インディはどこから来たのか、インディは何者か、インディはどこへ行くのか

【2014.5.10】
インディカー・シリーズ第5戦 インディアナポリスGP
 
 
 RACING-REFERENCE.INFOによれば、1914年にRené Thomas(カタカナならレネ・トマと書けばいいだろうか)というフランス人が「インディアナポリス500マイルレース」、いわゆるインディ500を制したらしい。この年はドラージュとプジョーを駆るフランス勢が200周のうちじつに198周にわたってレースをリードし、最終的に4位までを独占したとされている。4位に入ったのは前年にはじめてのフランス人優勝者となり、連覇を狙っていたにちがいないJules Goux(ジュール・グーと書いておこう)である。ポール・ポジションの周回が88.31mph、レース平均速度が82.47mphを記録したレースで、トマは3万9750ドルの賞金を手にしている。第一次世界大戦の戦端が開かれる少し前、5月30日土曜日のことだ。勝者がヴィクトリー・レーンで牛乳を飲む習慣はまだなく、歓喜の場でトマがなにをしていたのかは知る由もない。

 また2014年5月10日のやはり土曜日に行われたレースでは、最終スティントが燃費とスピードの二極に分かれる緊張感漂う展開となった末に、豊かな才能に溢れるシモン・パジェノーがその真骨頂たる繊細な運転で残りわずかな燃料を使い切り、先頭を守ったままフィニッシュラインまで車を運んだ。すぐにでもチャンピオン候補の表に名前を書き入れたくなる30歳はそのレースの初代優勝者として名前を記録されるとともに、ちょうどぴったり1世紀を経て、米国モータースポーツの聖地に3つ目となるフランスの足跡を刻んだ。そう、「Grand Prix Of ――」、パジェノーが制したレース名には、インディ500の場所である「Indianapolis」が、はっきりと記されている。

 開業当初レンガによって路面が作られていためにブリックヤードの愛称がついていることで知られるインディアナポリス・モーター・スピードウェイ(IMS)で、「インディ500ではないレース」の開催を計画している、という報道にはじめて接したのは昨年の4月から5月にかけてだったと記憶しているが、当初はそれがインディカー・シリーズの蹉跌になりうるように思えたものだ。少なくともここ四半世紀のインディカーを巡る流れを攫ったことがある者にとっていくばくかの寂寥感を抱かせるニュースだったことはたしかで、インディ500の価値がオーバルコースを逆走するロードレースによって汚されるような、大げさに言えば侵されてはならない精神がまさにその守護者であるはずの存在によって踏みつけられたような失望がそこにはあった。実際にはインフィールド区間の形状が違ったものの、はじめのうちは2000~2007年に行われていたF1アメリカGPとおなじレイアウトを使うと伝わっており(これは仮の計画として報じられていたのか、自分の早とちりだったのか定かでない)、タイムの差が露骨に、もちろんF1のほうが速い形で現れてしまうだろうことも懸念材料だった。

「インディ500ではない」IMSのレースに対する不安がどうしても拭いきれなかったのは、かならずしもこの計画によって現状が変更されることへの子供じみた抵抗感だけが理由ではなく、それが近年のインディカーの変容をそのままなぞる形で、かつての悪しき歴史へと回帰していく道を想起させてしまうからだった。当初オーバルレースしか存在しなかったはずのインディカー・シリーズはNASCARの人気に押されるなどして観客動員数が伸び悩み、近年は毎年のようにロード/ストリートレースを増やしてきたという背景があった。2010年代にオーバルの比率が全体の3分の1となったその潮流に、だからインディ500を抱えるIMSまでがとうとう呑まれてしまったのだろうというのが、「インディ500ではないレース」に納得するもっとも自然な解釈のはずだったのだ。それが意味するのはあきらかにアメリカからヨーロッパ的なレースへの運動であり、そしてそこにこそインディカーを巡る憂鬱が存在した。周知のとおりインディカーは、米国のオープン・ホイール・レースは、かつて実際にヨーロッパへ接近する過程で、真っ二つに引き裂かれた歴史を経験しているのだから。

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 そもそも、とあえて原点に戻ることは意味のないことではあるまい。つまり、「インディカー」とは何なのだろう。その名前から連想される第一の答えは、もちろん「インディ500を走る車」の意である。もともと、オープン・ホイール・カーで争われる米国選手権の総称は「チャンピオンシップ・カー・レーシング」であり、1997〜2008年に使われていたチャンプカーの名前もそれに由来する。1905〜1955年の大会がAAA Championship Car(AAA=American Automobile Association、アメリカ自動車協会)、1956〜1978(または1984)年がUSAC Champion Cars(USAC=United States Auto Club、米国自動車クラブ)だったことから推測されるように、インディカーは当初から定められたものではなく、米国レース史に君臨するインディ500の存在感に寄り添って自然発生的に生まれてきたものであり、きわめて象徴性の高い言霊のような名称である。規格の最高クラスであればFormula 1がどんな形であっても概念的にはFormula 1でありうるのに対し、インディカーはその名前ゆえにインディ500とともにしか生きられない、とも言えるだろう。実際、後の歴史においてそれはなかば現実化する形で証明されることになる。

 インディカーの起源についての探求は一介のアマチュアの手に余るので専門家に委ねたいが、1979年にCART(Championship Auto Racing Teams)のシリーズが始まった(より正確には、初年度の1979年は上部団体の認可が降りずSCCA=The Sports Car Club of Americaの名を借りて開催している)ころには、インディカーの名前は広く使われており、1980年から選手権も「インディカー・ワールド・シリーズ」として知られていた。ただ、それが実体的な価値を有するようになったのは1992年、IMSが「インディカー」の商標権を獲得したときだろう。このあたりの事情については詳らかにしないものの、商標を得(ようとし)たのがCARTではなくIMSだったのには、インディカーの名称の源泉がインディ500にあることと、CART発足時の混乱のため、当時シリーズを統括するのがCARTでありながらインディ500だけはUSACが運営していたといういびつな状況が関係しているのかもしれない。いずれにせよこれを境に「インディカー」は独占的な商業権利となり、ある意味では象徴性よりも具体的利益にかかわるものとしてFormula 1と同質の名称となる。そしてそのことが結果として将来の状況を複雑にしてもいくのである。
 
 
 1990年代に起きるインディ500を中心としたチャンピオンシップ・カー・レーシングの分裂を見る前に、欠かすことのできない一方の主役であるCARTについてさらっておこう。元を正せばCARTはUSACから分裂する形で生まれた団体であるが、その誕生にいたる背景にはUSACの運営能力不足に起因するレース界の停滞があったようだ。当時の選手権は全国的に開催されるとはいっても広汎な人気を獲得していたとは言えず、インディ500を除けばまったく注目を浴びることのないイベントだった。インディ500を全米トップクラスの祭典に成長させたのはIMS社長のアントン・ハルマンだったが、彼がUSACの創設者でもあり、オフィスもインディアナポリスに構えていた弊害なのかどうか、USACじたいがIMSにしか関心を払わない組織で、その他のサーキットとの連携は弱く、影響力も小さかったという。インディ500以外は雀の涙ほどの賞金しか支払われず(ふたたびRACING-REFERENCE.INFOを引くと、たとえば佐藤琢磨が所属するチームのオーナーとして日本人にもよく知られるA.J.フォイトは、1977年に4度目のインディ500優勝を果たした際に25万2728ドルを得ているのに対し、同年オンタリオ優勝時にはそのたった6%の1万5369ドルしか受け取っていない)、テレビ中継がないのはもちろん、観客を呼びこむ努力すらなされなかった。各サーキットの経営者やプロモーターの思惑がそれぞれバラバラで勝手なレース運営を繰り返すにもかかわらずUSACにはそれを止める力も意思もないなど、およそ一貫性を欠いた、インディ500さえあればそれでいいといった名ばかりの選手権だったようだ。人気がないのは当然のなりゆきだったのだろう。

 リーダーシップを発揮できないUSACに対しレーシングチームのオーナーたちは不満を募らせていたが、1977年10月にハルマンが死去するとそれははっきりとした形をとり始めた。現役時代にF1で3勝、NASCARで5勝を上げ、インディ500でも2度の2位を記録したダン・ガーニーは、イーグルのオーナーを務めていた1978年初頭、他のオーナーたちに向けて、のちにGurney's White Paperと呼ばれることになる手紙を宛てている。かつて苦境に陥っていたF1がコンストラクターたちによってFOCA(Formula One Constructors Association、現在のFOAの源流にあたる)を組織し、最高権力者として据えたバーニー・エクレストンに絶対の忠誠を誓うことで商業的成功を収めた事例を引き合いに出して、レーシングチームばかりが費用を負担しているUSACの現状を改善するため、レースの当事者たるチームが積極的に運営をサポートすることで参戦コストを低下させながら大会を盛り上げ、観客の増加、テレビ放送の拡大、スポンサーの獲得によって利益を得て、公平に分配するべきだと訴えたその手紙には、来るべきオーナー組織の呼称もまた記されていた。〈Let's call it(the organization) CART or Championship Auto Racing Teams〉――おそらく、これこそCARTの初出である。レーシングチームの選手権というガーニーの構想に共鳴したチームオーナー(そのうち一人が、いまもチーム・ペンスキーに君臨するロジャー・ペンスキーだった)たちは、その年の夏のうちには結集している。

 折悪しく、USACはハルマンの死去からわずか半年後の1978年4月23日にインディアナポリス郊外で発生したプライベート機の墜落事故によって副社長や技術責任者をはじめとした主要メンバー8人を失っており、組織に空白が生じていた。そのせいもあってか、CARTとUSACの交渉はどうやら不調に終わったらしい。11月に要求が拒否されるとCARTはすぐさま自らレースを開催するべく動いた。有力オーナーによって組織され、A.J.フォイトなど発言力の強いドライバーがその趣旨に同調していたことも手伝ってCARTは各サーキットの支持を取り付け、独自シリーズの構想は滞りなく現実化していく。前述のとおりACCUS(Automobile Competition Committee for the United States、米国自動車競争委員会)の承認が得られず体裁上はSCCAを借りることにはなったものの、1979年3月11日にアリゾナではじめてのCARTレースが「インディカー」のシリーズとして開催され、USACで20勝を重ねた42歳のゴードン・ジョンコックがまったく新しい勝利を手に入れた。この年行われた21の選手権レースのうち、CART傘下のものはすでに14にのぼっていた。

 主導権争いに敗れたUSACも1984年までCARTに対抗して選手権を開催していたものの、もはや趨勢は明らかで、チャンピオンシップ・カー・レーシングの実質的な担い手はCARTと言っていい状況になった(ただしUSACはインディ500の運営だけは手放さず、その二重体制は結局CARTからインディ500が失われるまで続いた)。そしてCARTは少しずつ、USACを引き剥がすかのように相貌を変化させていく。

 もともと1970年にUSACがロードレースとダートトラックレースを整理してオーバルに一本化していたため、CARTの始動当初もロードレースの開催は少なく、オーバル比率は1979年に13/14、1980年9/12、1981年9/12ときわめて高い水準にあった。またドライバーはほぼアメリカ人で占められ、外国人の顕著な活躍はオーストラリアのジェフ・ブラバムが1981年にロサンゼルスでポール・ポジションを獲得したのと、翌1982年にメキシコのヘクトル・レバクがロード・アメリカで優勝した出来事ぐらいしか認めることができない。その意味で当初のCARTはあくまでUSACの延長上にある、かなり保守的な(いかにも米国的な)相貌の選手権だったということだろう。古き善き時代というものを懐かしむとしたら、人によってはこの頃かもしれない。

 そのような状況から最初の変化が起きたのは1983年で、全13レースのうち6レースがロードコースで行われてオーバルの重要度が一気に低下するとともに、F1経験を携えてきたイタリア人のテオ・ファビがいきなり6回のポール・ポジションと4勝を上げる活躍でシリーズ2位に食い込み、新人賞を獲得している。5点差で辛くもチャンピオンとなったアル・アンサーは2位4回ながらわずか1勝しかしていないから、米国のファンにしてみれば勝った心地はしなかったことだろう。ファビは翌シーズン途中でF1へと帰り、シリーズにはふたたびアメリカ人ドライバーが並ぶことになったが、しかしもうひとつの変化であるオーバルコースの減少のほうは止まることはなかった。1985年にオーバル比率が7/15となってはじめて半数を割り込むと、以後オーバルの数がロード/ストリートを上回る年は一度として来なかったのである。1991年など、全18レースのうちオーバルの開催はたった5回だった。

 北米に特有のコースであるオーバルの割合が下がるなかで垣根が取り払われたのか、1980年代後半からは外国人、それもファビ同様にF1経験があるドライバーの活躍が少しずつ目立つようになってくる。2度にわたるF1チャンピオンの経歴を誇るエマーソン・フィッティパルディは1984年にCARTで現役復帰すると1985年から毎年勝利を記録し、1987年にはF1で芽が出なかったコロンビア人のロベルト・グェレロも2勝を上げた。そして1989年、米国はついに「陥落」する。42歳となっていたフィッティパルディはこの年絶好調で、23年ぶりにアメリカ人の手からインディ500を奪い去ると、6月から7月にかけて3連勝を記録。ついにはリック・メアーズ――3度のCART王者にして、インディ500を4勝した――を10点差退けて、戦後はじめて米国の選手権を獲得した外国人となったのである。

 翌年のインディ500もオランダのアリー・ルイエンダイクが優勝するなどCARTの国際化は少しずつだが進み、1993年、前年にF1を制したばかりのナイジェル・マンセルが現れてあっさりとCARTをも攫っていく。同じ年、CART王者の肩書を背負ってヨーロッパに渡ったマイケル・アンドレッティはチームメイトのアイルトン・セナに手も足も出ず、シーズン途中で若いミカ・ハッキネンにシートを奪われていた。

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 未来から歴史を振り返ってみると時おり必然としか思えないような奇妙な符合に遭遇したりするものだが、ダン・ガーニーがチャンピオンシップ・カー・レーシングの発展のために参照したのがバーニー・エクレストンであったこともまた、ずいぶんと示唆的に感じられる事実の一つかもしれない。F1の成功をモデルとしたCARTが1980年代半ばから1990年代にかけて辿りついたのは、ヨーロッパに通ずるロードコースの増加とグローバル化にともなうドライバーの多国籍化、さらには車輌の重要度が向上したことによる技術重視主義という、まさに世界選手権であるF1そのものの姿だった。そしてそうなれば当然、インディカーとF1の比較も露骨になってくる。1993年に両者の間で「交換」された2人の王者のあまりに対照的な結末は、世界のモータースポーツ秩序におけるインディカーの位置づけを問うようでもあった。

