おかえりダン・ウェルドン、たとえ嘘の物語としても

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【2016.5.29】
インディカー・シリーズ第6戦 第100回インディアナポリス500
 
 
 レースの正式名称は「The 100th Indianapolis 500 presented by PennGrade Motor Oil」である。つまりインディアナポリス500は100回目にしてはじめてその名にスポンサーの名前を冠することになったわけだが、1月21日にインディアナポリス・モーター・スピードウェイがツイッターの公式アカウントでこの「重大な発表」を行った直後から、そのツイートにはいくつかの批判が寄せられている。「なぜ100回目の象徴的なレースを売るような真似をするのか」「せめて101回まで待てなかったのか」……はては「守銭奴め!」まで。こうして可視化される反応は全体のごくごく一部であって全体に敷衍できるものではないと留保はつくものの、批判的(に見える――ひとこと「Why?」と書かれているツイートが意図するところは修辞疑問だと思われるがどうだろうか)ツイートが10に対して賛意を示す(といっても積極的にではなくモータースポーツの置かれている経済的状況を踏まえれば理解はできるという趣旨であった)ツイートがひとつしかなかったことからは、米国の人々の意識が垣間見えるようではある。インディ500はもちろんIMSが主催するIMSのレースだが、しかし同時に100回にわたって発展させてきた「われわれ」のものでもあって、断じて「だれか」のものではない。その名を金に換えて特定のだれかに与えるのは許される行為ではないのだと、勝手に忖度するとたとえばそういうことだったりするのだろう。

 さてそうした「精神の切り売り」がありつつも、幸いに史上初めて満員札止めになるなど大盛況で100回目を迎えたインディ500だが、テレビ中継で村田晴郎も言っていたとおり「100年目」ではない。1年1回の開催にもかかわらず回数と年数が一致しないのはもちろん戦争での中断があったからで、第1回から数えて100年目に当たるのは2011年である。5年前のインディ500を、近年稀に見る波乱に満ちたレースとして記憶している人も多いのではないか。チーム・ペンスキーのウィル・パワーが4戦中2勝を含む3度の表彰台と圧倒していた(それは春の風物詩となりつつあった)シーズン序盤から一転、この年はじめてのオーバルコースでポール・ポジションについたのがフル参戦1年目のサム・シュミット・モータースポーツを駆る37歳のアレックス・タグリアーニだったことからしてどことなく不穏な雰囲気は漂っていたわけだったが、特に最後の40周はだれに勝つ可能性が残っているのか見当もつかないほど激しく順位が入れ替わった。当時わたし自身が綴っていたところによれば、こうである。

力強かったロードコースとは打って変わってまるでいいところがなかったチーム・ペンスキーのライアン・ブリスコーと、予選の速さを決勝に持ち込めなかったサム・シュミット・モータースポーツのタウンゼント・ベルが交錯した結果のフルコース・コーションは、158周目というストラテジストに困難な決断を強いるタイミングで提示された。ダニカ・パトリックをはじめ数台がすぐさまピットへと入って燃料を満タンに積んだが、フューエルウィンドウ約35周のコースではよほどの幸運に恵まれないかぎり200周目まで走り切ることは困難に思えた。上位勢はステイアウトを選択し、チェッカーフラッグまでアンダーグリーンで戦われることを願った。そしてリーダーのダリオ・フランキッティとヒルデブランドは、少し我慢してコーションラップが終わる直前に給油を行って、トラックポジションを失う引き換えに最後まで走り切る権利を得た。
 ステイアウト組が178周目前後で次々にピットインし、最後のインディ500と噂されるパトリックが一度はトップに立つものの、189周目のピットインで万策尽きてチャンスを逸する。オーバル慣れしていないベルトラン・バゲットはスピードに賭けたが、さすがに空の燃料タンクのまま走ることはできなかった。労せずしてリーダーの座へと舞い戻りあとは走りきるだけとなったフランキッティの戦略に隙はないように見えたが、給油が完全ではなかったか、タイヤを交換しなかったことが影響したか、あるいはその複合なのか、1周ごとに5mphもラップの悪化するペースダウンを喫して、198周目、ついにヒルデブランドがトップに立つ。

