才能に裏切られるなかれ、あるいはジョセフ・ニューガーデンの25分間に捧げるためだけの小文

【2014.8.3】
インディカー・シリーズ第15戦 ミッドオハイオ・インディ200

居住まいを正してテレビの前に座り、真剣にレースを見ているようなときに何らかの予感が走るとしたら、それは根拠のないただの勘ではなく、無意識のうちに取り入れた細かい情報を自分の中で重ねあわせて作り上げる物語というべき類のものだろう。その意味では、最後尾スタートから変則的なピット作戦を成功させてスコット・ディクソンが首位に立った40周目、フルコース・コーションの最中に4位を走っていたジョセフ・ニューガーデンが、リスタートとともにサーキットの視線すべてを独占することになるだろうと考えるのは、むしろきわめて初歩的なレベルの推測だったといえる。燃費とタイヤの要素が複雑に絡み合う様相を呈していた時間帯にあって、上位3台はそれぞれわかりやすい瑕を抱えて速さを阻害されると予想された(ディクソンは燃料、2位と3位のセバスチャン・ブルデーとカルロス・ムニョスはおもにタイヤに弱点を抱えていたのだ)のに対し、もとより予選2番手だったニューガーデンはレースにおいて不利になる要素を序盤のうちにすべて片付けており、万全の状態で仕切り直しのグリーン・フラッグを迎えようとしていた。コントロールラインではなくターン3の先、バックストレート上に設定される一風変わったリスタートラインからレースが再開された直後、だからニューガーデンがムニョスを追い立てる展開はわずかの驚きも抱かせなかった。唯一予想できない事態が起きたとすれば、やがてムニョスとブルデーを攻略して首位に肉薄しようとするニューガーデンの車が、ただ速いだけに留まらず、息を凝らして記憶しなければ後悔すると思わせるほど信じがたい美しさを宿したことだ。43周目から65周目の間、時間にして25分にわたって演じられたその舞うがごとき走りは2014年のインディカーにおいてもっとも良質な運動に他ならなかった。その後に訪れた非情な時間の損失によって可能性を断ち切られた悲劇までも含めて、ただ彼の走りひとつをもってしてミッドオハイオはこの年いちばん優れたレースだとして記されなくてはらなくなったのである。
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セバスチャン・ブルデーの優勝はリスタートでなければならない

【2014.7.20】
インディカー・シリーズ第13-14戦 インディ・トロント

15歳くらいのときにはじめて触れて今年で33歳だからもう人生の半分以上、どちらかといえばわたしは長く米国のチャンピオンシップ・カー・レーシングを見続けていると言って構わないほうだろうと思っているのだけれど、それでもチャンプカードライバーとしてのセバスチャン・ブルデーにさほど強い思い入れを持っているわけではない。第4戦インディアナポリスGPの記事(「インディはどこから来たのか、インディは何者か、インディはどこへ行くのか」に書いたとおり、米国のオープンホイールレース界が2度目の分裂の憂き目に遭ったあと、フランス人である彼が国際F3000からF1移行に失敗し米国CARTへとやってきた2003年には、選手権の主流はことごとくインディカー・シリーズへと移っていて――チップ・ガナッシもチーム・ペンスキーも現在のアンドレッティ・オートスポートもすでにCARTではなくインディカーのチームだったといえば、だいたい想像はできるだろう――レベルの逆転は明らかになっていたし、インディアナポリス500もインディ・ジャパンも日本人ドライバーの参戦もみんなインディカーに集中していたから、もうCARTに熱い視線を向けることは難しくなっていた、というのが個人的な事情としてはある。レース界の動きを見ても、実際CARTはこの年かぎりで破綻し、翌2004年から経営主体がコンソーシアム、といえば多少聞こえはいいがようするに寄せ集めの集団になってチャンプカー・ワールド・シリーズへと選手権の名が変わり、ますます退潮の兆しが濃くなっていた。ブルデーが「最強の王者」として名を残したのはそこからチャンプカーが文字どおり消滅するまでの最後の4年間で、そんな微妙な時期のドライバーであったことが、わたしに彼の評価を定めさせなかった。

