佐藤琢磨はまだ優れた一面を隠している

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【2018.9.2】
インディカー・シリーズ第16戦 グランプリ・オブ・ポートランド

 
 最初のグリーン・フラッグが振られてまだ20秒しか経たないターン3で、ザック・ヴィーチの内を突こうとしたジェームズ・ヒンチクリフが行き場を失って縁石に乗り上げ、相手のサイドポンツーンを押し出すように衝突したかと思うと、後輪が着地と同時に流れはじめて修正もむなしくスピンしたのだった。スタート直後で後方の隊列は密集しており、すぐ後ろを走っていたジャック・ハーヴィーは回転するヒンチクリフにフロントウイングを壊されながらも左側のグラベルに退避することによってかろうじて難を逃れたのだが、さらにその直後にいて視線を遮られていたエド・ジョーンズにとってはそれが仇となった、ハーヴィーへの追突を避けようと右に進路をとったところ、目の前に横を向いて止まったヒンチクリフが立ちはだかっていて、すべての逃げ場を失ってもはやどうすることもできなかったのだ。混乱を間近で目撃したマルコ・アンドレッティは右にコーナリングしながらも即座に減速を試みたものの、不幸にもその優れた反応がグレアム・レイホールの追突を惹起してしまい、車体の左後方を押されてやはりスピンするしかなかった。180度回ったところでリアのグリップが回復したマルコの車は急に回転を緩めてまっすぐ後退をはじめ、事故で止まりかけた車に乗り上げて、ジョーンズの、ついでヒンチクリフのオンボードカメラをもぎ取りながら頭上を跳ねるように乗り越えていったのち、支えを失って逆さ向きに落下する。ちょうどそのとき、事故をすり抜けていったハーヴィーが巻き上げた砂煙で視界はまったく利かず、ヘリコプターからのカメラではマルコをスピンさせたレイホールもまたなすすべなくコースを外れタイヤバリアに車体の左側を激しくぶつける様子がわずかに覗く、と同時に混沌の中心、一瞬にしてスクラップ置き場のようになってしまった事故現場の中心に向かって、僅差で選手権の首位をゆくスコット・ディクソンが、急ブレーキをかけて姿勢を乱しながら、進路を選べずに突入していくのが目に飛び込んで、この波瀾がレースにとどまらず拡がっていく可能性を思わせる。事故の起こる少し前、密集の中で行き場を失ったサンチノ・フェルッチと佐藤琢磨、それからトニー・カナーンがターン1を通過せずに短絡してターン3の手前で合流している、彼らは正当でないやり方で順位を上げる利益を得たようにも見えたが、事故のためにすぐさまフルコース・コーションが導入されたので有耶無耶になるかもしれない。11年ぶりに開催されたポートランドはこうして黄旗とともに始まった、そして結局、このなりゆきがチェッカー・フラッグに至るまで影響を及ぼし、結果を左右するようなことにもなったのだ。

 舞い上がった砂塵が落ち着いてみると、ディクソンはスクラップ置き場のちょうど空白に車を止めており、大破したレイホールの車にわずかばかりフロントウイングをぶつけはしていたものの、信じがたいことにそのほかはまったく無傷だったうえエンジンも止まっておらず、駐車場の混雑を避ける程度のことといったばかりに自力で後退して切り返すとコースに戻っていった。そして無事に復帰できたことは、レースを戦ううえでの作戦的な中心を彼がまだ担っている事実を意味した。ポートランドが始まる前、ゴールまで走り切るのに必要な給油は3回と紹介されていたが、計算上はどうやら燃料を徹底的に節約することで2回給油も成立しうる距離で、最初のコーションはその実現を大きく後押しするようだった。車の損傷を確認するため必然的にピットへ戻らなければならないディクソンは窮地を逆手に取って燃料を継ぎ足して隊列の最後尾に戻り、燃料の余裕をもつことで実質的な2ストップ作戦を採用するはずだった。それはしばしば感嘆とともに「気がつけばディクソン」と形容されるほど彼の得意とする奇襲なのだが、すでに最初の状況が掻き乱された後となっては奇襲どころかむしろ正当な作戦とさえ考えられたのである。正しい選択は一定ではない、彼がいま選手権の首位を固めているのはまさにその揺れ動く正解を掴む力が優れているからにほかならないのだ。ディクソンにかかれば、事故に巻き込まれたこと、不利な状況に追い込まれたことさえ武器となりうる。開幕戦のセント・ピーターズバーグ、あるいは6月のテキサス、またあるいはロード・アメリカ。われわれは何度となく、死角から突然に視野へと飛び込んでくる、それどころか視野から外れたまま上位に顔を覗かせる彼に狼狽する。何度も繰り返されるそういう展開を予想できないわけがないのに、首位争いに目を奪われている隙を突いていつの間にかそこにいる彼に、やはりうろたえてしまうのである。