 優勝候補が次々と脱落していくレースで、世界で唯一の特別な牛乳瓶を抱えて右往左往した牛乳配達人に伝えられた届け先は、最適な燃料戦略を探り当て、少々の幸運にも恵まれたジョン・ランドール――すなわち "J.R." ヒルデブランドに、どうやら決まったようだ。200周目の時点で2位との差は5秒以上に開いており、あとは最後のコントロールラインに向けてゆっくり帰ってくるだけだった。2年連続で2位に終わっていたパンサー・レーシングにも、ようやく歓喜の時が訪れようとしている。100年という区切りの年に新たなアメリカ人のヒーローが突如として現れ、次の100年への歴史を紡ぎはじめる、それは少しばかりできすぎていたかもしれないが、悪くない脚本であるようにも思えたのだった。

 あのときの嫌な予感――というのが大げさな後出しなら、事前に抱いたちょっとした違和感――を、わたしは5年経ったいまでも記憶の奥底から呼び戻して再生できる。モータースポーツを観戦したあらゆる経験の中であれほど予知的な直感が働いたことは後にも先にもない。レースの99.95%が過ぎて残るは0.3マイルほど、ヒルデブランドは最後のターン4へ進入しようとしていた。その様子をコーナーの中央辺りに設置されたテレビカメラが引き気味に捉えている。速度を上げられず苦しんでいたチャーリー・キンボールが近づいてきて、ヒルデブランドがゴールを待たず周回遅れにすべく悠然と走行ラインを車1台分外に向けたのが見えたとき、わたしの口から「あ」とも「お」ともつかない音声が漏れた。そのラインにはテレビ画面越しにも容易にわかるほどマーブルが真っ黒に積もっており、ヒルデブランドは車体の右半分をそこに載せた。そこにわたしは明白な危機を感じたのである。2台がホームストレートに向けて立ち上がっていき、カメラも追従する。次の瞬間だった。はたしてヒルデブランドの車はフロントタイヤの舵角にはっきりと逆らって直進し、セイファー・ウォールへと吸い込まれていく。車体の右半分は完全に潰れ、それでも残った慣性力を頼りに息も絶え絶えフィニッシュラインへと向かったが、その脇をカーナンバー98、ブライアン・ハータ・オートスポート・ウィズ・カーブ/アガジェニアンのダン・ウェルドンが軽やかに駆け抜けていった。たった一本しかない牛乳瓶の届く先は、最後の最後に、輝かしい未来の待つ若者ではなくレギュラーシートを失って不遇な時期を過ごす元チャンピオンという少し感傷を覚える相手へと変わったのだった。

 このインディ500は結果としてウェルドンが挙げた最後の勝利となった。あらゆる可能性が閉ざされた、文字どおりの最後である。2011年の彼にまつわる記憶は、どこまでいってもインディ500の奇跡と対をなす悲劇と組み合わさるしかない。最終戦となった――正確に書こう、あんなことが起こらなければ最終戦になるはずだった――10月、高速オーバルのラスベガスで、最後尾スタートから優勝した場合に多額の賞金を得られる「500万ドルチャレンジ」に挑んだウェルドンは、すぐ目の前で発生した多重事故を回避することができなかった。最初は2台の簡単な接触に過ぎなかったはずのその事故は後続を次々と巻き込み、群れに乗り上げて宙を舞ったウェルドンの車は観客席とコースを隔てるキャッチフェンスの固い支柱にコクピットの開口部から激突した。レースはすぐさま赤旗で中断され、そしてウェルドンが帰ってくることはなかった。

***

 人間はきっと、本来関係のない出来事どうしに特別な繋がりを見出し、物語として再構成する誘惑にいつも駆られている。たとえば100年目のインディ500と100回目のインディ500、などという書き方をすれば、両者があたかも運命的な繋がりで引き寄せられているように思えてきはしまいか。ふたつの間に偶然発した共通点を見つけ、どこまでも錯覚にすぎないにもかかわらず、それがさもそうなるべきだった必然のように語れてしまう。たとえ歴史に対する冒瀆に近い行為であったとしても、事実をただ記録するにとどまらず、その繋がりに物語を感じ取る。われわれは特権的な捏造によって物語を作る動物である。

 このブログでは意識してそんなふうに物語を作ってきたし、今回そうするのもさほど難しいことではない。そう、100年目のインディ500と100回目のインディ500は「そっくりな」レースになった。予想されなかったポール・ポジションを獲得したジェームズ・ヒンチクリフが所属するのはシュミット・ピーターソン・モータースポーツ――5年前のサム・シュミット・モータースポーツである。序盤から中盤にかけてはリーダーが適度に入れ替わり、残り50周あたりから徐々に戦いが激しくなっていった。そしてまたしても、ゴールまで燃料が足りるのかどうか、頭を悩ませる絶妙なタイミングの163周目にフルコース・コーションが導入されたわけである。

