【2024.9.15】
インディカー・シリーズ第17戦
ビッグ・マシン・ミュージック・シティGP
(ナッシュヴィル・スピードウェイ)
わたしはこのブログで、ことあるごとに自分の選手権への無関心について書いてきた。選手権はレースそのものではない。レースは選手権がなくとも成立するが、翻って選手権はレースがそこで行われてはじめて生じる、仮構のシステムにすぎない。選手権のテーブルを計算するためにレースを見はじめてしまえば、レースで行われる運動を見失い、結果の数字だけを追い求めるようになるだろう。それではまったく本末転倒だ。もちろん、実際のチャンピオンの座が称賛されるべき栄誉であることに異論はない。だが、すべてはレースが前提にあり、選手権はレースに従属するという構図はつねに意識されなければならないと思うのである。
というわりに、とくに今季のインディカー・シリーズについて、わたし自身はしばしば選手権の動向を話の中心に据えてきた自覚がある。これに言い訳を施すとすれば、アレックス・パロウがつねに「幸運」といっていい――正確には、周りの不運というべきか――不思議なほどのなりゆきに守られて選手権の首位でありつづけた今季の状況が、パロウを追うウィル・パワーや、パト・オワードや、コルトン・ハータ、スコット・マクロクリンといったライバルたちのもどかしいレースぶりを語るのに適当な材料だったからだ。結果的に選手権の2位争いを繰り広げる形になった彼らは、ときに鮮やかな走りでパロウを追い上げ、かと思えば次のレースであっさりと壁の餌食となってリタイアした。自分の責任の場合もあれば、まったくの被害者である場合もあった。彼らが入れ代わり立ち代わり成功と失敗を繰り返したおかげで、パロウは思いがけず上位でフィニッシュする機会を増やし、そうして選手権の連覇に向けて少しずつ前進していった。今季のパロウにさして強い印象を受けなかった人がいたとしたら、それはまったく正しい。2024年の全日程が終わった今あえて数字を出すと、昨季の5勝に対して今季はわずか2勝。得点にかんしてはおなじ17戦で110点以上減らしている。最後に勝ったのは6月23日のラグナ・セカで、9戦も優勝から遠ざかるあいだに上記の4人は全員が2勝ずつを上げた。個々のレースをつぶさに見たとき、2024年のパロウはあきらかに最高のドライバーではなかった。それでもこんな結果になったのは、書いたとおり、その4人が勝利で得た以上のものを数回の手痛い失敗によって失ってきたからにほかならない。彼らのレースでの失敗はそのまま選手権への失敗に直結し、パロウの不可思議な首位とつねに対を成していた。乱高下する彼らの成績は選手権の状況によってはっきりと意味づけられていた。その関係を強く感じていたから、わたしはこの夏を選手権について語ろうとしていたのだった。
前回のミルウォーキーのあとに書いた文章を「(チーム・ペンスキーの)速さが最終戦でも発揮されるとすれば。パロウがいまの位置にいる理由が「流れ」ではなくいくばくかの偶然によるものとするなら、また別の偶然が、33点を小さな点差にするかもしれない」と結んだのは、まさに選手権とレースの関係を期待してだった。今季のなりゆきが生んだパロウ優位の状況と、選手権2位からの逆転を狙うパワーの単純な速さが反応すれば、最終戦は高い熱量が供給される激しいレースになるかもしれないと思ったのである。選手権に信じられている価値がレースに投影されて、ときに思いがけず印象的な場面が出現するのを何度も見てきた。仮構の選手権の結果そのものには無関心であっても、それが作り上げる運動を歓迎しない理由はない。33点差は現実に逆転可能性が高いとは言えないが、パワーが必死に追いすがり、反対にパロウが状況に追い詰められるような事態になれば、ナッシュヴィルの最終戦は美しい記憶を残してくれるはずだ。現に、スターティンググリッドはそうした可能性にある程度の現実感を持たせていた。予選15位に終わったパロウはさらにエンジン交換のペナルティによって24番手に後退し、一方のパワーが2列目4位からのグリッドを得たからだ。このままレースが終われば、パロウがかろうじて4点差で逃げ切れるという薄氷の舞台がたしかに準備されていた。(↓)
