【2019.4.7】
インディカー・シリーズ第3戦 ホンダ・インディGP・オブ・アラバマ
(バーバー・モータースポーツ・パーク)
このアラバマGPに関して、もちろん素晴らしい勝者について書くべきに違いないし、2017年のインディアナポリス500マイルの記事に届いた反応を思えば、そのほうがブログとしても望ましいのは理解している。レースで真に語られるにふさわしい対象が必ずしも先頭でゴールしたドライバーとは限らないが、実際のところ佐藤琢磨の走りはほとんど完璧で、どれだけ称賛してもしすぎるわけがなかった。ポール・ポジションと、90周のうち74周のラップリード。ファステストラップこそ他に譲ったものの、硬いプライマリータイヤでだれよりも安定的かつ高水準のラップタイムを連続し、2位の――10年間のアラバマでいよいよ6回目の2位だ――スコット・ディクソンをまったく寄せつけなかった。たとえば最初のピットストップの直前に残されたタイヤのグリップを完全に使い切って一気に差を広げたスパートはチームがタイヤ交換に手間取って失った5秒ばかりを補い、ピット出口で自らをディクソンの前に留めさせる大きな意義があった。そんなふうに速さを正しく使いわけられる日だった。終盤にターン7で飛び出して1.5秒を失ったのもすでに十分な差を築いた後になってからで、致命傷には至らず笑い話で済んだ――本人いわく、ちょっと攻めすぎちゃいましたといった程度の。いくつかの瑕疵を負いながらなお後続を2.38秒突き放したチェッカー・フラッグは、この日のアラバマがどう転んでも佐藤以外のだれも勝ちえなかったと推測させる。局所的に優れたドライバーは他にいたかもしれなかったが、25周前後にわたるスティントの最初から最後まで、まして90周の一貫性において及ぶ者はおよそ存在しなかった。彼の通算4勝目にまつわるこうした詳細を突き詰めていけば、きっと数少ない読者の希望に叶うだろう。(↓)
あるいはまた別の視点から、この美しい勝利の陰に「黄色」にまつわるインディカー・シリーズの変容を見るのも観客として採りうる態度と思われる。レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングのグレアム・レイホールが、どうやら序盤から抱えていた電気系の問題が顕在化して急に速度を落としたのはレースが57周目にさしかかっているときだった。最初のピットストップでも発進がうまくいかず大きく順位を落としていた佐藤の同僚は、ターン8の立ち上がりで動力を失うと、続く短い直線の急坂を惰性でおもむろに下りながらコース外へと退避しようとしたが、甲斐なく谷底で完全に止まってしまったのだ。それはきっと、すぐにでもフルコース・コーションを引き起こしうる事態だった。レースはすぐさまペースカーが先導する低速の隊列に束ねられ、ピットレーンは閉じられて進入を禁じられてしまうはずだ、そしてこんなときトラブルの萌芽を嗅ぎつけて黄旗が提示されるまでのわずかな隙間を縫って給油とタイヤ交換を済ませるチームがあったとすれば、彼らは望外の結果を手にするだろう。だとすれば順調に先頭を走っていたはずの佐藤は波瀾の渦になすすべなく呑まれ、数多のラップリードだけを徒花の最速の証明として敗れる。そこまでの結末さえ直感的に予想できたかもしれない。実際、レイホールがいままさに止まろうとしているさなか、ピットへと飛び込んできた車は何台かいた。折よくピットレーン入り口手前を走っていた彼らはとてもうまく事を運んで、逆転への切符を入手した――のではなかった。結果として、望みどおりにコーションとはならかったのである。
