詩人が批評家となるとき、あるいは跳躍のないジョセフ・ニューガーデン

Photo by: Matt Fraver

【2018.6.24】
インディカー・シリーズ第10戦 コーラーGP(ロード・アメリカ)

長い円弧で形作られるコーナーを、断続的にステアリングを切り込んで細かな多角形の軌跡へと書き換えながら通過していく。それとも柔らかい曲線を一本の直線によって切り取り自分だけの空間を作り出す。かと思えばまったく逆に、直線的な軌道を円く変換して穏やかに存在を主張もしよう。ジョセフ・ニューガーデンをつぶさに見つめていてそうした上質の場面に出くわすと、ふと詩的な興趣を掻き立てられることがある。詩を認めたくなるというのではなく(残念ながらわたしにはその才がまったく備わっていない)、彼の動きそのものが詩と同種の情動を引き起こしながら迫ってくると感じられるのである。詩が、一回きりの時間と場所に生成された言葉を連ねて、現象を写し取るのではなく現象と意識の間に生じる齟齬を軽やかに飛び越えるように、ニューガーデンの運動もまた、かそけく立ち現れては消えていきながら、現実と隔たった情念へと跳躍していく。

だから彼のレースはしばしば、ただそれだけで美しい。長く続けているとつい同じ内容を何度も書いてしまうのだが、それでも繰り返さずにはいられないものだ。まだ期待の若手に過ぎなかった4年前、ミッドオハイオの68周目に見たカルーセルでの鋭利なコーナリング。弧状に回り込みながら、思いもつかない瞬間に突然その軌道を直線へと置き換えるアラバマのターン14で順位を奪ったのは一度や二度ではない。奔放な速さで一切の外連味を感じさせずリードを広げ続けたアイオワを思い出すこともできる。昨年のミッドオハイオではひらがなの丸みを思わせるしなやかなブレーキングとライン取りでウィル・パワーを抜き去り、ゲートウェイでは超高速のオーバルレースであってさえチームメイトのシモン・パジェノーとの接触をいとわない攻撃性を発揮し、最後のソノマで選手権の立場を考えればまったく必要のない先頭争いへと飛び込んでいった。冗長や過剰、あるいは緊張と弛緩との往復によって、世界をふたたび表現しなおす営み。詩が言葉の弾力でそうする代わりに、ニューガーデンはレーシングカーの機動でそれをなし、世界にありのままではない芸術としての解釈を与えている。わたしにとって、彼の優れたレースとはつねにそうした詩性を纏うものにちがいないのだった。

一瞬の詩的な運動で物語を紡ぐ才覚は、どういう経緯か彼を主人公に制作された絵本 Josef, The Indy Car Driver(Chris Workman, Apex Legends, 2016. Apex Legendsはモータースポーツをテーマにした絵本を刊行しており、NASCARで通算5勝を上げているカイル・ラーソンが主人公の Kyle Loves Racing という本もある)にもよく表現されている。絵本では、まさに今回レースが行われたのとおなじロード・アメリカに臨む週末、パドックで子供の訪問を受けた「ジョセフ」が、11歳でこの競技に興味を抱き、モーター付きスクーターに親しんで育った少年期からカートを経てインディ・ライツ王者となるまでの経歴と、車のセッティングやコース攻略についてひとしきり語ったあと、いよいよ舞台を戦いの場へと移す。ジョセフは予選で苦しんで9番手にとどまり、優勝するためにはたくさんの車を抜かなくてはならなくなった(”Josef will need to pass a lot of cars in the race!”)が、チームと協力して日曜朝の練習走行で好適なセッティングを見つけ出し自信を持ってスタート・コマンドの時を迎える(”Gentlemen, start your engines!”)。1周目にスピンした22号車――シモン・パジェノーであろう――をすんでのところで回避し、数周のうちに6位へと浮上したジョセフだったが、ピットストップに際して順位を落としてしまい(このあたりの経過はどうも現実味がありすぎるようだ)、レースが半分をすぎてもまだ6位を走っている。だが激しくプッシュを続ける彼はまず5番手のグレアム・レイホールらしき相手を攻略すると、続いてプッシュ・トゥ・パスを使いながらターン1での鋭いブレーキングでトニー・カナーンと思しき10号車を交わす。ハリー・ダウンズを抜けてターン9〜10のカルーセルから11のキンク・コーナーに至る区間で輝くのは、まさにニューガーデンそのものだ。粘る相手を振り切り、そして4番手に浮上したところで、どう見てもミカイル・アレシンともう1台が大きな事故を起こしてフルコース・コーションが導入され、前との差が詰まることになる(こんなふうにいちいち芸の細かい描写が続くのがこの本の魅力と言えよう)。ジョセフはリスタートでかろうじて順位を守り、エリオ・カストロネベス的な3号車、ポールシッターだったいかにもウィル・パワーの12号車を次々に抜き去って2番手で最終周回に入った。激しい攻撃。ターン1での攻撃こそ防がれたものの、ターン5できっとスコット・ディクソンに違いない9号車の背後につけると一気に坂を駆け上がり、とうとうターン6、彼を訪ねてきた子供たちの目の前で厳しいパッシングを成功させ(”Josef is inches away from his opponent through Turn 5. Then he swerves inside as they climb the hill and makes a tough pass into Turn 6!”)、大逆転優勝を飾ったのである。