だが結局、選手権にかかわってすばらしいレースが展開するかもしれない期待はあっさりと崩れ去ってしまった。グリーン・フラッグから数周のうちに、新エンジンのパロウは17位にまで順位を戻し、逆にパワーはペースを上げられずに8位へと落ちた。それじたいは序盤の一幕に過ぎず、206周のレースの内に趨勢などどうとでも変わりえたはずだが、やがてパワーに前代未聞の問題が起こっていると知る。中継中に伝えられたところによると、信じがたいことに、シートベルトが緩んでまともに運転できないと無線で訴えているというのだった。些細な、しかし安全性に直結するこのトラブルによってパワーはたった12周目にピットに戻らざるをえなくなり、クルーがコクピットに腕を突っ込んで解決するまでに数分を要した。ようやくコースに戻ったときにはもう5周遅れで、もはや取り返す術はまったくなくなってしまったのである。パロウが窮地に陥ると、反射のようにライバルがそれ以上の危機に見舞われる。今季のインディカーで何度も見た構図は最終戦でも象徴的に現れ、パロウは最後まで守られるようにして、チェッカー・フラッグを迎えるはるか前に連覇を決めた。対して24位に終わったパワーは選手権も4位に落として終幕を迎える結果になる。パロウを追いかける筆頭のドライバーにかぎってなぜか失速して後退するのも、今季繰り返された展開だった。パロウが最後に勝ってポイントリーダーとなったラグナ・セカ以降、これで選手権の2位はじつに6回も入れ替わったのだ。本当に不思議な一年だった。
こうして、選手権の状況がレースになにがしかの興奮をもたらす可能性は失われた。だが最初に書いたとおり選手権はあくまでレースに従属する概念でしかない。選手権がなくとも、現にレースは目の前にある。選手権の文脈から解き放たれたナッシュヴィルが、今季のインディカーのなかでも出色の好レースの舞台となったといっても、さほど異論は出ないのではないだろうか。とくに、キャリアを通じてオーバルでの優勝がいまだないハータの運動は、過去の8勝と比べても圧巻だった。たとえば68周目のリスタートでデイヴィッド・マルーカスにインへと潜り込まれながら、4分の3周にわたって接触せんばかりのサイド・バイ・サイドで退け、勢いのままジョセフ・ニューガーデンへと襲いかかる。69周目のターン4でアンダーステアに見舞われながら彼らしい巧みなステアリングとスロットルの制御で正しい走行ラインへと立ち直り、ふたたびドラフティングを捕まえた場面には、オーバルの緊張感と解放が凝縮されていて、思わず息を凝らすほどだった。
ハータだけではない。すでにチャンピオンの可能性をなくしていたスコット・マクロクリンは、マーカス・エリクソンの懐をこじ開けるように飛び込んで強度の高いパッシングを成功させ、カイル・カークウッドは周回遅れのキフィー・シンプソンを外から交わそうとするリナス・ランクヴィストとは反対にコース内ぎりぎりのインに1台だけ空間があると見るや瞬時に入り込み、接触ものかは2台まとめて抜き去った。これもカークウッドらしい、リスクを厭わない――このリスク管理能力が上がれば、彼自身は一段上のキャリアに登れるだろうが――攻撃的な追い抜きである。旋回中にインから小突かれてもカウンターステアで耐えきったシンプソンも見事だった。ほぼ同時に、先のマクロクリン対エリクソンの攻防で、マクロクリンが相手の後輪にフロントウイングを引っ掛けていたリプレイが流される。直後にはサンティノ・フェルッチがカークウッドを追いかける構図ができあがり、2台同時にインへ動いてフェルッチがコース外に押し出されていた。ソフトタイヤをかならず使わなければならない特別ルールもあいまってか、最終戦の熱気に当てられて、だれもかれもが攻撃的になっているかのようだった。
136周目にエリクソンが単独で壁に擦ってコーションが導入されても、レースは落ち着きを見せなかった。ピットストップで順位を落としたハータが再開後すぐさまニューガーデンを攻略し、優勝争いに割って入ってきたデイヴィッド・マルーカスを攻め立てる。151周目、ハータは1台分の隙間しかないハイサイドからマルーカスを押し込め、続くフロントストレッチへの立ち上がりでラインを交錯させてインを選ぶと、ターン3の飛び込み一発で追い抜いてみせる。この日のハータは、外で耐えきる力と、内を回る回頭性と、直線の速さのすべてを持っていた。その後、作戦の分かれがレースの行方を難しくさせたが、ナッシュヴィルを地元とするハータのオーバル初優勝に手が届きかけていることは明らかだった。(↓)
