エリオ・カストロネベスのいない春、まとまりのない恋文

Photo by: Chris Jones

【2018.3.11】
インディカー・シリーズ開幕戦 セント・ピーターズバーグGP

まだ20歳前後の感情的な若者だったわたしにとって、だからエリオ・カストロネベスはグレッグ・ムーアの永遠に戻ることのない代理にすぎなかったのである。ムーアはわたしが最初に知ったレーシングドライバーだった、というといささか嘘くさく響くだろうか。むろん、その名はわたし自身がはじめて目にしたドライバーのものではない。多くの日本人同様にわたしもレースを知った入り口はF1だったから、フジテレビで覚えた名前はたくさんあったし、また雑誌などを読んでその走りを想像する者もいた。たまたま家のケーブルテレビでCARTを見始めたときも、ムーアはまだデビューしていなかったと思う。その意味でムーア以前に目の前を走ったドライバーは何人もいたのだが、乱暴な言い方をするなら、それらはわたしにとってみながみな既製品だった。日本が熱狂的なF1ブームに浮かれていたころ、アイルトン・セナやアラン・プロストはとっくに別のだれかの英雄になっており、あるいは米国に目を移してみたところで、マイケル・アンドレッティやアル・アンサーJr.は応援したいドライバーではあってもすでに確立された存在だった。彼らの物語は自分以外の場所で消費され、心の中に収めることはできなかった。それがわたしには物足りなかったのだ。

「レースを見るひと」としての自我が芽生えてきていた思春期に、わたしはその自我を揺さぶられるような初体験を求め、既存の物語を知らされるのではなく自らの意思でだれかを知りたいと欲していたのかもしれない。そこにふっと現れたのがムーアだった、といまから振り返って想像はできる。記憶はもう定かではなく、3位表彰台に登ったサーファーズ・パラダイスを、実家で契約していたケーブルテレビのパックに入っていたスポーツ・アイの放送で見ていたのだとしたら、それがきっかけとしてはもっとも自然な成り行きだろうか。目を惹かれたのはただの偶然である。ことさらにムーアだった理由など見当たらず、たとえばなぜそのレースで優勝したジミー・バッサーでなかったのかなどと問われても答えようがない。それでも、彼を視界の中に認めた瞬間から、現役生活の最初から最後まで自分の心を寄り添わせる対象は、わたしだけの英雄は、ひ弱な印象を与える丸眼鏡をかけたカナダ人以外にいなくなっていた。CART参戦前年にインディ・ライツで12戦10勝を上げ、大きな期待をもって迎えられていた新人で、わたしだけが注目しているはずはなかったと今ならわかるのだが、情報の入手が困難な時代だったからそんな下位カテゴリーでの活躍を知るすべは少なく、自分の発見だと信じ込むことは簡単だった。

なんとも幸運なことに、一目惚れの相手は正解だった。ムーアはけっして優勢とは言えないフォーサイスの車を、優しげな面立ちと裏腹に荒々しくも力強い操縦で前へと進め、数は多くないながらも表彰台を、優勝さえももぎ取る、そんな情熱的なドライバーだった。彼がすばらしいパッシングを見せつけるたび、わたしの心は揺さぶられたものだ。思い出すレースはいくつも挙げられるが、2台のチップ・ガナッシに挟まれる圧倒的不利にあって最終周回のターン1で先頭に立ち、バックストレートで走行ラインを変えながら反撃を振り切ったミシガン・US500などは、中でも白眉だろう。そんな印象深い激闘を足がかりに、やがてムーアはチーム・ペンスキーへと移籍する。後年、シモン・パジェノーやジョセフ・ニューガーデンがそうしていったように。最高の車を得たわたしの英雄は、何度も何度も、CARTの年間チャンピオンと、参戦が叶うなら――と書く必要があるくらいには複雑な時代だった――インディアナポリス500マイルを手にしていくのだ。1999年の10月31日を迎えるまで、それは疑う余地などない予定だった。だが、夢は叶わずに潰える。あの日ムーアはフォンタナのスーパースピードウェイから才能を天に迎えられ、予定されていた未来が現在へと移ろうことはなかった。見届けると決めた現役生活の最後は、あまりに早い最期として訪れた。