 1992年に「インディカー」の商標権を獲得し、インディカー・ワールド・シリーズの名前をブランドとして確立しようとしていたIMS社長のトニー・ジョージ(アントン・ハルマンの孫にあたる)にとって、どうやらこのような状況は我慢ならないものだったらしい。1994年、マンセルに圧倒された次のシーズンのオーバル開催数は全16レース中6回に過ぎず、フル参戦ドライバー24人のうち、アメリカ人はイタリア生まれのマリオ・アンドレッティとドイツ出身のドミニク・ドブソンを含め11人だけになっていた。そんな「世界的な」シーズン開幕前にジョージが発表した構想は、やがてインディカーの行く末をふたたび左右することになる。すなわち、オーバルに特化しアメリカ人を揃えた低コストのシリーズ、IRL(Indy Racing League)を立ち上げる――。

 IRLが誕生するまでの過程には、あきらかに歴史の皮肉が見て取れる。もともとCARTの成り立ちを考えると、その目的のひとつはレーシングチームの利益を確保し、参戦費用を軽減することにあったわけだった。Championship Auto Racing Teamsといういささか奇妙にも思える名称には、チームこそレースに欠かすことのできないピースであるという信念が込められていたはずである。

 だがインディカーのシリーズとして成功を収め、飛び交うドル札が増えていくごとに、組合的、互助会的に成立したはずの組織運営はいびつなものになっていったようだ。マシニスト・ユニオン・レーシングの監督だったアンディ・キノペンスキーは、1986年に「5年前に年間50万ドルだったコストが、いまでは200マイルレースに出向くために4万ドル必要になっている」と話している。参戦費用は年間100万ドル単位に膨れ上がり、すでに弱小チームの財政を圧迫するようになっていたという。

 さらに3年後、彼は一部のオーナーが、より有利に、そしてより裕福になるようCARTの運営を私物化していると強く批判することになる。1988年から1989年にかけて行われた32レース(非選手権含む)のうち、じつに28レースで優勝したのはシボレー−イルモア製のエンジンを搭載した車だったが、圧倒的な戦闘力を誇るこのエンジンを使用できたのは、CARTの幹部に名を連ねるオーナーが所有する4つのチーム――ニューマン・ハース・レーシング、ギャル・レーシング、そして皮肉なことに志高きCART創設メンバーであったはずのパトリック・レーシングと、チーム・ペンスキーだけだった(フィッティパルディの王座は、そのようにしてもたらされたのであった)。エンジン供給数を制限することで、CARTは自分たちにとって都合のいい結果を作り、収益を特定の場所へと集中させるようにしたのである。キノペンスキーの怒りは、このように中小チームの予算をいたずらに圧迫し、財政規模の大きいチームだけが有利になるようレギュレーションを操作するペンスキーたちに向いていた。

 運営における疑惑はそれだけではない。たとえば1990年にポルシェ・ノース・アメリカがカーボンファイバー製のコクピットを開発して投入、ジョン・アンドレッティを非シボレー勢として最上位のランキング10位に送り込んだが、CARTはそれを即刻禁止し、ポルシェにこの年限りでの撤退を決定させている。この件に非難の矛先を向けたトニー・ジョージの主張が正しいとするなら、表向きは安全面を理由としたこの措置は、実のところシャシー開発に乗り出していたペンスキーと、その他のシボレー搭載チームが使用するローラを「援護」するためのものだったという。ジョージは1992年から議決権のないメンバーとしてCARTの運営に加わったが、ほどなく辞任している。

 かくまでに金持ちクラブと化して一部の横暴がまかり通るようになったCARTに対し、中小チームのオーナーは確実に不満を募らせていた。IRLが発足するまでの過程に横たわっていたのは米国の喪失と、なによりその事態を導いた志を忘れた運営だったのである。それはまったくもって、いつか見たような話だった。
 
 
 IRLの誕生によって、チャンピオンシップ・カー・レーシングは四半世紀前にCARTがUSACから分裂した過去をなぞるようにふたたび南北戦争へと突入した。体制と化して商業主義に塗れたかつての革命家と回帰主義者との対立は、最終的にインディカーとインディアナポリス、そしてインディ500が不可分に結び合っている事実を強く再認識させる結末を迎えることになる。

 1994年に新団体が発足したとき、すでに一般名称ではなく商標となっていた「インディカー」の名前を使用できる権利は限定されていた。当然オリジナルの権利を持つのは1992年にそれを取得したIMSであったはずだが、1997年までCARTにライセンスする契約が結ばれており、IMSが中心となって発足したにもかかわらず新団体は「インディカー」を使えずIndy Racing Leagueを名乗る。しかしCARTとIRLの交渉が物別れに終わり、1996年からIRLの独自シリーズ(大会名はそのままIRLとなった)が実際にスタートすることが決定的になると、IMSはIRLのためにCARTへのライセンスを停止しようとした。CARTは契約を護るためにIMSを提訴するが、IMSの側も反訴によって対抗し、「インディカー」の名前はついに法廷の場に持ち込まれる。その詳細については残念ながらわからないままだが、両者が最終的に和解した条件は「CARTは1996年限りでインディカーの名称を放棄する。ただし、IRLも2002年12月31日までその使用を停止することとする」というものだった。

 この争いにおいて、シリーズの目玉となりうるインディ500の位置づけは重い。先述したとおりCARTが1979年にスタートしてからもインディ500だけはUSACによって認可されるイベントであり、1980年のCRL(Championship Racing League、USACとCARTの歩み寄りによって結成されたがわずか5戦で頓挫した)開催、1981〜1982年のUSAC開催を経て、1983年以降は「USACが認可するCARTとは別の大会であるが、順位はCARTの選手権ポイントに反映される」という二重体制のもと実施されてきた。IMSが開催地であることはもちろんのこと、そういった経緯からインディ500はごくごく自然とIRLのものとなり、そしてCARTがインディカーの名称を放棄したのは、まさにインディ500を持っていないのにそれを名乗ることに意味がないからだった――それは、「インディ500を走る車」の謂なのだから。

 もとより決して強いとはいえなかったインディ500とCARTの関係はこうして断たれる。1996年シーズンはすでにインディ500を失っていたにもかかわらず「インディカー」を使い続けているが、これは、Twitterアカウント@epsilon5a EPSILON(イプシロン)氏によればその年のインディ500を走る車が一年落ちのCART車輌だからという事情があったためだという。つまりは最後のシーズンも結局はインディ500とのかかわりのなかにしかなかったわけである。IRLに対し2002年まで冷却期間を置かせたのは商売上の必然とはいえ、インディ500とともにインディカーを失った傷は深く、そしてまた、化膿が広がるようにCARTをやがて蝕んでいくことになる。

 結局CARTは1997年から伝統的な名称である「チャンプカー」を使用するようになり、またIRLも「インディカー」を止められてしまったため、以後6年にわたって名目上の「インディカー・シリーズ」は消滅する。その間CART対IRLの対立は激化の一途をたどっていくが、決着の要となったのはやはりインディ500であった。
 
 
 1995年5月に発表されたIRL初年度の開催はわずか3レース、フロリダに建設予定のウォルト・ディズニー・ワールド・スピードウェイで1996年1月27日に実施される初レースに続いて、3月24日のフェニックス、5月26日のインディ500でシーズン終幕となっていた。さびしい日程ではあるが、IRLは将来に向けてインディ500を最終戦にする構想を持っていたから、それに向けての第一歩とも言えた。対するCARTは、直後に出した同年のカレンダーでIRL潰しの意識を隠す素振りもせず露にしている。3月17日に第2戦ブラジル・リオデジャネイロ、そして3月31日にはオーストラリアのサーフェス・パラダイスで第3戦が組まれたその意図が、遠い外国でのレースでIRLの開催週を挟みこんでチームやドライバーのIRL参戦を妨げることにあったのは明らかだった。

 設立の経緯からしてIRLは弱小の集まりであり、CARTにレベルの面で太刀打ちできるはずもない。IRLの狙いは当然ながら有力チームや有名ドライバーの排除ではなく取り込んだうえでの服従であり、そのための頼みの綱は40万人の動員力を誇る商業的価値や、抗いがたい伝統を持つインディ500だけだった。CARTの日程を確認したIRLは1995年7月3日、圧力への対抗策としてインディ500を前面に押し出した新しいルールを発表する。やがて「25/8ルール」と呼ばれるようになったそれは、1996年5月26日のIMSに用意される全33グリッドのうち25グリッドを――まだそれだけの台数が用意できるかどうかもわからないうちに――IRLポイントの上位者に与えるというものだった。しかもそのポイントを、各レースで獲得した合計に参戦レース数を乗じて算出することにしている(シーズンが3戦しかなかったにもかかわらず、初代チャンピオンのバル・カルキンスが246点を稼いでいるのはそういう理由で、82点×3レースだった)。つまりIRLに「フル参戦」することをインディ500参加の条件にしようとしたのである。これは、1980年代初頭にUSACとCARTがインディ500にかんしてだけは共同歩調をとったような妥協が不可能になることを意味していた。

 IMS社長のトニー・ジョージがインディカーを北米に回帰させようとしたのは伝統的な保守主義によるものではなく、多くはビジネスに基づく判断、つまりそうしたほうが人気を見込めるからというものだったようだ。実際、ジョージはいくつかの改革によって、伝統を重んじる人々を怒らせている。長らくインディ500のためだけに存在したIMSがNASCARに開放され、ブリックヤードをストックカーが走ることになったのは1994年のことだ。バーニー・エクレストンと接触してF1を誘致しようとしてもいる(これは2000年に実現した)。そして25/8ルールもまた、インディ500を破壊しかねない危険をはらんでいた。つまり強力なCART勢が参戦できなくなることは、「最高の33台による世界最速のイベント」でなくなるも同然だった。IRL勢だけでレースのレベルを充足させることは不可能に近い。それでもIRLは、インディ500を自らのビジネスのために自らだけのものにしようとしたのである。

 25/8ルールに反発したCARTは1995年12月にインディ500のボイコットを決定、インディ500とまったく同日の1996年5月26日に、インディ500とまったく同じ500マイルオーバルのU.S.500をミシガンで開催することを発表する。はたして当日、インディアナポリスに車輌を運び込んだCARTのチームはギャル・レーシングとウォーカー・レーシングのみ、それも1台ずつに過ぎず、ステアリングを握ったのは控えドライバーだった。そして、その程度のCART勢にIRLは2位を奪われた。予選最速タイムを叩きだしたスコット・ブライトンが練習走行の事故で死亡する悲劇の直後にスタートが切られたレースで優勝したのはバディ・ラジア――後のIRLチャンピオンとして名を残すことになるが、当時はCARTで勝利がなかったどころか最高位7位、一桁順位を記録したのはたった2回の、何ということはないドライバーである。いやそもそも、コース上にいるほとんどがそんなドライバーだった。このインディ500のスターティング・グリッドに並んだ33人のCART優勝数は、すべて合わせてもわずか5。もっとも実績があったと言えるのはF1で5勝したミケーレ・アルボレートだが、予選12位、決勝はリタイアに終わっている。アメリカ人の優勝経験者は、18年前にUSACで最後の勝利を上げた54歳のダニー・オンガイス以外だれひとりいなかった。

 詳細なデータは不明だが、しかし、にもかかわらず、どうやら観客動員数もニュースの注目度もU.S.500よりインディ500が上回ったらしい。サーキットの規模や開催期間が違うので単純な比較はできないが、ミシガンの観客が11万人ほどだったのに対し、インディアナポリスはさすがに例年より減らしたもののそれでも30万人以上を動員したという(どちらも公式発表はされていない)。初年度の直接対決がこのような結果になったことが、あるいは未来を決定づけたのかもしれない。CARTの最重要イベントとして位置づけられたはずのミシガンからは以後、毎年のように観客がいなくなり、1999年の入場者数は5万人台に急落していた。
 
 
 名目上その名称を名乗ることはできなかったといっても、実態としてIRLが「インディカー」であったことは、象徴となるレースの存在によって明らかだった。1997年以降も変わらぬ人気を維持し続けたインディ500は、跳ねのけられない伝統の祭典として強い影響力を持ち、IRL対CARTの未来を決定づけていく。たとえば2000年にはチーム・ペンスキーを解雇されたアル・アンサーJr.がIRLに転向して初勝利を記録し、また現在に至るまでインディカーの有力チームとして知られるガナッシ・レーシングがCARTのチームとしてはじめてレギュラードライバーをともなってインディ500に参戦し、「デビュー戦」のファン=パブロ・モントーヤが167周をリードして優勝している。

 この出来事じたいは「人気のIRL、実力のCART」をより実感させる結果に過ぎなかったが、同時にCARTが失ったインディ500やインディカーを欲していることを印象づけるものでもあった。2001年にはガナッシに加え、IRL設立時の最大の敵だったチーム・ペンスキーと、マイケル・アンドレッティ擁するチーム・クール・グリーン(のち、アンドレッティ・グリーン・レーシングを経て現在アンドレッティ・オートスポート)がインディ500に加わった。さらに前年CART開幕戦の舞台だったホームステッドやマディソンなどレース開催そのものがIRLへと移行を始めており、CARTの退潮が確実に目に見えるようになってきていた。

 2002年、チーム・ペンスキーがCARTから完全撤退してIRLでフルシーズンを戦うことになり、レベルの高さ以外にアピールポイントを持たなかったCARTの打撃は決定的なものになった。そして終焉は訪れる。2003年に商標の停止期間が終了し、IRLがついにその大会名を「インディカー・シリーズ」へと変更して名実ともにインディカーの中心地となると、ガナッシやアンドレッティ・グリーン・レーシングなどの有力チームが雪崩を打って移籍。エンジンを供給するトヨタとホンダまでがインディカーへと移った。大会のタイトルスポンサーであるFedExにも撤退されたCARTは金銭的に立ちゆかなくなり、設立26年目にしてとうとう経営破綻に見舞われた。最後のシーズン、オーバルレースは全19戦のうち3戦。フル参戦したアメリカ人ドライバーは2人だった。

 それからについては詳しい人も多いだろう。 新しく結成されたコンソーシアムのOWRS(Open Wheel Racing Series)がCARTの資産を引き継いで2004年からチャンプカーの新選手権であるCCWS(Champ Car World Series)を継続開催するが、徒花になったセバスチャン・ブルデーの4連覇を歴史の最後として、2008年開幕戦をもってすべてのレースを断念、チャンプカーはその名のもととなったチャンピオンシップ・カー・レーシングから姿を消す。インディカーは働き場を失ったCCWSのドライバーを引き受け、サーキットには多数の「ルーキー」がひしめいた。そんな年の新人賞が下位カテゴリーのインディ・ライツからステップアップしてきた日本の武藤英紀だったことはよく知られていよう。
 
