見損ない続けるわたしたちの視線によって、レースは生まれる

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【2020.7.17-18】
インディカー・シリーズ第5−6戦

アイオワ・インディカー250s(アイオワ・スピードウェイ)

日曜日に行われたアイオワ250のレース2を、200周以上にわたってリードしたジョセフ・ニューガーデンが圧勝しようとしているころ、中継するGAORAの実況陣がその戦いぶりを絶賛している。昔は躍起になって走っていたのが今は落ち着きを得て、忠実に任務をこなすようになったといった内容で、ここ数年最大の敵として彼の前に立ちはだかり続けるスコット・ディクソンの姿を見て学んだようだ、と話は締めくくられるのだった。ニューガーデンはそれからゴールまで危なげなく数秒の差を保ったまま逃げ切り、遅まきながら2020年の初優勝を上げた。

 しかしその見解は、テレビの前に座っている自分とやや異なっている。ドライバーの性質を一言で言い表せるものではないが、それでもディクソンについて語ろうとすると、強かさやレース運びの巧みさ、展開を読む力といった運転以外の要素がずいぶんと前面に出てくるようではある。それらの特長が際立ちすぎていて、純粋な「運転手」としてのディクソンの姿はいつも霧の向こうに隠れて見定められないほどだ。一方でニューガーデンはどうだろう。なるほどベテランの域に差しかかかって逞しくなったようにも感じるが、このアイオワがまさにそうであったように、中心にある本質はどこまでも車を操作する技術、根源的な速さだと思われてならない。ともに優れたドライバーだとしても、やはりふたりの土台は異なるはずだ。もしニューガーデンがディクソンのように振る舞えるのであれば、チャンピオンを獲得した昨年の後半にあれほど苦しむことはなかったのではないかと。

 iPhoneに手を伸ばし、そんなツイートをしながら考える。この見解の相違はどこから生まれるのだろう。単純に、一方が正しく他方が誤っているだけのことだろうか。もちろん話しているのはレーシングドライバーとプロのアナウンサーで、こちらは一介の視聴者にすぎないのだから、そうだとしたらずいぶんと分の悪い勝負だ。とはいえ自分も、とくにニューガーデンについては見続けてきたつもりではある。自分を甘やかして、仮に「どちらも正しい」としてみよう。ならばそこにあるのは見解の相違ではなく、もっと根源的な、レースへの眼差しそのものといったことなのではないか。つまりどう考えるかではなく、何を見ているのかという選択。そう思いついたとき、前日のレース1の最終スティントが記憶に蘇る。土曜日にも、レースをつかもうとする場所が、テレビの内と外では違っていたのだった。(↓)

 

いまひとつ噛み合わないレースが続いていたニューガーデンは得意のアイオワで躍動し、ようやく今季初優勝を上げた

 

***

 わたしたちはいつも、あまねく場面を見損なっている。レースはその構造的な営みの大きさによって、どんな人間にもすべてを一望させることを許さない。観客からすれば、サーキットの一席から見える風景などごく一部で、ほとんどの出来事は最初から視界の外にある。ならばとテレビに目を向けてみても、画面に映るのは複数のカメラが捉えた映像のうち、たったひとつ恣意的に選ばれた人為的な局面でしかない。中継のディレクションは任意の場面を強制的にレースの中心へと据えようとするが、その瞬間、他の場所で行われている戦いは、どんなに感動的な美しさを伴っていようとも、計算高い冷静な作戦が遂行されていようとも、選択的に捨象されて観客の受容から失われる。せいぜい、リプレイという名の手遅れの偽善で慰めるだけだ。さらにまた、そうやって映像を選びうるディレクターでさえ、カメラの死角で行われた運動を手に入れられはしない。たとえば2016年アラバマGP最終周のターン14で、ニューガーデンがウィル・パワーから空間を奪い取った魔法のようなコーナリングを目撃したテレビカメラは存在しない――唯一、パワーの車に搭載された後方車載映像がその瞬間を事後的に伝えたにすぎなかった。それだけでなく、いま現に映しているカメラにさえ死角はある。パワーの車載カメラはまさにニューガーデンが飛び込んでくる瞬間を見つめたが、相手が車1台分しかないイン側の窮屈なラインでどのように車を制御して並走し、カメラの持ち主の前に出たのか、運動の一部始終は画角の外で行われている。回転式の車載カメラがニューガーデンに追従しようとしたとき、順位はすっかり入れ替わった後だった。パッシングの経緯は見損なわれたのだ。

