まり選手権を失った。翌年も中盤まで選手権をリードしたものの、同僚のパワーに逆転を許して2位に終わる。この年以来、カストロネベスは1勝もしていない。

 昨季のことは記憶に新しいだろう。開幕戦の逆転と、得点が2倍に設定されたインディアナポリス500マイルでの優勝によって得た大量リードに守られていたが、後半戦はほとんど優勝争いに絡めなくなり、やはり得点が2倍になる最終戦ソノマで103点を稼いだディクソンに47点差を追いつかれ、優勝回数の差で王者を攫われる大逆転負けを喫した。15レースで選手権の首位に居座り、唯一16レース目でその座を明け渡すと同時に閉幕を迎えたのだ。

「ディクソンがよかったのは最後だけだったのに」――ソノマのレース後、敗者は恣意的に決められた選手権得点の制度によって敗れた不満を述べたものだった。だがまさに「同点の場合は優勝回数の差で上位が決まる」という条件によって決着したことからわかるとおり、昨季のモントーヤは優勝回数でディクソンを下回り、またラップリードを見てもその306周の半分にも満たない145周で、全体の6番目でしかなかった。2度の優勝もレースを支配した結果ではまったくなく、インディ500以降の10レースでは77周しか先頭を走っていないのだから、現実には「モントーヤがよかったレース」を答えるのが難しいほどだ。たしかに数字上の事実として、モントーヤはずっと首位におり、それを最後の最後にちょっとした気まぐれが起きて失ったように見える。だがその半年間の戦いを見れば、彼は多くの期間で数字上の事実以上の意味を持たない「偽りのポイントリーダー」に過ぎず、最後の最後になってようやく、本来あるべき結果が導かれたのだという確信を抱きもする。それほど、2015年の閉幕に至るモントーヤからレースに向かう高揚を感じることはなかった。

 程度の差はあれ、おなじ感想はパワーやカストロネベスが敗れた年にも当てはめられるだろう。シーズン序盤に築く圧倒的な優位と、裏腹な後半の脆さ。コースに対する得意不得意の偏りや各チームの慣熟が進むことによる相対的な格差の縮小など物理的な要因があったのも間違いないはずだが、ほとんどは彼ら自身の内面に起因する結末だったと考えてもいいのではないだろうか。パワーは狼狽によって、カストロネベスは頽廃に、モントーヤは消沈によって自分の地位を投げ出した。中途の選手権首位というまだ何の価値があるわけでもないものを失うことを恐れ、本当に大切なものを見誤ったとしか見えないシーズンを送った。結果的に、その大切なものはいつも別のだれかの許へと渡っていった。

 たしかに2010年代のインディカーで最速のチームを問われれば、多くのファンがチーム・ペンスキーと答えるに違いない。パワーとカストロネベスという組み合わせに単純な速さで追随できるものはなく、ペンスキーはこの間どのチームよりも多くポールポジションを獲得し、どのチームよりも多く優勝の美酒を味わってきた。セント・ピーターズバーグやサンパウロをふと見れば、先頭を行くのは当たり前にペンスキーの車だったりしたはずだ。だが書いたように、一方で昨季まで所属ドライバーがチャンピオンになったのは1度きり、そしてすべての年で2位に終わっている。もっとも速く、にもかかわらず決してもっとも強くはない。肝心なところはいつもチップ・ガナッシが攫っていく。2010年代のペンスキーは、パワーは、カストロネベスは、モントーヤは、そういうチームでありドライバーであったのだった。

 しかして、2016年のインディカー・シリーズで2位になったのはまたしてもウィル・パワーである。彼にとっては4度目、ペンスキーとしては7年連続、そうまとめてしまうとこの結末はいかにも例年どおりだったように見える。だが今季のあらましが以前と決定的に異なるのは、2位のドライバーに現実的な機会がほとんど訪れなかったことだ。開幕戦を欠場する不運があったとはいえ、彼自身の過去やペンスキーのこれまでに反して、今年のパワーは結局一度たりとも選手権の首位に立つことなくシーズンを終えた。6月から8月にかけて、6戦で4勝2位2回の完璧な成績を残したデトロイト・レース2からポコノの間でさえ、パワーは勢いを超えた名実両面の主役にはなれなかった。その前方を、最高の同僚たるシモン・パジェノーがずっと走り続けていたからである。

