佐藤琢磨のターン3は、シモン・パジェノーの初優勝のようなものだ

【2013.6.1-2】
インディカー・シリーズ第6-7戦 デュアル・イン・デトロイト
 
 
 今シーズン初の2レースイベントとしてベル・アイルで開催されたデュアル・イン・デトロイト(それがどうにも俗悪に見えるということを言っておくべきだろうか?)を、佐藤琢磨はおよそ何も得ずして終えた。シリーズ6戦目となるレース1はチームの燃料計算ミスによるガス欠でラップダウンの憂き目にあい、第7戦レース2では24周目のターン3でトリスタン・ボーティエにアウトから並んで進入した際にイン側の相手に右フロントタイヤを当ててしまい、反動で反対側のタイヤバリアへと流れてクラッシュした。イベント前には2位だったドライバーズランキングは2つのレースで21ポイントしか取れなかったことで6位へと後退し、チャンピオンシップで後れを取る結果となる。両レースともに後方グリッドから追い上げていたさなかのアクシデントであったことは惜しまれてよいが、それにしても意地悪い向きにはようやく佐藤琢磨らしくなってきたとほくそ笑むことくらいはできるかもしれない。率直にいえば、いくら好調でもやっぱりレースを失いやすいドライバーであることに変わりはないのだ。

 当の佐藤はレース2のフランス人ルーキーに対し、DNFに追い込まれたクラッシュそのものよりもレーススタート時の振る舞いについて強く怒りをあらわにしている(『ジャック・アマノのINDYCARレポート』2013/6/4)。自身も第4戦サンパウロでの執拗なディフェンスで物議をかもしたわけだが、たとえばそのとき他のドライバーから浴びせられた「俺がブロッキングだと思ったからブロッキングだ」といった程度の非難に比べれば、ボーティエが犯したらしい違反とそれに対して下されるべきだった措置を具体的に指摘する彼の言葉はすばらしく論理的だ。すなわち、スタート時にアウトサイドの並びだったボーティエは、最初のグリーン・フラッグ直前の、まだレースが始まっていないタイミングでインサイドにいた自分の前に割り込んできた。スタート前は2台がサイド・バイ・サイドで並んでいかなければならないにもかかわらず彼は加速してドアを閉め、ラインを失ってコンクリート・ウォール間際へと追いやられた自分はブレーキを踏まざるをえなくなった。この動きに対してはペナルティが科せられる必要があるはずだがスタート後にどれだけコクピットから訴えてもレース・コントロールのアクションはないまま、巡り巡って24周目、「本来ならそこを走っているべきではなかった」ボーティエ当人と接触して自分は必要のないリタイヤを喫してしまった、という顛末である。

 あくまで被害者側の証言なのでひとまず話半分に聞いておくのが公平ではあるとはいえ、語られている内容の整合性にはなるほど隙が見当たらず、本来ならレース・ストラテジストが発してもよさそうなレベルのコメントとさえいえる。実際に起こった(自分が観察した)現象とそれがどういう問題を孕むのかを的確に言語化してしまうこの技術は、レーシング・ドライバーとしてはなかなか得がたいものだろう。弁護士の息子として育ったことが関係しているのかどうか、そういえば2004年のバーレーンGPだったかラルフ・シューマッハと接触したときに滔々と自らの正当性を主張して相手にだけペナルティをプレゼントしたなんて過去があったのを考えても、これはF1時代からすでに備わっていた彼の生来的な能力なのかもしれない。言葉の端々に隠しきれない怒りこそ感じさせるが、少なくとも、危険な雨中のリスタートを強行したレース・コントロールに両手の中指を立てて抗議したまではよかったが逆に自分のほうが罰金を食らったウィル・パワーや、視線をF1に転じて無謀な追突をしてきたセルジオ・ペレスを「だれか殴ってやれ」と言ってのけたキミ・ライコネンに比べれば、ずいぶん理性的な反応ではないか(もっともふだん冷静なアイスマンのことだから、暴言にもきっと理由があるのだろう。酔っていたとか、アルコールを摂取していたとか、もしかして酔っぱらっていたとか)。

 おそらく世界を見渡しても、自分のクラッシュについてこれほど整合的な物語(ただ出来事を並べるのではなく、30分前の問題を遠因として挙げてしまうのである)を伝えられるドライバーはけっして多くない。その秀でた能力は疑うべくもないだろう。だがわたしがこの一件によって気づかされたのはむしろその正反対であろうこと、彼が長いトップフォーミュラのキャリアで数多のクラッシュを重ねてきた理由の一端だった。上の「すばらしく論理的」という記述には、実のところ皮肉がこもっている。ボーティエの動きを問題視するそのコメントはたしかに論理的なのだが、しかしまた論理的にすぎるのだ。一分の隙もなく紡がれた物語には、佐藤琢磨というドライバーがレースに対してある種の潔癖な理想を抱いていることを想像させる。考えてもみてほしい。ボーティエは「本来あそこを走ってるべきじゃなかった」(前掲リンクより引用)ドライバーで、佐藤自身は「いちゃいけない相手と」(同)レースをした。その説明が保身による自分勝手な解釈でないとすれば、まさしくそのとおりだろう。では、そんな「本来」「いちゃいけない相手」と、彼はなぜ、動機ではなく原因として、なぜ、接触することになったのだ? いつもながらのまわりくどい文章で核心を迂回しようというわけではない。答えは簡単だ。だとしても、ボーティエは現実にそこを走っていたのである。

***

 デトロイトのレース1を制したのはデイル・コイン・レーシングからスポット参戦したマイク・コンウェイだった。こういう結末を、わたしはかならずしも歓迎できたわけではない。2回にわたるオーバルレースでの大クラッシュで大きな怪我を負った経験を持つコンウェイは、そのためにオーバルレースを二度と走らないと決めた。オーバルを引退しただけでなく活動の拠点をヨーロッパへと戻したこのイギリス人は、にもかかわらずWECの片手間のようにデトロイトへとやって来て、呆れるほど速かった。それだけならまだしも、ひと月前のロングビーチではレイホール・レターマン・レーシングで参戦して、今回はデイル・コインなのである。「そこにシートがあるから」という以上の意味を見出せないまま走るドライバーに圧倒されては、乾いた拍手しかできなくなってしまってもしかたあるまい。結果を伝えるwebニュースが「コンウェイ今季初優勝」と書いているのにも陰鬱とさせられた。シリーズを争っていないコンウェイに「今季」なんてあるものか、ふらっと現れて優勝しただけだと言いたくなったりもするわけだ。

 もちろんそれはコンウェイの責任であるわけがなく、むしろ彼自身の振る舞いはインディへの郷愁にあふれているし、そのスピードには惜しみない賞賛を贈りたいと思う(べつに彼のことを嫌っているのではない)。2年前のロングビーチはほとんど運だけで舞い込んできたような初優勝だったが、土曜日のコンウェイに非の打ち所はなかった。愚痴っぽくなるのはあくまでインディカー・シリーズに対するこちらの心持ちの問題だ。本当ならウィル・パワーこそああいうレースぶりで圧勝しなければいけなかったのではと思ったところで結果が変わったりなどしないのだから、勝つべきではない(と信じ込んでしまった)ドライバーが勝ったといっても、現実がそうであるなら折り合うべきである。