 5年前と少しだけ違っていたのはコーションのタイミングが5周遅かったことで、この差のためにステイアウトを選択するドライバーはほとんどおらず、ほぼ全員が給油のためにピットへと向かった。だが通常時に満タンで可能な走行距離は5年前と変わらず35周程度で、コーション・ラップを多少含むといっても37周を走りきるのはほとんど不可能なように思われたし、実際そうだった。191周目におそらく33人の中でもっとも燃料を節約する技術に長けているはずのスコット・ディクソンが早々に見切りをつけて給油へ向かうと、翌周その同僚のトニー・カナーンが、194周目にはオリオール・セルビアと、コーションラップが終わる166周目まで給油を我慢していたシモン・パジェノーまでもがピットインした。195周目に先頭を争っていたジョセフ・ニューガーデンとポールシッターのヒンチクリフ、次の周にはこの段階で大きなリードを築いて初のインディ500優勝へ向かっていたカルロス・ムニョス。エリオ・カストロネベスが197周目、そして198周目にセバスチャン・ブルデー……。みながみな脱落していく中、唯一アレクサンダー・ロッシだけが、よたよたと頼りなげな足取りでゴールへと向かっていた。

 おそらく、このレースで必要だったのはいつものレースとは異なる種類の勇気だったのだろう。ロッシは最後まで走り切った。200周目は179.784mphまで速度を落とし、それでも全力で追いかけてくるムニョスにとって何もかも手遅れだった。そこに幸運はあったのだろうか? 違う。ロッシは特別な作戦に賭けたわけではない。他のドライバーとおなじように163周目に給油を行い、他のドライバーとおなじように燃料の節約と順位争いを両立させて、ただ他のドライバーと違いゴールまで届くと信じただけだ。オーバルでの燃費走行で稼げる燃料などたかが知れているのだから、ロッシにできたことが他のドライバーにできなかったわけはない(というほどことは簡単ではなくて、ロッシにはチームメイトが引っ張ってくれる助けもあったわけだが)。きっとどの車も、信じて走ればゴールまで辿り着いたはずだったのだ。だが実際に信じきる勇気を持てたのはロッシしかいなかった。その勇気が彼に最初のチェッカー・フラッグを与えたのである。機会に恵まれずF1を去らざるをえなかった新人が手にしたインディカーの、もちろんインディ500の、感動的な初優勝だった。

 100年目と100回目。ふたつのインディ500はそっくりなレースだった。ポールシッターはおなじチームのドライバーで、最後の40周は燃料とスピードを天秤にかける緊張感溢れる展開が繰り広げられている。そして我慢を実らせた新人が先頭でゴールへと向かい……結末だけは異なっているが、それにはきっと理由があるのだと言ってみようか。ロッシがつけていたカーナンバーは98であり、そのチームはアンドレッティ・ハータ・オートスポート・ウィズ・カーブ/アガジェニアンである。言うまでもなく、100年目で奇跡的な逆転を遂げたウェルドンとおなじ番号、チームだった。

 もちろん、こんなことはたんなる偶然である。おなじチームであればカーナンバーが引き継がれるのは自然な成り行きだし、チーム自体も現状はアンドレッティ・オートスポートと提携していて単純に「おなじチーム」と扱っていいものではない。亡きウェルドンの魂がロッシの車を最後に押した、などと言ってみてもいいかもしれないが、そう思う信念は美しくとも、当然ながら物理的にはありえないことだ。だがまた、ひとつたしかなこととして、こんな展開でロッシが優勝する結末にならなければ、わたしはきっとウェルドンをいまこのときに思い出しはしなかった。彼の事故死が衝撃的な悲しい出来事だったことは間違いないが、冷静な現実として、それもひとつの思い出となって徐々に記憶から薄れていく自然の理がある。そんな忘れかけていたウェルドンが、偶然でしかない歴史の一致によって引き戻された。わたし自身が100にまつわるレースから物語を見出し、引き戻したのだ。100年目のインディ500と100回目のインディ500は、5年分の隔たりを解消するかのようにもつれ、ひとつに混じりあっていったように見える。そこにダン・ウェルドンがいたとしたなら、なんて感傷的で、なんて幸せだったのだろう。

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