シリーズを継続的に観戦している人ならとうに気づいているだろうが、最近のインディカーはロード/市街地コースでレースを堰き止める行動に対して非常に抑制的になっている。昨季レース・ディレクターに就任したカイル・ノヴァクが、上位を走る競争力の高いドライバーをコーションの禍に巻き込ないよう注意を払っているからだ。事故などが発生しても危険がすぐに排除されそうならばその地点のみの黄旗に留める場面が増加し、フルコース・コーションを導入するにしても少し間を置いて、おそらくはレースが荒れないよう時機を見極めているのかと思わせるようにもなっている。前戦のインディカー・クラシックでは事故車がピットレーン入り口を塞ぐというクリティカルな問題が起こったために判断の余地なくコーションを出さざるを得ず、先頭を争う2人が引きずり降ろされる展開を生じさせてしまったが、コース上とはいえ二次被害を避けられそうな場所に車が止まった今回ならば、ノヴァクには状況に猶予を与えられるだけの余裕があった。だからレイホールが完全に停止し、再始動が明らかに不可能に見えても、レースは止められなかった。後方集団の何台かが急遽ピットに向かったあとも、何事もなかったかのように進んだ。それどころか、ピットへ進入しようとしたマックス・チルトンがトニー・カナーンに弾かれるようにしてグラベルへと飛び出し、すぐ先のスポンジバリアに突き刺さってもなお、レース・コントロールはなんの動きも表そうとしなかったのである。ようやく画面にコーションの黄色が躍ったのは、佐藤をはじめとした集団がその周回を終え、大挙してピットレーンへと押し寄せた後だ。レースを引っ張る彼らはコースに取り残されずに済み、先んじて動いた後方のドライバーたちとまったくおなじ通常どおりのピットストップを行い、ふたたび先頭でコースへと合流していった。
それは少し前までのインディカーを知っていれば不思議な光景で、あえて言い募れば「らしくない」と皮肉りさえできそうな経緯だったが、仮にコーションがなかった場合の状態を維持したという意味では喜ばしかったと言えただろう。レースの管制を担う「レース・コントロール」は、文字どおり見事なコントロールによってレースを壊さなかったわけだ。以前なら確実に不運の標的となっていたはずの佐藤たちは、しかしノヴァクを中心としたインディカーの変化に救われた――いや、その言い方は正当な立場を保った者にはふさわしくない、そうではなく、インディカーの変化によって正しい場所を剥奪されなかった。結局レイホールの後先で順位はほとんど入れ替わらず、レースは序盤とおなじ様相を保ったまま再開に至ったわけである。ディクソンはこれを歓迎して言うのだった。「僕たちが本当に求めているのは一貫性だ。カイルはその方向に進んでいる」(motorsport.com 2019年4月8日付 ”Dixon praises Race Control for delayed Barber caution” https://www.motorsport.com/indycar/news/dixon-delayed-barber-caution/4366870/)。
コーションに運を持ちこまなかったノヴァクは、その解除に際しても「コントロール」を見せている。レイホールの問題が発生したのはまだ残り33周の時点であり、それに反応して予定よりも早く給油を行った全員がゴールまで十分な量の燃料を持っていなかったが、(明らかに意図して)コーションを引き延ばすことで再度のピットストップが不要になるよう計らったのだった。65周目、26周を残して再開されたレースは多少の燃費走行こそドライバーに要求したものの燃料残量を心配するような事態にはならず、プッシュ・トゥ・パス(過給圧を上げて余剰出力を得る装置なので燃費は悪化する)を使わせる余裕も与えた。おかげでディクソンと、続くセバスチャン・ブルデーは最後まで先頭を追う意思を見せ、また佐藤もペースを緩めることなく、その過程で危ういミスも現れた。そうやってチェッカー・フラッグまで競走の緊張感は維持され続けたのである。それは間違いなく、レース・コントロールの意図の中にあった結末だった。
フルコース・コーションにまつわるこの一連の処理は、運も戦略も捨象して、ただ速さによって順位を決めるように要請するインディカーの無言の声明にも感じられよう。ディクソンが言うように、このアラバマは最後までひとつの一貫した「レース」であり続けた。佐藤の完璧な優勝にさらなる箔を押すとするなら、レース・コントロールが競走の正当な枠組みを維持しようと腐心した中で、その狙いどおり優れたリーダーとしての振る舞いを失わなかったことにある。アラバマの週末に、インディカーは佐藤を勝たせようとした。佐藤琢磨という特定の個人が有利になるよう操作したのではない。勝利に値する唯一の存在が自然のなりゆきに身を任せられるように流れを整理し、その存在が今回は佐藤だったという意味である。正しいドライバーと正しくあろうとするレースの側が協調して作り上げる正しい結末。そうした構造の中心で、佐藤は優勝を遂げたのであった。(↓)