  ある一点の場所を見るとき、ほかの場所は視野から、意識から外れる。レースの規模の大きさは、その「一点」を相対的にきわめて狭い空間へと閉じ込め、膨大な死角を作り出す。観客でなくともそうだろう。レースエンジニアに状況のすべてを把握する手立てはなく、自分の担当ドライバーに焦点を合わせるとき、コースの反対側に意識は及ばない。だからこそ時に作戦は失敗する。コクピットに収まるドライバー自身は、おそらく自分の周囲についてはだれよりも知悉しているに違いないが、そこでの局所的な解像度の高さは、外界のなにもかもを知りえない視座と引き換えに獲得したものでもある。高所に位置してコースの全体を見渡すオーバルレースのスポッターも、担当車から目を離して自由な広さを手に入れられたりはしない。あるいはすべてを司る責務を担う審判でさえ、モニタに映らない動きには目をつぶるほかない。われわれはみな、必ず、レースを見ることに失敗し続ける。

  一方で、これらの失敗は唯一性へと反転される。つまりわたし(レースを見る主体がそれぞれ自身を指す「わたし」)は、レースのあらゆる場面を見損なう夥しい失敗を対価として、目の前の場面たったひとつだけを発見する成功を手に入れる。そして当然に、わたしの視線と、わたし以外のだれか(あなた)の視線はけっして一致しない。だからこのとき、あなたはわたしが目にした場面を見損なっている。たとえばドライバーをはじめとした競技者は彼ら自身のレースに焦点を当てている。ニューガーデンとパワーは、各々の運転席からいつも違うものを見る。観客席の特定の一席からコースを見つめる角度と視野はそこに座りえた観客だけの体験だろうし、中心に見据えるものもそれぞれに変わる(私=匿名的な主体の「わたし」ではなく、いまこれを書き綴っている「この私」がインディアナポリス500マイルを「ノースウエスト・ビスタ/区画1/S列13番」の席から観戦した2015年、56回目のインディ500なのと誇らしげな笑顔で話していた隣の女性は、レースが行われている間じゅうずっと、出場者を一覧できるスポッター・ガイドの載った新聞を片手にライアン・ブリスコーを探していた。彼女にとっては200回も自分の前を通ってくれるブリスコーがすべてだったのだ)。ディレクションによってすでに選ばれ固定された映像に対してさえ、そこから受け取る意識は変わりうる。だからわたしの成功は同時にあなたの失敗であり、またあなたの成功は必ずわたしの失敗であって両者は交換されない。わたしが見たもの、あなたが見たものとは、すなわちわたしだけが知る、あなただけが知る唯一の場面にほかならない。

 土曜日のアイオワ・レース1で、「私」はある時間帯に、ほとんどオリバー・アスキューだけを見つめている。例年、燃料が尽きるより早くタイヤの性能低下を迎えるアイオワは、今年もスティントの前半と後半で車の速さがまるで異なる難解なレースを展開していた。たとえば6番手からスタートを切った佐藤琢磨は、最初のタイヤに早々に見切りをつけて誰よりもはやく46周目に最初のピットストップを行ったおかげでペースを急激に良化させ、70周目まで走り続けたニューガーデンを始めとする先頭集団を逆転してレース中盤をリーダーとして過ごした。もちろん1周の短いショートオーバルレースにおいてそれはフルコース・コーションのリスクを背負う作戦で、事実佐藤は先頭に立つほんの3周前の68周目まで周回遅れの立場にいたのだった。その間にどこかで事故が起これば目論見は潰え、レースをリードするどころか順位を大きく落としかねない状況だったが、不運を免れて作戦を成功させたわけだ。本来ならできるかぎりピットストップを引き延ばすのが有効なオーバルで、しかしアイオワはリスクを受け入れる覚悟に価値を与えていた。それほどに新しいタイヤの優位は明白だった。一例を挙げると、ニューガーデンは最初のピットストップ前後でラップタイムを2秒も向上させている。燃料による重量の違いを考えれば、タイヤの差はそれ以上の計算だ。たとえ90周分の燃料を積めたとしても、その長い距離を走る間に失う時間は、場合によってはピットストップ1回分の損失より大きくなりかねなかった。