こうして突然に空白となったペンスキーの新しいシートを、当時一度か二度ばかり表彰台で顔を見た覚えがある程度のカストロネベスが得る、と歴史は繋がることになる。まったく予定になかったドライバーの選び直しなど大変なものだが、にもかかわらず両者の契約はムーアの事故死からわずか5日後に交わされた。翌年に向けた体制決定の期日をスポンサーが譲らなかったからで、嘘か真か契約書は文字どおりムーアの名前をペンでカストロネベスへと書き換えるだけの形で作成されたという。交渉経緯など知りようもないが、常識的に考えればチーム側が多数の候補から選定して能力を精査する時間があったとは思えない。カストロネベスはその場を埋め合わせる以上に必要とされてトップチームへと迎えられたわけでは、たぶんなかった。そう、だからわたしにとって、またおそらくペンスキーにとっても、彼はグレッグ・ムーアの望まぬ代わりそのものだったのである。わたしはペンスキーのそのシートは永遠にムーアのものだと信じていたし、実際、その代理人では英雄を失ったわたしの失望を埋め合わせるに至らなかった。移籍初年度となる2000年、初優勝を含むシーズン3勝を挙げたのだから後から考えれば立派なものの、おなじブラジル人の同僚であるジル・ド・フェランがシリーズ・チャンピオンを獲得したのに比べれば、ランキング7位はいかにも平凡に映ろうものだ。ムーアならきっとド・フェランの上にいたはずだと、わたしはもはや実現しようもない仮定を弄び続けた。次の年のカストロネベスが、CARTではなくIRLの管轄下にあったインディ500にスポット参戦の形ではじめて出場し、いきなり優勝する快挙を成し遂げてもその気持ちは変わらなかった。それは本来ムーアがなすべき、ムーアが浴するべき栄光だったのだと。当人には失礼きわまりない言いがかりのようなものだが、感情としてそう思わずにいられなかった。

だが結局のところ、カストロネベスはその後ずっと、本当にずっと、ペンスキーのドライバーであり続ける。チームがCARTからIRLへと戦いの場を移してゆき、やがてCARTの運営が立ち行かなくなって姿を消し、IRL=Indy Racing League という中途半端な名称が歴史の役割を終えて名実ともに正真正銘の「インディカー・シリーズ」へと統合されていく激動の時代に、チーム・ペンスキーとエリオ・カストロネベスの組み合わせはずっと変わらずそこにあった。ペンスキーがわずか5日間で選び取った才能は間違っていなかったのだ。少しばかり攻撃的なドライビング、屈託のない人柄。インタビューでは陽気に笑みを絶やさず、それでいてスポンサーへの感謝やライバルへの祝福を欠かさず口にする実直さを併せ持つ。そしてもちろん、重要な前提として、十分に速い。彼はインディカーの先頭を走るに足る能力を備えたプロフェッショナルだった。わたしも、時間の経過とともにムーアを失った悔恨とそれに伴う鬱屈が薄れ、一方でテレビを通してカストロネベスの愉快なレースぶりと人物を毎回のように目のあたりにすることで、その存在を受容するようになった。