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もちろん、チップ・ガナッシは帰ってくる

【2014.7.12】
インディカー・シリーズ第12戦 アイオワ・コーン・インディ300
 
 
 そして1週間が経った。ポコノでチップ・ガナッシが見せた臆病な振る舞いを観客として正しく軽蔑すべきだという趣旨の前回記事を書き終えたころ、このチームの中でも「ターゲット」をスポンサーとするエース格のスコット・ディクソンとトニー・カナーンはすでにアイオワの予選1、2番手を独占していた。それはわたしの浅薄な眼差しをあっさりと蹴散らし、決勝に向けてなによりの楽しみをもたらしてくれる結果だった。ひとつのレースで話を完結させるなんとなくの流儀として記事で触れることはしなかったが、しかし去年同様に7月になってようやくスピードを取り戻してきたチャンピオンチームが、ポコノの頽廃を越えてレースでも王者としての振る舞いを思い出すことができるのか、アイオワ・コーン・インディ300はそれを見届けるにふさわしい準備を整えたように感じられたのである。

 最高のスタート位置を得たふたりはグリーン・フラッグが振られてすぐさま後続を引き離しにかかり、レーススピードでも優勝に値することを示している。ディクソンに関しては他のドライバーに比べてややタイヤの性能低下が大きい傾向にあり、スティント中盤以降に苦しむ姿は見られたものの、それでもチップ・ガナッシのDW12が同条件下で最速の車であることはまちがいなかった。33周目に降雨でレースが中断されても、セバスチャン・サベードラが急激な追い上げを開始したと思ったが早いかウォールにヒットして勝機を失った――このときテレビカメラが捉えたコロンビア人の表情は、インディカー・シリーズの中でもとくに印象に残る哀愁を漂わせていた――レース中盤でも、そして夜の帳が下りて気温と路面温度が急降下していただろう終盤に入っても、そのスピードは一定で、ずっと隙を見せることがなかった。このブログでは速さの証拠としてリードした周回数を持ち出すことが多いのだが、今回も同様にしてカナーンの247周、ディクソンの17周(しばしば2番手を走っていた)とふたりで90%近いラップリードを占めたのだといえば、だれだってアイオワがチップ・ガナッシのためのレースだったと首肯するにちがいない。もし昨年からレース距離が延長されずアイオワ・コーン・インディ250のままであったなら、彼らは1周0.875マイルのショートオーバルを全周回リードしてもまだお釣りが来るほどライバルを圧倒したということさえできる。

 それにしても、今季はどうも「同じこと」が起きるようだ。ウィル・パワーは5度もドライブスルー・ペナルティを科され、佐藤琢磨は自分の責任の有無にかかわらずリタイアを繰り返し、そしてこのアイオワの231周目にはマルコ・アンドレッティのホンダエンジンがテキサスに引き続き白煙を盛大に吐き出してフルコース・コーションを引き起こした。反復されるおなじアクシデントはしばしばレースの歯車を狂わせる要因になっていた(本来なら、パワーはもっと楽にポイントリーダーでいられた)が、マルコがまたしても見舞われた今回の不運に限っていえば、どちらかといえばレースを落ち着けるように思われたはずだ。つまりピットがオープンした234周目からゴールまでは66周で、満タンの燃料で73周走れることを考えると、全員がためらうことなく最後の給油へと向かえるタイミングであることを意味していたのである。先週に続いて中継の解説を担当した松浦孝亮が、このときリーダーだったカナーンについて「ピットアウトで先頭に戻れば勝機は大きい」といった趣旨のコメントを残したのも、ごく当然のことだ。ポコノでは劣勢だったピットクルーの作業もこの週末は完璧で、チップ・ガナッシはカナーンを首位のままコースに送り出したのみならず、4位を走っていたディクソンを2位にまで押し上げて最高の形で最後のスティントを迎えた。もはや最高の王者が帰ってきたと確信するのにためらう理由はなくなっていた。

 にもかかわらず、といっていいだろう。彼らは敗れてしまう。問題は燃料ではなく、ディクソンがずっとその徴候を示していたことに代表されるように曲がりっぱなしのショートオーバルによって大きな負荷がかかり、どの車のタイヤも30周程度しか走らないうちに性能低下を起こしていたことにあった。最終スティントも例外ではなく、260周あたりからすでに全体のペースが落ち込んでいる。それでもレースがグリーン・フラッグの状況下で行われているうちは(ピット作業の間に周回遅れになってしまうオーバルレース特有の事情で)だれもタイヤ交換できない我慢比べが続いたが、282周目にエド・カーペンターがファン=パブロ・モントーヤの進路をブロックしたことで発生した事故によって、展開に綾が生まれた。残り少ない周回数を考えてトラックポジションを優先しステイアウトした5番手までの車と、イエロー・フラッグを逆転する唯一の好機として新品タイヤに交換したライアン・ハンター=レイ以下数台の車へと、リードラップの隊列が2つに分かれたのである。