 そうした前提の下で、アスキューの、正確にはパト・オワードも含めたアロー・マクラーレンSPの特異な動きに自然と注目される。佐藤の1回目の成功を追従するように、123周目と121周目に周囲より早いタイヤ交換を決意した彼らはやはり速いペースを手に入れ、すぐさまリードラップに戻ったために144周目からのコーションにも嵌らず1-2態勢――オワードが先頭でアスキューが2番手の順――を確保した。そこから、レースは少しおかしな方向に捩れた。157周目に切られるはずだったリスタートが急遽取りやめになり、エンジニアからの無線連絡が遅れて加速を始めたコルトン・ハータが前の車に乗り上げて宙を舞う事故が発生したからだ。リスタートは思いがけず171周目まで延期され、コーションまでピット作業を引っ張っていたほとんどの車は、燃料だけを考慮すればゴールまで辿り着ける状況になった。大多数にとって、最後まで走りきるならタイヤの劣化と付き合わなければならない展開になった、という意味でもあった。(↓)

 

144周目のコーションの原因は、ピットから出たばかりのウィル・パワー(奥)の左前輪が走行中に脱落したことだった。今季のペンスキーのピットはしばしば危なっかしい場面が覗く

 

リスタートのキャンセルに気づかなかったハータ(左)がリナス・ヴィーケイに乗り上げて空を飛ぶ。幸い2人とも大きな怪我はなかった

 

 アスキューとオワード(少し遅れた佐藤もそうだった)は、どうあがいてもあと1度の給油を必要としている。もちろん給油の際には必ずタイヤも交換される。つまり彼らは、周回遅れを伴う多大な損失と、速いタイヤを履ける有利を引き換える取引をすることになる。だからこそ190周目にオワードが、次いで192周目にアスキューが最後のピットストップを終えたとき、私はその成り行きを注視せざるをえない。チェッカー・フラッグまでは60周ほどを残しているころだ。新品タイヤも劣化すれば優位の幅は減り、物理的に前の車を追い抜くのも簡単ではないが、平均的なスティント1回分に相当する60周の猶予は、ピットストップで失った時間を十分に取り戻させるのではないかと思わせた。まして、万が一にでもステイアウト組のタイヤがゴール間近になってから完全に寿命を迎えて交換を余儀なくされれば、優勝はあっさりと彼らの下に転がり込む結果になる。だとすればこのとき、レースの渦の中心にいるのは、最後尾スタートから我慢強い作戦の完遂でとうとう先頭に立ち、ペース悪化に耐えながらゴールを目指そうとするシモン・パジェノーではなく、アロー・マクラーレンの2台であるはずだった。私はそう見定めたのだ。

 私はアスキューやオワードを見つめている。当然、私以外のあなたはそうではないし、そうである必要もない。少なくともテレビ中継するGAORAの実況席は、ふたりに対して無関心のようだった。興味はどうやらパジェノーの奮戦や、想定以上に長くなった最終スティントでドライバーたちがいかにタイヤをうまく使うかに向いていて、アロー・マクラーレンにはほぼ言及がなかったと言っていい。だから私と実況席はおなじ画面を見ながら視線はすでにずれている。私が見ているものを、彼らは見ていない。それは彼らが迂闊なのではまったくなく、私が愚かしいのでもなく(その可能性はあるかもしれない)、ただただそのとき選んだ視座の違いでしかない。実況が着々とゴールに向かって進む隊列の様子を伝えているころ、私は画面の中に橙色の車を探し求め、タイム表示を睨んでばかりで先頭争いに目もくれずにいる。佐藤を追いかけていた誰かもいただろう。たとえばテクストに対してそうでありうるようにみながおなじ文字/場面を見て解釈を違えるのではなく、広大なサーキットで、事実見えているものが違うのだ。それらの視線はけっして共有されず、わたしたち自身だけの発見として孤立したままでいる。