 
 武藤の新人賞は日本人として2004年の松浦孝亮以来2人目の、また1996年のIRL開始から数えて6度目の外国人による受賞だった。この事実からもわかるとおり、IRLが当初掲げた「北米のドライバーによる選手権」の構想はさほどうまくいったわけではない。1998年にスウェーデンのケニー・ブラックが5人のアメリカ人を足元に従えたのを皮切りに、2013年までに外国人がシーズンを制した年は10回を数え、とくに「インディカー・シリーズ」となってからは2006年のサム・ホーニッシュJr.と2012年のライアン・ハンター=レイがようやくアメリカ人王者として挙げられるだけである。交通の発達によって地球が狭くなっていく中で、米国だけの選手権を維持することは難しかったということだろう。それはやむを得ないことだ。だがインディカーはもうひとつ当初の意思を、運営自らの手によって覆した。4月3日のセント・ピーターズバーグ、8月28日インフィニオン、9月25日ワトキンス・グレン。CARTが消滅して2年目、2005年のインディカー・シリーズのカレンダーには、はじめてロード/ストリートコースでのレースが開催されると記されていたのだった。

 インディカーがかつて拒絶したレースをふたたびカレンダーに組み込んだ理由はわからなくもない。CCWSが力を失っていく過程で、当然のことながらオープン・ホイール・カーによるレベルの高いロードコースが米国から消えつつあり、その充足が必要だった、というのは一面の真実だろう。また最初に書いたようにNASCARの人気に押されてオーバルだけでは集客が見込めなくなっていたから、カンフル剤としての効果を期待したということも考えられる説ではある。いずれにせよインディカーはある意味で禁断の果実に手を出した。ロングビーチの週末は20万人近い観客を集め、インディ500を除くあらゆるレースの動員数を上回ってしまった。それを見れば、次の手が俗手になることは容易に想像できたはずである。

 その後のインディカーの歩みを書こうと思えば、ほとんどCART初期のそれをコピーしてくれば足りるかもしれない。CART時代と同様にオーバル開催は次々と姿を消していき、2010年、ついにシーズン全体の半分を割り込んだ。そして同じ年、インディカー・シリーズでははじめてF1の表彰台を経験したことのあるドライバーとして佐藤琢磨が現れる。2年後のインディ500の最終ラップで果敢な首位攻防の末に敗れた彼は、2013年、だれもが知ってのとおり「新しい地域」の優勝者として、インディカーの歴史にその名を刻みつけた。

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 もちろん、これはシモン・パジェノーが勝利したインディアナポリスGPの話なのだった。2014年、「インディ500ではないレース」が開催されたインディカー・シリーズはすでに全体の3分の1までオーバルレースの数を減らしている。インディ500がその年の最初のオーバルとして設定されるのもすっかり恒例になった。昨季こそやや紛れの多いシーズンとなったものの、それ以前の数年間がチップ・ガナッシ・レーシング、チーム・ペンスキー、アンドレッティ・オートスポート以外はほとんど勝ち目のないシリーズだったことは記憶に新しい。ダラーラの一社製造になっているシャシーも、「一部の有力チーム」であるチップ・ガナッシやペンスキーが優先的に素性の良いものを選択し、残りを中堅以下のチームで分け合っている、というような噂がまことしやかに囁かれていた時期もあった。

 こうしてみれば、現在のインディカーを取り巻く状況がCARTの末期に酷似していることはだれの目にも明らかだろう。あるいはビジネスのために25/8ルールが作られた瞬間から、現在という未来は暗示されていたのかもしれない。カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の冒頭で、歴史は二度現れると述べたヘーゲルの言葉に「一度は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として」と付け加えたのである。CARTの開始からIRLの分裂まで17年、そしてIRLがレースをスタートさせて18年が過ぎた。いま歴史は繰り返されている。インディ500をなにより守ったはずのインディカーがもうひとつのインディアナポリスを開放することを笑劇であることの証として。

 IRLがCARTから分裂した、できたのは、それがインディ500と不可分な関係にあったからだった。CARTは精神の最後の奥底においてインディカーではなかった。そこにインディアナポリスがインディカーを取り戻す道があったのだ。だがIMSそのものが変容していっているいま、分裂することはもうできない。オーバルだけを求めるかつてのIRLが新たに現れたとしても、インディ500を持たない以上、能力においても象徴性においても力を得るときはけっしてやって来ないだろう。だからこそ、インディカーが繰り返す歴史はもはや悲劇性をまとうことなどできず、笑劇にならざるをえなくなってしまう。

 われわれはパジェノーの勝利に問いを向けなければならない。はたしてそれは、インディアナポリスに刻まれた3つめのフランスだったのか、あるいは別の、インディカーとは違う何かの始まりとして、ただ同じ地に現れただけだったのか。歴史を呼び起こした偉大な回帰だったのか、虚ろな笑いとともに受け入れるしかない反復の現実だったのか。その答えはわれわれインディカーの観客が、すぐに戦われることになる次のインディ500をはじめとした未来のなかに見つけていかなければならない課題である。シモン・パジェノーはインディアナポリスのロードコースを平均96.462mphで駆け抜けている。インディカーはインフィールド区間を何度も右に左に曲がりながらなお、ほとんど全開だったであろう100年前のレネ・トマより14mphも速く走るようになった。

【参考】
RACING-REFERENCE.INFO
(http://racing-reference.info)

Dan Gurney’s All American Racers
(http://allamericanracers.com)

Gordon Kirby, “The Way It Is/ The tragedy of history repeating itself”
(http://www.gordonkirby.com/categories/columns/theway/2012/the_way_it_is_no350.html)

The Philadelphia Inquirer 1986/8/18, “Team Manager: Indy Cars Too Expensive”
(http://articles.philly.com/1986-08-18/sports/26063958_1_cart-series-cart-board-indy-cars)

Los Angeles Times Jan.8.1990, “CART to Deal With Disarray in Its Meeting“
(http://articles.latimes.com/1990-01-08/sports/sp-167_1_winter-meeting)

Twitter: EPSILON(イプシロン)氏 @epsilon5aのツイート
(https://twitter.com/epsilon5a/status/466209223731212289)

その他インディカーに関する各ニュース

Please, start your engines

【2014.4.27】
インディカー・シリーズ第3戦 アラバマGP
 
 
 眠い目をこすりながらなんとか布団から体を起こしテレビをつけたはいいものの、とびこんできた情報に暗澹たる思いがしたのは一人や二人ではあるまい。中部夏時間の14時ごろにニューヨーク・ジェッツの伝説的クォーターバックである “ブロードウェイ” ジョー・ネイマスによって宣言されるはずだったシリーズ第3戦のスタート・コマンドは、激しい雷雨のために行きどころをなくしていた。高低差が大きく、低地に向かって流れる水がコースのいたるところで川を作るような状況下においてはインディカーを走らせるなどまったく非現実的で、最初のグリーン・フラッグが振られるまでにどれくらい時間がかかるか想像もつかなかった。実況席の武藤英紀がカメラが回っていないのをいいことに仕事を放棄して寝てしまおうとするなか、おなじようにまんじりとしようにもうまく目を閉じられず、2週間前のロングビーチで事故を起こしたドライバーたちが、自分が悪いとは言いたくないがかといって相手を非難するわけにもいかないといった面持ちでずいぶんと歯切れ悪くインタビューに応じているのを、ソファに横になりながらぼんやりと見ているしかなかったわけである。日本時間で言えば朝4時から150分の間、目的もなく起きているにはつらい時間帯に、われわれは遠いアラバマで車が走り出すのをただひたすらに待ち続けていた。

 えんえんと待たされていることによって昨年のアラバマを思い出して、そういえば、とばかりに気づいたらレースが始まる前に書くことを決めてしまっていた。昨季最終戦のフォンタナにせよ、前戦のロングビーチにせよ、ここ数戦どうやら過去の記憶を鉤にして記事を書くのが常態化し、文章から新鮮味が欠けつつあることは自覚しているのだが、ふとしたきっかけで思い出を喚起されるレースというのがあるのもたしかだ。そう、ジェームズ・ヒンチクリフはたったひとり、アラバマはバーバー・モータースポーツ・パークのターン3で待ちぼうけを食っていたのである。

 2011年10月16日に起きたダン・ウェルドンの死亡事故によって空白となったアンドレッディ・オートスポートのシートに収まることになり、インディカーを去ったダニカ・パトリックからgodaddy.comの支援も引き継いだヒンチクリフは、2012年のシーズンで表彰台を経験し、デビューから3年目を迎えた2013年の開幕戦で初優勝を上げた。そうはいっても(わたしにとって)どうも影が薄く見えるドライバーだったことは当時書いたとおりであるが、実際のところ1回きりの優勝ではまだ強さに信頼が置けるわけではなく――その後2勝を積み重ねた2013年が終わっても、結局その不信感が拭い去られることはなかったのであるが――、第2戦として組まれていたアラバマではあまりにもあっさり予選20番手に沈んだあげく、1周目の事故によって左後輪を失いターン3脇の安全地帯に片付けられてしまった。つまらない結果ではあったが、車が完全に走れなくなっていないならインディカーではそれだけでリタイアには至らない。もう一度イエロー・フラッグが出てフルコース・コーションになればピットに牽引してもらえるし、車を直せば再スタートもできる。そうやって、レースを終えるよりもいくばくかのポイントを積み重ねることができれば上等だ。ヒンチクリフは車を降りることなくコクピットの中でその可能性を信じて待ち続けた。きっと目の前を通り過ぎるライバルたちをぼんやりと見ているほかないまま、現地実況にピザの配達に首を長くしているようだと冗談を飛ばされるほど長く長く待ち続け、そして、結局ピザは届かなかった。レースはついに残り15周までグリーン・フラッグ下で行われ、ルール上ピットに戻るチャンスを失ったヒンチクリフは立ち上がって手足を思い切り伸ばしていたのであった。

 べつにヒンチクリフとわれわれを重ねあわせようという気があるわけではないが、なぜかアラバマでは2年続けて「待つ」ことがキーワードとなってしまったと、それだけの筋も良くない話である。それにしてもヒンチクリフが待たされていた場所は全開で加速していくレースカーが眼前をひっきりなしに通る羨ましいほどの特等席だったのに、われわれと来たら重たい頭をどうにか働かせながら、静かなサーキットに思いを馳せるしかなかった、そのことだけは不公平だったかもしれない。この日言えるのはそれだけだ。

 レースの内容? あまりに待たされすぎたせいでせっかく連覇を成し遂げたライアン・ハンター=レイをまったく気にかけることもできず、メカニックの耐火服がそっくりだったせいでエリオ・カストロネベスがピットボックスを間違えた(きっと彼も眠かったんだと思う)ことくらいしか覚えていない。でもそれで構わないだろう。われわれが朝の4時から戦っていた耐久レースは本当なら6時すぎには終わっていたはずなのに、最初のグリーン・フラッグが振られたのは朝も6時半になってからのことだ。だから知ったことではないと言ってしまおう。スタートから先、チェッカー・フラッグまでのいっさいは、このレースに限っておまけみたいなものだったのだ!

マイク・コンウェイの勝利はただただ現象だった

【2014.4.13】
インディカー・シリーズ第2戦 ロングビーチGP
 
 
 朝も8時に近づき、外はだいぶ明るくなっていた。スタートから70分が過ぎたレースはすでに終盤の入り口へと差し掛かっており、日本人にとっては、ただでさえ憂鬱な週初の出勤にとりあえずは急き立てられることなくレース終了まで見届けることができそうだと、部屋の掛け時計に目をやって安心していたころのことである。最初のグリーン・フラッグからつけっぱなしだった照明を消して、差し込む朝日のせいでテレビ画面に自分の姿が映り込んでしまうのを避けるように見ていた怠慢な目にさえ、56周目のターン4に向かってライアン・ハンター=レイが飛び込んでいくタイミングはあからさまに遅すぎるように映った。ピットストップを遅らせる作戦が功を奏して先頭を走っていたジョゼフ・ニューガーデンは交換したばかりの氷のように固く冷たいタイヤで走行ラインをやや外側へとはらませていたが、それでもこのターンを守り切ってクリッピングポイントをかすめながら脱出しつつあり、攻めてくる相手に対して空間を残す理由など持ち合わせていなかったはずだ。普通ならたんなる牽制としての動きに過ぎず、次の長い直線での攻防に切り替わっていくべきところで、われわれは彼がハンター=レイであることをあらためて思い出すことになる。はたして2年前のシリーズ・チャンピオンはブレーキを制御することに失敗し、何度も犯してきた同種のミスをまたもなぞるように、初優勝を目指して奮闘していたニューガーデンの右リアを無意味に跳ね上げた。その瞬間、見た目に穏やかでありつつも捻じりあうような時間の削り合いが続いていたレースは霧散していったのだった。

 ブラインドコーナーの先で動けなくなった2台はさらに後続の追突を誘発し、合計6台の上位勢が一瞬にしてサーキットから消えた。そこからチェッカー・フラッグまではあまりレースと呼べたものではない。このような展開ではかならずといっていいほど生き残り、幾度となく勝利を手にしてきたスコット・ディクソンがこの日も多重事故の間隙を縫って先頭に立ったものの、昨季のチャンピオンが積んだ燃料はゴールまで走るにはわずかに足りず、そのディクソンと首位争いをしていたジャスティン・ウィルソンはバトル中の接触によってサスペンションを破壊された。結局ウィル・パワーを自力で抜いただけの3番手を走っていたマイク・コンウェイが給油のために退いたディクソンと入れ替わって首位でゴールした、そういう結末だったわけである。

 たぶん本来なら、それこそハンター=レイの――そういえば彼が右を使うのか左を使うのか知らないが――足があと0.1秒早くブレーキペダルを踏みつけていれば、ありえない結果だったはずだ。勝った当のコンウェイが”Somehow, I got it done.”” It can’t believe I’m actually(in Victory Circle).”(http://www.indycar.com/News/2014/04/4-13-Conway-wins-40th-Toyota-Grand-Prix-of-Long-Beachより)とその順位に戸惑っているように見える。somehow、どういうわけか、彼は勝ってしまった。あるいはホンダの発表による、3位に入ったカルロス・ムニョスのコメントがすべての感情をよく表していよう。「自分の初めての3位フィニッシュが、多くのアクシデントが起きた結果であったことは素直に喜べませんが、それもまたレースだと思います。ロングビーチのようなストリートレースでは、なにが起こるか予測がつきません。インディカーのレースでは特にそうだと思います」(http://www.honda.co.jp/INDY/race2014/rd02/report/)。それもまたレース、勝ったコンウェイのことを「何も起きなかったドライバー」のなかでは最速だったとはいえるかもしれないが、そうだとしてもやはり幸運の2文字を想起せずにはいられない。3年前と同じようにだ。