そして、掉尾が訪れる。残り15周でハータはまだ5位を走っているが、給油を省略してゴールまで走ろうとする作戦を断念したカークウッドが土壇場でピットストップを行い、4位になった。残り10周。そこからの5分は、しかし彼のキャリアに永遠に刻まれる時間となっただろう。3位のオワードとともに、やはり燃費走行で粘ろうと奮闘するパロウを攻める。先行するオワードが、パロウのインに入ろうと動き、ハータの目の前を横切って針路をカットした。だがハータは瞬時にハイサイドへと切り替え、車速を保ちながらターン1へと進入していく。タイヤも限界に近いのかふらふらと姿勢が定まらないパロウの動きを冷静に確認するような操作で正しい場所に車を置き、その脇を駆け抜ける。目の前に周回遅れ。寸前でパロウのフロントよりも完全に前に出て優先権を取り、相手を押しのけるながらインへの針路を確保してパスした。ふたたびオワードのドラフティングに入り、次の周回遅れはまったく同時に片付けた。と、リーダーのマルーカスが燃料をもたせられずにピットへ入り、2人の攻防はそのまま優勝争いへと切り替わる。残り5周となった。ターン2で、2人の目の前に周回遅れのスティング・レイ・ロブが現れる。明らかなスピード差になすすべなく、インに張りついたままのロブに対して、オワードは外から交わすことを選んだ。
ぶつかった、と直感したのだ。当然の針路を選択したオワードに反して、後ろから追従するハータはなんと内へと進んだのである。ターン2の出口へ向けて、ロブはラインを保てず少しずつ外へと剥離していたが、それでもハータが入り込もうとする場所にはまだ1台分の空間は存在していなかった。ちょうど画面はこの争いを斜め前から捉えていて、その角度だと、ハータの前輪はロブの後輪に完全に隠れ、さらにインへ切り込むなどとうてい不可能に見えたのだった。あっ、とわたしは叫んだと思う。次の瞬間の破綻が、確実な予感となって押し寄せてきていた。ところが、あにはからんや、ハータはまるでロブの後輪を物理的にすり抜けたかのように空間を占拠し、抵抗の大きい旋回をしたにもかかわらず、すぐさまロブを、そして外を走っていたオワードをも、まとめて抜き去ったのである。
瞬間的な緊張によって硬直した体が、感嘆のため息とともにふっと解けた。こんな気持ちになったのは、今年のインディアナポリス500マイルの最終周以来だ。たしかに、車の状態だけならハータはオワードよりも優位な状況にあった。だが、あの一瞬の場面で必要なのは総合的な優位性ではなかった。あのとき現れたのは、速さ、技術、信念、勇気、信頼、どれが欠けてもけっして成立しない最高級のパッシングで、それをハータは完遂したのである。深く、印象的な一撃。この一撃でリーダーに戻ったハータはわずか4周で1.8秒まで差を拡げ、はじめてのオーバル優勝を地元で決めた。
モータースポーツにはこういう瞬間があるのだと、しみじみ思い知らされる。2時間にも及ぶ、ときには停滞する時間帯もあるレースの中で、不意に、記憶から消そうにも永遠に消えないような運動が一瞬だけ立ち上がるのである。ハータのパッシングはもちろん彼にとってすばらしい結果をもたらす過程だったが、過程としてではなくあの瞬間だけを切り取っても、数年後にふたたび語り尽くせるような鮮やかな場面だっただろう。記録だけではけっしてわからないそんな瞬間を知りたいから、わたしはきっとレースを見ている。2024年のインディカー王者がだれであったかはそのうち忘れてしまうかもしれない。だが運動の衝撃はけっして忘れない。選手権争いが早々に決着した最終戦は、しかし、だからこそレースの本質が選手権にないことを雄弁に語って幕を閉じたのである。◼️
Photos by Penske Entertainment :
Travis Hinkle (1)
James Black (3, 4)
Joe Skibinski (2)