選手権後のレースで、選手権にふさわしいアレックス・パロウを知る

【2023.9.10】
インディカー・シリーズ第17戦 ファイアストンGP・オブ・モントレー
(ウェザーテック・レースウェイ・ラグナ・セカ)

消化試合である。2023年のインディカーは、最終戦のラグナ・セカを待たずして選手権の行方が決定した。先の記事でも書いたとおり、2007年にチャンプカーでセバスチャン・ブルデーが達成して以来の、またインディカーの枠組みにかぎれば2005年のダン・ウェルドン以来の出来事ということだった。このブログもそれなりに長く続けてきたつもりだが、それでも最初の記事から数年遡らなければならない。異例といってよいだろう。ワンメイクのシャシー、チーム・ペンスキーとチップ・ガナッシ・レーシングの二大巨頭がずっと絶妙に均衡してきたこと、波瀾のレース展開をある程度許容する競技ルール、そしてもっとも大きな影響を及ぼすポイントシステム――4年前までそうだったように最終戦の得点が2倍に設定されていれば、ほとんど計算上の形式にすぎないとはいえ今季のチャンピオン決定も最後に持ち越されていた――。そうしたもろもろの要素が選手権を巧みにかき混ぜ、最終戦まで続く戦いを演出してきたのがインディカーだった。

 だがその伝統は、アレックス・パロウという図抜けた存在によってとうとう打ち破られたのだ。長くチームに君臨した同僚のスコット・ディクソンも、オーバルで特異な速さを発揮したジョセフ・ニューガーデンも、ところどころの細かい場面では確実にパロウを凌いだが、安定感を発揮しつつもけっして勝利への貪欲さを失わず、週末を見事にまとめあげるチャンピオンの一貫性にはほとんど太刀打ちできなかった。昨年のシリーズを制したウィル・パワーはすっかり輝きを失って17年ぶりに1勝もできないシーズンを送り、春先はずいぶん好調に見えたアロー・マクラーレンも、3人そろってだれも勝てずに終わった。アンドレッティ・オートスポート? カイル・カークウッドは2勝こそ上げたが一方で事故も多く、あとの2人はいつもつまらないことでレースを失っていた。コルトン・ハータのF1参戦の噂はどんどん現実味をなくしている(直近3年間のスーパーライセンスポイントはたったの10だ)。彼ら背後の集団が伸び悩んでいるうちに、パロウはラグナ・セカを前にして2位に91点差をつけてしまった。最終戦どころか2レースあってもまず逆転不可能な大差だ。紛うかたなき圧勝である。

 このブログでは何度も選手権とレースの関係について書いてきた。本来レースのありかたとは無関係な擬制のシステムでしかない選手権――というのは、選手権がなくてもレースは成立するが逆はありえないことや、まさに上述したようにポイントシステムの操作によって選手権の行方をある程度コントロールできることから明らかだろう――が、しかし後天的に設定されたシステマチックな栄誉によって、本能的な営みであったはずのレースそのものに影響を与えるようになる。レースのための選手権だったものが、選手権のためのレースへと逆流しはじめる。その反転はシーズンの後半、とりわけ帰趨が未決のまま行われてきた最終戦をさまざまな形で彩り、また逆に褪せさせてもきた。エリオ・カストロネベスやファン=パブロ・モントーヤの転落、ニューガーデンの奔放と別の年の苦悩、シモン・パジェノーの躍動。パワーの停滞。パロウの悠然さに深遠なるディクソン。夏から秋にかけて残されている彼らの記憶は、レースと選手権のあいだの共犯関係にも近いもたれあいのなかに呼び起こされる。

 決着した選手権から解放された最終戦のラグナ・セカは、より純粋なレースとしてそこに現れたと言っていいかもしれない。もはやサーキットの外に守らなければならない擬制の順位は存在せず、だれにとっても失うものはない、ただただ95周だけを戦うだけのレース。得点の計算など投げ捨て、優勝を願い、表彰台を狙い、それも遠ければ目の前の相手を倒すことに集中する。しばしば “damage limitation” と評される戦略的な賢い妥協などありえない。そのような状況の整ったレースに違いなかった。

 そうしたレースをわれわれは、インディカーはほとんど知らないできた。来季からの日程変更に伴い最終戦としての開催は一区切りとなる今回のラグナ・セカが、だからどんな展開になるかは想像できなかった。当然、目に見えて大きな変化が起こるはずがないことだけは予想された。選手権に影響される妥協的な、あるいは逆に蛮勇な振る舞いがありうるとしても、それだけにレースのすべてが規定されるわけではないのだから。ただ、小さな場面をひとつひとつ取り出したとき、純粋であるがゆえの屈託のない運動が現れる瞬間がどこかに見られるのではないか、そのように期待してもいいのではないかと考えていたのである。(↓)