 コンウェイがインディカー・シリーズで初優勝を遂げたのは2011年のやはりロングビーチでのことであるが、今回彼が悠々と最終ラップを回ってきたときに当時のことを鮮明に思い出したのは、2つのレースがともによく似た展開で勝者を選びとったからだ。まだ毎戦にわたって何か記録しておくなどといった徒労に身を投じていなかったこのブログが偶然にも書いていたところによれば、以下のような様子だった。

 今季すでにリスタートでやりたい放題に暴れまわっているエリオ・カストロネベスが、このときも無謀なタイミングでターン1のインサイドに突っこんであろうことかチームメイトのウィル・パワーを撃墜すると、煽りを受けたオリオール・セルビアの進路がなくなり、スコット・ディクソンも事故の脇をすり抜ける際に右フロントタイヤを引っ掛けられてサスペンションを壊した。予選でクラッシュして下位スタートに甘んじながら10位にまでポジションを上げていた佐藤琢磨がこの4台を尻目に6位に浮上するが、すぐさまグレアム・レイホールがその左リアに追突し、タイヤをカットされてスピン、レイホールもフロントウイングにダメージを負った。都合6台が消えてふたたび黄色の旗がコースのそこかしこで振られるようになったころには、コンウェイはなぜか、ということもないが3位を走っていた。

70周目のグリーン・フラッグで今度はハンター=レイがスローダウンし、コンウェイはほとんどなにもしないまま2番手になってしまった。フレッシュのレッドタイヤ、燃料もフルリッチで使える彼は速く、あっという間にライアン・ブリスコーを交わして、チェッカー・フラッグではもう6秒以上のリードを築いていた。GP2ウィナーに名を連ねながらもF1には届かなかった27歳のイギリス人が、アメリカの地で初めて表彰台の真ん中に立ったわけである。(当ブログ2011年4月28日)

 前を走っていた6~7台が事故に遭い、1台を自力でパスし、また1台が自滅して優勝した、そんなロングビーチをコンウェイは2度も経験したことになる。2011年の初優勝の際は、与えられた幸運がとても喜ばしいもののように思えたと、前掲文は結んでいた。前の年のインディ500で、まだ2年目のインディカードライバーだった彼はハンター=レイと接触し宙を舞うほどの大事故に見舞われて大怪我を負い、シーズンが終わるまでサーキットを走ることはできなくなった。シートも失いかけて、ようやくアンドレッティ・オートスポートと契約したのは年が明けて2月になってからのことだ。だから優勝は、勇気を携えて無事に帰ってきたことに対する報奨のようなもので、どんな僥倖に与ったのだとしても、彼はそれに足る試練を乗り越えてきたドライバーなのだと断言できた。当時のレースを実況していた村田晴郎がその瞬間に日本の放送席からおめでとうと叫んだのも、たぶんそういうところにある。

 あれから3年と一口に言うのは簡単だが、しかしレーシングドライバーのキャリアの中で見ればけっして短い時間ではないのであって、30歳を迎えたコンウェイの境遇もありかたもいまやずいぶん変わった。2012年のインディ500でまたしても宙を舞ってしまった彼はついにオーバルレースから退くことを決め、2013年はWEC=世界耐久選手権の空き時間にインディカーへとやってくるドライバーになっていた。そうだとしてもロード/ストリートコースでは変わらぬ才能を発揮して6月のデトロイトなどたった2日の間に優勝と2位を持ち去ってみせたのだったが、やはりインディ500を走らない瑕疵は深く、心をヨーロッパに置いてきたも同然に思えたものだ(なにせわれわれは、他をおいてもブリックヤードにだけは来たがるドライバーがたくさんいることを知っているのである)。今季ふたたびアメリカに重心を移し20号車のレギュラーになったといっても、引き続きWECの控えを務めながらオーバルはエド・カーペンターに任せてロード/ストリートしか走らない選択をした事実、あえて意地悪く言えばオーバルを捨てて逃げ出した事実を前にすると、結局のところ彼から純粋なインディカーのドライバーという姿を抽出しようとする試みは失敗に終わってしまうだろう。それはちょうど、年々日程から減っていくオーバルをそれでも走り続けるために20号車をコンウェイと共用する決断を下したカーペンターに対し、その態度こそがインディカーに欠かせない本質なのだとして、時代から取り残されつつあるのだとわかっていながらも好ましい視線を向けてしまうわれわれの感傷と対極にある。オーバルしか走りたくないカーペンターがオーバルを走れないコンウェイと組むのは自然な成り行きだったかもしれないが、アメリカのレースの精神がいまとなってもなおオーバルとともにあると信じるなら、結果としてエド・カーペンター・レーシングの20号車を貫くアメリカの純血に交配されたコンウェイは、その存在じたいがインディカーに対する皮肉になってしまったに違いないのだ。

 マイク・コンウェイにそういう態度で臨んでみるとき、今回のロングビーチで彼に舞い降りた僥倖の受け止め方は3年前とずいぶんと変わってくる。こう問うこともできるかもしれない。2011年にあらゆる幸運によって祝福されるべきインディカーのドライバーだった彼は、2014年になって、当時とおなじロングビーチで何かしら優勝に相応する価値を持っていただろうか。深夜暗くなった部屋で中継の録画を見なおしても、どうやら答えは否のままだ。だがおなじレースではじめて表彰台に登った新人が言っていたはずである、それもまたレースだと思います――。

 2週間前の開幕戦について、敗北は勝利の裏返しではないとして敗者に値する戦いをしたのは佐藤琢磨だけだったと書いた。セント・ピーターズバーグは佐藤ひとりを浮き彫りにすることによって、モータースポーツにおける敗北の意味を描き出したレースだった。では、勝ちえた6人が甲斐のない事故に泣き、優勝者自身が当惑するほど自らの価値を証明できなかったこのロングビーチにも意味を求めるとすれば、いったい何だったのだろう。

 録画を2度も見返してしまったわれわれが受け止めるべきは、おそらくコンウェイがなにもないままに優勝した事実それ自体である。レースが先頭から順位をつけていく営みである以上、全員がリタイアでもしないかぎり優勝者がいないことなどありえず、だれかはかならず結果表の一番上に載る。だとすれば、勝利とはほかのあらゆる条件とは無関係に、絶対に約束されたできごとにほかならないと導けよう。セント・ピーターズバーグの佐藤がそうだったように、敗北とはただ2位以下であるだけでは不十分な、レースに切り裂かれることではじめて資格を得られる形而上の精神だ。だがロングビーチのコンウェイが突きつけたのは、勝利がそんな精神性に関知することなく飛び越え、1位でゴールしたという具体的な事実ただそれだけをもって消去法的に選ばれる形而下の事象に過ぎない場合もありうるということではないか。なんらの価値を見出せないコンウェイに振られたチェッカー・フラッグが示唆したのは、すなわち敗北が勝利の裏返しではないのとまったく同様に、勝利もまた敗北の裏返しではありえないという関係性、捩れながらも絡み合う場所のない両者の姿だったのだ。

 形而上でなければならない敗北と、形而下でありうる勝利。すべてを振り絞ってなお先頭に立てない者がいる一方で、somehowとしか言いようもなく勝ってしまうドライバーがいる。それもまたレースだと思います、ムニョスの談話にはサーキットがもたらすあらゆる可能性が詰まっている。敗者が輝いたセント・ピーターズバーグと対をなすアンチテーゼとして、ロングビーチは必要とされなくてはならなかったということだろう。勝者はトートロジーに身を預けてただ勝者であればよく、その勝利に証明などなくて構わない。なにもなかったレースによって、モータースポーツのそんな一面の真実に観客は気づくことになる。もちろん、それを伝える役割を担ったのがほかでもなく、インディカーに無垢な精神を持たないロード/ストリート専門のマイク・コンウェイであったことは、きっと偶然ではない。

「敗者」は佐藤琢磨だけだった

【2014.3.30】
インディカー・シリーズ開幕戦 セント・ピーターズバーグGP
 
 
 いささか旧聞に属する、といってもいまだ継続中のできごとではあるのだが、ともかくその事故についてあえて誤解を恐れず述べるとするなら、偉大なF1チャンピオンだったミハエル・シューマッハがスキーの最中に頭部を強打して意識不明の重体に陥ったという報に接したとき、わたしに何らかの情動が引き起こされたかといえば、たぶんそんなことはなかったのだった。偽悪を気取りたいわけでなく、もちろん人並みに驚きはしたし、平均的なモータースポーツのファンと同様に心を痛めたとは思う。それでも2011年のラスベガスでやはり偉大なインディカーのチャンピオンだったダン・ウェルドンの死亡事故を目撃してしまったときに比べれば、感情の波はずいぶんと穏やかなものだったはずである。

 レーシングドライバーがサーキットで命を落とす衝撃と比較したら、というような話ではない。だれだってそうであるように、わたしにはわたし自身の生活と、感傷を抱く範囲がある。かつておなじサーキットを走った仲間をはじめとした彼に近しいひとびとと同様に振る舞えるわけがないのは当たり前のことで、AUTOSPORT webなどに並んだ一連の記事を読みながら、シューマッハという存在が急速に過去へと流れていき、自分が心を差し出すべきモータースポーツからはすでに去ったあとだった――それに対して、当時のウェルドンはまさしくその中心にいたのだ――とあらためて気付かされた、そういうシーズンオフがある年に存在したということである。

 モータースポーツは結局のところ今の情動なのだと何度か書いてきた。ひとたび車がコントロールラインをまたげば時計は容赦なく、1秒を1000ものあわいに切り刻んで、どんなときでも、だれにとっても、公平に、戻ることなく動きはじめてしまうのであり、一瞬と呼ぶことすら生ぬるいその今だけがすべてであるモータースポーツを過去に遡ってなお今のままとして書き留めようと信じるために、視線はひとつのコーナーの頂点にしか向かなくなってしまうものなのだ。一足早く始まったF1でも、3月最後の週末に開幕を迎えたインディカー・シリーズでも、われわれが抱くべき感傷は最後にはレースを微分した先だけに存在し、だからこそ目の前のレースを見る以外にない、できないのだと、ここでくらいは言い切ってしまっていいのかもしれない。

 2014年インディカー・シリーズの端緒となるセント・ピーターズバーグでの連続ポールポジションを4回で止められたウィル・パワーが新しいポールシッターとなった佐藤琢磨を抜き去った31周目のターン1からターン2、この場面を見るだけで週末のすべてに満足すべきだろうと感じられるほど濃密で良質な数秒間が、開幕戦の進路を佐藤のレースからパワーのレースへと変えさせた交叉点だったことはだれの目にも明らかだろう。このバトルが生まれた31周目までのうち28周をリードした佐藤と、首位を奪ってからゴールまでに76周のラップリードを積み上げたパワーとを合わせてふたりでレースの97%を制圧した事実を持ち出すまでもなく、この日勝利に挑んだと表現することが許されるのは、実際に圧勝したパワーと、最終的には7位という見た目には凡庸な順位に終わった佐藤だけだった。

 110周のうちの31周目のできごとが勝敗に直結した事実は、裏を返せばそれ以外の場面に異なるレース結果を生み出すかもしれなかった可能性がどこにも現れなかったことを意味している。佐藤を抜き去ったパワーは、そこからチェッカー・フラッグを受けるまでなんの危機もなく、ピット作業で一時的に順位を下げたときを除いて首位を譲らなかった。強いてあげれば82周目の終わり、フルコース・コーションから再スタートする際にリスタートラインの認識の違いによって生じた混乱がもしかしたらレースの綾になったかもしれなかったが、結局のところ原因となったパワー自身にはなんの被害も及ばなかったし、混乱のなかで不運にも起きてしまったマルコ・アンドレッティとジャック・ホークスワークの事故はレースの本質とはおよそ無関係なもので、ペースカー導入周回を少し延ばす効果を生む程度のできごとに終わった。そしてほとんどそれだけだ。セント・ピーターズバーグで起きたそのほかのことは、覚えておくほうが難しい。

 たとえば2位に入ったライアン・ハンター=レイの姿を見た人が、この日曜日にいったいどれくらいいたというのだろう。最後にはパワーに2秒差まで迫れるスピードを備えていたはずなのに、その走りに心揺さぶられる――国籍を超えて、と言ってもいいが――時間などいつまでも訪れなかったではないか。終盤にようやく導入されたペースカーを利してエリオ・カストロネベスを抜いてはみたものの、あとはぼんやりとパワーの背中を眺めるだけで過ごした結果、2位という順位が舞い込んできたにすぎなかったのであり、勝者をレースにおいてリードする者だと置くならば、1周たりともラップリードの欄に名前を刻めなかった彼に、勝利に挑む資格など最初からなかったのだといえる。

 いやそれだけでなく、最終結果には2位から10位のライアン・ブリスコーに至るまで3人のシリーズ・チャンピオンを含む8人の優勝経験者がずらりと並ぶことになったにもかかわらず、そのなかではっきりとパワーの前にひれ伏すことのできたドライバーは数秒間のバトルの末に屈した佐藤琢磨以外にいなかっただろう。もちろんそれぞれにいくばくかの好感すべき場面は存在しえたとはいえ、レース全体を揺さぶる可能性を感じることは難しかったはずだ。佐藤が敗れたと言える瞬間はまぎれもなく31周目ターン2であったが、ほかのドライバーはその瞬間を知るよしもないまま、自分なりの順位で一日を終えたのだった。それはたぶん敗北とは認めがたい別の結果であり、佐藤がこの日讃えられるべき理由でもある。

 敗北とは、それを勝利の裏返しとするならただたんに1位以外の順位でチェッカー・フラッグを受けることである。だが2位以下に終わったあらゆる者をそうやって同じに括ることはかならずしも正しくない。昨季中盤のカストロネベスがしばしば自分のポジションを守るためだけの姿勢に硬直しつづけたことと、たとえばアイオワで圧倒的な速さを誇ったジェームズ・ヒンチクリフに一太刀を浴びせたのちに乱気流に沈んだグレアム・レイホールの走りを同様に扱うことが歓迎されるはずはないといえば納得がいくだろう。