 グリップダウンは想像以上に激しかったようで、判断が正しかったのは結局後者だった。使いきったタイヤで前にとどまる集団に対し新品タイヤで後ろから追い上げる集団は圧倒的に速く、両者のレーシングラインは291周目のレース再開から間もないうちに何度も交錯する。そうしてついに299周目のことだ。明らかにハンドリングに苦しむディクソンをいとも簡単に料理した一昨年のチャンピオンが、グリップを失ってインサイドへ降りていくことのできないカナーンの左側をもやすやすと通り過ぎていく。最高の戦略を得たハンター=レイはこの周と300周目、たった2周だけリーダーとなって、そのままチェッカー・フラッグを頭上に戴いた。おなじくタイヤを交換したジョゼフ・ニューガーデンにも抜かれたターゲット・チップ・ガナッシ勢は、結局3位と4位でゴールし、またしても今季初勝利を逃した。そういうレースだった。

***

 最後に笑った(つまりもっとも笑った)のはハンター=レイだったとはいえ、GAORAの中継ブースにいた3人全員がいつの間にかカナーンにシンパシーを抱いて肩入れしてしまっていたことに象徴されるように、アイオワの優れた主演がクライマックスだけを攫っていった黄色い車ではなく、つねにスポットライトを浴び続けた赤い車であったことはたしかだろう。カナーンは――もちろんそれはなにより辛いことではあるが――たんに1位になりそこねただけで、きっとその他のあらゆる面では勝者だった。たとえば実況した村田晴郎の振るったコメントがレースの性質をよく表している。「先週のカナーンは戦略に負け、今日のハンター=レイは戦略に勝った」。そのとおり、カナーンはポコノのように惨めに敗れたのではない。最後のコーションでステイアウトしたのは結果的に誤っていたが、レースのリーダーがポジションを最優先で確保するのは当然の戦い方で、当初から疑問だった分の悪い賭けに身を置いたのとは違う。もっといえば、チップ・ガナッシは2番手のディクソンを保険としてピットインさせる選択もありえたのに、結局そうせずにゴール2マイルのところまで1-2態勢を保ち続けた。彼らが繰り広げたのは、逃避にまみれたポコノの再現ではなく、まぎれもなく強者のレースだったのだ。

 そんな、普通に走っていれば勝てると言わんばかりの堂々とした振る舞いに観客の勝手な視線を向けてみると、チャンピオンチームでありレースのリーダーでもある自らの気位をこそ、彼らがこのレースで守るべきものとして戦っていたように見えてくる。村田のコメントには、「カナーンはけっして負けたのではない」という心情が、これ以上なく込められているようだ。ただ完璧なレースに生じた僅かな亀裂に、偶然の展開を味方につけて「戦略に勝った」ドライバーが割り込んだ、ライアン・ハンター=レイという(チップ・ガナッシとは)別のだれかが1位を得ただけのことだったのである。

 もちろんハンター=レイが最高の「ハント」を完遂した最後の10周は、日が暮れた後のレースでもっとも興奮を誘うもので、その走りを称えるにやぶさかでない。インディアナポリス500以降の不調で一度は選手権争いから脱落しかけた彼がふたたび戦線に戻ってきたという意味でも重要な結果だった。しかしそうだとしても、やはりこのアイオワは王者が精神を充足させながら結末だけが慰みにならなかったレースとして印象に残しておくべきだと思われる。一度はレースと正面から戦うことに怯えた王者をモータースポーツという営みの強度のためにこそ軽蔑すべきだと書いたのだから、1週間後のいま、まったくおなじ理由でその敗戦を称揚するのは当然のことだ。君子の豹変は歓迎されるものである。強かったチップ・ガナッシは偶然に翻弄されて哀しみに暮れた。しかしその過程で維持し続けた美しくも清冽な1-2の隊列は、もしかすると優勝者として名前を刻むよりもよほど重要な精神を示していたに違いなかった。

 歴史に残るのは1位だけで、敗者は記憶に残らない、だから勝負は勝たなければ意味がないと言われることがある。だが観客がモータースポーツに求めるのは事後の結果ではなく、いまこの瞬間に湧き上がる情動であるはずだ。われわれはレースをつぶさに見ることで、ニヒルに満ちたそんな文句を否定してしまおう。結果としての勝者とおなじくらい精神の勝者を称えようとするかぎり、2014年のアイオワをなによりもまずチップ・ガナッシのレースとして心に留めておくことは、きっと、さほど難しくない。

