システムは運動の奴隷でなくてはならない

【2017.9.3】
インディカー・シリーズ第16戦 インディカーGP・アット・ザ・グレン(ワトキンス・グレン)

 
 そう言われれば、と納得してくれる人もいるかもしれないが、2017年も2戦を残すのみになったここまで、わたしはインディカー・シリーズの選手権の行く末についてほとんど触れてきていないはずである。強いて言えばエリオ・カストロネベスがテキサスで3年半ぶりの優勝を果たした際に、偉大な経歴にあとひとつ加えられるべきはシリーズ・チャンピオンのみであると取り上げはしたものの、ただしもちろんそれは3度にわたってインディアナポリス500マイルを制したカストロネベスというドライバー自身に対する文脈の中に置いたものであり、2017年のシーズンに対して具体的に言及したのではなかった。それ以降勢力図が少しずつ変化し、ポイントリーダーの座が恒例のスコット・ディクソンから若いジョセフ・ニューガーデンへと移ろっても、そのこと自体を主眼に置いた記事はまったく書いていない。書く気も起きなかった、といったほうがより正直な心境を表しているかもしれない。ようするに、わたしは選手権というものにさほど興味を持っていないのだ。

 選手権そのものに強い意味を与えない態度は2013年にインディカーの記事を書こうと思ったころから一貫して続いている。その根本にあるのは、称揚されるべきは「運動」以外にないというわたしの(なかば依怙地な)信念に他ならない。すなわち、速く走りたいと思うこと、それもだれよりも速くありたいと願うこと、そうであろうとするためにペダルとステアリングに人生のすべてを託すこと、またそういったドライバーの意志を受け止める車をチームがつくり、先頭に送り込むためにあらゆる可能性を探って作戦を組み上げること……「いま、目の前にあるレース」を勝とうとすることが競技者たちの根源的な欲求に基づいているとすれば、レースは先天的で自然な情動の集合であるはずだし、そうした本能的な欲求が生み出す運動をこそわたしは掬い上げて文章にしたいといつも思っている。一方で「選手権」はレースの本質と無関係の後天的な周縁だ。本来独立した営みであるはずの個々のレースを一本の線に見せかけるために作られた擬制的な制度にすぎない――あらゆるカテゴリーでしばしばポイントシステムが「変更」される、つまりシステムの側から勝者を決められることからも明らかだろう。それは「いま、目の前にある」情熱ではなく、つねに計算の名のもとに未来へと先送りされてしまい実体を捉えられないフィクションである。もちろん、われわれは制度というフィクションを信じて実際の価値を作り上げることがある。たとえ選手権が虚構的な栄誉であったとしても、競技者がその虚構に意味があるとして心から欲するなら価値は生じうるし、事実価値があると考えられてもいよう。しかしだとしても、レースは選手権がなくとも成立するが逆は否定されると言うことはできる。両者は不可分に一体となって共生する関係ではなく、選手権は必ずレースに隷属している。

 だから、過去このブログで選手権について触れようとするとき、わたしはつねに選手権というシステムの側からレースの運動を照射するか、そうでなければレースの運動が必然的に導くシステムの帰結を探るように努め、ただ結果だけを選手権の価値に置き換えることを避けてきた。2013~14年のカストロネベスや2015年のファン=パブロ・モントーヤを否定的に書いたことにせよ、また逆に昨季のシモン・パジェノーにあらんかぎりの賛辞を並べたことにせよ、選手権の虚構において、彼らがその争いの渦中にいることでレースにいかなる運動をもたらしたか、あるいはレースの運動をいかに損ねたかという一事だけがわたしの掬い上げるべきすべてだった。選手権そのものはフィクションでも、それが信じられている限りレースという現象を本当に動かすことはある。ポイントリーダーの地位を守りたいカストロネベスやモントーヤの走りが怯えたように保守的になり、逆にパジェノーがシーズンの深まりに応じて絶え間なく躍動していったように。わたしにとって選手権の意味とは、そういう瞬間を見つける手がかりに他ならない。おもしろいのは選手権争いではなく、選手権を争っていると信じている者たちが実際に行う「レース」である。レースをどのように見るかという文脈のためにこそ、選手権はある。

 なるほど、シーズンも最終戦を残すのみとなったいま、グレンGPの顛末は選手権の行方を大きく左右しうるだろう。46周目のジョセフ・ニューガーデンに待ち構えていたのは、およそ思い出したくないに違いない落とし穴だった。起伏に富み多種多様のコーナーが組み合わされるワトキンス・グレン・インターナショナルで、悲劇はコース以外の場所で起こったのである。45周目に最後のピット作業を完了したカストロネベスがピットレーンの出口とコースを分かつ黄線を車1台分も大きく踏み越えてしまったとき、少しばかり迂闊な失敗にしか見えず、笑いながらペナルティが下されるか否かを論じればいいだけのことに思えた。それは安定感がありながら意外なところでレースを失うこともある彼のひとつの類型のようであり、異変が生じているとは想像していなかったのだ。だがさまざまな角度からリプレイが流され、みながそれを特別な失策だと油断していたころに、もっと信じがたい瞬間は訪れる。46周目のピットはチーム・ペンスキー同士の戦いになった。直前までウィル・パワーの前を走っていたポイントリーダーのニューガーデンは、微かな作業時間の差と相手が先頭のピットボックスを使用しておりまっすぐ発進できる優位を得ていたために逆転を許す。選手権ですぐ後ろにつけているディクソンが優勝争いをしている中で、その状況に感情が動かなかったといえば嘘になるだろう。おそらくほんのわずか通常よりも高い速度で、ニューガーデンは右に小さく曲がり込むピットレーン出口の「コーナー」へと進入した。そして、少しばかり焦りを感じていたかもしれないポイントリーダーには不運だったことに、1周前にカストロネベスが飛び出したのは迂闊さのせいではなく、あまり車の通らないその路面のグリップが著しく低下していたからだったのである。そこは突如として現れた、この日一番の難所だった。チームメイトはそれでもコースへと合流できたのだったが、ニューガーデンの2号車はよりひどいアンダーステアに陥り、フロントタイヤの舵角にまったく抗って直進してコースとピットを隔てる壁に激突する。のみならず、すぐ後ろに続いていたセバスチャン・ブルデーまでもが同じように曲がりきれず追突し、ニューガーデンは左前のサスペンションどころか車体後部をも破損したのだった。