 1位以外のすべてという膨大な可能性から、なおもわれわれが心から「敗北」と呼べる現象があるとすれば、それは勝者にならんとする資格をつねに持ち続けながらそれでも屈服するということ、1位以外という怠惰な意味に留まるのでなく、どこかの瞬間で血を流しながらなお敵に後れを取った悲劇としてはじめて立ち現れるものである。その意味で、敗北に辿りつくための困難はときに勝利よりもはるかに険しい。昨年のロングビーチで佐藤が遂げた初優勝がそのキャリアの曲折に比してあまりにもあっさり見えたものだったように、勝利がともするとレースの海原に身を任せて漂流することでさえ得られるものでもあるのに対し、真なる「敗北」とは、流れる順番を受け入れるのではなく、杭にでも捕まるようにして抵抗し、そのうえで虚しく根こそぎ薙ぎ倒されるほかはないものなのだ。それはすなわち戦った証である。レースに自分を委ねるものに敗れる資格などない。

 敗北を厳選し意味づけなければならないのは、モータースポーツの、「今」によって引き起こされる情動がきっとほんとうの「敗北」が訪れる瞬間にこそあるからだ(昨年の最終戦がまさしくそうだったように)。たんなる勝利の裏返しではなく、勝利への意志が無残にも引き裂かれることではじめて出現する敗北を観戦者の特権として発見し称揚することで、われわれは貴重な燃料が怠惰のなかに消費されることを拒否し、レースに価値を与えるのだと信じることができる。そこには豊かな観戦場所があるだろう。モータースポーツを見る、語るとは、それを探す営みにほかならないのである。

 新しいシーズンの始まりで幸運にも、われわれはその瞬間を見つけ出すことができた。普通ならしばしば見られる度重なるクラッシュによるレース中断や激しい順位争いがほとんどなかったことは、開幕戦のためにインディカーがそれをよりわかりやすく浮かび上がらせたということかもしれない。2014年のセント・ピーターズバーグは、31周目ターン1~2のわずか数秒間によって、勝利と敗北を残酷に頒かつことになる。覚えていられる場面は少ないが、これだけ覚えておけば十分だろう。ターン1の進入でアウトからペンスキーが並びかけ、インサイドを守って一度は抵抗したA.J.フォイトが切り返しのターン2で悲鳴を上げる。勝敗を鮮やかに切り取るたった1回の交叉点で、ウィル・パワーは勝利し、佐藤琢磨はそれ以上に正しく、敗れたのだった。

エリオ・カストロネベスの敗北は、最後に現れた讃えられるべき真実となった

【2013.10.19】
インディカー・シリーズ最終戦 フォンタナMAVTV500
 
 
 フォンタナという土地の名前を見るたびに、若いまま時を止めたあのカナダ人ドライバーを思い出さずにいられない。そのときわたしは高校生で、あまり気乗りしない大学受験に本当ならかかずらわなければならないはずだったのに、F1と、当時アメリカン・モータースポーツの中心として隆盛を誇っていたCARTだけは欠かさず観戦する生活をやめられず家族に諦められていた。その中継をライブで見ていたかどうか、そもそも日本で生中継されていたのかも定かでないが、インターネットはたいして普及しておらず、F1以外のモータースポーツの情報など一般ではほとんど手に入らなかった(ましてわたしの居住地はお世辞にも都会とはいえず、同級生に「カート」の魅力を語ろうにもkartの意味でしか理解されなかった)時代の話である。タイムラインなんて言葉に新しい意味が加わる未来など知る由もなく、ニュースもなにも伝わっていないなかでの観戦だったのだから録画中継だったところで大きな違いがあるわけでもないだろう。その瞬間の映像は、もしかすると後年になってYouTubeなどで見た記憶と混同さえしているかもしれないが、当時のわたしの落胆だけは本物に違いなかった。のちにあらためて確認したところによると、どうやら現地時間では10月31日の出来事だったらしい。1999年のCART、やがて運営が破綻し曲折を経て現在のインディカー・シリーズへと合流することになる昔日のカテゴリーの、最終戦が行われたのがフォンタナだった。

 1997年ごろからCARTを見るようになったわたしにとって、フォーサイス・レーシングの水色(濃い青のときもあったかもしれない)の車は英雄的な印象を伴って記憶のなかにとどまっている。コースをワイドに使って狭いストリートコースの壁ぎりぎりを掠め、オーバルレースで臆することなく狭いスペースへと飛び込んでオーバーテイクを成功させてしまう勇敢な走りは、ドライバーの若さに想像する未来の大きさとも相まって、アメリカのレースについてなにも知らない高校生の心を捉えて放さなかった。チームやイルモア・エンジンの戦闘力はけっして高いとはいえず、またリタイアも少なくなかったものの、それでもいくつか目撃する機会に恵まれた勝利はやがてシリーズ・チャンピオンの順番が回ってくることを疑わせもしなかったはずである。残念ながら観客に不幸が起きてしまったレースではあるが、たとえば1998年のミシガンU.S.500を思い出すのも悪くない。残り3周か4周あたりでアレックス・ザナルディとの2位争いを制し、最後はジミー・バッサーとの激しい攻防となったあのレースだ。おたがい一度ずつの抜き合いを演じた首位攻防は残り2周のターン3でバッサーが見舞ったチョップによって決着を見たかと思われたが、進路をカットされて陥ったアンダーステアに構わず加速を続けてドラフティングに入り直し、ホワイト・フラッグ直後のターン1でまたしてもインサイドに飛びこんで先頭に躍り出た。これがグリーン・フラッグから数えて63度目のリードチェンジだったことが、なによりもレースの激しさを物語っていよう。ファイナルラップに入ると、バックストレートで逃げるように蛇行しながら先頭を守って、ついにはその年の選手権で1位 – 2位を独占した赤いチップ・ガナッシ・レーシング勢を従えたままチェッカー・フラッグを受けたのだった。フォーサイスのピットクルーたちが歓喜の輪をつくった、通算すると4度目となる優勝の一幕である。その後1999年にファン=パブロ・モントーヤが突如としてチップ・ガナッシのシートを獲得し瞬く間に勝利を重ねていったが、衝撃的な新人の登場すらわたしの贔屓を揺るがせはしなかった。2000年からはチーム・ペンスキーをドライブすることが決まって、ついにチャンピオンとなる瞬間を待つだけになったように思えたものだ。

 その1999年、フォンタナの前に不注意から手の指を骨折していたにもかかわらずステアリングを握ったのは、4年を過ごしたチームと最後のレースの時間を共有したいという愛情の表れのようなものだったらしい。走りに似合わず好人物とよく評されていたことを窺わせる逸話は、しかし美談で終わることなく、それが直接な原因とも思われないが結果的に悲劇の呼び水となった。カリフォルニア・スピードウェイ、いまはオート・クラブ・スピードウェイと呼ばれるトラックでのレース序盤の出来事だ。リスタートの混戦のなか壁に接触したフォーサイスはスピンに陥ってインフィールドへと落ち、直後に芝生の段差に捕まって錐揉み回転しながら、設置してあったフェンスにコクピットの開口部から激突した。跳ね返った車はなおも勢いを緩めず地面に叩きつけられるうちに四輪が吹き飛び、リアセクションも完全に破壊されて、コクピットブロック以外はまったく原型を留めず失っていた。事故の瞬間を追っていたテレビカメラがいったんドライバーの様子をアップにしようとしたが、すぐ何かを察したようにロング映像へと引いていったことが危機的な事態を予期させたはずである。その報が伝えられたのはレースが終わってからのことだった。優勝し大逆転で新人チャンピオンを勝ち取る偉業を達成したはずのモントーヤの表情に悲痛さだけが浮かんでいて、それはいまでもわたしが彼について思い出すときの第一の場面となっている。記憶はそんなふうに周辺へと飛んでいくものだ。日本に住むひとりの高校生が愛してやまなかったグレッグ・ムーアは、広く知られるとおり姿を消した。

 事故の翌年、ムーアの死によって空席となったペンスキーのシートにはエリオ・カストロネベスが収まり、両者の関係はいまに至るまで続いている。優勝のときにフェンスによじ登って喜びを表現することで有名な「スパイダーマン」は、アメリカのオープンホイールレースの中心がCARTからIRLへと移ろい、やがてインディカー・シリーズへと統合されていったこの14年の間に28の勝利を重ねた一方、シリーズ・チャンピオンの可能性を持った最終戦で4度敗れ去ったのを含めて一度たりとも年間の勝者となることはなかった。そういう経緯を振り返ってみると、もしムーアにペンスキーを運転する機会があったならとさえ言いかねないが、もちろんもはや記憶として語るべき過去を置き換える仮定に意味はないし、ましてその後の歴史を作ってきた人々に対して礼を失した態度でさえあろう。ただ、最初はまぎれもなくムーアの代役としてペンスキーのシートを得たカストロネベスが、いまだチームを替わることのないまま5度目の王者決定に挑む2013年の最終戦の場所があのときとおなじフォンタナだという巡りあわせに、もしかしたら乗っていたはずのドライバーの思い出が色濃く蘇ることになったのだと、たんにそれだけのことである。強いて言えば、わたし自身がムーアの走りを現代のアメリカのなかに追い求めている部分はあるのかもしれない。古き良き時代というにはまだ近年に過ぎるとはいえ、わたしにとってのムーアは、ヨーロッパの洗練とは異なるアメリカのレースの精神性、すなわち決然たる意志と勇気をもっとも具象した存在だった。それがフォンタナにふたたび立ち現れることを期待したのは、いくつかの符合が生んだちょっとした感傷である。

***

 4度にわたりすんでのところでシリーズ・チャンピオンを逃してきたエリオ・カストロネベスは、おそらくゆえにこそ、だれよりそれを悲願として切望し、今季実際にその可能性が現実のものとして大きくなっていくと、地位に固執するかのように本来引き受けるべきリスクさえ冒せなくなっていった。テキサスでの勝利によってポイントリーダーになった6月以降の彼の運転をわたしは何度か頽廃的と評したが、つねに順位なりの走りで安全を図り、後半戦の直接の敵となったスコット・ディクソンを襲った不運にひととおりの満足を得てレースの週末を終えるその姿は、およそシーズンを制するに相応するものではなかった。

 もちろん、チャンピオンのために安定した結果を求めることのなにが悪いのかという見解はありえよう。だがそれは競技者が依って立つ論理であって、観客に徹するわれわれが選手権ポイントという数字のゲームに配慮し、ドライバーの立場に同一化する必要などありはしないはずである。得点表を眺めて一喜一憂する観客がいるとしたら、そこに見ているのはレースではない別のなにかだと断言してもよい。競技者の目的がチャンピオンというたったひとつの場所を占めることだとするならば、観客の特権はそんな思惑を軽やかに躱し、たったひとつのブレーキングを、コーナリングを、レースの一瞬だけを見届ける視座を持てることにある。観客にとっての選手権の意味とは、競技者がそれを欲さざるをえないゆえに発する意志によってより鮮やかなレースの一瞬を認められることでしかない。われわれはいつだって数字の計算を捨て去りレースを「ただ見る」権利を行使できる。安全を求めるカストロネベスは、結局のところ観客のこの権利とまったく対立したわけなのだ。4ヵ月間の彼が観客からの非難に値するのは、選手権という形而上の怪物に踊らされて、足元のレースを、眼前のコーナーを敢然と戦う意志を失っていたからにほかならない。そうやって「観察」という観客の特権を剥奪してしまった頽廃こそ、彼がこの間に犯した深い罪だったのである。

 フォンタナが美しいレースとなったことで、その思いはよりいっそう強くなっている。カストロネベスがヒューストンで4ヵ月の報いを受けるかのごとくスコット・ディクソンの逆転を許したとき、同時に罪を贖う機会が与えられたのだとも予期されたが、まさに25点の差を負いふたたび首位を取り戻さなければならなくなった彼は、とうとう最終戦で今年唯一と言っていいほどの強靭な意志に貫かれた走りを繰り広げ、のみならず自らの情動をトラック全体に伝播させることで、過去の頽廃の一切を洗い流してみせた。レースのほとんどをトップ5圏内で走り、しばしばラップリードを記録しながら、壁への接近もタイヤが接触せんばかりのバトルも厭わないその精神が、やがて具体的な熱量を伴ってディクソンへ、さらに他のドライバーへと広がって、ナイトレースの闇が深まるオーバルコースの中に今季類を見ないほどの絶え間ない緊張をもたらしたことは明らかだった。上位を走るカストロネベスはレース中何度となく仮想ポイントでディクソンを逆転し、それに呼応するようにディクソンも接近戦に身を投じて順位を上げていく。選手権を担う2人の意志が奔流となってトラック全体を覆い尽くし、利益と背中合わせのリスクのせめぎあいが空間を支配するまでに、さほど時間は要さなかったはずだ。レースが終盤を迎えるころには、この日起きたなにもかも、数度にわたる大きな事故や多くの車を襲ったオーバーヒートのトラブルさえ、あたかもカストロネベスが発しディクソンが増幅した熱量によって引き起こされたのだと思わざるをえなくなるほどだった。そのように錯覚させるだけの魅惑的な重力を作り上げた2人の戦いは、スタートから3時間、実に220周以上にわたって続いていた。

 たとえばこんな場面である。トニー・カナーンとのサイド・バイ・サイドを戦い、内側から弾かれて壁際にまで追いやられながらも立てなおして右足を緩めなかったカストロネベスの88周目の素晴らしさはわれわれが今季向けられなかった敬意の対象となり、スコット・ディクソンがウィル・パワーとチャーリー・キンボールの後方からほとんど内側の白線を踏みつつ3ワイドに持ち込んで抜き去った216周目は、アイスマンと呼ばれる冷静な男の、選手権だけを考えればほとんど無用なはずの冒険が成功した瞬間として記憶しなくてはならなくなった。そしてまたその直後、カストロネベスが敢然とディクソンとキンボールに襲いかかり、直接のライバルを乱気流に沈めてまたしてもシリーズの主導権を握りかけたときには、心のうちに湧き上がるのはもはや陶酔だけになっていた。ドライバーの意志と観客の視座がこれほど完全に混交されるレースなどそう生まれるものではない。尽きることのない勇気の衝突に、2013年がすべて満たされていくように思われた。