インディカーのために、われわれはチップ・ガナッシを軽蔑する必要がある

【2014.7.6】
インディカー・シリーズ第11戦 ポコノ・インディカー500
 
 
 500マイルの長い長いレースで、この日はじめてとなったフルコース・コーションが導入された161周目に、結果としてレースの最多ラップリーダーとなった、つまり多く最速であったターゲット・チップ・ガナッシのトニー・カナーンがピットへと向かった場面は、今シーズンに起きたインディカー・シリーズのどんな事件より不愉快を生じさせた瞬間として記憶されてもいいだろう。チームはそこでとりあえずカナーンのタイヤを新品に交換し給油を済ませると、さらにコーションが明ける直前の164周目にふたたび昨年のインディアナポリス500ウィナーを呼び戻し、わずかに減った燃料をもう一度注ぎ足してタンクの隙間を埋め、200周目まで走り切るように指示してコースへと送り出した。チェッカー・フラッグまでは36周を残している。トライオーバルと呼ばれる特徴的な三角形レイアウトをしたポコノ・レースウェイが、しかしどんな車にも32周のうちに燃料を使い切らせてしまうことは、レース4分の3が終わったこの時点で完全に証明されていたはずだった。チップ・ガナッシは、ゴールまでたった1スティントの間に通常の10%以上も燃料消費量を抑えて長い距離を走り切る賭けに打って出たのである。

 そこに無謀な、と修飾語をつけてもよい。実際オッズは9:2だった――つまりこの時点でリードラップに居残っていた11台のうち、カナーンとおなじ作戦を取ったのはわずかにジョゼフ・ニューガーデンだけだったのだ。最終的にチップ・ガナッシの勝負は失敗に塗れることになるが、結果論でなく当初から分の悪い賭けだったことはだれの目にも明らかだったわけである。もちろんストライク/サラ・フィッシャー・ハートマン・レーシングの選択に関してはわからなくもない。ニューガーデンはカナーンと違ってインディ500の優勝者ではなく、という以前にシリーズで一度も勝ったことのないまだ23歳のドライバーで、チームはお世辞にも強豪とはいえないし、なによりこの日も勝機を見出すことなどいっさいできないレースを戦っていた。もとよりリードラップの後方を走っていたのだから、失うものもない。彼らは自らの立ち位置を理解したうえで、ホンダエンジンが優位とされる(かどうかは正直怪しいところだが、そう信じられてはいるようである)燃費や、その後イエロー・フラッグが何度も振られる微かな可能性を頼んで少額のチップを積んだ。それは弱者が取れる数少ない、しかしゆえに尖った戦略として、むしろ賞賛さえされるべき決断といえよう。事実ニューガーデンはコーションでステイアウトした車が給油に向かった188周目から自らの燃料が尽きた194周目までをリードしたことでレースの行く末に波乱の疑念を抱かせるとともに、貴重な1ポイントをも上積みした。そのうえでウィル・パワーが(またしても)ドライブスルー・ペナルティを科された間隙などを突いて得た8位は、まちがいなく作戦が成功したことを証している。優勝とまではいかなくとも彼らにとって悪い賭けではなかったのだ。なすべきことを正しい瞬間になせばレースは報いてくれるとささやかな寓話にすることもできそうなくらい、彼らは能く戦った。

 だが8位を最高の果実としたニューガーデンとサラ・フィッシャーの作戦は、同時にそれがどこまでも弱者の戦略でしかなかったことを示してもいる。コーションが長引けば、再スタートの混乱でふたたび事故が起きてイエロー・フラッグになれば、周回遅れを利用して空気抵抗を減らし燃費を通常以上に向上させられれば。彼らが頼んだ展開は通常ではない事象をいくつも掛け算した結果の途方もなく低い確率でしか見つかりえなかったし、実際にそういう卑近な願いをあざ笑って、ごくごく普通の作戦をとったファン=パブロ・モントーヤが優勝したわけである。第9戦のカルロス・ウェルタスのように目をつぶりながら細いロープを落ちることなく渡り切ってしまうような偶然はめったにない。ニューガーデンは弱者の戦いをして、弱者らしく当たり前に敗れた。

