フェルナンド・アロンソの瞬間を見つめるとき

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【2011.7.10】
F1世界選手権第9戦 イギリスGP
 
 
 シルバーストンの28周目、レッドブルのピットクルーがセバスチャン・ベッテルのタイヤ交換作業に手間取り、同時にピットインしていたフェルナンド・アロンソは労せずしてレースのリーダーとなった。ベッテルは11.4秒もの長い静止を余儀なくされて、ペースのよくないルイス・ハミルトンの後方でコースに戻ることになる。全体52周のレースにあって、結末はこの瞬間に決まったようなものだっただろう。

 トップに立ったアロンソは、アウトラップでこそタイヤの温まりに苦労したものの、すぐさまペースを上げて後続を突き放しにかかる。29周目1:37.069、30周目1:36.803、31周目1:36.122、32周目1:35.769のラップ推移は直後のハミルトンよりも1周当たり2秒近く速く、最後のストップまでに12秒の差がついて、今季苦しみ抜いたアロンソの初勝利は揺るぎないものとなった。

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 テレビの前にじっと座っていた2時間を「つまらなかった」のひとことで葬るような真似をしないために必要な心構えを会得したのは、モータースポーツを見るようになって何年も経ってからだ。はっきりと自覚したのは今シーズンになってたわむれにドライバーの採点記事を挙げるようになってからだけれど、レースを見るコツのようなものを身に付けはじめたのは、たぶんフェラーリのミハエル・シューマッハが強すぎたためにともすると世界中のF1人気が下火になりかけていたころで、わたしはその反対を向くようにF1、ひいてはモータースポーツへの興味を深めていった。テクノロジーとか、政治的なスキャンダルとか、母国ドライバーの応援とか、F1に付随するテーマがいくらでもあるなかで、わたしの意識はつねにただサーキットにばかり向いていた。振り返るともうずいぶん週末のグランプリを見向きもしなくなるほど退屈だと思った記憶がない。昔のF1のほうがおもしろかったというありがちな決まり文句とも無縁で、すばらしいのはいつだって今だと思っている――すばらしいのはいつも「今」なのだ。モータースポーツの熱量は結局のところ「今」の問題としてしか語りえないという思想を持つようになって、わたしのレースに対する態度は決定的になった。

 たいていのプロスポーツがそうであるように、F1の営為もまたシーズン単位の「全体」として理解されている。各グランプリでの順位によってポイントが付与され、その累積によってドライバー/コンストラクターのチャンピオンシップが争われるという構造をF1は持ち、われわれファンはその推移を開幕戦から最終戦にわたって見守ることで、だれが最速のドライバーであるかに想いを馳せるわけだ。プロ野球の順位を毎朝気にしてしまうような付き合い方は、F1に対するときでも十分に健全に思える。
 そしてF1がつまらなくなったという表明があるとき、その意見はどうやらそんな全体の印象についてであるということが多いようだ。パッシングの少ないレース全体であったり、ひとりのドライバーが独走するシーズン全体であったり、そういう場合に退屈という評価が出てくることがままある。2000年代初頭はその代表だろう。

 全体こそがF1の営みのすべてだというのなら、そういうときに退屈の印象を抱くというのも頷けないこともない。事実シューマッハがありとあらゆるサーキットを無遠慮に制し続けた2000年以降にF1の人気は低下し、あるいは少なくとも低下することが危惧されて、チャンピオンシップへの興味をなるべく長く繋ぎとめるために優勝の価値を大きく下げる形でポイントシステムが変更された(そして俗な対応だとして変更自体にブーイングを浴びせられた)。

 たまたまこれを書いているタイミングで『Rocket Motor Blog』「2011年イギリスGP感想」を読んだら、折よく「エンディングが予想できてしまうと、ストーリーはとたんに面白くなくなってしまう。[…]つまらないストーリーは、観客や視聴者の関心を失ってしまう」という記述が目に止まった。それはたしかに当然のことだ。だれが年間を通してもっとも優れたドライバーかの争いに興味を惹かれるのは自然な感情で、だからその行方が概ね決してしまったあとに関心を失うのもわかる。だが、そんな競技者と同一の視線からあえて背を向けてみよう。モータースポーツの全体を構成するものはいったい何であろうか? 部分の集合はかならずしも全体を表現しないが、部分を積み重ねなくては全体が現れることもない。ドライバーはチャンピオンシップのためにレースを戦い、レースをより上位で終えるためにラップを刻み、速いラップをたたき出すために一瞬一瞬コーナーへと飛びこんでいく。結局レースとはその積み重ね——選手権への意思が表出する一瞬の積み重ねだけでしか構成されないものだ。その意味でドライバーの意思は、ブレーキングからターンイン、クリッピングポイントをかすめてスロットルをオンするその運動、モータースポーツを微分した結果得られる瞬間にこそもっとも激しい情動として立ち現れる。それはレースの間に何度も現れては消えてしまう、「今」としてしか受け止められないシーンだ。全体の利害を越えてそれを捉える愉楽を得られるのは観客の特権であり、わたしはそれを最大限称揚することでレースから退屈を追い出したいと思っている。

 今シーズンここまでアップしてきた採点記事をお読みくださっているかたは、わたしの贔屓にしているドライバーがフェルナンド・アロンソであることをすぐ理解されるだろう。あらためて読み返し見ると「美しいターンイン」(ヨーロッパGP)に「偉大なドライバー」(モナコGP・トルコGP)、「F1の教本に載せるべき」「現役最強ドライバー」(スペインGP)など自分でもやり過ぎと思うくらいこれでもかと賛辞を並べているが、パドックでは王様のように振る舞い、わがまま放題というこのスペインの英雄をわたしが愛するのは、彼がコース上においてもっとも瞬間の魅力を表現してくれるドライバーだからだ。

 昨年のアブダビGP、アロンソは失意の日曜を過ごした。拙速なピットインの判断でヴィタリー・ペトロフの直後7番手のポジションに嵌り、4位以上という決して難しくなかったはずのミッションに失敗した結果、ほぼ手中にしていたはずのワールドチャンピオンを失ったのだ。あのレースは、ひとつにはベッテルの嗚咽交じりの無線に、もうひとつにはアロンソのドライブによってこそ印象づけられた。最終盤にターン18のブレーキングで派手にタイヤをロックさせてコースオフしたシーンだ。もはやすべてが手遅れになってしまったあとに見えた彼の失望、焦燥、怒り、悲しみ……ただのミスドライブではない、感情が凝縮されたあのコースオフに、フェルナンド・アロンソというドライバーの姿が現れたのだった。

 レース中に「顔が見える」ドライバーはそう多くはない。それが見えるのが優れたドライバーというのがわたしなりの感覚でもあり、アロンソのドライブはいつだって彼特有の表情に溢れている。今季のフェラーリは苦境に陥り、彼自身も苦しい週末を過ごすことが多かったが、それでも自分が「偉大」で、「現役最強」のドライバーであることを、思いどおり走らないフェラーリ150°イタリアを通して何度も何度も訴えかけていた。

 たとえそれがわずかなレギュレーション変更の狭間に起きた幸運だとしても、彼のドライブはきっと報われなければならないのだ。シルバーストンの中盤、勝機が訪れたと見るやアロンソは愛馬に鞭打って敢然とスパートに入る。その決然たる彼の意思を垣間見た瞬間、2011年イギリスGPは忘れられないレースとなった。そう、すばらしいのはいつだって、切り取られた「今」としてしか語れない一瞬だ。31周目、旧ホームストレートからコプスに飛びこむアロンソの切れ味は、この日曜にだれも追随できないほど清冽なものだった。

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