【2019.4.14】
インディカー・シリーズ第4戦 アキュラGP・オブ・ロングビーチ
(ロングビーチ市街地コース)
大会の冠スポンサーが替わったところでレースの本質じたいにさほど影響があるはずもないのだが、とはいってもトヨタが44年間支えてきたロングビーチGPから手を引くと伝えられたときには少なからぬ感慨が生じたのだった。世界最大級の自動車メーカーの判断に対して、モータースポーツの支援には文化的な価値があるはずだなどと身勝手に難じようというのではない。企業が当然に利益のため種々の活動を展開する中で、ロングビーチが「利益」の対象とはなりえないのではないか、それがインディカーの現状であるのだろうかといった漠たる不安――長年チップ・ガナッシ・レーシングを支えてきたターゲットが撤退したときに感じたのとおなじ――が心に差した程度の話である。もう13年も前に競技者としては撤退したトヨタの名前がいよいよインディカーと完全に切り離され、過去の残り香が拡散して消え去っていくような一抹の寂しさもあった。もちろんこれはしょせん「現在」を感じにくい遠く日本から眺めているだけの部外者が抱く勝手な思い込みにすぎないのであって、伝統のレースは今年も人気を博し、週末の3日間で前年より1%多い18万7000人の観客が訪れたと伝えられている。喜ばしいことだ。トヨタに代わってアキュラのブランド名でスポンサーについたホンダにしても、お披露目のレースで自分たちのエンジンを積むアレキサンダー・ロッシが2連覇を達成したのは最上の結果だっただろう。
それにしても掛け値なしの圧勝だった。スタート直後こそ、ジャック・ハーヴィーがどうした経緯かターン2と3の間を鮮やかに彩る花壇に飛び込んだのを筆頭に5台が関連した多重事故が発生してフルコース・コーションが導入されたが、以降はまったく波瀾が芽吹かなかった展開で、ポール・ポジションから決勝の日をはじめたロッシが脅かされる場面はついぞ訪れなかったのである。最初のスタートと、またリスタートの直後に、ターン1の外側から並びかけたスコット・ディクソンがブレーキング勝負を挑もうとした場面だけはわずかばかりレースを動かす可能性を期待させたものの、実際のところは空撮映像が捉える接近の様子とは裏腹に、内側を押さえて旋回するロッシに対してどうやらディクソンに勝機は皆無のようだった。それどころか、旋回半径の小さい窮屈な走行ラインを通っているにもかかわらずゆうに5mほど奥に入り込んだブレーキ開始位置を見るかぎり、むしろこの日はロッシためにあると確信されたと言うべきだし、事実一瞬のサイド・バイ・サイドが去って隊列が落ち着けば両者の差は開く一方だったのだ。ほんらい外部から見ているだけの観客が気軽に「簡単なレース」と口にするのは憚られる、簡単なレースなどあるはずもないのだが、リスタートからチェッカー・フラッグまでの81周で2位のジョセフ・ニューガーデンに対して20秒以上の差を築き上げてみせたロッシの走りには自然とそう呟きたくもなるだろう。2位以下の表彰台争いに目を向ければピットでの不手際による順位の入れ替わりや工夫された作戦、激しい攻防とその末のブロッキング・ペナルティなどいかにもインディカーらしい見せ場がさまざまあったのに、ロッシはただひとり、そんな激しい戦いさえ矮小化するように車をゴールまで運んだわけだった。やはり語弊のある言い方をあえてすれば「それだけ」の一日だ。(↓)
展開に綾がなく、速さだけを真っ向から競ったレースを、ロッシは近年記憶にないほどの大差で制したわけである。その揺るぎない走りを見ながら、わたしはこれを「ろうたけた」と表現したものかとぼんやり考えていた。どうもうまくないとも思う。「ろうたける」とは女性の洗練された気品に溢れる美しさを表すのだから、厳密に言えば男性に対して使う言葉ではないし、細かい用法を措くとしてもひとつ間違えれば簡単に人を死に至らしめるほどの速度で走っているレーシングカーに当てはめるのは物質的な暴力性への自覚が欠けているようにも感じられる。いやそもそも対象の性別を限定する語彙などというものが今の時代にそぐわないかもしれない、といった具合に。ただそういった理屈が頭をよぎって逡巡を呼び起こしつつも、あらゆる場面で優雅さを失わず、レースの喧騒のいっさいを閉じ込めたようなロッシに対してたしかにこの言葉が真っ先に思い浮かんで離れなかったのだ。路面の起伏や、もっと細かい凹凸が車を暴れさせるロングビーチの市街地コースにおいて、彼はただひとりしなやかに、角の取れた柔らかい曲線を思わせる運動で85周を乗りこなしている。ちょうど直前に行われたアラバマGPのニューガーデンとは対極の、暴力的であるはずの速度を忘れさせる挙動。張り詰めた緊張から浮遊した優美な振る舞い。男性的か女性的かといったステレオタイプを持ち出すとするならたしかに後者のようで、わたしはほかの言葉を見つけられなかった。しなやかな、ろうたけた走り。いざ書いてしまえば悪くはない響きだろうか。