 そんなふうに受け入れるのに一呼吸必要な現実があったことを思えば、翌日にもう次のグリーン・フラッグが振られたのだから、俗な金儲けにしか思えなかった2レースイベントにも一種の安定剤としての効果があったかもしれない。日曜日のレース2でもコンウェイのスピードに翳りはなかったが、終わってみればシモン・パジェノーがはじめて勝利する。序盤のラップリードこそコンウェイに制圧されたもののプライマリータイヤを履いた後半はどこまでも速く、フィニッシュでは6秒後方に封じてみせた。とくに第3スティントの終わりから最終スティントにかけてが初優勝のハイライトとして記憶されるべきだろう。最後のタイヤ交換後にダリオ・フランキッティに引っかかってタイムを失ったコンウェイの隙を見逃さずにプッシュし続けてピットワークでリーダーの座を奪い取ると、最終スティントではこの日最速だったはずのコンウェイと互角のラップタイムを刻んで、おなじ戦略でオルタネートタイヤを履いていた2番手のジェームズ・ジェイクスともども退けたのである。勝敗のキーとなるポイントで揺るぎなく速く走れる資質は、まぎれもなく一流ドライバーの持つそれだ。必要なときに必要なスパートを遂行することで、パジェノーは難しいレースを勝ちきった。彼は言う。「荒れたレースを冷静に、スマートに戦い抜いた」。

 ジェームズ・ヒンチクリフと佐藤琢磨に先を越されてしまったものの、昨季のルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得したパジェノーがインディで次に初優勝を果たすべきドライバーであることは明らかだった。しかしいまだ軸の定まらない混戦のシーズンとはいえ、その中でもやや戦闘力に欠けるシュミット・ハミルトン・モータースポーツでそれを遂げるのは、けっして簡単なことではなかったはずだ。トップチームに移ればすぐさまチャンピオンになれるという世間の評価はけっして大げさでない。わたし自身も、昨季あらゆるストリートコースでケータリングができそうなほど滑らかに縁石を踏むさまを見て、それだけでこのドライバーに勝利を与えることがインディカーの使命だと信じきってしまった(それは、F1で昔のセバスチャン・ベッテルに対して抱いた感情と同様のものだった)。逆転を生む戦術の遂行を可能にする高い技量によってその確信は証明され、デトロイトは幕を閉じた。

 わたしにとってレース1がどうしようもない現実だったとするのなら、レース2は理想がひとつが現われた瞬間だった。コンウェイの勝利には(彼自身の事情とは別に)失望を禁じえなかったが、それもパジェノーの初優勝によって回復してしまう。目まぐるしく相貌を変えるインディカー・シリーズで、デトロイトの2日間はちょうどうまいぐあいにコインの裏と表を1回ずつ出してみせた。ここからはわずかばかりの寓意を汲み上げることができそうだ。レースには現実もあれば、理想もある。あってはならないことを受け入れるべきときも、あるべきことが実現するときも、平等にやってくる。片方だけなんてことはない。

***

 佐藤琢磨は、トリスタン・ボーティエはそもそもその場にいるべきドライバーではなかったのだと言う。それが間違いのない事実だとして、ではそんな幽霊と接触して自分だけレースから退場することにいったいなんの価値があったというのだろう。たとえ認めがたいことだったとしても、現実にボーティエはそこを走っていた。にもかかわらず直角ターンでアウトから並びかけるというリスクの高い勝負で抜き去りにかかったドライビングをいま振り返ると、まるで、より多くのポイントを持ち帰ることではなく認めてはならない現実を解消することを唯一絶対の使命としていたようにさえ見えてくる。「そうあるべき」だった、ボーティエのいないレースを取り戻すためのサイド・バイ・サイドに殉じて、そのクラッシュは起きた。そしてそれこそが、佐藤琢磨が過ごしてきたキャリアそのものなのではないのだろうか。今にして、過去のクラッシュのうちのいくつかは今回と同様にして犯されてきたのではないかと思えてならなくなっている。

 すでに書いたように、ボーティエに対する佐藤の非難は論理的だ。だが同時に、それはあまりに論理的すぎ、正しすぎるという印象も与える。例にあげたバーレーンGPでの件でもそうだが、彼の理知的な振る舞いにはともすれば危うい過剰さがつきまとう。そこには彼の正しさ以外の事象が存在しないと言い換えてもいい。身勝手な論理での言い訳が巧みという意味ではなく、自分の正当性を正しく認識し、的確に抽出してみせられるということである。繰り返すがそれが特筆すべき能力であることに疑問の余地はない。

 しかし、と思う。ゆえにこそ、彼は自らの殉教者になってしまう。理知的でありすぎるために、心の奥底にある純粋な信念を理性が強固に補強して不可侵の無謬性をまとわせ、やがてもはや自分自身でさえ撥ねのけることができなくなっていく。"no attack, no chance"――その言葉どおり佐藤琢磨はいつも自分を貫いてきた。彼の中にはつねに理想があり、それは正しかった。だが、クラッシュという現実はその崇高さや強度とは無関係に、ひとりのドライバーが抱く理想を跳ね返すときがあるということなのだ。たとえば去年のインディ500のように。たとえば9年前のヨーロッパGPのように。あのときも佐藤琢磨の動きは完璧だった。それでも、彼の理想が描いたレーシングラインの先にはダリオ・フランキッティやルーベンス・バリチェロが理想を無に帰せしめる現実として文字どおり物理的に立ちふさがっていたのである。チェッカー・フラッグを受けることなくレースを終えると、突いてでたのは現実に呑み込まれる前に抱いていた理想と、それを妨げた相手の具体的な問題点だった。その物語は2013年にしたのとおなじように完璧で、やはり完璧でありすぎた。

 秘めたる理性に破綻がないからこそ正しく形作られすぎた信念によって、現実との折り合いがつきにくくなってしまう。佐藤琢磨の印象的なクラッシュは、彼の中にあるそんな齟齬からしばしば生じたのだと、今わたしはようやく悟ることになった。それがコインの裏表だった2レースイベントによって引き出されたのは、もちろん偶然ではないのだろう。ヨーロッパから気まぐれのようにやってきて勝ってしまうドライバーがいれば、待ち望まれた優勝をついに果たしたドライバーもいる。マイク・コンウェイの現実とシモン・パジェノーの理想を結んだ線上で、佐藤琢磨はリタイアした。きっとやむをえないことだ。理想だけが重たくなった歪なコインを投げたとしたら、反対側の現実ばかりが出るに決まっているのだから。

