コルトン・ハータの成功とレースの失敗

【2024.3.10】
インディカー・シリーズ(非選手権) 100万ドルチャレンジ
(ザ・サーマル・クラブ)

ローリングスタートの直後からスピードがなく、見る間に集団から離れていくコルトン・ハータの姿を認めて、当然、なにか不運なトラブルに見舞われたのだと思った。インディカー・シリーズの一戦ではなく、総額100万ドルの賞金を懸けたエキシビションレースとして行われた「100万ドルチャレンジ」の「オールスターレース」前半――耳になじまない言い方だが、用語に忠実になろうとするとこう書くほかないのである――開始直後のことだ。10代のうちに初優勝を果たして将来を嘱望されたハータも、ここ2~3年はすっかり精細を欠いて、シリーズの主役から遠ざかっている。一時はF1さえ囁かれたにもかかわらず、現状はいささか寂しい。非選手権の花レースといっても、1周目からの唐突な失速は現状をよく表しているのかもしれないと感じたのである。

 ところがテレビ中継を介して伝えられる情報によると、低速走行は問題を抱えたゆえではなく、どうやら故意にそうしているらしいということだった。やがて、ハータの意図を察した前方のドライバーたち、アウグスティン・カナピーノだったり、ピエトロ・フィッティパルディだったりも徐々にラップタイムを落とすようになった。後述するイベントの形式を踏まえたとき、それは後方からスタートした彼らにとって最適な「戦略的」振る舞いだったのである。なるほどその作戦はたしかに冴えたやりかたではあったのだが、しかしそのせいで間延びしていく隊列を目の当たりにすると、観客にとってはどうしても競技の設計に失敗したと思わざるをえなくなる。興行的な成否は知らない。だが、ただ遅く走る動機を誘引するレースであったのはたしかだったようだ。

 そもそも補助的なイベントであった。元来この時期に行われていたテキサスでのオーバルレースが諸般の事情により開催を見送られ、開幕戦のセント・ピーターズバーグと第2戦のロングビーチのあいだに6週間の空白が生じることになったため、穴埋めのために設定されたものだったと伝えられている。会場のサーマルクラブは超高級会員制サーキットで(開催が報じられるまでまったく存在を知らなかった)、富豪たちが自分で走って楽しむためのコースだから観客席などなく、一般的な観戦にはまったく向かない。テレビ中継に目を転じても、番組を制作するNBCの放送枠は2時間半に固定されて動かせず、フルコース・コーションや赤旗による延長は許容できなかったという。かように何もかもが通常とは異なる環境で、シリーズ戦とはまったく異なる、「スプリント勝ち抜き」の形式が採られたわけである。すなわち、まず全27台を2つの組に分ける。各組では予選と10周(最長20分)の短いヒートレースを戦い、上位6名ずつが決勝ヒートに相当する「オールスターレース」に進出して最終順位を争うという塩梅だ。オールスターレースは20周。ただし単純な20周のレースではなく、給油のために10周で強制的に中断され、その時点の順位で隊列を整えて11周目から再スタートする。ただし中断中にタイヤ交換はできない。開催経緯も含めて、実験的な形式だったといえる。(↓)

 オールスターレースを半分に分けたのは燃費レースにしないための措置だったようだが、タイヤ交換の禁止とあいまって、結果的にこれがハータの試みにつながった。つまり、10周でレースがリセットされてタイム差が帳消しになるのがあらかじめわかっている以上、ペースを上げてタイヤを消耗する道理がないというわけである。前方からのスタートであればもちろん順位を守ることが優先もされようが、最下位の12番手からスタートするハータにとっては前についていく動機はなにもなかった。1周100秒強のコースだから、10秒落ちのラップタイムであれば中断まで周回遅れにならずに済む。現に、ハータのペースはずっと111秒前後で、計ったように――というより、実際計っていたのだろう――リーダーのアレックス・パロウから10秒前後遅いペースで走り続けた。最初から勝負を後半に見定めた一種のサボタージュであった。先述したとおりそのもくろみを察した周囲も、やがて順位が下のほうからハータに追随しはじめ、隊列がとんでもなく間延びしていったのだ。中断直前に表示されたタイム差は、リーダーのアレックス・パロウから見て2位のスコット・マクロクリンが1.7秒、3位とは4.1秒、4位と7.8秒、5位のジョセフ・ニューガーデンに対してはいきなり21.2秒も開き、1台挟んで7位に46.4秒差、9位のカナピーノは73.0秒、そしてトラブル車両を除く最後尾の10位で中断を迎える「首謀者」ハータは83.7秒遅れていたのである。ただでさえ1周が長いコースにと観客のいない殺風景が重なって、10台ばかりしかいない車がぽつぽつと走ってくるさまには寂しささえ見て取れた。少なくともレースの前半において、退屈な時間を生んでしまったのは明らかだった。

 競技者の立場にとってみれば、サボタージュ作戦はこのうえなく賢いものだったといえるだろう。事実後半の10周で、ハータはなんと4位にまで順位を上げ、じゅうぶんな成果とともにレースを締めくくった。表彰台との差は小さくなかったが、10位から6台を抜くことはさほど難しい課題ではなかったはずだ。作為的であったとはいえ、そのパッシングショーが冷え切った前半の熱量をようやく回復させたこともたしかではある。ただ、いかにも車が少なすぎるコース上に伏兵が多少の彩りを添える興趣があったのだとしても、やはりこのレースを肯定的に受け取るのは難しく思う。ハータ自身は完全に成功したし、賢いやりかただった。競技者の合理性に基づけば当然だ。追随した周囲も、見事な「反応」だったと言ってよいかもしれない。だが、ハータのように考え、その模倣をする競技者をも大量に生んでしまった結果については、やはりこのレースがレースという競技そのものに失敗したと思うほかないのである。ハータがやったことは、順位争いのせめぎあいのなかでタイヤをいたわり、燃料を節約し、ペースをコントロールするといった緊張感に溢れた均衡を探る運動ではなく、ただ「限りなく遅く走る」怠惰だった。極論すれば、レースカーを運転する資格のあるものならだれだってできる程度のことである。たとえ後半の追い上げとセットで評価すべきだとしても、その過程のありさまを正当化できるだろうか。繰り返すがハータが悪いのではない。ハータのやりかたを是とする動機を作ったレースの問題だ。

 もちろん、これは非選手権である。来年も同じ場所で同じように開催される可能性は高くないし、まして選手権の一戦としておなじ形式が採用されるわけでもないだろう(サーマルクラブで開催するなら少なくとも観客席の設置は必須だ)。実験的なレースで実験をしたら芳しくない結果が出たと、そう捉えておけばいいだろうか。どんなときでも、レースは競技者たちにできるかぎり速く走らせようとしなくてはならない。その原点に気づけたのだとしたら、これはこれでひとつの収穫ではあろう。■

All Photos by Penske Entertainment :
James Black

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