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前置きが長くなりすぎたようだ。このアラバマに関して、もちろん素晴らしい勝者について書くべきに違いないし、そうすることでインディカーの構造性を照らし出しさえできるだろう。それは観客たちのだれもが見つけうる客観的なレースの有り様の提示として意味があるに違いない。だが一方で、ただひとりの観客、他ならぬ「このわたし」の主観に限るなら、あれほど完璧だった佐藤の存在さえどこか遠くへと消えてしまう。なぜならわたしにとってアラバマGP――バーバー・モータースポーツパークは、インディカーの構造を知る以上に、美しい魔法の感動に囚われるためにあるからだ。この主題については何度も何度も、飽きるほど書いてきた。だとしてもなお、また書かずにいられない。ジョセフ・ニューガーデンが何度も何度も、飽きることなく彼だけの魔法を繰り返してしまうから、だからあるとき突如として起こったウィル・パワーのスピンと、その直前のニューガーデンの運動を貫くターン14に描かれた物語について、書かないわけにはいかないのだ。
ほとんどの車が最初のピットストップを終えた一方、長いスティントを選択したブルデーが一時的に先頭を走るころに見えたのは、26周目の終わりに差し掛かっていたパワーがターン14でスピンに陥ってコースオフする、そんな場面だった。ちょうど上空を飛んでいたヘリコプターのテレビカメラはその一部始終を映し出している。長い中速のターン14を右に旋回しながら、曲率半径が急激に小さくなるターン14aに向けて減速しようとしたパワーの車の後部が少しずつ外へとはらんで制御が失われ、ある瞬間を境に破綻して独楽のように回る、そしてそのすぐ横をニューガーデンが悠然と通り過ぎていったのである。パワーらしからぬと言われればそうだと頷けようし、逆に何かと噛み合わない最近のパワーを象徴していると言われてもそれはそれで納得しそうな、後から振り返ったときに記憶から呼び起こされうる少しばかり印象的な一幕といったところだ。パワーの挙動はリアタイヤのグリップがフロントに負けたときに起こる典型的な現象で、実際に無線でオーバーステアを訴えてもいたようなのだが、その意味では車の不調がもたらした何の変哲もない単純なミスだったように見える。少なくとも周囲とはまったく独立した、文字どおり単独スピンのはずだった。
そう、単独スピンだ。パワーを揺さぶる外乱はなかった、彼の車と彼自身の問題に起因して何かが限界を超えてしまった結果として、それは起こった。きっとそうなのだろう。そうに違いない。理性がなだめてくる一方で、しかしひとりの観客たる「このわたし」は、わたし自身が描こうとするひとつの物語に囚われて抗えなくなる。繰り返すが、グラベルへと飛び出したパワーを直後から悠々と抜いていったのはニューガーデンだった。そして現場はバーバー・モータースポーツの、ターン14である。だとすれば、あのスピンはパワーが迂闊にも犯した一瞬限りのミスではなく、もっと遠大で、もっと深長なやりとりの集成にしか思われなかったのだ。
気づけば4年も前の出来事になってしまったが、2015年のアラバマGPで、まだカーペンター・フィッシャー・ハートマン・レーシング所属の若手だったニューガーデンは勝利を挙げた。前年のミッドオハイオでピットクルーのミスによって失われた勝利を取り戻す待望の初優勝だった。あのとき彼は2つの重要なパッシングを成功させている。2016年に当時を振り返ったときの記述を引用すれば、こんな経緯だった。