259周目のラップリード

2013インディカー・シリーズ第5戦:第97回インディアナポリス500マイル
2013年5月26日

 低い気温と高い湿度のために重たくなった空気を押しのけられるクルマは1台もなく、このレースを最後にパンサー・レーシングとの契約を打ち切られることになるJ.R.ヒルデブランドのクラッシュによって導入された最初のフルコース・コーションが明けると、マルコ・アンドレッティとトニー・カナーンがお互いにお互いのドラフティングを使って何度も先頭を譲り合う展開となる。それはオーバルコースのレースではしばしば見られる示し合わされたリードチェンジに過ぎなかったが、だとしてもインディアナポリス500マイルという伝統の舞台で演じられるにはずいぶん露骨で、ずいぶんと穏やかな茶番だった。向かい風で速度が伸びないターン1でリーダーがインサイドを明け渡すシーンが1回めの給油タイミングまで20周以上にわたって繰り返されるうちに、レースに対する集中力が緩んだのかもしれない。F1モナコGPからずっとテレビの前に座り続けていたわたしはふと一昨年のアイオワのことを思い出していた。セブン – イレブンという巨大なスポンサーを失ったカナーンがアンドレッティ・オートスポートからKVレーシングテクノロジーに、つまり現代のインディカー・シリーズにおいては勝ち目のないチームへと移り、対してあいかわらずAASのシートに座りつづけるマルコの才能がどうも最初に期待したほどではないかもしれない、ということが十分すぎるほど理解されてきていた2011年の夏に、2人は一度だけ優勝を争った。241周目にインサイドを狙ってきたカナーンのラインを強引に閉めてスロットルを緩めさせたマルコが5年ぶりにキャリア2勝目を挙げたあのアイオワの空もまた、夜の闇のために直接うかがい知ることはできなかったが、すぐにでも雨を降らせんばかりの雲に覆われていたはずである。レースが終わると、カナーンは少しばかり危険なブロックで勝利を持ち去っていったマルコに対して、今回は許すとばかりに笑顔で肩を叩いていた。

 当時のわたしには、たとえ当人同士がそう思っていなかったとしてもそれが物悲しい光景に見えたものだ。2人はマルコがインディカー・シリーズに登場した2006年、アンドレッティ・オートスポートがまだアンドレッティ・グリーン・レーシングだったころから5年間をともに過ごしている。その時代の彼らを比較するのはほとんど野暮というものだ。デビューイヤーのマルコはインディ500を100分の6秒差で逃し、ソノマで最年少優勝を遂げるなど鮮烈な印象を残したが、結局はたまに速いが荒っぽく勝てないドライバーにしかなれなかった。チームメイトがシリーズチャンピオンとなった昨季、1勝もできないままその60%のポイントも取れずにシリーズ12位に終わった結果は、彼の能力を端的に証明しているといってもいい。対するカナーンはマルコがもっとも輝いていた2006年を含めて、すべてのシーズンでマルコを上回るポイントを稼ぎ出した。自分がチームオーナーならどちらを選ぶか、悩むまでもないだろう。それでも2010年が終わって彼らが別の道を歩むことになったとき、チームを離れたのはカナーンのほうだった。

 もちろんAASにまつわるドライバーの動き自体は、さほど特別な話ではない。それまでもこの名門には何人ものドライバーが所属して、その多くが違うチームへと移っていった。たしかに当時カナーンが失ったスポンサーは大きかったから、しばしば運転に金の必要なモータースポーツの中にあってはしかたのない離脱だった。ただ同時に、そういう問題だけではないことも察せられたはずだ。2006年以降、AASには去らなかったドライバーが1人いる。そう、マルコ・アンドレッティだけは、出ていく同僚に別れを告げることしかしてこなかった。結局のところ、根本的で覆せない事実として、マルコは「アンドレッティ」――マリオの孫で、マイケルの息子――で、そのほかの全員と同様にカナーンもそうではなかったにすぎない。当然、カナーンとマルコが直接天秤の両皿に載せられたわけはないのだが、ただチームに変わる必要が生じたとき、それは「アンドレッティ以外のなにか」が変わるという意味だった。

 カナーンが移籍したとき、KVレーシングはすべての歴史を見渡しても3回の優勝しか見つけることができないチームで、その数はカナーン自身が挙げてきた勝利の5分の1でしかなかった。そこはいかにも、キャリアの晩年を迎えた往年の名ドライバーが自らの経験を捧げる最後の働き場だった。加入後の2年間、彼のキャリアに勝利が積み重ねられなかったのも自然な成り行きだ。惜しいシーンがなかったわけではない。去年のインディ500では終盤に7周ラップリーダーになったものの、祭典は彼の初優勝を拒むようにチップ・ガナッシを勝利へと誘った。2011年のアイオワでマルコにブロックされて勝利を逸したのは、2年間で2回あった2位のうちの1度の結末である。だがほとんどそれだけだ。インディアナポリスでマルコとカナーンが繰り返したリードチェンジにわたしの記憶が喚起されたのは、裏を返せばそれくらいしか優勝を争った思い出がないということでもある。

***

 オーバルコースの開催が全体の1/3を割り込んだ今季のインディカー・シリーズは、なにか別のカテゴリーを見ているように様相を違えたものになってしまった。チップ・ガナッシの不調は昨季を考えればけっして予想不能とはいえないレベルだったが、歩調を合わせるようにペンスキーまで噛み合わせるべき歯車を失い、あろうことか開幕から4つのロード/ストリートレースでウィル・パワーに勝利を与えそこねた。アンドレッティ・オートスポートの3勝もパフォーマンスの安定性を証明することにはならず、元F1ドライバーの日本人が勝利し、そのブロッキングと思われたラインコントロールが不問に付されたりもした。いやそもそも、「元F1ドライバーの日本人」がアメリカのカーナンバー14をつけていることからして、開幕前にはありえない話に思えた。

 そうしてみれば、荒天で延期さえ心配されたインディ500で、だれもラップダウンへと飲み込まれない30台のパレードラップが延々と重ねられた不思議も、実際はさほどおかしななことではなかったのかもしれない。おかしなことが繰り返されれば、それも日常になっていく。いまやKVレーシングを運転するトニー・カナーンのインディ500初優勝なんていう分の悪そうな勝負にも、賭け金を配分しなくてはならなくなった。これがすでに2013年のシーズンだということを忘れてはいけない。

 レースのあとで、カナーンはインタビューに対して「幸運だった」と答えることになる。197周目のリスタートと同時にライアン・ハンター=レイのドラフティングから抜けだしてターン1を制圧した直後、燃料戦略だけで上位に来ていたダリオ・フランキッティがアンダーステアからセイファー・ウォールに突き刺さって、レースの幕はイエロー・フラッグとともに降ろされた。それが、カナーンが初めてインディ500を制した瞬間だった。残り3周半がレーススピードで行われていたら、また序盤のような、しかしもっと苛烈なトップ争いに巻き込まれて、結末の予想などできそうもなかった。その意味で「幸運」は謙遜でもなんでもない、率直な心持ちだったにちがいない。しかしまた、その言及はかならずしも正確ではなかった。この日2番目に多い34周のラップリードを記録し、つねにトップ10圏内を走ってバトルを制し続けていたカナーンは、振り返ってみればまぎれもなく、だれよりも勝利に値するドライバーだった。彼は正しく走り、勇気とともにポジションを奪い取ることで勝者となった。どんな展開で得られた勝利だとしても、それは揺るぎない事実だったのである。