そうしていつしか、彼はそこにあるのが日常となった。レース中継の画面上部を見れば当たり前に CASTRONEVES の文字が流れ、レース結果にも選手権争いの表にもその名を当然に認められた。インディカーを見るとき、そこに必ずエリオ・カストロネベスはいる。いるのが自然な状態で、それ以外は考えられない。彼はそんな唯一の存在だった。もちろん、同時期にトップチームからまったく移籍することなく乗り続けているという点ではチップ・ガナッシ・レーシングのスコット・ディクソンもそうではある(マルコ・アンドレッティ? 名字以外に何がある)。ただ、「アイスマン」と呼ばれ本質が薄布に覆われて見えにくく感じるディクソンに比べて、カストロネベスはどこまでもわかりやすかったのだ。調子が良いときの速さには目を見張る。反対にレースからすっかり消える日もあるのだが、そういう場合にうまく順位を拾ったりもする。紳士的で、コース上のライバルへの敬意はつねに感じさせるものの、正直なところバトルはあまり上手に見えない。快活な性格とは裏腹に悲観的になりやすく、そうなると持ち前の攻撃性が鳴りを潜める。レース中は意外と自分勝手に振る舞うこともあって、チームプレイには向かない。総じて決勝レースやシーズン全体を俯瞰して組み立てるのは不得手。一方で純粋なスピード勝負では無類の強さを発揮し、速さに任せてあっさりと勝ったりする。まとめると陽気で一本調子な怖がり――ある時期から確立されたわたしのカストロネベスに対する印象は、ずっとそんな具合に固定されたままになった。インディ500で3勝と4度の2位を記録しながら、シリーズ・チャンピオンに惜しいところで手が届かなかったのは、彼の変わらぬ性質が単体の大レースを勝つための助けにはなっても1年間を戦うには決定的に不向きだったからに違いない。鮮やかなエリオ、でも最後には敗れるエリオ。わかりきった結末だ。そこまで予想できることも含めて、動くことなくペンスキーで過ごし続けるカストロネベスの存在はインディカーの日常に溶け込んでいるのだった。

変化しないままつねにあるものは、知らず知らずのうちに基準となる。カストロネベスの日常性は、その意味で「インディカーを見る」という営みについての絶対的な尺度だった。付け加えると、2010年にカストロネベスの特徴をさらに尖らせたような性質を持ったウィル・パワーがペンスキーに加入し、毎年毎年チャンピオンを逃し続けてきたことも、基準をさらに強固にした。そんなふうにカストロネベスを中心に置くだけでいろいろなことがわかったのだ。このブログで本格的にインディカー・シリーズについて書き始めたのは2013年のことだが、不遜な言い方をすればわたしは記事の中で予測的に書いた内容の多くを的中させてきた自負がある。2013年にずっと選手権の首位を走っていたカストロネベスの行く末に落とし穴が待ち受けているだろうこと、2015年のファン=パブロ・モントーヤに対しても同様にその消極的な姿勢を批判したこと。彼らは実際、最終的にディクソンの逆転を許した。あるいはペンスキーに移る前からすでにパジェノーやニューガーデンに言及し、怖れを知らない精神を何度も称揚したこと。それは2016年と2017年に最高の形で結実した。こうして見れば、そのときそのときに得られたわたしの直感は、おおむね正しいものだったはずだ。もちろんわたしは専門家でもジャーナリストでもなく、外国でただテレビ中継を見ている一人の観客にすぎず、優れた見識など持ち合わせていない。だがカストロネベスという基準を採用したとき、すべてが自然な帰結に向かっていくように思えただけだ。状況を悲観してしまった彼自身が敗れるのはもちろん、その頽廃をなぞるようなモントーヤの失速も当然の理と解した。反対に、パジェノーやニューガーデンからはそうした基準を超えた精神の昂揚を受け取ったから、正しい結末へ辿り着くだろうと予感できたのである。

さらにいえば、書きながらたったいまようやく気づいたのだが、わたしは2人の新チャンピオンが表現してきた運動の向こう側に、まさに失くしてしまったグレッグ・ムーアの情熱を見ていたのだと思う。とっくに割り切って忘れていたはずだった、ムーアならきっとチャンピオンになれたという悔恨が、じつは十数年も燻ったまま残っており、同じような精神を発露する新しい英雄の発見に結びついたのだと、いまならわかる。そして十数年の思いが消えなかったのは、まちがいなくカストロネベスという存在があったからだとも確信しよう。つまり、わたしにとってカストロネベスはムーアの代理なのである。わたしはムーアを愛した理由を、ムーアでなくてはならなかった理由を、カストロネベスが持ちえなかったものに置き換えてずっと覚えていたのだ。わたしがパジェノーたちに見つけた特質は、思い返せばムーアの記憶そのものであり、両者は「ペンスキーのカストロネベス」という途切れなく続いた一本の糸の両端に位置していた。もしカストロネベスがそこに居続けてくれなければ、わたしはムーアのことを美化された思い出としてただしまいこんでしまっていただろう。それどころか、パジェノーとニューガーデンがいつか選手権を制すると予感することすらできなかったかもしれない。代理だった彼が基準となってくれたおかげで、わたしは青春時代と少しばかりくたびれてしまった現在を繋いでおくことができた。カストロネベスという日常が、繋ぎ止めてくれていたのだ。