テレビ中継では、1年ぶりに解説を務める黒澤琢弥がロッシの運転する27号車の動きを絶賛しているのだった。サスペンションがいかに見事な働きをして衝撃をいなし、タイヤを路面に追従させてグリップを生み出しているのか。滑らか、柔らかくよく動く脚、ロッシの車だけ跳ねないといった数々の賛辞が事あるごとに口をついて出る。語りは周回を重ねてもまったく変わらず、ロッシが画面に映るたび商品を売り込むセールスマンのように(「このサスペンションをご覧ください、他とは一味違うんです」)繰り返すものだから、他に話題はないのかと思わされもしたが、実際そう話す以外になかったのだろう。欠けるところのない完璧さは時として人から言葉を奪いもする。結果として何度も重ねて連ねられた黒澤の称賛はロッシに対する印象をますます強調した。柔らかい、滑らか、しなやか。曲線的な運動を反復する先の、ろうたけた――なるほど書いてしまえばやはり悪くない響きで、もちろんすばらしい優勝だった。
そう、すばらしい優勝、すばらしいレースだとわかっているのである。だからこの先に書かれるのは個人的な感情に過ぎない。これほどの走りを見つめながら、だというのにわたしはチェッカー・フラッグへ近づくにつれて眼前のレースから感情が遊離していくのを自覚しなければならなかった。ロッシが修正を要さないきれいなステアリング操作でコーナーを通過していくたび、彼に感嘆する一方で寂寥感が膨らむのを押し止められなくなったのだ。64周目。黒澤がまた、ロッシを絶賛している。脚がしっかり動いている、しなやかに。そのとおり。そのとおりだけれどとわたしは頭を振る。それは本来、ロッシではない別のドライバーに向けられたはずのものだったのに。あるときから見られなくなり、いまだ失われたままでいる輝きを思って、ふと溜め息が零れる。
2017年のロングビーチGPで、シモン・パジェノーは最後尾からのスタートを余儀なくされた。予選第1ラウンドにおいて他車を妨害したとして、当時のコースレコードとなる最速タイムを抹消される憂き目にあったのである。最初から困難に見舞われ、勝機を失ったレースでパジェノーが見せたのは、しかし彼のキャリアの中でも記憶に残る優れた走りだった。前年のチャンピオンを示すカーナンバー「1」は序盤から次々とパッシングを成功させてあっという間に順位を一桁に上げ、蛍光の黄色に彩られた目立つ車体も相まってしばらくの間テレビカメラを独占している。だがそうした派手でわかりやすい追い上げ以上に、あのときのパジェノーからはレーシングカーの躍動そのものが横溢していて、だからカメラもその姿を捉えて離せなくなったとしか思えなかった。繊細かつ柔らかい挙動でコーナーを小さく回っていくその姿には、見るものを惹きつけてやまない魅力がたしかにあった。(↓)
当時のテレビ中継で、そのパジェノーをしきりに称えていたのが他ならぬ黒澤琢弥だった。1号車のサスペンションがきれいに動いている、この柔らかい脚でタイヤが路面を掴んで高いグリップをもたらす――2年後ロッシを称える言葉を、黒澤はあの日パジェノーに向けていたのである。わたしはそれを深い感動とともに聞いていた。当時の記述を借りると「もしかすると今までレースについて発せられてきたどんな詩的な言葉よりもわたしの心を打った」(「レースは過去に照らされている」2017年4月19日付)ほどに。柔らかさに焦点を当てた黒澤の解説が、わたしがずっと見てきたつもりだったシモン・パジェノーというドライバーの特質にぴたりと一致するものだったからだ。まだ弱小チームにいたころ、彼が時おり見せる速さの中心にあるのはいつも柔らかさだった。はじめて表彰台に登った2012年のロングビーチ、あるいはボルティモア。初優勝のデトロイト。車が激しく上下動する荒い舗装の市街地コースで、パジェノーはぴたりとタイヤを路面に吸い付けながらひとり静かにコーナーを曲がっていく。特設の高い縁石さえ「まるで魔法の絨毯に乗ってでもいるかのように姿勢を正したまま」「縁石を柔らかく去なし、弾かれることなく地面と平行を保ったまま」(同前)通り抜けていく美しい走りにわたしは虜になり、追いかけていこうと決めたのだ。才能を知ったという予感はたして的中し、やがてチーム・ペンスキーへと移ったパジェノーはとうとうシリーズ・チャンピオンにまで到達した。そこまでの道程を支えていたのも、やはり柔らかい運転だったと思う。