 ところで、命を賭けるでもなくテレビで観戦しているだけのわれわれには、97回目のインディ500にふたつの解釈を用意できるようだ。ひとつは、おかしなことばかり起こるイベントが続く中、トップチームを去ったトニー・カナーンの初めての優勝を拒まなかったインディ500が、68回ものリードチェンジを許したうえ、眠気を誘うパレードラップを続けて普段なら勝ち目のないドライバーにもチャンスを与え、最終的に22台をリードラップに居残らせるというまったくオーバルらしくない=インディ500にふさわしくないレースへと変貌してしまったと見ること。またあるいは、アメリカのレースの象徴であり、たとえば去年や3年前のフランキッティ、一昨年のダン・ウェルドン、’09年のエリオ・カストロネベスといった「アメリカのドライバー」ばかりを勝たせてきたインディ500が、勝者のリストに付け加えるべきドライバーとしてインディカー・シリーズを初期から彩ってきたカナーンをついに迎え入れたのだと受け止めること。

 わたしはレース中盤の退屈を忘れ、後者の喜びとともに2013年のインディ500を記憶しておくことにする。忍耐が報われた瞬間には、レースの展開や勝ち方などどうでもよくなるのだろう。ゴールを待たずに涙を流すのも無理はい。あまりに長く順番を待たされすぎた。トニー・カナーンはフルコース・コーションの中おもむろにインディ500のトップチェッカーを受け止める。それは彼にとって、実に通算259周目、13年かけてレースを1回走りきってなお1/4以上を余すほど積み重ねてようやくたどり着いた、真実のラップリードだったのだ。

佐藤琢磨のラインと武藤英紀の絶句、それから象徴でしかない話

【2013.5.5】
インディカー・シリーズ第4戦 サンパウロ・インディ300
 
 
 テレビの前で聞いているかぎり、解説の武藤英紀は視聴者を意識して慎重に言葉を紡ごうとしているようだった。2008年のルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した、つい2週間前までインディカー・シリーズ日本人最高位という記録の持ち主だったこのドライバーは、自らが過ごした3年間の経験によって、それが罰則を受ける可能性がある走行であることを、レースの熱量を奪わぬように、また己の言及が実現しないことを望むように曖昧な言い方で口にした。72周目には「いまのブロッキングはちょっと……」と絶句し、そして翌73周目、「2回目ということで(ペナルティを)取られる可能性ありますね」と示唆している。下位カテゴリーからアメリカのレースにまみれてきた武藤の文化のなかに、それは育まれていない動きだったかもしれない。少なくとも、彼の知るアメリカはそれを許さないと直感したのだと想像することはできるだろう。サンパウロ市街地コースのバックストレートエンドで、佐藤琢磨が若いジョゼフ・ニューガーデンと開幕戦の勝者であるジェームズ・ヒンチクリフの攻撃を次々と凌いだときのことである。

 2010年のエドモントンでのレースで、インディカーはひとつの事件を引き起こした。チェッカーフラッグまで残り3周のことだ。フルコース・コーションが明けるリスタートの際、先頭を走るペンスキーのエリオ・カストロネベスはチームメイトのウィル・パワーに対し、インサイドのラインを徹底的に主張した。まだ2列リスタートが導入される前のシーズンである。パワーはカストロネベスの横に並んでいたわけではなく、あくまで真後ろから加速をはじめていた。左の最終ターンから右のターン1へ、幅の広いホームストレートを斜めに横切るのが本来のレコードラインだが、カストロネベスは後ろからの攻撃を警戒してまっすぐに進む。パワーは一瞬だけインサイドに未練を見せたものの、空間を見出せずすぐさまアウトへと飛び出した。懐へ飛び込むような意思を表現することは一切なく、速度を高く保ってターン1の進入でかぶせるように並びかけて、ペンスキーの2台はサイド・バイ・サイドのままエイペックスをクリアしていった。

 このバトルによってもたらされた結果が最終的にこの年のチャンピオンの行方をも左右することになるのだが、バランスを崩したパワーがスコット・ディクソンにインサイドを明け渡して3位に後退したレースの経緯は本題ではない。物議を醸したのは、襲いかかってきたチームメイトのラインを一度も潰さず、最初から最後まで一貫してインサイドを守り続けただけのエリオ・カストロネベスが、そのバトルから1分もしないうちにレース・コントロールにブロッキングの違反を取られて黒旗を提示されたことだった。原文を発見することができなかったが、当時のルールは大意として「後方から追ってくるドライバーのためにインサイドを空けなければならない」というものだったと記憶している。この規則を根拠に、過度なディフェンスをしたわけでもないカストロネベスはピットのドライブスルー・ペナルティを科せられたのである(実際には彼はその裁定を受け入れずに無視し、レース後にタイム加算の罰を受けた)。

 規則の解釈の範囲に収まるペナルティだったとはいえ、先行側の守備権利をほとんど認めないかのような規則がトップバトルに適用されたことはじゅうぶんに刺激的だったようで、インディカーは批判にさらされ、結局行きすぎだったことを認めるかのようにブロッキングについて見直しがなされている(注:条文が変更されたかどうかは調査できていない)。2011年のルールは「追ってくるドライバーのアクションに対して走行ラインを変更したり、追い抜きを防止・妨害するために通常と異なるラインを通ってはならない」(9.3.2)であり、さらに2013年には後半部分((must not) use an abnormal racing line)が削除されて「追ってくるドライバーのアクションに対して追い抜きを防止・妨害するために走行ラインを変更してはならない」(9.3.2)へと簡略化された。ずいぶん「レースらしく」なったように見える。現在レース・ディレクターを務めるボー・バーフィールドによれば、「自分から動いてラインを保持する場合はディフェンスできるが、他のクルマの動きに反応して動いたのならブロックできない」という解釈のようだ。

 その基準に照らして見れば、佐藤琢磨の走行は許容範囲にあったということだろう。サンパウロのバックストレートは完全な直線ではなく左・右・左にややうねっており、うねりのエイペックスをかすめるようにして直線的に走ったことで悪質なブロックのように見えただけではないか、と言ったのはインディ500に出場予定のライアン・ブリスコーだ。GAORAのブログでも同様の見解が示され、ブロッキングにはあたらないと結論づけられている(『こちらGAORA INDYCAR実況室』「ブロッキング判定」2013年5月7日付)。ただ論争があるのは事実で、佐藤とおなじホンダエンジンユーザーであるスコット・ディクソンなどはツイッターでのレース・コントロール非難が喧しい。この項で行為の是非や判断そのものに立ち入ることはしないが、いずれにせよ公的な結論はすでに出ている。「no further action」だ。