***

 ペンスキーに加入して2年目のパジェノーがいかにインディカー・シリーズを制するにふさわしい能力をコース上で表現し続けてきたかは、前回の記事をはじめとして何度か書いてきたとおりである。開幕戦と第2戦の連続2位で早くもポイントリーダーとなる(正直、この時点ではまだ懐疑的だったのだが)と、その喪失を恐れる素振りをほとんど見せることなく貪欲にレースを戦い続けたのがパジェノーの2016年だったと言っていい。たとえばアラバマ。たとえばミッドオハイオ。ともに2位で妥協しても構わなかったはずのレースであり、またシーズンが終わって計算してみれば実際に2位だったとしても選手権の結果に影響はなかったのだが、それでも接触してすべてを失うリスク――アラバマではグラベルまで飛び出しレースを失いかけたし、ミッドオハイオでも進路をカ塞がれて追突しかけ、追い抜きざまにぶつかっている――を冒して優勝を奪い取った。一方でインディアナポリスGPのように波瀾の可能性を封じてスタートからゴールまで優雅に先頭を走り続ける静謐さも併せ持っていた。パジェノーの特質はこのように、激しい情熱とレースを収める沈着の両方にある。この二面性を駆動させることによって、彼は最後までポイントリーダーでありつづけた。それはかつてのペンスキーのドライバーたちがけっして成せなかったことだった。

 もちろん点差とは相対的なものだし、インディカーというカテゴリーそのものの特徴もあって、早めに選手権争いの大勢を決して退屈な閉幕を演出するほどに完璧なシーズンを送れたわけではない。最終戦のソノマを迎えた段階でパジェノーとパワーの差は43点で、昨季のモントーヤがディクソンに逆転を許した際に持っていた47点差よりもわずかながら小さい。だが昨年のソノマ直前のモントーヤについてまわった敗北の予感――ディクソンが勝つ予感ではなく、あくまでもモントーヤを主体とした、負けるという確たる予感――が、今年のパジェノーにはまったくといって浮かんでこなかったものだ。実際、パジェノーは土曜日の予選で一番速いタイムを叩き出し、涼しい顔でもっとも安全な場所を占有してみせたのである。

 近年、インディカーの選手権争いはかならず最終戦までもつれこみ、そこで劇的な場面を演出するのが常だった。パワーがことごとく逆転を喫していたころはもちろん、舞台がフォンタナのスーパースピードウェイになっても、退屈といわれるソノマのロードコースへと替わった去年でさえ、激しい情動が喚起され、あるいは緊張感に包まれて息を凝らす展開が待っていたのだ。だが今年、最後のソノマに選手権の糸が張りつめることはついになかった。レースも半分を迎えようとしていた36周目にパワーがトラブルで止まってしまったから――当然それも理由の一つではある。だが相手が残酷な不運に見舞われるそのずっと前から、きっと選手権の行方ははっきりしていただろう。グリーン・フラッグが振られた数分後には、このレースにはなにもないだろうという感慨ばかりが広がっていった。そして事実、パジェノーの身の上におかしなことはなにひとつ降りかからず、ペンスキーの22号車はスタートする前と変わらないような美しい姿のままチェッカー・フラッグまで運ばれた。結局、2016年の最終戦に語るべきことはなにもなかった。だが語れることなどなくていいだろう。観客が強いられた沈黙の示すものは、興奮をもたらす「劇的な場面」の不安定とは対極に位置するパジェノーの揺るぎない強さである。ポール・トゥ・ウィン、85周中76周の最多ラップリード、コース上での追い抜きは一度もない。そもそも追い抜きを必要とする機会すら訪れなかった。パジェノーは静謐な速さで優雅にレースを支配し、静謐なままにレースを、そして選手権をも閉じていった。そこには過去の興奮とは明らかに異質な感動が横溢する。われわれが今年目撃したのは、もっとも優れた王者が誕生する瞬間に他ならなかった。

 ところで、これほど静かに進んだソノマで大きな波瀾はレース後に起きた。新しい王者が歓喜のドーナツターンを試みたもののあえなく失敗してエンジンを止めてしまい、セーフティクルーの手によってピットまで牽引される羽目になったのだ。もしシーズンを決するのに少しばかり退屈な最終戦になってしまったと思うなら、そんな愛嬌を記憶にとどめておけばいいではないか。戻ってきて車を降りた当人は少し照れくさそうに燃料がなくなったんだと嘯いた。それを信じるも信じないも、観客の勝手である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です