 アスキューの走りはすばらしかった。オワードがピットストップをする直前にターン4の広いラインから鋭くターン1でインを差し、一気に突き放したときからすでに速さはあったようだ。チームメイトから2周遅れて192周目にタイヤ交換を終えると、12位まで落ちたアスキューは当然1周遅れで、6番手のマーカス・エリクソンの後ろあたりに戻っている。画面に映らないその姿を、私は探そうと試みる。ライブタイミングによれば、196周目に19.9138秒を記録した。同じ周のパジェノーよりも0.5秒以上速い。それから先、変わらず20秒台後半を保つリーダーに対して、周回遅れの新人はずっと20秒台前半、時には19秒台で追い上げる。オワードはペースがさほど上がらず、どうやら少しずつ離れていく。見るべきはアスキューだけになった。ピットで失った時間を考え、ラップタイム差と残り周回数を掛け合わせてみる。58周×0.5秒強。単純な計算だけなら30秒以上が縮まる。ピットでは35秒ほどの余分な時間がかかったはずだ。かろうじて均衡は取れている――と私は考える。(↓)

 

新品タイヤを履いたアスキューは、2周遅れ近い差をコース上で取り戻す困難な使命に挑んだ

 

 やがて、なかなか映らなかったアスキューが、画面が切り替わった不意の瞬間、先頭争いに割り込んできていた。もちろん1周少ない状態で、しかし気づくとパジェノー、アレキサンダー・ロッシ、スコット・ディクソンが連なる隊列の真後ろに張りついているのだ。ややあって214周目のターン4で、よく似た色合いのディクソンに外から並び、駆け引きも気迫も必要とせずにただ純粋な速度差で抜き去っていく。それからほんの1周で、ロッシも手もなくひねられる。おそらくロッシの目に、アスキューは脅威と映らない。タイヤの履歴が違う周回遅れが少しばかり調子よく走っているから、余計な抵抗はせずに安全に行かせてしまおうという程度にしか考えていない――そんなふうに、レースの現在を見ているかもしれない。そこから数周のうちにロッシのペースは急激に落ち込み、ディクソンが簡単に2位を奪った。ロッシがせわしなくステアリングを操作する車載映像が長く映し出されるあいだにレースは残り30周を迎える、と同時に、「-1」で固定され動かなかったパジェノーとアスキューの差が「-21.058」へと切り替わる。周回差ではなくタイム差の表示は、おなじ周回を走っている状況を意味する。アスキューは画面の外でパジェノーを抜いたのだった。28周かけて15秒差を縮め、リードラップを取り戻した。58周のうち半分弱の距離を費やして半分弱の時間を埋めた、つまりまだ均衡は保たれているが、やはり中継はそのことに触れずにいる。

 画面の左で刻々と変化するようになったタイム差の表示は、そのまま私の緊迫感だった。集団をかきわけるアスキューのペースも鈍っていて、ニューガーデンを抜きながら18.8秒差を18.0秒にするのに5周を要した。残り距離が減っていくにもかかわらず、またしても渋滞に捕まる。エリクソンとコナー・デイリーを抜くあいだにまた19秒差に広がり、しかし直後にパジェノーが周回遅れの隊列に抑えられて、瞬く間に13.5秒まで接近する。ただそのころにはもうフィニッシュまで15周となり、天秤はパジェノーへと大きく傾いてアスキューの勝機は遠くに霞みつつあった。純粋なラップタイムだけならアスキューのほうがまだ1秒近く速かったものの、そのペースを維持するにはコースが少しばかり混みすぎているようで、追いつく計算はもう立てられなかった。結局、アスキューは残り10周でふたたび、今度は同一周回のロッシを完全に攻略して3位に浮上し、58周にわたった偉大な冒険を終えることになる。勝者から7.2128秒遅れた表彰台は現実的な優勝争いと呼ぶにはたしかに足りなかったが、2周近い遅れからリードラップへ復帰し、推定28秒の時間を削り取った20分弱の緊張は、届かなかったその7秒の余韻のうちにほどかれて満足感だけを残した――これが私の見た、私の視線だけが捉えたアイオワ・レース1のすべてだった。