***

 口ぶりから察するに、武藤英紀は低くない可能性で#14にペナルティが適用されると受け止めていたはずだが、視聴者や自身の期待、そして実際に下された裁定に反してそう思わざるをえなかったことと、彼が2010年にインディカーを去ったこととは、たぶん無関係ではない。それは武藤が直接的な体験や知識として2011年以降のブロッキングルールを知らないことを意味しているのではなく、変容するインディに呑まれていないということである。彼のなかのアメリカは佐藤のラインを許容しなかったかもしれないが、いまのインディはきっと、他ならぬ佐藤が2週間前の優勝に続いて先頭を走っていた事自体がその象徴なのだと言える程度には、彼の知るアメリカではないのだ。

 歴史家が未来からインディカー・シリーズを記述しようとしたとき、おそらく2010年はひとつの目印として旗を立てられることになるだろう。ブロッキングルール見直しの契機となった事件の発生のみならず、たとえば史上はじめてロード/ストリートコースでのレース開催数がオーバルコースを上回ったのもこの年であり、以降のインディカーは急速にオーバルレースの数を減らしてかつて対立したCARTのような相貌を見せるようになっていく。またたとえば(これがいかにも日本人による見方であることは承知のうえだが)、武藤英紀と佐藤琢磨が交叉したのも2010年だ。すなわち、ヨーロッパでもアメリカでもない場所を出身とした日本人のうち、アメリカでキャリアを構築しなおしたドライバーが去り、F1の表彰台までたどり着いたドライバーが現れて定着した年でもあったのである。アンチ・ヨーロッパだったアメリカのレースがヨーロッパへと融合していく過程――オーバルが全体の3分の1を割り込み、ブロッキングの適用条件が緩和され、佐藤が優勝を遂げ、F1と同一レイアウトとなるインディアナポリス・ロードコースでの開催が計画された2013年にいたるまでのインディカーの大きな流れが、2010年を境にできあがったと記すことはさほど困難ではない。

 武藤英紀がアメリカの空気を吸収してインディカーに上がってきたのに対し、佐藤琢磨は、ほとんど純粋にヨーロッパでのキャリアを積み終えた後に、「ホンダ」という共通項を手繰ってアメリカに移ってきた。その佐藤がインディのCART化≒ヨーロッパ化と軌を一にしてアメリカに適応していったのは、佐藤の視点からすれば偶然でしかない(それは彼の能力のなせる業だった)が、しかしインディカー側の視点に立てば示唆を発見することもできるだろう。インディカー・シリーズの起源をCARTではなくIRLに求めるなら、佐藤はラインナップの中でF1表彰台の経験とともに移籍してきた初めてのドライバーであり、ルーベンス・バリチェロがいた昨季を除けば唯一のドライバーでもある。昨季のサンパウロやエドモントンでの表彰台や先のロングビーチの優勝は、なにも「日本人」「アジア人」という冠を掲げなくとも、ヨーロッパで成功体験のあるドライバーがアメリカでも同等かそれ以上の成功を収めたという意味で、インディカーとF1が最接近した瞬間という意味で十分に歴史的な出来事だったのだ。インディカーはその変化の中で、佐藤琢磨の優勝を受け入れたのである。

 インディカーとF1は、そのどちらをも走りきった佐藤琢磨という存在を結び目として重なりあう場所を生もうとしており、その流れに逆らおうとするのは難しくなっている。たとえばサンパウロで下位に沈んだチップ・ガナッシのドライバー2人、ダリオ・フランキッティとスコット・ディクソンが、直接見たわけでもない佐藤のライン取りやそれにペナルティを科さなかったレース・コントロールを批判しているが、不調をかこつ彼ら自身の焦燥や苛立ちをひとまず措けば、ここには根底にオーバルとともに息づいていたアメリカの文脈があると受け取ることができる(もともとブロッキングの禁止は、接触が命の危険に直結するオーバルでこそ強い意味を持つものだ)。ルールブックの文言が変わろうとも、アメリカのレースはブロッキングを許さないはずなのだと、アメリカに生きてきたドライバーである彼らはそれを信じて皮肉めいた非難を口にしているわけだ。だが本当のところは、彼らの信念とは裏腹にアメリカがヨーロッパへ近づくなかでルールが――レースのルールのみならず、その精神のルールこそが――変わりつつあるにすぎない。オーバルでの事故で死亡したドライバーの名を冠したシャシーの誕生と同時に覇権を手放したことの意味を解していない彼らはそれに気づいていないだけだ。気づかないからこそ勝てなくなったのだということにも気づいていない。

 今は日本で走る武藤英紀にとってのアメリカもまた、佐藤琢磨のラインを許容することはないはずだった。だからこそ彼は実況席で何度もペナルティの心配を口にし、自分に言い聞かせるようにおなじ回数だけ「だいじょうぶだと思う」と打ち消したのである。だがその不安をよそにレース・コントロールは何らの動きも見せず、最終ラップの最終ターンにタイヤの限界からブレーキングの乱れた佐藤をクロスラインでオーバーテイクして勝利を奪い取ったヒンチクリフもフェアなバトルだったと笑顔を見せた。「異邦の他者」だったドライバーが優勝したロングビーチにインディカーとF1の接近を見て取ることができるのなら、このサンパウロは、元F1ドライバーの内にあるヨーロッパが許されたという事実によってまたひとつの歴史を築いたといえるのかもしれない。佐藤が決然たるラインでジョゼフ・ニューガーデンの攻撃を凌ぎきったとき、武藤英紀は言葉を失った。アメリカのドライバーとして生きた彼にとって自然な感情の発露だったはずのその絶句は、しかしそれが向けられた佐藤自身を象徴とするインディカーの変容を前にして、もはや文字どおり絶句のまま虚空へと消えていくほかなかったのである。

孤独な佐藤琢磨がたどりついた場所

【2013.4.21】
インディカー・シリーズ第3戦 ロングビーチGP
 
 
 もちろん、最初はダリオ・フランキッティについて書くつもりだったのである。1997年3月にCARTでデビューし、250戦目という記念すべきレースをロングビーチで迎えたスコットランド人が、これまでにボビー・レイホールとゴードン・ジョンコックを上回る31勝を挙げ、29回の2位を獲得し、29のポールポジション(これは今回のレースで30になった)と112度にも及ぶトップ10フィニッシュ(これも同様に今回積み重ねられた)を記録していることも事前に調べてあった。このインディカー史上最多チャンピオンドライバーが今年に入って不調に陥った原因がアシュレイ・ジャッドとの離婚の影響なのか単に避けられない衰えがついに訪れたのかは知らないが、しかし第3戦にしてようやく昨季のチャンピオンとロード/ストリートコースのスペシャリストを抑えて反撃の足がかりとなるポールポジションを得たことで、原稿の構想はできたも同然だった。それにしてもだ。どう転んでもそれなりにまとまった文章を書けるだろうと思っていたところで、こういう結末が待っていたりする。まったく別の話題に書き換えようとしている自分自身の心変わりをわたしは責めることができそうにない。佐藤琢磨が表彰台の頂点にたどり着いたそのレースの生中継を最初から最後まで漏らさず見て、まだ少し呆然としているのだから。