「1周目のターン14で彼はまずチーム・ペンスキーを運転するウィル・パワーの懐に潜り込み、少しラインを孕ませたものの上品なブレーキングでターン14aを押さえて2位に浮上した。前年の王者に対する完璧なパッシングはそれだけでレースに満足を与えるものだったが、なおも重要な場面が訪れることになる。リスタート明けの40周目、ターン13でやはりペンスキーを駆るエリオ・カストロネベスの背後を脅かすと、続くターン14で外へ逃げていくその姿を嘲笑うかのように内側のラインを維持し続け、1周目と同様の上品で礼儀正しいブレーキングでターン14aのクリッピング・ポイントを綺麗になぞっていったのだ。ニューガーデンの車はぴたりと路面に貼りついたまま破綻の気配を微塵も感じさせず、速度と距離のジレンマとはひとり無縁に、ターン14を速く、短く走り抜けていった。単純に比較できるものではないとはいえ、この争いのすぐ真後ろでマルコ・アンドレッティがチャーリー・キンボールのインに飛び込もうとして失敗したのを見れば、ニューガーデンはやはりとびきり特別に思われたのだった」(『under green flag』2016年5月6日付「なんて愛しい魔法使い」https://dnf.portf.co/post/205)
2つのパッシングで得たリードによって、ニューガーデンは終盤に猛追してきたレイホールから逃げ切るだけの余裕を築き、初優勝へと結びつけたのだったが、そんな具体的な利益を抜きにしても、なお美しい場面だった。ターン14は長い中速コーナーで右にステアリングを切りながら、さらに深く曲がり込んでいくターン14aへと向かって強く繊細なブレーキングを要求する高難度の複合コーナーである。速度を落とさず進もうとすれば車は外へ外へと逃げていき、無理に切り込もうとすれば突然リアのグリップが失われてカウンターステアを当てなくてはならなくなる――パワーに至ってはスピンした。アンダーステアをなだめながら外を走るのか、速度を犠牲にして内側に沿っていくのか、最速の解を見出すのはとても難しい。ましてパッシングなどどうやったら成功させられるのだろうと思わせるのに、ニューガーデンは、ニューガーデンだけが「速度」と「最短距離」の両方をやすやすと両立させて前の車を攻略してしまう。わたしが彼の輝かしい未来を確信したのは2014年のミッドオハイオだったが、このアラバマの初勝利はもはや拭い難く彼に心を奪われる始まりのレースとなった。以来、ここではいつもニューガーデンの姿をテレビの中に探している。それほど特別に見えたパッシングだった。
さらに翌年のことである。「ニューガーデンは2度ターン14aの戦いを制した。3周目にパワーを、さらには4位を走行していた最終周にまたしてもパワーを抜き去ったのだった。特に最後のオーバーテイクは魔法としか思えなかった。2年のあいだに同じコーナーで同じ相手に2度も膝を屈していたパワーはそのとき十全な警戒をもって内側のラインを通って後方の車が飛び込んでくる空間を消しており、レースはそれで何事もなく終わるはずだった。しかし銀色のペンスキーがターン14aの頂点へと差し掛かろうとした瞬間、存在しないその空間は一直線に飛び込んできたニューガーデンによって占められてしまっていたのである。この場面はテレビカメラに捉えられておらず、全体像がつかみにくい車載映像でしか見られなかったから、いまだになにが起きたのかわからないままだ。ステアリングを右に切り続けながら、弧を描くように曲がっていくコーナリングで、クリッピングポイントに向けて「一直線」に進入する。物理的にありそうにない動きなのに、車載映像ではそうとしか見えず、何より事実そこにニューガーデンはいた」(『under green flag』2017年4月28日付「ジョセフ・ニューガーデンは三度魔法を使う」https://dnf.portf.co/post/240)。
何度も繰り返されるうちに、ニューガーデンのターン14は物理を超えた魔法そのものに見えた。彼は自分だけが使えるただ唯一の魔法によって美しい場面を再現し、自らの地位を押し上げてきたのだ。2015年から2018年にかけて記録した3勝を含む4度の表彰台にはすべて、特異な才能を裏付ける印象的な場面が伴っている。その魔法にもっとも脅かされたのがパワーだった、と言うのは大袈裟でないだろう。2015年に1度、2016年に2度。パワーは3回にわたって同じコーナーで格下の車に乗るニューガーデンに跪いた。表彰台に登れるかどうか、大きな違いが生まれる3位という位置さえ、最終周に明け渡した。どれだけ丁寧に守ったつもりでも、自分がけっして通れないラインを通って空間を奪われてしまう。そんなことを繰り返されて、はたして脅威に感じないものだろうか。