 アスキューが4番手から3番手に上がったころ、実況が表彰台の顔ぶれがひとつ変わったことを告げたのだった。そこで私と彼らの見ているものにはようやく少し重なりが生まれるが、もちろんこの新人が速さだけを頼みに50周以上かけて先頭から10秒差まで追い上げてきた運動への歎賞はもはや共有されえない。私が発見に成功した場面のひとつひとつについて、実況席は失敗した後なのだから。しかし一方で、私はずっとパジェノーを見ることに失敗しているのだ。宵闇の照明に映える蛍光黄色の車がいかにして巧みに先頭を保ち続け、最終スティントだけで最多ラップリードさえ獲得してみせたのか、優勝したにもかかわらず、静かにして驚嘆すべき戦いは私の視野の端であやふやに漂うだけだった。2位と0.4954秒差のチェッカー・フラッグという僅差の戦いにさえ感じるところは何もなく、結果を記したPDFを眺めてようやく気づいたほどだ。カメラが控えめに喜ぶパジェノーのピットクルーを捉えるなか、映らなかったアスキューがフィニッシュした瞬間、画面端に「3RD OLIVER ASKEW」の文字と顔写真が表示されただけの瞬間についたため息の深さは、いまだに思い出せるというのに。(↓)

 

アスキューは最後の57周をだれよりも速く走り抜けた

 

 わたしたちは失敗し続ける。パジェノーについて話す実況はアスキューを語る言葉を失い、同様にアスキューを探す私はパジェノーについて書くすべを持てはしない。首位を独走するニューガーデンから掬い上げる性質は、彼の何を見ているかによってようやく定まる。彼らと私の見ているものが違ったように、わたしの視線はあなたの視線とずれたまま一致しない。レースは必ず、見る者の選択によって見られ、また見損なわれる。レースを見るとはつまり、他のだれでもないわたしの経験、ほかのだれもが失敗しわたしだけが成功した発見を得ることなのだ。わたしはアスキューを、あなたはパジェノーを。またあなたは佐藤琢磨を。あの女性はブリスコーのインディ500の200周を。たとえばターン1の攻防を、ターン9での事故の兆候を。時宜にかなったスパートを。プッシュ・トゥ・パスを使う高鳴りを、ブレーキングで姿勢を乱す緊張を、右前輪担当のピットクルーがホイールナットをはめるのに手間取ったときのわずかな焦燥を。そしてニューガーデンの落ち着いた強さを、ニューガーデンの純粋な速さを。だれかが見損なった瞬間を、わたしだけが見つめている。

 そのように、わたしたち――競技者、運営者、観客、視聴者、レースをいま見る数多のわたしのひとりひとり――が膨大な失敗と引き換えにひとつの場面だけを発見できるのは、レースがけっして一望しえない規模を持っているからだった。そこに、すべてを観察する特権的独裁者の目は存在しない。それは裏を返せば、レースという営為が一体の巨大な構造ではなく、だれとも共有されない視線を注ぐ孤独なわたしたちに目撃されたユニークな瞬間の集合でしかありえないことを意味しよう。アスキューばかりを見ていた私がパジェノーを気にかけていなかったように、わたしが見つけたわたしだけの場面は、中心が色濃く端に行けば行くほど薄くあやふやになってしまう。だがそこに実況が放つパジェノーへの語りが重ね合わされるとき、このアイオワは突如としてよりはっきりした輪郭を描くようになる。もちろんここにはだれかの発見もまた重なる。そうやって、あらゆる「わたしだけの発見」が重層的に折り重なってゆく先に、一望できないレースはとうとう鮮明に完成されて世界に現れるのではないか。アイオワの週末で私と実況の視線はずっと外れ続けた。だかその隔たりはきっと、レースを文字どおり形作るうえで欠かせない、もっとも必要な他者との出会いだった。そう、いつだってわたしとあなたの見ているものは違っている。しかし/そして、だからこそレースはここに生まれるのだ。■

アイオワ・スピードウェイを見つめる無名のファンの視線もまた、レースを形作る唯一の要素にほかならない

Photos by:
Joe Skibinski (2, 3, 5, 7)
Chris Jones (1)
Chris Owens (4, 6)

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  1. ピンバック: もう泣かなくたっていいだろう | under green flag | port F

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