 思わず顔を覆いそうになったのは、73周目のターン8を立ち上がろうとしていたA.J.フォイト・レーシング#14のリアタイヤがほんの少しウォールに向かってスライドしたのを見た瞬間だった。チェッカー・フラッグとともに溢れる歓喜がすでに具体的な輪郭を伴いはじめていた時間帯に起きたちょっとした「事件」である。4番手スタートからグリーン・フラッグと同時にウィル・パワーを置き去りにし、23周目に全体的にマナーの悪かったこの日にあってこの上なくクリーンなパッシングでライアン・ハンター=レイを攻略した佐藤琢磨は、250回目のレースをリードしていた4度のチャンピオン経験者をピットワークで逆転すると、それから一度も先頭を譲ることなく優勝に向かって悠然とドライブしていた。最終スティントの開幕と重なった56周目のリスタートで、譲る義務があるにもかかわらず無意味に張り合ってきた周回遅れのチャーリー・キンボールが勝手に一人タイヤバリアに突き刺さっていったのを見届けると、第2スティントの終盤に差を詰めてきていたグレアム・レイホールを再び突き放し、攻撃のチャンスを一切与えなかった。もう10周以上にわたって独走が続いて、待ち望まれた初優勝のカウントダウンがコールされようかというころに、佐藤のリアタイヤはわずかに滑ったのである。

 聞こえるはずのないタイヤのスキール音が聞こえた気にすらなったほど過敏に反応したのは、佐藤琢磨のキャリアの中にあったいくつかの出来事が思い起こされたからだ。わたしは以前、彼を指して「証明されぬ才能」と書いたことがある。彼に他のドライバーよりも数多い「辿りつけそうだった瞬間」があり、そして今までそのどれにさえ辿りつけなかったことを表すつもりの言葉だった。凡庸なドライバーではない。チャンスを手繰り寄せるだけの煌めく才能を見せながら、しかしそれは一度たりとも結実することがなかった、そういう意味である。少し記憶を引き寄せただけでも、たとえば2004年F1ヨーロッパGPは最終盤にルーベンス・バリチェロのインを突いたが失敗し、アメリカGPで3位表彰台を獲得したもののチームの作戦ミスによってそれ以上の結果を失った。たとえば2010年のミッドオハイオでは予選3番手ながらコースを横切る芝刈り機と化し、たとえば2011年サンパウロではイエロー・コーション時の判断に泣き、アイオワではトップバトルの最中のアウトラップでスピンを喫して、たとえば2012年インディ500は――まだ記憶に新しい。

 一流ドライバーなら、もちろん同じくらい逸したチャンスはある。だがそれは勝利との表裏のうちに存在するものであって、何も得ずして失った数ばかりを指折り数えられるドライバーなどそうはいない。J.R.ヒルデブランドに何回チャンスがあった? 2011年インディ500ファイナルラップのターン4でセイファー・ウォールの餌食となった、あの1度きりだ。佐藤は何度も歓喜に手をかけては握りそこねてきた。それを知っているから、わたしはわずかなオーバースライドを看過できず全身に緊張を走らせたのだ。だが彼はそんな一人の日本人ファンの焦燥とは裏腹に、何事もなかったかのように――いや違う、見ているこっちが神経質になっていただけで、きっと本当に何事もなかったのだ――ターン8をクリアして、バックストレートであるイースト・シーサイド・ウェイへと加速していった。

 もし佐藤琢磨というドライバーに勝利するときが訪れるとして、わたしは、それは運によるものでも完勝でもなく、傷ついた接戦の先にあるのだろうとなんとなく考えていた。圧巻のレースはできそうにない。サバイバルレースで生き残っている可能性が高いとも思えない。生き死にを懸けて細いロープを渡ることに挑戦する勇気によってキャリアを重ねてきたドライバーだ。幾度死んだとしても、いつかバランスを崩すことなく駆け抜けるように渡りきってしまえるときが来るのではないか、そういう勝利しかありえないのではないかと思っていた。だがそういう浅はかなセンチメンタリズムをレースは受け入れたりしない。この日の彼はあまりに速かった。その背中を脅かすポテンシャルを持ったドライバーなど、コース上にありはしなかったのである。1周、また1周とラップが積み重ねられるたびに、後続との差はコンマ数秒ずつ、確実に開いていった。4度のグリーン・フラッグと1回のオーバーテイク。あったのはほとんどそれだけだ。A.J.フォイト#14は、傷一つなく美しいままだった。

 レース・ストラテジストのラリー・フォイトはレース後に言っている。"Takuma made it look too easy. It made me so nervous watching it out there."。たぶん彼は知らないだろう。佐藤の経歴を見届けてきた日本のファンは、きっと当事者であるはずのあなたの何倍も緊張していたし、その緊張は最後まで続いた。佐藤が残り2周となる79周目の半分に差し掛かるころ、20秒ほど後ろでオリオール・セルビアとトニー・カナーンがターン1でクラッシュして、レースに最後の波紋を投げかける。もう一度仕切りなおしがあれば、レイホールは限界までチャンスを窺うだろう。その可能性に怯えるには十分なほど、この日のレイホールの出足は速かった。だが冷静に考えれば2台の止まったマシンを片付ける時間があるわけもなく、リスタートの機会は訪れそうになかった。そのことを悟ってようやく、気持ちがほぐれていった。

 きっとだれが先頭を走っていたってインディはおなじように処理したにちがいない。だが見ている人間がそこに粋を見出すのだって勝手なはずである。壊れた2台がターン1のアウトサイドを塞いでしまっても、レースはフルコース・コーションにならなかった。80周目、ホワイト・フラッグを受けたA.J.フォイト・レーシング#14が事故現場の横をすり抜けていく。佐藤琢磨は一人だった。一人であるべき勝者だった。だから、ということにしておいてもいいだろう。レースはスローダウンされず、彼はターン2、3、4と、何周にもわたって繰り返されてきた一糸乱れぬ完璧なコーナリングをファイナルラップにも再現した。追いついてくる者がいるはずもなかった。そして、7周前に無用な心配をしたターン8を立ち上がったときのことだ。待ち望まれた初勝利が孤高とともにあったことを刻むのに十分な猶予が与えられたのが誰の目にも明らかになったその後に、ようやく、普通のタイミングよりいささか遅れて、終戦を告げるイエロー・フラッグは振られたのだった。