2018年のインディカー・シリーズが開幕する。エリオ・カストロネベスは年間参戦するレギュラー・ドライバーを退き、スタート・コマンドの一声を上げるためセント・ピーターズバーグに現れた。スタート時刻が近づくと、彼は少し弛緩したようにも見える笑顔で、昨年まで勝利を上げると必ずそうしていたように観客席とコースを隔てる金網によじ登り、“Drivers, start your engines!” と叫ぶ。そのよく響く明るい声が、”Drivers”の中に当の本人が含まれていないこと、もはやインディカーの日常にカストロネベスの名前が存在しないことをあらためて突きつけてくるようで、わたしは茫然としたままグリーン・フラッグの時を迎えるほかなかった。なるほど、レースではいろいろなことが起こったようだ。前日の予選でウィル・パワーからポール・ポジションを奪い去った新人のロバート・ウィッケンズは、欧州でフォーミュラカーとツーリングカーの両方を豊富に経験してきたドライバーらしく、巧みなレース運びで盤石のリードを築いていた。逆に落ち着いた働きを期待されたベテランたちは妙に浮き足立っている。パワーはスタート直後のターン2であっさりと単独スピンを喫し、トニー・カナーンは事故を避けられなかった。グレアム・レイホールは相手を弾き飛ばしながら自分だけは悪びれず先に行き、あろうことかあのディクソンが暴発的なブレーキングで遥か前方を進んでいた佐藤琢磨に追突し、相手のレースを台無しにする信じがたい大事件まで起こった(逆ならまだ見慣れたほうだというのに!)。それらすべての混乱をよそに、ウィッケンズは完璧なレースを展開し、デビュー戦にしてポール・ポジションと、最多ラップリードと、優勝のすべてを手中に収める――はずだった。だが残り3周、フルコース・コーションからのリスタートでアレキサンダー・ロッシが強引に懐へと飛び込んできて、すべては水泡に帰した。インから2度もぶつけられてスピンしたウィッケンズは車を降りて茫然と立ち尽くし、ぬけぬけと表彰台の3位に踏みとどまったロッシにはペナルティさえ出なかった。

普段なら何を語るべきか迷うほどに起こったいくつものできごとを、わたしは記事にできそうもない。ウィッケンズの走りは素晴らしく滑らかだったように見えたが、そこに示唆を得ることもなかった。当然だ、どんな事件も、インディカーの原点をわたしに繋いでくれていたエリオ・カストロネベスがいない動揺を上回るはずがないのだから。ブログを書き始めて以来、このセント・ピーターズバーグは、インディカーの基準を、なによりも慣れ親しんだ日常を失ったはじめてのレースだった。そうであるならば、わたしは開幕戦を、焦点の定まらぬまま茫洋と眺めるしかなかったのだ。今後だれが引退の時を迎えたとしても、こんな気持ちになることはないだろう。ムーアの代理でしかなかったカストロネベスは、にもかかわらず、いや、むしろ代理であったからこそ、わたしにとって特別なドライバーだったと、否応なく思い知らされる。彼のように世を去ったわけではない。インディ500になれば帰ってくることもわかっている。それでも、もはや戻ることの叶わなくなった日常ばかりは惜しまずにいられない。エリオ、あなたのいないインディカーは、こんなにも寂しい。

Firestone Grand Prix of St. Petersburg 2018.3.11 Streets of St. Petersburg

      Grid Laps LL
1 セバスチャン・ブルデー デイル・コイン・レーシング 14 110 30
2 グレアム・レイホール レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング 24 110 0
3 アレキサンダー・ロッシ アンドレッティ・オートスポート 12 110 5
4 ジェームズ・ヒンチクリフ シュミット・ピーターソン・モータースポーツ 7 110 0
5 ライアン・ハンター=レイ アンドレッティ・オートスポート 6 110 1
18 ロバート・ウィッケンズ シュミット・ピーターソン・モータースポーツ 1 108 69
21 ジョーダン・キング エド・カーペンター・レーシング 4 107 5
LL:ラップリード

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