 つまりディクソンがレースの主流から外れたそのときから、しかしじつのところその動きこそが展開の中心に位置するねじれが起こる。たとえ彼自身に意図はなく、そうせざるをえなかっただけだとしても、正しさがひとりでに彼のもとで輪郭を描きはじめ、レースのありかたを反転させる――場合がある。彼自身にかぎらずその反転に乗ることができるなら、想像以上に大きな果実を手に入れることもあるだろう。ディクソンと同様に、最初のコーションを利用して燃料を継ぎ足し、そのわずかな余剰分を生かしてゴールまで戦おうとするのは、まったく正当なやりかただった、レースはすでに反転していることが明らかに見て取れた。事故の後片付けが済んでレースが7周目に再開されたとき、給油作戦を選んだ16番手以降のドライバーたちこそが実際はもっとも優勝に近いところを走っているに違いなかった。そして、その集団の先頭を走っていたのが佐藤だったのだ。最初のターン1を短絡しながら混乱に乗じて抜け目なく利益を手に入れ、1周目を15位で帰ってきた佐藤は、前方の集団がステイアウトを判断する中、ピットストップを行う決断を下している。順位を失う可能性を甘受するかわりに、確実で安全な「2+1ストップ」を行い、燃料の心配をせず安定したペースで最後まで走る権利を手に入れた。それは微妙な給油タイミングの機微を要求されそうなレースにおいて、なにより重要な権利なのだった。

 最終的な結果から逆算するのみならず、あの瞬間の状況だけから判断して、最初のコーションで給油をおこなうことが――たとえタンクに継ぎ足せる燃料がほんの2〜3周ぶんにすぎないとしても――有効なのは間違いなかったはずだ。だからピットが開放されると同時に生き残った23台が全員給油へと向かったとしてもけっして不自然ではない状況だった。だがたとえ利があると頭ではわかっていたところで、いま現在の場所を放棄する選択肢にあえて飛び込むのは心理的に難しい。上位なら上位であるほど、失う順位の大きさに束縛されてしまう。その意味で佐藤が給油に向かうことにもまだリスクはあった。15番手は何か変化を求めるべき順位であるとはいっても、それでもピットに入れば最後尾まで落ちて困難な追い上げを強いられるかもしれなかったのだ。後続がほとんど彼に連れて給油へと向かったために16位でリスタートを迎えることができたのは結果に過ぎない。佐藤はそうしたリスクを受け入れる決断を下した。ディクソンを中心に反転しようとしていたレースにあって、それはきっと正しい判断に違いなかった。

「気がつけばディクソン」と人は言う。そうであるように、レースがリスタートを迎えてから佐藤が何か特徴的な動きをしていたわけではない。もとより燃費に気を使わなければならなかったこともあって、ひたすら流れに身を任せて走り続けている。テレビ中継にとくに映し出されることもなかった第1スティントのラップチャートは象徴的だ。コース上でだれを抜き去るわけでもなく、淡々と、だれかがピットに入るたびに順位が自然と上がる、そんな周回をひたすら繰り返している。たとえば13周目にピエトロ・フィッティパルディがピットストップをおこなって、15位になる。16周目にカルロス・ムニョスが退いたために14位に上がる、あるいはハーヴィーの代わりに13位へ。佐藤の前にはずっとカナーンが、カナーンがどいた後はフェルッチが走っていて、その構図はまったく変わることがない。だがそんなふうに自分のペースを丁寧に守っているうちに、全員の給油がひととおり終わった37周目、佐藤は「気がつけば」2位までになっている(もちろんディクソンも5番手にいる)。だれを抜くでもなく表彰台圏内に浮上できたこと、佐藤にとってこの日もっとも重要だったのはその一事だったといえるだろう。タイミングはまるで異なるが、この時点で残りの給油回数は全員が2回で揃っている。つまり37周目の順位はそのまま最終順位を決める大枠の基準になりえたのだ。そう、レースは反転している。わたしが佐藤が表彰台に登ることを確信し、Twitterに投稿したのはこのころだ。まだ全体の3分の1しか過ぎていない段階だったが、佐藤はすでに表彰台、あるいは優勝をも争う現実的な勢力のひとつとして、するりとレースに顔を出し始めたのである。

 幸運といえば幸運、インディカーにとっては起こることが当たり前の偶然もあった。40周目に2度目の給油を行った佐藤はふたたび15位に戻っていたのだったが、直後の42周目にウィル・パワーがターン11のタイヤバリアに突き刺さる事故を起こし、この日2度目のコーションが導入される。これに伴って7台がピットへと戻ったために佐藤はあっという間に10位に上がり、やはりだれを抜くでもなく10周ばかり走っているなりゆきのうちに6位になると、1秒前を走っていたヴィーチがスピンを喫してみたびコーションとなった。それでライアン・ハンター=レイを除いた上位がごっそりピットに入ることを選び、まったく労せずしてふたたび2位へと戻ったのである(ディクソンは途中でドライブスルー・ペナルティを受けたにもかかわらず4位を走っている、つまり何が有効な作戦だったかは明らかなレースだった)。37周目の時点ではまだぼんやりとした輪郭だったが、今度こそ確実な、確定的とすら言える2位。最初の決断が、すべての流れを引き寄せていたのだった。