ジェームズ・ヒンチクリフの特等席

【20134.7】
インディカー・シリーズ第2戦 アラバマGP
 
 
 NASCARを個人的な射程に入れていないうえインディカーのマニアとまではいかない、というのは毎年全戦できるだけ生中継で見るようにしつつもバイウィークやストーブリーグの情報をいちいち追ったりはしないGAORAの視聴者を意味しているわけだけれど、ともかくその程度のファンをやっていると、鮮やかな蛍光緑のgodaddy.comを見るたびダニカ・パトリックを思い出してしまって(もちろん彼女はNASCARでおなじカラーリングのマシンに乗っているからべつだん間違った連想ではないけれどもあくまでオープンホイールの話だ)、ジェームズ・ヒンチクリフという中堅にさしかかりつつある後任ドライバーの存在感はつい忘れがちになってしまうのだった。わたしがカナダ人でない以上これは仕方ないことではある。日本人に覚えやすい記号性はないし、特別速いわけでもないし、エピソードといえばダニカの扮装をして周囲を気持ち悪がらせたことくらいだし、だいたいにおいてチームもマシンのカラーリングも国籍さえも違うくせになぜだかJ.R.ヒルデブランドと紛らわしい、とこれは自分だけかと思ったらGAORAで毎戦実況している村田晴郎でさえけっこう言いまちがえていたりする。昨季はチームオーナーの息子――われわれはいつまでルーキーイヤーのマルコ・アンドレッティの幻影を追い求めればいいのだろう――のほうに比べればはるかに素晴らしい活躍を見せたものの、いかんせんもう一人のチームメイトが5年ぶりにチップ・ガナッシの牙城を崩してシリーズチャンピオンになってしまった。

 とはいえアンドレッティ・オートスポートなんていう名門チームに自分のシートを置いておけばチャンスは巡ってくるのであって、ヒンチクリフは今年の開幕戦で初優勝という結果を見事に持ち帰ってみせた。エリオ・カストロネベスを堂々と切り伏せたその走りは立派なもので、ダニカ唯一のインディカー優勝が戦略と運のフルリッチの混合によってもたらされたことを思えば、実質的にゴーダディ初めての「勝利」と言ってもいいのかもしれないくらいだ。プライマリータイヤ対オルタネートタイヤという不利な状況下で切られた85周目のリスタートは今季の絶佳なシーンのひとつとしてこれからも幾度かリプレイされるだろう。オーバーシュートしかけたエリオを尻目に完璧なブレーキングでクリッピングポイントを浚い、クロスラインからのトラクション勝負でターン2を制した瞬間など、どちらが歴戦のベテランかわかったものではなかった。

 なのだけれど、その後の3位争いがあまりに白熱しすぎたせいでチェッカーフラッグまでカメラが彼をほとんど映してくれず、日本でテレビの前に座っているかぎりではどうも初優勝の印象はぼやけてしまって、それに応じてわたしが記事にしたのもシモーナ・デ・シルベストロの苦闘についてだった(なお記事の反省を挙げるとするならば、シモーナが最後のスティントで履いていたのは中古のタイヤだったようで、劣化が早かったのもおおむね必然の範囲だったのを踏まえていなかったことだ)。ようするに快挙の後でさえ、ジェームズ・ヒンチクリフはダニカ・パトリックの記憶を上書きできない後釜で、あいかわらずJ.R.ヒルデブランドと紛らわしいドライバーだったわけである。

 そして、2週間後のバーバー・モータースポーツ・パークでのことだ。予選20番手に沈んだヒンチクリフは、あげくオープニングラップで受けた追突が原因でコーション中に左後輪を脱落させてしまい、結局レッカー車によってターン3のセーフティーゾーンに片付けられることになる。開幕戦の勝者にふさわしい結末ではなかったけれど、レースでよくある不運のひとつともいえる、その程度の事故に見舞われたのだった。でもインディカーのいいところはレッカーに牽かれようとピットに戻ってマシンを修理すれば再スタートできて、ちゃんとポイントも貰えることだ。もう一度フルコース・コーションのイエローフラッグが振られればレッカー車がピットまでマシンを運んでくれる。それまでヒンチクリフはコクピットに留まることを決めた。

 それにしてもレースではさまざまなことが起こる。何も起こらない、ということだって起こってしまう。もしかすると2013年インディカー・シリーズの第2戦は、開幕戦以上にヒンチクリフにまつわるイベントとして思い起こされるかもしれない。走らないレーシングドライバーを見ることができるなんて、わざわざこのレースのため朝4時にアラームを設定した甲斐があったというものだ。そう、ヒンチクリフが望んだ「そのとき」は来なかった。バトルの少ないレースは延々とアンダーグリーンで進行し、彼のマシンをピットに移送する機会は訪れなかった。実況アナウンサーにピザの配達を待ち焦がれているようだと言われるくらい長い間、彼は何もせずただただゴーダディのシートに座っていた。

 キャッチーであることは大事だ。ついにわかりやすいキャラクターが示されたことを怠慢なインディカーファンであるところのわたしは喜ばなくてはならない。ターン4で壁とキスするのがヒルデブランドで、コースサイドでピザを待ち続けるのがヒンチクリフ、これでもう混乱することはなさそうだ。事故から実に1時間半、レースが残り15周を切ってルール上ピットへ帰れる可能性がなくなると、ジェームズ・ヒンチクリフはついにマシンを降りた。立ち上がって思う存分に手足を伸ばし凝った体をほぐす姿はずいぶんと暇を持て余した後のように見えて、なるほど仕事を取り上げられたレーシングドライバーならそれも仕方ないことだろう。インディカーにカーステレオは積んでないし、あったところで排気音がうるさすぎて音楽なんか聞けそうもない。ストラテジストと90分会話を続けるのも難しそうだ。結局ピザも届かなかった。

 でもきっとみんな羨ましかったはずだ。たしかにヒンチクリフにしてみれば退屈極まりないシートだったかもしれない。だけど普通の観客にとって、レースカーがすぐ眼前を疾走していくその場所は、たとえピザが用意されていなくたって1000ドル出しても足りないくらいの特等席だったのだから。

届けられなかったシモーナ・デ・シルベストロ

【2013.3.24】
インディカー・シリーズ開幕戦 セント・ピーターズバーグGP
 
 
 レーシングドライバーは、いつもタイヤと恋をする。最初にひとつひとつ丁寧な対話で反応を確かめる手探りのころがあって、熱が入り意のままにコミュニケーションがとれる蜜月を過ぎると、擦り切れて応答がなくなっていく晩期が訪れ、やがて耐え切れなくなって新品へと乗り換える。たまにはゴールするタイヤもあるし、別れる前に手痛い仕打ちを浴びせるタイヤもある。みんなわがままで気まぐれなのは共通だ。もちろん手荒に扱うのはご法度で、かといって下手に出すぎても温度は上がらず機能しない。ちょっとした入力の仕方の違いで、突如機嫌を損ねたり最高にはまったりする。そうやって、タイヤはひとりのドライバーを苦悩させ、歓喜に巻き込み、また絶望させてしまう。ドライバーの意思の行き着く先は、結局、路面と繋がっているタイヤしかありえないのだ。

