【2014.5.25】
インディカー・シリーズ第5戦 第98回インディアナポリス500マイル
先ごろ引退したダリオ・フランキッティはもちろんのこと、エリオ・カストロネベス、スコット・ディクソンやサム・ホーニッシュJr.、そして今は亡きダン・ウェルドンに昨年新しく加わったトニー・カナーンと、近年のインディアナポリス500優勝者の名前を眺めているとあたかもレース自体が自律的な意思を持ってビクトリー・レーンに足を踏み入れるべきドライバーを選びとっているような錯覚に襲われる。歓喜の輪の中で牛乳を口にする資格を、ドライバーが勝ち取るのではなくレースのほうが与えているように思えてならないということである。ただ伝統があるからというだけにとどまらず、その結末がどことなく予定的であり諦念に近い感情を生み出しながらもなにがしかの納得感と満足が広がってしまう、そんなふうに受け止められるレースはなかなか得難い。
それにしても錚々たる面々というほかない。上に挙げたドライバーはカストロネベス以外みなインディカー・シリーズのチャンピオン経験者で、その選手権獲得数を合計すると12にものぼる。ようするに2012年を除く21世紀のインディカー・チャンピオンのすべてだ。カストロネベスにしてもCART時代から通算して28勝、3回の年間2位を記録しており、シリーズ屈指のドライバーであることは論を俟たない。彼らにかんする記憶は、ほとんどそのままインディカー・シリーズの記憶に通ずるだろう。
牽強付会な記録の切り取り方ではあるものの、チャンピオン経験のある5人がみな選手権獲得後にインディ500を優勝したか、少なくともインディ500を優勝した年に選手権を制しているということは少しばかり興味深い。インディ500を勝つことが王者の器を証明するのではなく、王者であればこそインディ500を勝つ資格があると思わせんばかりの倒錯にこそこのレースの重さがあるといえばさすがに大仰かもしれないが、ブリックヤードの女神を口説き落とすために必要なステータスが生半可なものでないことはたしかなようである。たいていの神話の女神がそうであるように、彼女もわがままで夫にうるさいのだ。
女神の好みのタイプがはっきりしていることは、インディ500で敗れ去った、とくに最終ラップで運命を暗転させられたドライバーの数々が逆説的に証明していよう。2006年のマルコ・アンドレッティはインディ500に恵まれない一族の枷に縛られたように父マイケルともどもホーニッシュJr.の強襲に膝を屈し、2010年のマイク・コンウェイは(優勝争いをしていたわけではないが)ライアン・ハンター=レイのリアに乗り上げて宙を舞い、2011年のJ.R.ヒルデブランドは残りわずか500mまで先頭を走っていながら、あろうことか最後のターン4でセイファー・ウォールに吸い寄せられていった。ターン1でフランキッティのインを突いて一度はリーダーになりかけた佐藤琢磨が次の瞬間スピンしたのは2012年のことだ。
日本人にとっては残念なことに、フランキッティやディクソンとマルコや佐藤を比べれば、どちらがより「インディカーのドライバー」らしいかはおよそ尋ねるまでもないほど簡単に答えの出る、ほとんど愚問のような問いなのだろう。フランキッティたちが数々の栄光を戴いたチャンピオンだからというのではなく、彼らはある時期から自分自身の積み重ねた歴史によって、米国の郷愁という眼差しを受け止めるだけの振る舞いを手に入れたということだ。それは、前回書いたようにオーバルレースが少数派になってからF1を経てやってきた佐藤にとってすぐさま身につくものではない。佐藤が「らしく」あるには、才能よりも蓄積されたインディの密度が圧倒的に足りないのだ。あるいは偉大な祖父と父の血を継ぐマルコはこれ以上なく「らしい」のかもしれないが、しかしどうにも彼自身が自らの格を上げることができないでいる。ヒルデブランドは言うまでもない。あの瞬間、あの場所に周回遅れのチャーリー・キンボールさえいなければ彼は歴史のリストに名を連ねることができたはずなのに、インディアナポリスはそれを許さなかった。インディ500は格調高い「インディカーのドライバー」が大好きで、少しでも違うタイプにはそっぽを向いてしまう。それも、さんざん色目を使ったあげくのはてに、残酷なまでの失望を叩きつけて。
ロードコースを開放したことで「二重化」されたブリックヤードでエド・カーペンターがポール・ポジションを決めたとき、それはあまりに象徴的でできすぎた脚本に見えた。もちろん予感がなかったわけではない。単純に彼は昨年のポールシッターで、今年からはオーバルのスペシャリストとして参戦を継続するためにシーズンの3分の2を占めるロード/ストリートへの出走を諦めて、インディ500を含め年間たった6回のレースに賭ける覚悟を決めたドライバーである。自ら所有する20号車のシートをオーバルから引退したコンウェイと分け合い、今季初めてコクピットに収まった彼の意欲が並々ならぬものだったろうことを思えば、現象としての予選最速スピードはなんら不思議なことではないはずだった。