パロウと選手権を争ったひとり、ジョセフ・ニューガーデン(右)は多重事故に巻き込まれ事実上戦線離脱。8周目には単独スピンを喫するなど散々な一日だった

 実際になにかが違ったかどうかわかるものではない。選手権を決定する最終戦と決定後の最終戦のふたつを同時に用意して並べることなどできはしないのだ。とはいえ、ひとつのレースとして振り返れば、このラグナ・セカはすこぶる楽しい展開だったと思う。少なくとも昨年の、チャンピオンのためにうまく妥協点を見つけてチェッカー・フラッグを受けたパワーと状況を覆そうと必死でもがくニューガーデンの対比が際立った最終戦に比べると、まるで趣が異なっているように感じられた。多くのドライバーが新しく舗装しなおされた路面の攻略に腐心していたせいもあったかもしれない。ただ車を速く走らせようと挑むこと。そこかしこに現れるグリップ感のない挙動は、その根源を露出させ、選手権の存在感をますます薄くしていった。

 パロウはこのレースの完全な主役だった。スタート直後の多重事故によるフルコース・コーションが明けてすぐ、ポールシッターのフェリックス・ローゼンクヴィストをコース外に押し出すようにして攻略したリスキーなパッシング、レースリーダーとなるやいなや後続を消し去り、十数周で10秒もの大差を築いていしまう力強さ。最初から最後までペースを失わない一貫性。それらはもちろん彼のチャンピオン獲得を支えたすばらしい特質そのものだが、選手権の後に現れたことによって、よりはっきりとした輪郭を形作った。

 そして、仮に選手権の文脈と結びつけば衝撃的でありえた急激な反転があった。レースを隅々まで支配し、誰をも寄せつけなかったパロウはしかし、フルコース・コーションの魔の手によって優勝を阻まれた。ピットウィンドウの最中、周囲に対して少しだけストップを引き延ばしていたそのわずか数十秒の狭間で事故が発生したのだ。それも2度。1度目はちょうどコース終盤を走っていて、黄旗が翻るほんの数秒前にピットレーンへと飛び込んで事なきを得たが、2度目はどうにもならないタイミングでコースに取り残され、再スタートのときには15位になっていた。数周前までリーダーだったにもかかわらずだ。(↓)

近年珍しい「即コーション」を呼び込んだマーカス・エリクソン(左)とローゼンクヴィストの事故。このときはパロウも難を逃れたが……

 これは今となっては珍しい事件である。通常はこういう状況ならピット進入までコーションの発令を猶予するレース・コントロールも、今回だけは即座に反応した。前者はエンジンストールした車両がターン1を塞いでいたためと想像される。後者はどうだろう、並んでターン3に進入した2台が接触し、揃ってグラベルに大きく飛び出したから、コースそのものは区間イエローだけで比較的安全に走れる状況だった。待つ余地はあったように感じる(後日、知人が「現地放送では「2台のコンタクトによる事故の場合、即座にコーションにする運用が通例」と言っていた」と教えてくれたのだが、得心するほどの説得力はなかった。そもそも拙い記憶によれば今回のようなコーションは数年ぶりで、判例が豊富というわけではないのだ)。すでに選手権後であることがレース・コントロールの判断に影響を及ぼしたとは、もちろん思わない。ただ、今までにないレースにおいて珍しい出来事が起こった奇妙な偶然に、これも純粋さを見出せるということである。もし激しい選手権争いのさなかにこうした決定のせいで結果がひっくり返っていたとしたら、スキャンダラスな事件としてその意味が話題になっただろう。そういう余地のない状況であったのは幸いだった。

 ともかくも自分の外部で起こった不運な出来事によってパロウは大きく順位を損ねた。だが、ほぼ手中に収めていた優勝を取り逃した事実は気の毒にしても、結果としてこの転落はパロウに対する感嘆をより深めたのではないか。58周目の絶望的なピットストップからゴールまで、まだ37周が残っている。普通のルーティンならもう1度給油が必要な周回数だ。だが窮地に追い込まれたパロウは燃料を節約しながら最後まで走り切ることを決断し、途中に挟まれた10周強のコーションに助けられたとはいえ見事に完遂した。後からピットストップを行って追い上げてきた10台ばかりのうち逆転を許したのはディクソンとスコット・マクロクリンの2台だけで、3位表彰台に踏みとどまったのである。確実だった優勝を失い、何位でフィニッシュしても、極論すればリタイアしても何かが変わるわけがない状況で発揮されたこの集中力はすばらしいものだった。レーシングドライバーとしての純粋なモチベーション。パロウの秘めるそれをはっきりと知れたのは、やはりこれが計算と無縁なレースだからだった。

 そう、だからこのラグナ・セカはすこぶる楽しいレースだったと思う。スピードを求め、目の前の相手を追い、ただただ上の順位に手を伸ばす。だれであれレーシングドライバーならいつでもそうなのかもしれないが、 “Points as they run” が意味を持たない今回は、とくにその純粋な本能を信じることができた。走ることの根源的な喜びに心を寄せられたのである。そのようなレースでパロウは躍動した。際どい運動、速さと強さ、繊細さ。飽くなき野望。それらのすべてを統合して、彼はそこにいた。この純粋なレースで、だれよりも純粋に優れていた。逆説的な締めくくりになるが、だからこそチャンピオンにふさわしかったのだろうと、そう思わずにいられない。このラグナ・セカはきっと、2023年のアレックス・パロウを復習するために付け加えられた消化試合だったのだ。■

2つのチャンピオンリングが輝く。マクラーレン経由でのF1参戦は諦めたと伝わっている

Photos by Penske Entertainment :
Chris Owens (1)
Joe Skibinski (2-4)

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