 さて、「選手権」の話である。事故とその後の修復作業のために2周遅れとなったニューガーデンは結局18位と1周のラップリードでグレンGPを終え、わずか13点しか積み上げることができなかった。一方のディクソンはこの週末に盤石を誇ったアレキサンダー・ロッシを必死に追いかけたものの逆転は果たせず、とはいえ2位で41点を加えた。レース前は25点あった得点差は3点へと縮まり、得点が2倍に設定されていることも踏まえると最終戦を1つでも上の順位でゴールしたほうがほぼチャンピオンを獲得する近年稀に見る接戦となっている。もちろん、ディクソンから19点差で続くカストロネベス、さらに12点遅れているだけのパジェノーも、それぞれ現実的な逆転の可能性を保持したままだ。実際、2015年には47点の大差が引っくり返った。

 数字上は選手権争いが白熱しているといって間違いないはずの状況に、しかしわたしは戸惑いを禁じえないでいる。今季すべてのレースをつぶさに観戦し、記録してきたにもかかわらず、あるいは記録してきたからこそ、1位と2位が「結果の集合」としては3点差しかなく、3位以下もさほど離れていないことがにわかに信じがたいのだ。別に、ニューガーデンが4度も優勝しているのに対し、他の3人が1勝ずつしか挙げていないという得点とは別の数字をもって状況を論おうというのではない。そうではなく、もっとモータースポーツの根源的な面、書いたとおり「いま、目の前にあるレース」に対する情動だけを観察しようとしたとき、それを今季もっとも喚起してきた、言い換えればもっとも運動を表現していた今季のニューガーデンが、システムにおいては他を圧倒していないその落差にただただ困惑してしまうのである。もちろん、冷静に結果を見ればそうなっている理由はわかる。ディクソンは優勝できないまでも多数の表彰台を積み重ねることでここまで食い下がっているのだし、カストロネベスは端的に言って通常の2倍の得点が設定されているインディアナポリス500マイルで獲得した80点が大きくものを言っている。ひとりの観客にすぎないわたしの視野から外れてしまったそういう細かい結果の積み重ねが選手権の現状につながっているのだし、実際に自分で各レースの得点を足していけば当然おなじ計算になる。ニューガーデンは560点で、ディクソンは557点だ。なんとも不思議なことに。

 おそらく、選手権というシステムが加算で語られるほかないのに対し、レースの運動はつねに乗算的なのだろう。そしてわたしは一瞬にして感情を揺さぶられる後者の誘惑に抗いきれず、冷静な前者を見逃し続ける刹那的な観客なのである。もちろん、ディクソンのロード・アメリカは完璧なパッシングによって彩られた美しい優勝だった。テキサスで3年半ぶりに金網をよじ登ったカストロネベスの歓喜に心打たれもした。だがそれすら、ニューガーデンのアラバマに、ミッドオハイオに、ゲートウェイの運動には質量とも及びはしまい。だからいまのうちに断言しておきたいと思う。選手権がどのような結論になろうとも、これまでのレースを見てきたわたしにとって、2017年最高のドライバーがジョセフ・ニューガーデンであることはもはや覆されない真実である。選手権はレースに付随する周縁のシステムであり、その結果だけで運動の価値を変えることなどできはしないのだから。ひとつだけ選手権に期待を寄せるとしたら、それはやはりレースに影響をおよぼすことだ。結果がどうなるかではなく、結果を求める4人のドライバーの戦いに熱量を供給できるかどうか。いまの状況がレースに激しい運動を喚起してくれるなら、われわれはすばらしい終幕を見届けられるだろう。そうなったときはじめて、わたしは選手権に得がたい価値を見出すことができそうである。
 

INDYCAR Grand Prix at The Glen 2017.9.3 Watkins Glen International

      Grid Laps LL
1 アレキサンダー・ロッシ アンドレッティ・オートスポート 1 60 32
2 スコット・ディクソン チップ・ガナッシ・レーシング 2 60 2
3 ライアン・ハンター=レイ アンドレッティ・オートスポート 7 60 4
4 エリオ・カストロネベス チーム・ペンスキー 6 60 13
5 グレアム・レイホール レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング 10 60 0
12 スペンサー・ピゴット デイル・コイン・レーシング 13 60 8
18 ジョセフ・ニューガーデン チーム・ペンスキー 3 58 1
LL:ラップリード

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です