 それほどに過熱したレースに終わりを望みたくなくなってきたころ、しかし決着は唐突に訪れる。惜しいながらこの文章も閉じる準備をしなくてはならない。完走台数が減少したために逆転の可能性を優勝にしか求められなくなっていたカストロネベスのフロントウイングが突如として脱落した瞬間が画面に映し出されたのは、すでに全車が最後の給油を終えた後の225周目のことだ。緊急のピット作業を余儀なくされて1周遅れに後退した彼がふたたびリードラップに戻る道は完全に途絶え、当然に勝機も潰えることになる。ほどなくディクソンのエンジンもオーバーヒートの兆候を示してレースを戦うスピードは失ったが、仮にそのリタイアをもってしても、すでに25点の得点差を覆すことは不可能な状況になっていた。レースの終わりは得てしてこういうものだ。カストロネベスを襲った今季最後の不運によってゆくりなく精神の昂揚を断ち切られた2013年のインディカー・シリーズは、直後にセバスチャン・ブルデーの単独事故とチャーリー・キンボールのエンジンブローによって2度のイエロー・フラッグを頂き、最後にはウィル・パワーの予想されなかった2年ぶりのオーバル優勝を余韻として思いがけず静謐な終幕を迎えた。

 1年の締めくくりとして、すべてのレースを記してきたこの一連の記事にもいちおうの結論を決めておくべきだろうか。カストロネベスは敗れ去り、畢竟歴史にはスコット・ディクソンの3度目の戴冠が記録されることになったが、終わってさえしまえば、ごくごく自然な、そして歓迎すべき結末に収まったということなのかもしれない。2013年にカストロネベスがポイントリーダーとして過ごした時期の大半は、彼が他のドライバーよりもポイントを獲得しているという単純でおよそ偶然的な事実以上の価値を見出せない状況でしかなかったことは間違いないし、またそのために今季のインディカーに恐れの枷鎖をかけてしまったこともたしかである。怯えを隠せないポイントリーダーが課した桎梏の罪深さは、そこからついに解放されたフォンタナに横溢した清冽な緊張によって逆説的に証明された。その責任の大半を担うカストロネベスが「チャンピオン」についてよいわけがなかった――彼を非難するためでなく、彼にふさわしい勝利の瞬間が別の機会に訪れる可能性を信じるからこそ、そう思う。カストロネベスは敗れるべきだった、しかし同時に、彼が最終戦にもたらした緊張は最後の最後に正しい敗者の形を示してもいたのだ。かつてわたしがグレッグ・ムーアに夢想したシリーズ・チャンピオンの姿、アメリカン・モータースポーツの理想の頂点は、「決然たる意志と勇気」が剥き出しになった先にこそ存在していた。だから讃えよう。恐れを振り払い、己の一貫した意志を赤条々に突きつけてなお届かなかったエリオ・カストロネベスの敗北は、頽廃のままに逃げ切った偽りの王者としてただ記録に名前を残すよりもはるかに気高く、インディカーの中に肯定されなおすはずだ。われわれは最終のフォンタナの楕円に、そのことを知ったのである。

ついに下された罰によって閉幕は彩られる

【2013.10.5-6】
インディカー・シリーズ第17-18戦 ヒューストンGP
 
 
 週末を費やして行われた2レース連続イベントの2日目もまもなく終わろうとしていた90周目の半ばに不運にも事故に見舞われたチップ・ガナッシのダリオ・フランキッティが一足早く2013年の舞台から退場してしまったことで、どうやらインディカー・シリーズは役者を一人欠いて最終戦を迎えることになったようだ。ターン5のフランキッティが、いくつかのミスによってタイヤのグリップを失い速度を落としていた佐藤琢磨のリアに乗り上げて宙を舞ったさまは、2010年インディ500のやはり最終ラップにマイク・コンウェイを襲った危機的な事故をじゅうぶんに思い起こさせたが、観客にまで被害を及ぼすほどの勢いでフェンスをなぎ倒したDW12を運転していた彼が負った怪我も脳震盪と脊椎および右足首の骨折という、コンウェイにオーバルレースからの引退を意識させるきっかけになったのとおなじくらい重いものだった。インディカーではこの種の事故が不可避の可能性として存在するということが、結局あっさりと発生した現象によって証明されてしまったということだろう。全開で駆け抜けるべきコーナーで失速した前走車に乗り上げ車体が空へと飛ばされるのはまさしくコンウェイの事故に酷似しており、また2011年にラスベガスでダン・ウェルドンの身上に降りかかった災厄も同様の場面から訪れた。2人は高速のオーバルレースで大きな事故に遭遇したが、皮肉なことにヒューストンのターン5の様相は、曲がりの左右と見通しの悪さを別にすればどことなくオーバルコースの一部のようでもある。悲劇を繰り返さないために設計され事故死したウェルドンの名を冠した「DW」なるシャシーでさえ、高速下での危険を遠ざけきれるものではなく、安全のために不断の努力が求められるという当然の教訓を、今回の事故はあらためて示唆した。すべての命が無事だったことを、ひとまず最低限の果報として喜ばなくてはならない。

 しかしそうした安堵を前提としたうえで、最大の被害者に関しては、もしかしたら、という気持ちが湧きあがりもする。所属するチップ・ガナッシの復調に歩調を合わせることができず、速さがチームメイトのスコット・ディクソンのほうに集中するなか、ヒューストンの週末もまたダリオ・フランキッティのものにはならないまま、畢竟日曜日の最終ラップが最悪の週末の締めくくりとして最悪の形でもたらされた。事故は紛れもなく不運だったと言えるが、しかし思い返してみるとそれを除けばいつもどおりのフランキッティでしかなかったと言えてしまう程度のレースだったのもたしかだ。実際、今季の彼はこんな走りを虚しく反復している。ペースをうまく作ることができず、ときになんでもないコーナーでスピンを喫し、周回遅れにさえ追い込まれた2日間は結局2013年をわかりやすく象ったにすぎない。どんなドライバーにもいずれ訪れる衰えの証拠のような場面ばかりを印象づけられて、昨季のF1で何度も確認することになったミハエル・シューマッハのいささか寂しい落日さえ連想させる今の姿を見ると、近い未来のことが気にかかるようになってくる。たぶん、今回の怪我が治るまでチップ・ガナッシは快くシートを空けておいてくれるだろうし、その猶予が与えられる、特別扱いが許されるだけの実績を彼は積み上げてもいる。だが偉大なる4度のシリーズ・チャンピオンは、2014年のシーズンに戻ってくるだけの気力と、体力と、そしてなによりも重要なスピードを、まだ保ちつづけることができるだろうか。やはり背中を痛めて棒に振った2003年の場合は何事もなく翌年に復帰してみせたものの、もう10年も前の話で、すでに40歳を過ぎたいまがキャリアの晩年に差し掛かっていることは疑いようもない。2週間後の最終戦が、彼の永遠の不在に慣れておくためにゆくりなく用意された予行の場になったとして、それをだれが否定しうるだろう。

 いや、もとよりわれわれはこの1年間を通して、ちょうど2度目の引退を迎えるまでの3年のあいだにシューマッハの移ろいを受け止められるようになったかのごとく、フランキッティとの日々に別れを告げる覚悟を徐々に固めるように仕向けられていたのかもしれない。今回の事故にしたところで、そもそも佐藤に「追突」するような場所を走っていた事実、チャーリー・キンボールでも、もちろんディクソンでもなく、フランキッティ自身がチップ・ガナッシ勢の最後尾だった事実、そしてなにより、その状況を異常と認める理由もさしてない事実が、われわれのフランキッティに対する態度が変わりつつあることを雄弁に物語っている。役者を欠いたと記してはみたものの、はたして降板の憂き目にあったその役者が演じられたのが一流の芝居だったと断言することには、もう少し慎重を要するようだ。かりに怪我を負うことなく最終戦のグリーンフラッグを迎えていたとして、しかしついにポイントリーダーとなったチームのエースを強力に援護する走りなどとうてい期待できなかったと推測することは、この一年をあらためるとごく自然なことでもある。快方を願う心とはまた別の次元の問題として、選手権に目を転じればフランキッティの離脱はその帰趨に良くも悪くもたいした影響を与えそうにない――慣れない車を運転することになる未知の代役とさほど変わらない働きしかしないだろう――と、そんなふうに思えてくる。結局のところ、2013年の選手権にフランキッティが顔を出す資格を有しているはずもなかったのだ。

 あるいはフランキッティが退場を余儀なくされたそのレースでペンスキーのウィル・パワーがディクソンを抜き去って勝利し、シーズンへの実質的なとどめを食いとめる献身をみせたが、それにしても事実この1ヵ月間のパワーはおそろしいほど「献身的」だった。彼が、いくつかの犠牲(それは相手方にとっての不運にすぎなかったと、ここでは上品に片付けておく)を伴ってディクソンから奪い去ったポイントは40や50で足りるものではない。パワーの走りに寄りかかることでチームメイトのカストロネベスは選手権を延命し、勝利から遠ざかるようなレースの反復を罰せられることなく逃げ延びてきた。功罪相半ばする結果をもたらしたそのスピードは、過去数年にわたってそうだったように、ペンスキーのエースは本来パワーにほかならないことを意味しているはずである。おそらく来年になればまた本命としてシリーズに戻ってくるだろうが、しかし今季に関しては手遅れになってしまったようだ。自らの立場を知りチームメイトに尽くしたものの、あまりにあからさまな献身に優れすぎていたことも彼にとって不幸だったかもしれない。選手権の資格という意味ではフランキッティとなんら変わることなく、パワーもまた最終戦の傍観者とならざるをえなくなった。結局のところ、選手権を争っているのはスコット・ディクソンとエリオ・カストロネベスということなのである。フランキッティの退場もパワーの献身も刺激的な事件ではあったが、みな早々に過去の出来事となって、われわれの10月19日は2人を見守るためにこそ訪れるのだろう。

***

 過去に繰り返し書いてきたように、リスクを避けるだけの運転に囚われつづけてきたカストロネベスの怯えは、ヒューストンの2つのレースで今季一度も起こっていなかった車輌トラブルが続けざまに発生し、シーズンの半分にわたってしがみついてきた選手権首位を土壇場で明け渡すという、おそらく自身にとってほぼ最悪に近い形で報いを受けた。いまだ座り心地を知らないチャンピオンの座にひたすら固執し、ディクソンとの得点差を計算しながら逃げ切ろうとする矮小な企みはすでに潰えてしまっている。だが言うまでもなく、ライバルの4勝に対し自分はひとつしか勝っておらず、9月にチップ・ガナッシを襲った陰謀めいた不運さえなければとうに決着していたはずのシーズンである。そのうえリーダーとしてあるまじき頽廃の報いさえ、寛大にも最終戦の前に再逆転の可能性を残して与えられたのだ。前回の記事で願ったように、カストロネベスは頽廃から脱却する機会をついに得たのである。これほどの恩恵に与った彼に最後くらいは自分自身を擲って攻めに転じることを望んでみるのもそれほど贅沢な要求ではないだろう。彼はいよいよ自分しか依って立つものがなくなっている。ここに至ればチームからの援護など意味はないし、そもそも決着の舞台となるオーバルコースでは同僚のパワーにもこの数戦のような走りを期待するわけにはいかない。またあるいは立場を変えてディクソンを見ても、信頼に足るチームメイトを(フランキッティの在不在にかかわらず)抱えているわけではなく、自力でカストロネベスから逃げきれる場所を走りつづけることが求められよう。2013年のインディカー・シリーズは、最終戦を前にカストロネベスが罰せられたことで、ついに選ばれた挑戦者がおたがい自らの力を頼みに戦うよりほかなくなったのだ。

 ヒューストンを終えた時点で、ディクソンとカストロネベスには25点の差がついた。追う側が優勝しても逃げる側が8位以下に沈まなければ逆転しないこの点差はもちろん簡単ではないが、しかし最終戦のフォンタナ・MAVTV500が3ヵ月ぶりのオーバルレースであることはカストロネベスにとっていくぶん明るい予定だろう。彼自身唯一の勝利であるテキサスがオーバルだったことはもちろん、シーズンの半ばごろに集中して開催されたオーバルレースはほとんどカストロネベスが使うシボレーエンジンのチームに席巻され、ディクソンの使用するホンダエンジンは特殊なレイアウトのポコノを燃費レースに持ち込んで攫っただけに終わっている。オーバルにおける今季のディクソンの平均順位12.0位は、たとえ計算のなかに彼の復調後の成績がほとんど含まれていないとしても、あるいはという可能性を感じさせるはずだ。しかもオーバルレースはともすれば一度の失策が即座にリタイアに結びつく。ディクソンがなにか取り返しのつかないミスを犯すことも――他のドライバーに対して期待するより遥かに楽観的な願いではあるが――ないではない、といったほどの材料を揃えれば、カストロネベスも最終戦まで多少なりとも希望を持って過ごすことはできる。

 最終戦である。なにもカストロネベスの肩を持つつもりなどなく、もちろん小さくないリードを築いたディクソンが優位にいるのは明らかだ。ただ、追う側に回ったカストロネベスが、困難ではあるが現実に逆転への道をイメージできるほどの状況下でレースを迎えられるのだということをあらためてわかっておくのは有益だろう。最終戦に問われるのはダリオ・フランキッティの退場でもウィル・パワーの献身でもなく、もはやエリオ・カストロネベスとスコット・ディクソンという偉大な2人のドライバー自身の覚悟、選手権を貫く意志だけになった。それは悠長な立場で眺めるわれわれ観客にとってなによりも幸いなはずだ。おたがいの意志が協奏し、フォンタナの楕円のなかに美しい閉幕を見せてくれるとすれば、乱れに乱れたこのシーズンの締めくくりとして、いくばくかの満足を得られるはずである。

頽廃のエリオ・カストロネベスはシモン・パジェノーの後ろ姿を知っただろうか

【2013.9.1】
インディカー・シリーズ第16戦 ボルティモアGP
 
 
 エリオ・カストロネベスが自らの力で何事かをなそうとするような場面は、彼がそうすべき位置にずっと居座っているにもかかわらず訪れなかったし、もう訪れることを期待することにすらすっかり倦んでしまったといえば、何ヵ月も続いてきた展開をまたしてもなぞることになった見た目に派手なだけのレースへの咎めにもなるだろう。9月1日のボルティモアで選手権のリーダーが飛びこんだ9位という最終順位は、およそ本人以外には好ましい意味を与えなかったように思われる。2013年のインディカー・シリーズを刺激するためには車輌規定違反が認められたレースでしか勝てなかったドライバーを引きずり降ろすことしか手はないはずなのにとつぶやいたところで虚しいばかりだ。同僚のウィル・パワーがスコット・ディクソンをホームストレートの壁に追いやって自他ともども車を破壊したのは録画を見なおしても偶然でしかなく、先週のチーム・ペンスキーが見せた未必の故意がごとき事故に比べれば悪意を見出すことはほとんど不可能に近いものだが、結果としてレースから弾き出されたディクソンと、2回もフロントウイングを壊したうえにドライブスルー・ペナルティまで科されながら幾度となく繰り返されたターン1や3の事故を幸運にもすり抜けてトップ10にしがみついたカストロネベスの得点差が49にまで拡がり、自力での逆転可能性が消失したことだけが重くのしかかっている。目下の問題は事故によってタイトル争いの困難が増したということではない(わたし自身、チャンピオンシップそのものにはさほど興味を持っていない)。そうではなく、インディカーが、その中心として目さざるをえないポイントリーダーの恐れを是認しているかのような事態に付き合わされる不愉快にある。この段階になればはっきり問うことができる。今年のカストロネベスがなんの報いも受けないまま歴史にだけは名前を刻もうとしていることを、彼と利害を共有しないわれわれ観客までもが甘受しなければならないのだろうか。