 レースは相変わらずなりゆきで進んでいった。純粋な2ストップを志向したハンター=レイが、最後まで燃料が持つかどうか際どいタイミングの71周目にピットへもどり、20番手スタートの佐藤は1台も自力で抜くことなくとうとうラップリーダーにまで上り詰める。唯一なりゆきを超えた勝負どころがあったとしたら、ここからの数周だっただろう。燃料を持たせるために飛ばせないハンター=レイに対し、佐藤はけっして優勢な車とはいえないながらもスパートをかけ、1周60秒を切るタイムを連発する。車の軽さを生かしてギャップを作り、あとからピットに入って逆転する、彼はかつてF1を走っていたころに花盛りだった作戦を確実に遂行し、そしてそれはなった。75周目にフェルッチがコース上でスローダウンしてしまい、全車がコーションの危機に慌ててピットへと戻ってすべての状況が整ったとき、先頭を走っていたのはレース前には想像もしなかった佐藤琢磨だったのである。それから最後まで、なすべきことは単純だった。車の素性で言えばハンター=レイに分があったが、燃料に数周ぶんの余裕があり、オーバーブースト使用時間もじゅうぶんに残していた佐藤は、この日ずっとそうだったように、まるでなりゆきまかせに、しかし丁寧に繊細に、チェッカー・フラッグに向けてレースを閉じていったのだった。

 不思議な優勝だった、といえばそうだろう。佐藤のキャッチフレーズである ”No Attack, No Chance” とはまるで正反対の、まったくアタックを要しない静かな一日だった。20番グリッドからの優勝といえば派手な大逆転を想像もするが、実際はラップチャートを見る限り、彼はコース上でただの1台も攻略していないのである。初優勝のロングビーチのような圧倒的でドライバーを孤独にするレースでも、インディ500のような数年越しの物語の集大成となる情熱的な激闘の末の勝利でもなく、観客としてみれば、ただ105周を走っているうちにいつの間にか先頭に立っている、まさに「気がつけば」勝っていたような茫洋としたチェッカー・フラッグとしかいいようがなかった。評してしまえば、淡々として控えめな、全体としてはきっと人々の印象にさほど残らない優勝だったにちがいない。だがそれは、最終的に5位に入って失いかけた選手権首位を逆に強固にしてみせたディクソンがしばしば見せる、状況に対応し、正しい判断を下し、臨機応変に戦えるものだけが手にできる困難な勝利でもあった。何より驚くべきは、インディカーで2番目に年長であり、一般的には現役の終わりが見えているはずの41歳が、過去と違う一面を見せて勝利したことにある。

 昨年インディ500に優勝したとき、わたしはそれをF1以来彼のさまよってきた旅の終着駅としてひとつの文章とした。その気持ちにはいまもさほど変化はない。あのインディ500は佐藤琢磨というドライバーの集大成であり、すべてが満たされた今となっては、その後のレース人生になにも起こらなくとも構わないのだと。だがポートランドの慎ましい逆転劇を見ると、そんな感傷に満ちた浅はかさな見立てをしたことを恥じなくてはならないと思えてくる。人はいつだって豹変する。失望にあふれても、それが報われる日を迎えても、まだその人のすべてが完結するわけではない。キャリアが続くかぎり、佐藤琢磨はまだ残された新たな面を見せようとするのだろう。そういえば、あとはショートオーバルを制すればインディカーで行われるすべての種類のレースを優勝することになる。
 
 

GRAND PRIX OF PORTLAND
2018.9.2 Portland International Raceway

      Grid Laps LL
1 佐藤琢磨 レイホール・レターマン・ラ二ガン・レーシング 20 105 25
2 ライアン・ハンター=レイ アンドレッティ・オートスポート 5 105 19
3 セバスチャン・ブルデー デイル・コイン・レーシング 4 105 0
4 スペンサー・ピゴット エド・カーペンター・レーシング 17 105 0
5 スコット・ディクソン チップ・ガナッシ・レーシング 11 105 0
           
8 アレキサンダー・ロッシ アンドレッティ・オートスポート 3 105 32
10 ジョセフ・ニューガーデン チーム・ペンスキー 2 105 8
18  マックス・チルトン カーリン 15 105 10
21 ウィル・パワー チーム・ペンスキー 1 98 11
LL:ラップリード

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