 2012年の1年間を、シモーナ・デ・シルベストロは失意といらだちの中で過ごした。彼女の背中に新しく搭載されたロータスエンジンはインディカー・シリーズに加わるには競争力がなさすぎて、満足なレースを一度もさせてもらえなかった。インディ500ではあまりの遅さに黒旗失格の憂き目に遭ったほどだ(オーバルレースには先頭車両の105%以内のタイムを保てないとレースから除外されるルールがあって、彼女の能力の責任でないことにもう1人の被害者はジャン・アレジだった)。年々エンジンの重要度が相対的に低下しているレースの世界で、今どきその性能が低迷の一番の槍玉に上がるのは珍しい。ユーザーが次々と離れていったロータスは当然の報いとして2012年だけで撤退し、彼女の相棒はシリーズを制したシボレーになった。そして、初戦のセント・ピーターズバーグで早くも予選3番手へと舞い戻ってみせたのである。

 スタートこそ失敗したものの、デ・シルベストロのペースは一貫して優れていた。ペンスキーの2台にこそ及ぶものではなかったが、チームメイトのトニー・カナーンを上回るスピードを保ち続け、いくつかのバトルにも勝利した。目立った危険は33周目のリスタートで佐藤琢磨のリヤバンパーにフロントウイングをヒットさせたことくらいで、35周目にはおなじくターン1、ふたたび佐藤のインサイドに飛び込むと今度こそブレーキング競争を制してコーナリングの優先権を奪った。クリッピングポイントを舐めながらわずかにアウトサイドへとクルマを流しつつ立ち上がり、クロスラインでの反撃を封じると同時に次の切り返しターンのインサイドを守る一連の機動は、この日見られたあらゆるパッシングシーンの中で最も良質なものだったと言っていい。フロントウイングの破損とタイヤのグリップ低下に苦しんでいた佐藤琢磨を抜き去ったデ・シルベストロは、それからほとんどの場面でトップ5の圏内に自らを固定しつづけた。勝てる資質を持ったドライバーにしかできないことだ。

 74周目にセバスチャン・サーベドラが直角ターン10のタイヤウォールの餌食になったことによって、レースはフルコース・コーションとなる。ほぼ最後のピットストップとなると考えられた――実際そうなった――このときのタイヤ交換で、ほとんどのドライバーはオルタネート、つまり側面が赤く塗られた柔らかい方のタイヤを履いた。ゴールまでの距離は決して短いとは言えなかったが、路面にラバーが付着するレース後半に入りタイヤの寿命が伸びると考えられることや、すぐにでも降ってきそうな雨が本当に落ちてきたときに硬いプライマリータイヤと比べて操縦しやすいことや、リスタート直後に激しくなる順位争いまで想定すれば、その選択は十分に妥当な範囲にあった。オルタネートタイヤは最初のスティントで多く履かれていたが、コンディションの良くない状態でも20周にわたって極端な性能低下が見られなかったため、おそらくどのチームも自信を深めていたはずだ。4番手を走っていたデ・シルベストロにとってもおなじことで、うまくすれば表彰台以上の結果を手にできる可能性があったから、必要以上に保守的になる理由などなかった。

 フィニッシュまでコーションラップを含む36周という距離は最後まで燃料をもたせられるかどうか微妙なところだったが、ちょうど残り30周となる80周目、まだ低速走行の最中に、1周遅れのJ.R.ヒルデブランドがフロントの足回りを激しく壊して止まった。ブレーキのウォームアップ中にスロットル操作を誤って、前を走る3位のウィル・パワーに乗り上げるほど激しく追突したのだ。不幸にもバンパーを破損したパワーが後方に下がると、それを真後ろの特等席で眺めていたデ・シルベストロはいよいよ表彰台圏内に戻ってくる。クラッシュの後片付けのためにコーションが長引くことも確実になり、燃料の心配もほぼなくなった。残りの二十数周を正面から走りきれば、キャリア最高位は現実の結果となるはずだった。

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 リスタート直後、シモーナ・デ・シルベストロのスピードはトップを行くジェームズ・ヒンチクリフとエリオ・カストロネベスのそれと遜色なく、2台の後ろを楽々とついていっていた。画面で見ていても、フロントタイヤはステアリング操作に機敏に反応し、トラクションも綺麗にかかっていて、彼女には勝利の準備ができているようにさえ見えた。フィニッシュまでタイヤと幸福な関係が続けば、それは現実になってもおかしくなかった。

 しかし、タイヤをレースで正しく使い切ることは難しい。7~8周も走ると力強いペースを保つ周囲とは裏腹に、彼女のクルマにはアンダーステアの兆候が現れはじめ、走行ラインをワイドにとらなければスピードを保てなくなって、ペースがみるみる落ちていった。ヒンチクリフとカストロネベスはやがてコーナーの向こうに消え、後方からインディカーの名だたる強豪が押し寄せてくる。オーバーテイクブーストは防御用にまだ何度か使えたが、駆動力が路面に伝わらなければ意味がない。マルコ・アンドレッティがカナーンを交わして4番手に来ると、もうチームメイトの手心も期待できなくなった。

 どこかしらに原因はあったのだろう。ブレーキをロックさせた場面は見当たらなかったが、まだタイヤが冷たい時期にフロントタイヤを抉るようにターンインしたのかもしれないし、カストロネベスの真後ろでダウンフォースが少なくなっていたときのコーナリングで負荷がかかり過ぎたのかもしれない。内圧の問題があったかもしれないし、それまでのプライマリータイヤ用のセッティングではフロントウイングのダウンフォースが勝ちすぎてリヤタイヤの摩耗を促進したのかもしれない。なんにせよ、ほとんど全員がおなじコンパウンドのタイヤで走る中、彼女だけ、本当に彼女のタイヤだけがゴールに辿り着く前に終わってしまったのだ。

 106周目から108周目にかけて、彼女はアンドレッティの執拗な攻撃に決定的な破綻をきたすことなく、愚直に表彰台圏内を守り続けた。コーナーの進入ではインサイドを執拗に閉じ、立ち上がりは車体を壁際まで寄せて速度を保って、オーバーテイクのチャンスを削ごうとする。ターン11-12への、スピードを度外視しブロックを最優先に置いた直線的なアプローチなどは、紛れもなく、離れていこうとするタイヤを自らの意思のもとに繋ぎとめるドライブだった。苦闘は続き、そして、109周目の最終ターンのことだ。リーダーのヒンチクリフに向けて初勝利のためのファイナルラップを示す白旗が振られたその15秒ほど後ろで、彼女は右の180度ヘアピンへ向けてブレーキペダルを踏み込んだ。フィニッシュまであと90秒ほど、ここを抑えて、パッシングポイントとなる最後のターン1を守りきれば、表彰台に辿り着けるかもしれなかった、そんな場面でのできごとである。

 レーシングドライバーは、タイヤと恋をする。だがタイヤはわがままで気まぐれで、結局恋はいつも一方通行だ。赤く縁取られたタイヤは、切なる思いを受け止めてはくれなかった。一途なブレーキングも虚しく、アンダーステアに陥ったシモーナ・デ・シルベストロのDW12はコーナーのクリッピングポイントを大きく外す。グリップを失い外へと孕んでいった彼女の懐にやすやすと飛び込んだマルコ・アンドレッティが履いていたのも、おなじオルタネートタイヤだった。