 唯一の勝利を上げたテキサスでシリーズの主導権を握ってから――当時書いたとおり、規定違反があったとはいえその勝利じたいは快哉を叫びたくなるほどのものだったのだが――、カストロネベスはつねに2位との得点差を計算しつづけるばかりの頽廃にまみれ、地位に恋々として勇気を欠くようになった。その姿は「チャンピオン」という甘美でありながら雄々しい響きから想像されるものとはかけ離れている。テキサスでの優勝が心地よさに満たされていたせいで、現状はよけいに落胆を感じさせるようだ。もちろんレーシングドライバーなら妥協による微かな前進に納得せざるをえない時期はあるものだし、むしろ一年を制するという遠大な目標のためにはそうであるべきことさえ理解するが、しかしいくつかの展開の綾によって選手権の2位がたびたび入れ替わり、彼自身が自分を最速と確信できる日がほとんど来なかったこともあって、ポイントリーダーの地位を失うのに怯える期間が必要以上に長引き、そしてリーダーの怯えがシリーズ全体に伝播したと感ずることも、受け止めなければならない現実になった。結局のところ、今年の選手権争いは結末の如何にかかわらずすでに失敗されているということである。シュミット・ハミルトン・モータースポーツのドライバーが(たとえそれがシモン・パジェノーという才能を疑いえない存在であったとしても)この時期にアンドレッティ・オートスポートの全ドライバーに対して上回っていることを想像したものなど、ひとりとしていないはずだ。

 もちろん、パジェノーがここに至ってランキングの3位に浮上したこと自体は自然な帰結といってよい。全体のレベルについて論難したくなるほど大荒れに荒れたボルティモアのレースを制したのが29歳の遅れてきた才能だったことはインディカーにとって慊焉としないもので、勝利を渇望する69周目の一途な機動は障害をはねのける勇気を身にまとって表現することこそモータースポーツにとって欠くべからざる瞬間であることを直感させるし、ただ不注意によって壁に吸い込まれていくドライバーが多かったボルティモアにあって勇気の行使を誤らなかった数少ない存在でもあった。先週のソノマでチャーリー・キンボールを相手に清々しく敗れたのも含めて、カストロネベスに冒されたここ数戦の硬直からもっとも自由に振る舞いつづけ、勇気を失っていなかったのは、選手権を争っていたはずのスコット・ディクソンでもライアン・ハンター=レイでもマルコ・アンドレッティでもなく、たしかに彼であった。自らが犯した直前のミスに乗じてすぐ外側に並びかけてきたセバスチャン・ブルデーを削り、押し出すようにしながらもターン8を先に制したその決着の瞬間は、ともすればマナーに欠けて見えたものの、そこで発揮される勇敢さだけがレースを制するのだという信念を投げかける運転だったと感じ入らせるものがある。チャンピオンを目前にし、幅寄せしてきた相手に手を挙げて抗議することしかできないいまのカストロネベスからはもはや見つけられない情動だ。もしあの場にいたのがカストロネベスだったら、パジェノーのような覚悟を見ることはできなかったのだと断言しても構うまい。それは、なによりもカストロネベスがそこにいなかった、いる資格さえ持っていなかったことが証明している。 先頭集団から置き去りにされていた皮肉きわまりない幸運によって多重事故を容易に回避しただけの彼の目に、パジェノーの後ろ姿が映ることはなかっただろう。

 ソノマでもボルティモアでも、勇気ある勝者のはるか後方で自分のありよう以上でも以下でもなくただフィニッシュラインへと辿りついただけだったにもかかわらず、カストロネベスは展開とチームメイトに救われていまの地位に留まることを許されてしまった。救われただけにすぎなくても、レースの数だけは消化され、延命装置は稼働をやめない。今季の全周回を走行している唯一のドライバーという程度の記録が、なんの慰めになろう。もし10月の3レースを残すのみとなったシーズンでここ2戦のような展開が繰り返されるようなことがあれば、われわれは臆病な尊敬されざる1勝どまりの王者の誕生を目にすることになる。それは言うまでもなく不幸に決まっているが、しかしもっと不幸なのはそんなドライバーがエリオ・カストロネベスであること、むしろ心より敬意を払われるべきキャリアを重ねてきたドライバーであることだ。CARTでのデビューから15年、勇敢さと少々の無謀さと、迂闊さと愛嬌と、そしてなによりコースを問わない速さによって数多くの魅惑的な勝利を積み上げてきた彼を、われわれは愛してやまなかったはずである。オーバルでもロード/ストリートでも等しく速いこの純粋なインディカー・ドライバーの優勝は28回を数え、そのうちには最高の栄誉であるインディ500の3勝が含まれる。足りないのはシリーズ・チャンピオンだけだと何年も言われ、事実みんなその瞬間を待ち望んでいた。だというのに、と言うほかない。われわれが悲しむべきは、待ち焦がれた悲願と、叶えられるやもしれぬ現実と、しかしそこに現れることのない彼の本質との落差である。いざ現実に巡ってきたチャンスでは得点以外にチャンピオンを証明できるものがなにもないほどの怠惰なドライバーに堕してしまった皮肉を眼前に突きつけられて、現状の無惨さが際立ってしまう。それを不幸と言わずしてなんと言えばいいのか。

 仮にこのままカストロネベスが2013年を逃げ切ることになったとしてもそれは浅薄な勝者にほかならず、もし臆病なままに逆転を許して終わるようなことがあればただの愚かな敗者となることは明らかだろう。そのどちらもが望まれる結末でないことは論を俟たない。ならばこそ、われわれはうわべの戴冠ではなく名誉を守るために、カストロネベスが最終戦までにいまの地位をいったん退く、退きかける儀式が執行されることを願う必要がある。恐れを払いのけてリスタートのターン1に向けて深く飛びこんでいく彼を呼び覚まし、勇気とともにシリーズを制する姿を見届けられるように、あるいは、勇気とともにシリーズを失う姿を見つめられるように。

本当の被害者はきっとウィル・パワーだった

【2013.8.25】
インディカー・シリーズ第15戦 ソノマGP
 
 
 それが事件であったことは疑いようがない。そして、たんなるひとつのアクシデントとしての事件にとどまらず、もしかするとスキャンダルへと発展しかねないことも間違いないだろう。インディカー・シリーズの第15戦で起こった危険な事故について、規則は一方の当事者であるスコット・ディクソンに罰を科すことを決定した。選手権のリーダーを直下で追いかけているディクソンは、レースで最後となるタイヤ交換と給油を終えて発進する際、眼前に配置されたペンスキー・レーシングのピットでウィル・パワーのタイヤ交換作業を終えたばかりのクルーを撥ねとばした。レースを解説していた松浦孝亮の第一声が「ディクソン終わった」だったことからも察せられるように、事故は、ホイール脱着用のエアガンを踏みつけたり置いてあるタイヤに接触したりするのと同様に、あるいは起きうる事態の深刻さを考えればより重い罰則の可能性を直感させるものだった。一度は完全に宙を舞ったそのクルーと、巻き込まれた2人はみな幸いにも打ち身程度で済んだものの、轢かれた側のペンスキーと轢いた側のチップ・ガナッシ・レーシングの関係者が揉めているような映像に代表された喧騒ののちに、はたして今季4勝目をほぼ手中に収めていたはずのディクソンは事故の責任を問われてドライブスルー・ペナルティを宣告され、序盤から続出したフルコース・コーションのために維持されていた隊列に呑み込まれて15位でレースを終えることになる。パワーとおなじくペンスキーでドライブするエリオ・カストロネベスに対してほとんど同点にまでなろうとしていた選手権ポイントはレースの終了とともに39点差にまで拡大し、シーズンは4戦を残すのみとなった。ソノマ・レースウェイの64周目は、その1周の最後に生じた出来事によって、あるいは2013年のインディカーのすべてを左右しようとしている。

 事故についての議論が収まることはおそらくない。レース後に出された “That’s probably the most blatant thing I’ve seen in a long time”「長い間見てきた中で、たぶんいちばんあくどいやり口だ」というディクソンの披瀝は「加害者」とは思われないほどの悪態と言ってもよいが、彼とは違って利害を持たず、操縦席の外からレースを長い間見てきたわれわれもまたおなじように感じられるにちがいない。事態を仔細に眺めてみれば、ペンスキーのピットでウィル・パワーの右後輪脱着を担当したクルーは作業を終えた直後に――すぐ後ろにいたディクソンが走り去るのをその場で待てばいいのに、そうすることもなく――古いタイヤを片付けにかかり、わざわざ接触しやすい持ち方でディクソンの進路を妨害するように抱えて、ジャッキマンが発進するパワーの車を押そうと身構えるその後ろ足よりもさらに後方を悠然と歩いていたところでタイヤごと飛ばされる形で事故に遭遇した。だから、いささか四角四面に現象にこだわれば、ディクソンはクルーを轢いていない。クルーのほうが当たれとばかりに突き出したタイヤに、そのとおり接触したにすぎない(「すぎない」と言ってしまってもいいだろう)のだから、正当な進路を塞がれたのはむしろ自分の方だと主張することもできるし、事実コメントにはそういう怒気がこもっている。あの行動にあきらかな一定の意図を、ハンロンの剃刀では削ぎ落としきれない悪意を見て取ることは容易なはずだ。戦略担当であるティム・シンドリックは頑として否定するだろうが、しかしペンスキーにとって、それはたまたま映像が衝撃的に見えてしまっただけの、発生しても構わない事故だったのではないか。

 たしかに、チームのガレージごとに整然と区切られ一度に1台しか作業が許されないF1と違い、十数台が入り乱れることもあるインディカーのピットではしばしば物理的な妨害が行われ、名物になってもいる。前後の車のピットイン/アウトのラインを最大限窮屈にするためタイヤを自分の領域ぎりぎりの端に置いておくのは、とくにコース上の全車がピットイに飛び込んでくるようなフルコース・コーション中の日常的な光景で、むしろその程度の嫌がらせを平然と際どくやってのけることこそピットロード側で作業をするクルーが持つべき資質のひとつでさえあるだろう。だがこうした空間の削り合いなどの慣習は、裏を返せばピットの中でお互いが自ら侵しえない領域を暗黙裡に規定しあっている事実を、現実のピットボックスの存在よりも鮮明に示しているにほかならないし、だからこそ接触に対する罰則が無条件に甘受すべきものとして共有されてもいるのである。ディクソンはごく自然に、いつもどおり、相手の領域をかすめるように発進し、その当然の進路上をペンスキーのクルーは歩いていた。blatant――「あくどい」また「露骨な」という意味もある――なる非難からは相手が領域の外、もはや存在が尊重されるべくもない空間であからさまに接触を試みた(ように見えた)ことが窺えるが、そこはたしかに侵されてはならず、侵された覚えもない場所だった。

 だがどれだけ声を荒らげようとも、ディクソンの非難が届く先はない。ペナルティによって失った何もかもを取り戻す方策がないことはもちろん、万が一相手を事後的に罰する僥倖に恵まれたとしても、本当に裁きたいのは事故の当事者のパワーではなく選手権を争うカストロネベスであり、この直接のライバルはコース上の出来事において完全に事故と無関係だからだ。規則は現実の危険を罰するために存在しているのであり、裏に潜む悪意のすべてを汲み取って裁きを与えるようにはできていない。たとえピットクルーの行動に明白な悪意が存在したことを証明できたとしても、カストロネベスが手にした結果を覆すことは難しいと理解できるからこそ、ペンスキーは安全を破壊する誘惑に抗わない道を選んだ。それが特定のだれかの決断と指示であったと推測はしないし、また本当に具体的ななにかがあったとも思わない。ただ、あたかもチームの一般意志として賢明なクルーが自然にそう動く程度には利益をもたらす行動だというだけの話である。

***

 ペンスキーがシーズンの利益に重きを置いたことは、しかしウィル・パワーの勝利に影を落とした。彼にとって待ち望まれていたはずの今季初優勝が祝福されざるものになってしまったのは、軽傷とはいえクルーが怪我を負ったことや疑惑によってディクソンから勝利を奪い去ったことによるものではない。すでにチャンピオンの可能性をほとんど失っているパワーはレースの前に、初めてのチャンピオンへと歩を進めるカストロネベスをチームメイトとしてできるかぎり援護したいとインタビューに答えている(過去数年、自分自身がチャンピオンを争う立場にあったときには得られなかったにもかかわらずだ)。そして事故は、まさしくカストロネベスをこれ以上なく援護した。レースを実況した村田晴郎が端的に指摘したように、あの瞬間のペンスキーにとっては、接触の咎をディクソンに負わせ罰則へと誘導することが最高の結果で(実際それは果たされた)、そのためにパワーを犠牲にすることを厭う理由はなかったはずなのである。エリオ・カストロネベスを選手権で優位に戦わせ、最終的にポイントリーダーのままシーズンを締めくくること。その一事だけに関心を向けたとき、もはやパワーの順位はチームとしての意義をほとんど持ちえなくなってしまっている。

 パワーにとって不幸なことに、ピットにはペンスキーとカストロネベスの最大の脅威となったディクソンをblatantに妨害できるだけの要素があまりにも揃いすぎていた。先頭を走るディクソンを追いかけていたパワーはコース上のバトルで勝利しその得点を削ることでチームに貢献できる可能性を持っていたが、チームは目の前に用意された、より安易で、効果的で、利益の大きい一手を採用したのである。それは肉体的に厳しいソノマで懸命に厳しいレースペースを刻んでいたパワーの努力を蔑ろにし、完全に無視するような選択だった。結局、スキャンダラスに引き起こされたあの瞬間はペンスキーの、ディクソンではなくパワーに対する「blatant」の証明として突きつけられているように見えてきてしまう――彼の背後で発生し、彼自身が当事者でありながら、彼を主体とする事故では微塵もなかったのだ。あるいは当事者であったゆえにむしろ、主体たりえないことをより強く思い知らされたと言うべきかもしれない。85周目に至るまでパワーは責任を問われることなく優勝を遂げたが、そこにペンスキーの意志はこもっておらず、ただひたすらに結果としての勝利でしかなかった。レース後の喜びにペーソスを感じさせるところがあったとしたら、きっと本人がその意味をよく理解していたからに相違ない。