黒澤の言葉はきっと、パジェノーの本質を軽やかに鋭く突いてみせた。長く語り続けてきた愛するドライバーの特質が、はじめて他者によって、しかも専門家の口から述べられたように思ったからこそ、わたしはその言葉に感銘を受けたのだった。もちろん解説の本質は車の物理的運動であって、おそらくドライバーについて何か語っていたわけではないだろう。車の動きはあくまでサスペンションに依存すると言われればそのとおりには違いない。だが現実にはそうだとしても、あのときの車の動きを、わたしはパジェノーにしか表現しえない運動だと信じた。たとえサスペンションがどうあろうと、シモン・パジェノーという中心があってはじめてあの柔らかいコーナリングは実現するということが、わたしにとって唯一の真実だった。だからこそ彼について語られる言葉に意味を付け足し、ひとり感慨に耽ったのである。(↓)
なのに、当時とおなじ賛辞がいま別のだれかに向かって投げかけられている。パジェノーが勝利から遠ざかって、気づけば1年以上経ってしまった。ロングビーチで輝きを放った2017年はチャンピオンの防衛に奮闘し、最後まで同僚のニューガーデンの前に立ちはだかった。ゲートウェイで内側から弾き飛ばされたにもかかわらずコース上に車を留めたのは卓越した技術の為せる業であり、あるいはまた最終戦のソノマで相手より1回多い4ストップを選択してスピードだけに勝負を懸け、最後にはサイド・バイ・サイドの戦いを制して2017年の終幕を飾りもした。選手権を敗れはしたものの、その才能が褪せる様子などまったくない一年だった。なのに、だというのに、昨年はどうしたことだろう。たしかに開幕から数戦は不運が続いた。あのころもっとも運に見放されたドライバーを探すとしたらパジェノーか佐藤琢磨かといったほど自分の与り知らぬところでレースに見放され、狂った歯車が最後まで噛み合わなかったようにも見えた。だが単純に結果が出ないのみならず、シーズンの途中から彼が内包していたはずの柔らかさがいつのまにか消えてしまった、運動そのものが喪失された感覚に囚われていたのもたしかだった。蛍光黄色の車体は相変わらず画面に映えてよく目立つが、ただ色彩の印象としてそうであるだけで、その動きから過去にしていたようには意味を受け取れなくなった。思い返せば昨年、わたしはあれほど焦がれたパジェノーを主題にした記事を一本も書いていない。多くのレースで集団に埋没し、どうにか2度ばかり表彰台に登る機会はあったものの、いかにもそこにいただけの結果で、書くべき瞬間を一度も発見できなかった。あのパジェノーから見つけられなかったのだ。それはこのロングビーチに至るまで変わらない。だから溜め息をもうひとつ吐いてしまう。
柔らかく滑らかな走り。当時とおなじ賛辞はいま別のだれかに、アレキサンダー・ロッシに投げかけられている。そこに疑問があるはずもない、彼のレースは掛け値なしにすばらしいものだった。その意味で本当はロッシに「惚れる」べきなのだろう。わたしはつねにレースのなかに現れる運動を称揚したいと思っているし、事実そういう文章を書いてきた自覚がある。そうした自分らしさに従うなら、F1でシートを失って母国に戻り、2016年のインディアナポリス500マイルで信じがたい加護に恵まれた奇跡の初優勝を遂げてから歩んできたキャリアのロッシに、とうとうこの域にまで来たのだと言祝がなければならない。それが自然な、あるべき態度だとわかってはいる。だがわかっているものの、その優れたありようがあまりに「過去の恋」と似すぎていて、未練を断ち切れないのだ。パジェノーを諦められないわたしは、レースのあいだずっとその姿をロッシの運動に投影してしまう。しなやかで、ろうたけた優勝。その担い手がパジェノーでないことに、自分勝手な寂しさを抱いている。それだけのことだ。ロッシは2位に20秒の差をつけた。レースの余韻が広がるその時間に、どうやらわたしは自分の感傷を収めなければならなかった。■
Photos by :
Shawn Gritzmacher (1)
Chris Owens (2, 4)
Richard Dowdy (3)
Stephen King (5)