過去は現在に繋がるだろう。事が起こる2周前の24周目、ターン13で周回遅れのベン・ハンリーに引っかかったパワーの隙を突いて、ターン14でニューガーデンがその懐に飛び込んだのである。ラインを膨らませるパワーに対して、直線的に、速度と最短距離を両立させるあの進入で。それは3年前の最終周を彷彿とさせる見事な機動で、ブレーキングではいったん車半分入れ替わったのだが、直前にパワーの壁となったハンリーがターン14aへと寄ってきて今度はニューガーデンの進路を塞ぎ、加速を阻んだためにパッシングは完成しなかった。だがこの攻防は2人の関係を象徴させるには十分だっただろう。わたしは伏線だったと信じている。ターン14aを奪われかけたパワーはニューガーデンとの過去のいっさいを突きつけられた。そうして26周目、少しでも早く内側へ寄ろうとしてステアリングを必要以上に切り込んだ結果スピンしたのではないのか。ただのミスではなく、まして単独で起こったものでもない。タイヤから白煙を上げて芝生へと飛び出したパワーの脇をニューガーデンが通過していった瞬間にあったのは、4年をかけた物語に示された遠大で深長なひとつの帰着だった。だからあのスピンはきっと「4度目のパッシング」だったと、そう信じたいのだ。わたしが見ていたアラバマ、書かずにいられないすべては、そこにあるのだった。(↓)
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やがてニューガーデンは66周目のターン14でライアン・ハンター=レイを抜いて5位にまで上がり、予選から苦しんだレースで手堅い結果を持ち帰る。その場面もまた、やはり最短距離でインに飛び込み、横Gと縦Gがきれいに調和するブレーキングで上品にターン14aを押さえる、いままでと変わらず美しいパッシングだった。丁寧にレースを見ていたつもりだったが、結局ここで順位が入れ替わったのはニューガーデンにかかわる2回だけだ。一度パトリシオ・オワードがハンリーを交わそうとしたが、周回遅れを相手にしてさえ横に並ぶのが精一杯で、結局ニューガーデンだけが特別なのだという答えは何も変わらなかった。
なぜ特別なのか、その理由はわからない。ひとつだけ、件のスピンの際の空撮映像を見ると、彼の特異さに気づきはするだろう。ターン13から14にかけて、路面には2本の黒い筋がちょうどコース幅を3等分するように走っている。パワーは13を立ち上がった直後から2本のちょうど中央まで行ってしまい、さらに外へと膨らむ車を引き戻そうとして破綻に至った。おなじ画面に映るライアン・ハンター=レイは内側の筋と車体の中心線がちょうど一致し、マーカス・エリクソンは右のタイヤで踏んでいる。ところがニューガーデンだけ左のタイヤがその筋に重なっているのである。ハンター=レイに対して車幅半分、パワーに対しては1.5台分もインを通る走行ライン。ここに彼の運動の正体が仄見えるのはたしかだ。だが現象がそうだといくら知ったところで、彼がそのラインを走れる秘密はなにも明かされない。結局それは謎めいたまま、ただ感嘆の対象となる以外にないのだろう。つまりニューガーデンが見せているのは、結局どう考えても彼だけの「魔法」としか言えない――過去にそうであったように、現在でも。
このアラバマに関して、もちろん佐藤は素晴らしい勝者で、勝利によってインディカーのありかたを鮮やかに興味深く示しもした。そこには構造的な意味がたしかにあるだろう。だが私的な情動が湧き起こるとき、全体の構造はなぜかなにもかも些末に見えてくるものだ。これはそういうレースだった。パワーが魔法に翻弄され、ニューガーデンは魔法によって5位を得る。素晴らしいと言うなら、わたし――他でもないひとりの観客である「わたし」にとっては、これ以上に素晴らしいことはなかったのである。■
Photos by :
Chris Owens (1-4)
Joe Skibinski (5)
Matt Fraver (6)
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