予選から決勝にかけてのパフォーマンスの向上、幾度かの追い抜き、コーションによるやり直しと勢力図の変転――インディカーにおいてこうした展開は物語でしか作られないような独創的なものではなく、最終周での逆転という脚色はともかくとしてむしろ典型的な様態のひとつですらあろう。ただ、そんないかにもインディカーらしさが溢れるレースで主役を演じのにふさわしいドライバーがだれかといえば、なるほどジョセフ、すなわちニューガーデン以外にはいないように思える。同書が上梓されたのは2016年、チーム・ペンスキーに移籍してくる以前の、もちろんまだ優勝経験も多くはないころなのだが、今となってはそこに描かれたような象徴的な逆転劇を積み重ねてきたドライバーこそがニューガーデンだったとわかるだろう。これがパワーなら軽やかにポール・ポジションを奪って何事もなく逃げ切る姿をまず思い浮かべてしまうだろうし、ディクソンの目に見えぬ強さを絵本に描くのはどうも悩ましい。そうではなく、典型的なレースを象徴的な運動によって装飾すること。”push-to-pass” を操り、”at the last possible moment” なブレーキングでライバルを制圧し、”refuse to give up” の精神で戦い抜いて最後には逆転する。美しい、詩的な運動。多分に偶然の成り行きに違いないとはいえ、結果としてニューガーデンはまさしく「The Indy Car Driver」ジョセフのありかたを貫いてきたのだった。

思い込みとは厄介なもので、何度も繰り返されて象徴化されたことによって、わたしは気づけばニューガーデンの強さを詩性にばかり見出すようになっていたようだ。いつだって一瞬に消えゆく儚い戦いを好み、それを時には綱渡りの危うさで制してチェッカー・フラッグまで辿り着く。一貫した論理性を超越する刹那的な芸術への志向。説明不可能な機動。ジョセフ・ニューガーデンに観客=読者の思惑を飛び越えながら言葉を紡ぐような瞬間を知っているから、知りたいと思っているから、そうすることが彼の唯一なしうるレースだと信じ切っていたのだ。だが、このロード・アメリカは絵本とはまるでちがって、詩的な趣の見られないきわめて硬質な展開となり、そして彼はそんなレースを一貫性をもって制してしまったのである。ポール・ポジションから危なげなくターン1を制し、正しい時期に3度のピットストップを行い、速さに任せるのではなく堅実に先頭を守る……もちろんそれが簡単な仕事でなく、本人からチームに至るまでの努力が実を結んだ結果なのだとわかったうえで、それでもあえて雑な言い方をすれば、この日ニューガーデンがやったことはこれだけだ。いつ以来になるのか、コーションは一度たりとて導入されず、他者の振る舞いによって運命が変わることもなかった。ラップリードは、ディクソンがわずかに作戦を工夫したことで譲った2周を除くすべてだ。彼が優勝したのは、1周目から最終周まで、何にも翻弄されず結末に向かって論理を積み上げていく、まるでF1のようなレースだった。

ニューガーデンの一貫性は、2位を走り続けたライアン・ハンター=レイを、来る周も来る周もまったくおなじように退けつづけたことが何より物語っている。2本の長い直線を2つの直角コーナーで結ぶターン5まではハンター=レイが速く、2人の差は0.5秒まで詰まるが、絵本でカナーンを追い詰めたカルーセルからキンクまで、コーナーが続く間に安全なリードを確保する。全開区間で差が詰まり、低速区間で広がる。ストレートを駆け抜けるうちに距離が近づき、コーナーを立ち上がると遠ざかる。近づく、遠ざかる、縮まる、広がる。詰める、離す。そのやり取りが55周にわたって、本当に違わず繰り返されたのだ。ハンター・レイがニューガーデンにもっとも近づいたのは28周目の0.4188秒差、逆にニューガーデンがもっともハンター・レイを遠ざけたのは、大勢の決した最終周を除けば43周目の2.2248秒差で、しかも2秒以上離れたのはこの周だけである。2人は100分もの時間、交錯することも決別することもなく、わずか1.5秒の時間で相対し続けていた。

その100分はニューガーデンにとって溢れ出る詩性を表現する芸術の「瞬間」ではなく、現実と直面しながら「全体」を捕まえ続けなければならない時間だったように、わたしには思える。美的な運動を横に置き、サーキットに合理的な一本の線を描いていく振る舞い。現実を跳躍するのではなく、現実を正しく観察して記述する批評家のような態度。彼はその立場を完璧にこなし、そして勝利した。それはわたしにしてみれば、新しい一面の発見だった。優れた詩人は、その観察力によって優れた批評家にもなりうる。このロード・アメリカでニューガーデンが証明したのは、まだ表れていなかった後者の才能にほかならなかったのである。

KOHLER GRAND PRIX 2018.6.24 Road America

      Grid Laps LL
1 ジョセフ・ニューガーデン チーム・ペンスキー 1 55 53
2 ライアン・ハンター=レイ アンドレッティ・オートスポート 3 55 0
3 スコット・ディクソン チップ・ガナッシ・レーシング 8 55 2
4 佐藤琢磨 レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング 7 55 0
5 ロバート・ウィッケンズ シュミット・ピーターソン・モータースポーツ 5 55 0
LL:ラップリード

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