選手権を担わないチャーリー・キンボールが解いた硬直

【2013.8.4】
インディカー・シリーズ第14戦 ミッドオハイオ・インディ200
 
 
 勝敗の分岐に直結する交叉点が不意に突きつけられるレースというものがある。スタートから千々に拡散したはずだった各ドライバーの辿る線が、それぞれの発する意思の絡みあいによってふたたび撚りあわされてまた解けていく瞬間とでも言うべきその一点において、われわれはときに狼狽さえ禁じえないほど不意討ちにされ、レースの一切をその一瞬の記憶にとらわれることになる。たとえばミッドオハイオの73周目、チャーリー・キンボールがシモン・パジェノーを袈裟斬りにするようにインサイドに飛び込んで抜き去ったターン4は、予想もされない場面が思いがけず立ち現れたことで、一介のバトル、タイヤの温度の差によって決着したと結論するだけでは収まりきらないバトルの価値を示唆しているように思えてくるのだった。

 2013年のインディカー・シリーズ第14戦にあたるこのレースの意義を浚ったときに、シーズンの3分の2を過ぎて終幕に向けて戦略を逆算しなければならない時期に展開されたにしてはあまりに拙劣な一戦だったと評することはおそらく正しい。直前の3連勝でタイトル挑戦者の座へと戻ってきたスコット・ディクソンはまるで一貫性のない燃料戦略によって表彰台の可能性をわざわざ手放したばかりか、不必要なほどにポジションを下げてポイントリーダーのエリオ・カストロネベスの後塵を拝してその差を31に広げられたが、しかしそのカストロネベスさえ、以前から何度も頽廃的と書いてきたのと同様にまたしても選手権への強力な意志を見せることなく、迫り来る後続から命からがら逃げるにすぎないレースを再現した。今季のシリーズは初のチャンピオンに囚われてリスクを冒せない彼の延命装置と化しているようであり、だれかが状況にとどめを刺す、すなわち現在のポイントリーダーを逆転して追い詰めてみせないかぎり、彼が抱える恐れに支配されるシーズンを断ち切ることはできそうにない。

 タイトルを争うドライバーたちが、トップ5フィニッシュの回数を誇ることしかできないカストロネベスの恐れに呑まれるようにスピードを信じられなくなっていくなかで、もはやランキングと無関係に振る舞えるキンボールが純粋な速さでレースの綾を横断したのは当然の帰結のようだった。昨年より5周分総距離を延ばす措置が取られて燃費に活路を見出しにくくなっていたミッドオハイオは、にもかかわらず燃費レースを遂行しようとしたライアン・ハンター=レイとウィル・パワーに相応の報いを与え、さらにその戦略を唐突に諦めて途中で給油の回数を増やしたディクソンにそれ以上の罰を与えた。レースは臆病者を許すことがないという当たり前のことが繰り返されたにすぎないのだろう。彼らがサーキットに裏切られたのは、燃費重視の戦略を、勝利のためではなくあたかも展開を窺う立ち回りのためだけの手段に堕させたからだったように見える。結局自らの矮小さによって硬直した2ストップ勢を嘲笑うかのように、キンボールは無邪気な速さでレースを切り裂いていった。半分の距離を消化したとき、キンボールは初優勝に向けて、すでに余分なピットストップを行ってもなお余るほどの大差を後続に対して築いていた。盤石のリーダーを脅かす可能性があるとしたら、それはおなじ戦略を採用してやはり2ストップ勢を出し抜いてきたシモン・パジェノーだけだったが、おなじエンジンを使うそのフランス人が脅威であることに気づくのには、もう少し時間を要した。

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 キンボールはピットタイミングの差で一時的に順位を下げた時間帯こそあったものの、31周目から64周目にかけてのほとんどの周回をリードしている。2番手に浮上してきていたパジェノーに対してもつねに5秒以上の差をつけており、あらゆる敵を問題にせず逃げ切ることが可能なはずのレースだった。しかし考えてみると、パジェノーはキャリア初優勝を果たした際、レース終盤にピットストップのギャップを突くスパートでリーダーを逆転してみせている。それはヨーロッパ人らしい彼のしなやかなF1的資質を証明する鮮烈なる加速だったが、ミッドオハイオで訪れたのもまた、同じような状況だった。64周目にリーダーが最後の給油に向かうのを見届けると、パジェノーは背負っていた差を埋めるべくタイヤを酷使しはじめる。チームメイトを始めとした選手権上位勢を退け、いっときは楽勝の雰囲気さえ漂わせていたキンボールにとって、それは予期せぬ追撃だったように見えた。一時的に冷えたタイヤと重い車をあてがわれたキンボールは明らかに劣勢に立たされ、オーバーブーストボタンを使用してまでタイムを削ろうとしたが、渋滞に捕まる不運にさえ見舞われて、73周目に給油を終えてピットアウトしてきたパジェノーの後塵を拝した。

 勝敗の分岐に直結する交叉点は、油断している観戦者に対して不意に突きつけられるものだ。パジェノーのスパートは静かなうちになされ、レースを振り出しに戻すような気配はほとんど感じることができなかった、もちろんそれは観客自身の観察不足でしかないのだが、パジェノーが72周目の終わりにピットレーンへと向かったとき、逆転に十分なリードを手にしていたことは驚きをもって受け止めるべき現象だったのだ。わずか18周分の燃料を継ぎ足し、手際よくタイヤを交換してくれたチームクルーの許を後にしたパジェノーは、果たせるかなキンボールに対し1秒のリードを得てコースへと舞い戻った。

 スタートから拡散していったはずの2人の線は、彼らが合流したこの73周目のターン1からターン4にかけてふたたび撚りあわされることになる。ターン2のヘアピンを立ち上がり、バックストレートに設定された全開のターン3を抜けてターン4のブレーキングゾーンへと差し掛かる。中盤を支配していたミッドオハイオのキンボールにとって、この瞬間こそ勝敗へと至る唯一にして最後の分岐だった。タイヤの温まりきっていないパジェノーが姿勢を乱されないように慎重に減速を開始したそのインサイドに向かって、キンボールは斜めのラインのブレーキングで深く、深く踏み込んでいく。2本の線が偶然にも絡みあったポイントで、キンボールは果たすべきオーバーテイクを完了した。この分岐を制したことは、彼の初優勝により大きな価値を与えることになるだろう。この日のチャーリー・キンボールは速さと、一度きりの機会に飛び込むだけの決意を持ち、だれにもなしえない唯一の走行ラインを描いてみせた。それは選手権に囚われないレースの一回性に刻みつけられる情動にほかならない。パジェノーを抜き去ったキンボールは、フィニッシュに向けて18周のうちに5秒のリードを築いた。すべては一度きりの出来事だ。気まぐれのように撚られた線は、正当なスピードによって必然的に解かれる。その単純な真実を、選手権を担っているわけではないこのドライバーは、彼自身の役割として硬直したミッドオハイオに知らしめたのである。

気がつけばスコット・ディクソンは帰ってくる

【2013.7.13-14】
インディカー・シリーズ第12-13戦 インディ・トロント
 
 
 ここ数シーズンの最終戦で見せてきた振る舞いがそうだったように、彼のトロントは、またしてもその精神の退路を断たれた末の破綻として、何度も繰り返されてきたものと似たような終幕までを演じている。それはウィル・パワーという優れたドライバーが帰ってきたようでいて、破綻の行く先があたかも美麗な悲劇であるかのような模様を帯びているのだが、もちろん今年の彼はまだ何事もなしてはおらず、チェッカー・フラッグを受けることなく最終ラップで車を壊して帰ってくることを許されているわけではない。

 深いブレーキングで表彰台の端に足をかけるようとするドライバーの信念を野心と呼ぶのであれば、土曜日のレース1の85周目にバックストレートでダリオ・フランキッティと接触しながら文字どおりインをこじ開け、一度は前に出た彼の挙動はまさしく野心的であったと言うべきかもしれないが、じつのところその野心はたいして意味を持たず、2013年のインディカーになにかを与えることもなければ、もちろんなにかを奪い去っていくわけでもない。いまだ勝利がなくすでにチャンピオンの可能性もほとんど潰えた今となっては、3位のために飛び込んでいくことはほとんど無価値で、少なくとも毎年最終戦までタイトルを争う――かならず敗れるにしても――彼にとって、そのポジションはたかだか2位で歓喜のドーナツ・ターンを舞ったセバスチャン・ブルデーほど切望されるものではなかったはずだし、2年前にやはりおなじ場所でパワーを撃墜したフランキッティが優勝し、その年をも制したことに比べれば、変化をもたらすことを望むべくもない、だからせいぜいわれわれが見出すのは、パワーが現状に抱いている苛立ちのようなものだけだ。功を焦って閉じられかけていたインサイドを突き破るかのように飛び込んだ彼のブレーキングを見ればだれだって、彼は追い詰められている、むしろ追い詰められている以外の情動はないのだと思い、その結果として現れたクラッシュという現実だけが、タイトル争いの圧力に屈した過去とおなじように見えることに気づく。ターン3のタイヤバリアに突き刺さってリタイアした後、インタビューに応じた彼は、チャンピオンを逸したときに露にされる諦念をまとった笑顔とおなじ表情を浮かべた。ウィル・パワーの2013年はすでに終わっている、最終戦で終える例年のように。

 最初の野心に意味がなかったわけではない。それはレーシングドライバーとしては当然の、リーダーとしてチェッカー・フラッグを受けたいという単純な野望で、つまり63周目、ピットに要した時間とタイヤの温度の差によって逆転を許したスコット・ディクソンに対して、パワーは22周後にフランキッティにするのとまったくおなじようにインサイドに踏みこんでいる。そこにはこのレースに対する緊張が溢れており、ディクソンはコースの中央を占拠してパワーに有効な空間を与えず、わずかながらブレーキングゾーンで内側に鼻先を向けてみせると、通常のラインと減速地点を見失ったパワーはターン3を外して、もはや逆転不可能な位置にまで後退することになる。おそらく現実的にこの瞬間だけがディクソンの連勝を止める唯一の機会であり、パワーの無謀さは報われてもよかったが、埃の積もった壁際はその左足の踏力を受け止めることはない。それはたんなるモータースポーツの現実であり、野心も切望も、タイヤのグリップを超えることはないのだとまたも教えられる数ある場面の一つである。こうして、一瞬にしてレースの焦点はパワーから奪われて、ディクソンは戦線に戻る優勝に向かって加速していく。69周目のリスタートでブルデーがいちどは先頭を奪ったが、そのリードチェンジがレースを動かさないことは明らかだった。もちろん、すでにポール・ポジションを得ていた翌日曜日を逃げ切ってしまうだろうことも。

 4月にインディカー・シリーズで初優勝した佐藤琢磨がホンダエンジンユーザーのなかで最多のポイントを獲得し、twitterで#indyjpのハッシュタグがついたつぶやきが浮かれに浮かれた雰囲気を漂わせていたころ、わたしは今季のシリーズ・チャンピオン候補としてスコット・ディクソンを挙げたりもしていたのだが、それはべつにアイスマンの異名をとるこのニュージーランド人がランキング2位にまで浮上した今の状況を予見していたわけでもなんでもなく、どういう角度から見ても本命が不在だったシーズン序盤において、細かくポイントを拾うことを得意とするディクソンが、もしかすると失う量の少なさによって他のドライバーを凌ぐかもしれないと考えたからにすぎない。その予想の中に速さの解答を探し求めていたチップ・ガナッシの復調は組み込まれておらず、だからチームメイトのダリオ・フランキッティのことはとことん無視していた。そのころのチームが明らかに変調をきたしていたことを思えば予想は鼻で笑われる程度のものだったし、現状を知ったうえで振り返ってなおたいした説得力を持つものではないことも自覚している。実際、なにが起こったとのかわかったものではない。7月の声を聞いたときに1勝もしていなかったドライバーが、7月14日には最多勝に並んでいるなんて馬鹿げた話をいったいだれが信じるというのだろう。ただたんに、ダブルヘッダーを含めて3連勝したというだけの話ではなく、あれだけ遅かったはずのチップ・ガナッシが、いつの間にかやすやすと、後続に影も踏ませずポール・トゥ・ウィンで逃げ切ってしまう展開を作り上げてしまっているのである。

 もちろん、5月の終わりからデトロイトのダブルヘッダーを挟んでインディアナポリスからオーバルレースの連戦が続く間に、チップ・ガナッシは長らくチャンピオンにあり続けたチームらしく着々と反撃態勢を整えていたのだが、ただたんにホンダエンジンが当初の照準とは裏腹にあまりにもオーバルに適性がなかったために、回復していた戦闘力が隠蔽されたまま、舞台がストリートに戻ってきたことでようやく顕在化したということなのかもしれない。ともあれ悪夢以外の何物でもなかった6月のオーバル3連戦が終わり、幸いにも燃費レースとなったポコノを拾い上げると、彼らはついにトロントでシリーズの中心を自分のものとしている。11戦目までのボックススコアと12、13戦目のそれを重ねあわせればあわせるほど、首を傾げざるをえなくなる。土曜日と日曜日のポール・ポジションを2人のエースで分けあい、そして両日とも、見慣れた#9を背負った5年前のチャンピオンが持ち去っていった。カーシャンプーのメーカーとして日本でも知られるソナックスがインディ・トロントのダブルヘッダーを2レースとも優勝したドライバーに10万ドルの賞金を提供すると決定したとき、もしかするとまさか本当に払うことになるとはあまり思っていなかったかもしれないが、ディクソンはそれを軽々となして、ポイントランキングの下位に注意を払わなかった人々を嘲笑っている。

 チームのクルマづくりがうまくいっていなかったシーズン序盤が、フランキッティよりもディクソンの背中を押したと考えるのは無理のある仮説ではない。悪い車を悪いなりに走らせることに長けている彼は、そうやって目立たない我慢を続けるうちに気がつけば――これはしばしば彼につけられる最大限の賛辞である――それなりの順位を得て、いまやいるべき場所に戻りつつある。ポイントリーダーとの得点差は、すでに29になった。ウィル・パワーが2013年のすべてを投げ出すブレーキングを軽妙に受け流して、投げ出さなかったスコット・ディクソンは不調を極めたシーズン前半を拾い集め、シリーズをふたたびやりなおそうとしている。