しかし、オーバルとロード/ストリートでシートを分けるというその参戦形態は、まさにその2種類のコースでレースを行うようになったインディアナポリス・モーター・スピードウェイやひいてはインディカーそのものの二重性をなぞるように表象してしまっているようでもある。コンウェイとカーペンター――イギリス人とアメリカ人、GP2を生き抜き、ル・マンでも活躍するドライバーとオーバルでしか生きられない男、そんなふうに正反対の要素を挙げることはできるが、ほとんど不倶戴天でさえありそうな彼らがおなじカーナンバー(なんとも悪い冗談のように、それは日本語で「にじゅう」と発音する)に同居できるほど二重化しながら精神の拠り所を見えにくくしているのが、いまのインディカーということなのだ。オーバルを走らないコンウェイにきっと米国の眼差しが向けられることはなく、カーペンターがシリーズを手に入れることもけっしてない。まして、ロードコースで行われたインディアナポリスGPでシモン・パジェノーがヨーロッパ的な才能を見せつけて優勝した2週間後のインディ500である。インディカーの精神からブリックヤードが剥離していくかのような状況、20年前とよく似た状況でカーペンターが手に入れたポール・ポジションは、もしかすると、今年のインディ500に調和的な勝者は現れないのではないかという予感を抱かせもした。
実際、149周目まではそうだったかもしれない。すべてのチームが必要なダウンフォースのレベルを読み違え、過剰なグリップで車を振り回すことができたことで、レースはまったくフルコース・コーションが出ないまま、しかし同時に周回遅れによって勝負権を失う車もないほどスピード差も現れずに進んでいた。インディ500にかぎらずオーバルレースが終盤の入り口までは遅い車や不運に見舞われたドライバーを篩いにかけて選り分けるための実質的な予選だとするなら、レース4分の3になってはじめてイエロー・フラッグが振られたとき、「決勝」には大量の車が残っていた。もしこのあたりで女神がちょっとした気まぐれを起こしていたら、思いもよらぬ勝者が現れた可能性はたしかにあった。クラッシュで飛び散ったターゲット・チップ・ガナッシの破片が不運にもフロアーに刺さらなかったら佐藤にチャンスがあったかもしれないし、ひとり異質の戦略で不気味な存在感を放っていたファン=パブロ・モントーヤがいつの間にか先頭に立つような展開もあったかもしれない。昨年ルーキーとして活躍したカルロス・ムニョスには今年も上位を窺えるだけのスピードがあり、マルコはさらに一回り速かった。
だが結局、レースはあるべき者のもとへ手繰り寄せられていくのだろう。167周目にスコット・ディクソンが単独スピンでセイファー・ウォールの餌食となり、そのコーションが明けた175周目に今度はジェームズ・ヒンチクリフとカーペンターがクラッシュしたことで、インディ500は燃費や効率や戦略を打ち捨てた、ただ純粋にゴールまで全開の速さを競う勝負となった。二重のカーナンバー20が消えたことで生まれた25周のスプリントは、というのは皮肉がすぎるものの、レースからは重層性が奪われ、水平の戦いへと押し拡げられていく。そして、そういうレースを戦うにふさわしいドライバーとして、ライアン・ハンター=レイとエリオ・カストロネベスだけに首位攻防が与えられ、われわれを誘っていったのだった。
決着はたぶん、ちょっとしたことである。速さだけ見ればわずかにハンター=レイが上回ったが、それでもお互い相手を突き放すだけのスピードは持てなかった。多すぎたダウンフォースは最後まで削りとれず、直線で逃げることが不可能ななか、ターン1ではそうなることが当たり前のようにオーバーテイクが繰り返されていた。だから、タイミングだけが明暗を分けたということにしてもいいだろう。カストロネベスは199周目のターン4を先頭で立ち上がったが、それはやはり早すぎた。後方から勢い良く迫るハンター=レイは200周目に入る手前でカストロネベスを抜き去り、ターン1を制する。その先を逃げ切ることはさほど困難ではなかったはずだ。それぞれに性質の違うインディアナポリス・モーター・スピードウェイのコーナーは、残り3つの間に次の機会を用意してはくれなかった。
インディ500の優勝者の名前を見ていると、レース自体が優勝すべきドライバーを選びとっているように錯覚してしまう。来年のインディ500の記事も、今日とおなじような書き出しで始められることだろう。少し粗雑で頼りなく感じるときもあった2012年のシリーズ・チャンピオンは0.06秒差でライバルを振り切った。ハンター=レイは自らの価値を証明し、21世紀のチャンピオンはこれでまた全員がインディ500優勝者のリストに名を連ねることになる。これこそインディカーらしい結末だったに違いない。二重の衣を剥ぎとってみることができるのであれば、ブリックヤードの女神は最後にやっぱりそういう男を祝福してしまうのだ。