 弱者がレースのほんのわずかな綻びにしがみついて優勝まで辿りつくには、あらゆる都合のいい仮定を砂上に積み重ねていかなければならない。ほとんどの場合、そんな幻想は強者が無造作にスロットルを開けるだけで霧散するし、また強者は自らの勝利のためにそうする権利が、あるいはモータースポーツという営みの強度を守るために、そうする義務がある(われわれはサイコロを振って出た目だけで決まる競走を見たいわけではない)。レースにおいて、弱者に地位に応じた戦いがあるように、強者にはふさわしいありかたが求められるものなのだ。カナーンへの、チップ・ガナッシへの不愉快とはそういう意味である。2014年は未勝利といっても昨季の、もっと言えばここ6年で5度の選手権を獲得したチームと、インディ500・シリーズチャンピオンの両方を経験しているドライバーのコンビが、多くのラップリードを築いていたにもかかわらず、なお強者としての振る舞いを捨てて矮小な賭けを指向した、それはレースに対する敬意を欠いた裏切りに他ならなかった。昨年このブログでたびたび使った言葉をふたたび持ちだしてもいい――チップ・ガナッシは頽廃的なレースに堕したのだと。

 中継の解説を担当した松浦孝亮の推測するところによれば、この日のチップ・ガナッシはライバルのチーム・ペンスキーに対し一貫してピット作業が遅く、最終スティントで先頭に立つことが困難と予想されたために、変則的な作戦を採用したのかもしれないということである。ターンの角度がきつくバンクも浅いポコノでは追い抜きがほぼ不可能で、実際レース中にもほとんど見られなかったから、ひとたび先行を許せば逆転の可能性にさほど希望を持てないことは明白だった。だからコース以外の場所でなんらかの工夫が必要とされたのだろうと、そういうわけだ。

 それを受けて実況の村田晴郎は、「勝つための作戦」だとカナーンの変則的なピットストップについて述べたのだが、その表現はおそらく半分正しく、しかし半分は間違っている。たしかにチップ・ガナッシは工夫を凝らし、足りない燃料をなんらかの偶然で埋めてペンスキーを出し抜く賭けに出た。それはたしかに勝利を願った作戦ではあろう。だが同時にそうすることで彼らは、強者としての振る舞いを、最大限の努力でピット作業を短縮し、最高の緊張とともにコース上のバトルを制して勝利しようとする意志を、自らのピットボックスに破り捨てもしたのだ。チップ・ガナッシは奇抜な作戦を選ぶことによって、直接の対決を避けてある意味では安直な勝利を求め、また負けたとき「賭けに失敗しただけだ」と自らを慰めるためのわかりやすい理由を手に入れたように見える。いやむしろ、彼らが選んだのは「勝つため」である以上に、敗因を隠蔽し、自分たちは最善の努力を払ったが報われなかったのだという偽装された満足感を得るための作戦ですらあったのではないか。

 ニューガーデンとサラ・フィッシャーの戦いから最善を尽くした麗しい物語を読み取れるとしても、まったくおなじ文章を紡ごうとしたカナーンとチップ・ガナッシに同種の意志を見てはならない。弱者が弱者としてレースに立ち向かうために狭い路地での戦いを求めるのと、強者がそこに逃げることはまったく違うのである。賭けの失敗を慰みにできる傷つかない走りを選び、自らにふさわしい戦いの場から姿を隠したチップ・ガナッシは、レースを形作る一員になる資格すら失った。結局、ポコノでカナーンが本当にペンスキーに勝てなかったのかどうかは永遠の謎となってしまったのだ。ライバルと、さらにはレースそのものと対峙することを忌避し、弱者の路地へと逃げこんだ彼らの振る舞いこそ、この好レースに投げかけられた唯一の失望に他ならなかった。

 チップ・ガナッシにいまだ優勝がなく、不調から抜けだせずにいることがしばしば話題になるが、ことここに至ってその理由は明らかになったというべきだろう。だれよりも強者であるべき彼らは、そう振る舞えるはずの場面ですら弱者であることを望んで自分自身をレースから放逐している(このチームがスコット・ディクソンのクラッシュ以外ほとんど目立つ場面がない、ということを連想してもよい)。そんなチームに幸運以外の勝利が訪れるはずもなく、そして弱者を勝たせるほどの幸運はそうそう転がり込んできたりしない、ただそれだけのことだ。しかしチップ・ガナッシは本来まぎれもなく強者であり、そしてまさにこのポコノがそうであったように、強者がレースを恐れる姿など観客にとっては不愉快でしかない。昨年はポイントリーダーの地位を守ろうとするエリオ・カストロネベスの恐れがシーズン中盤から後半を支配し、打ち破るには最終戦を待たなければならなかった。われわれがインディカーの強度を信じ、擁護しようと思うなら、ポコノのレース中盤を支配したことでいまだ強者としての可能性を残していることを示したチップ・ガナッシが、頽廃的な恐れを振り払う姿をこそ求めるべきである。それは車の性能やチーム力と違って、次のレースにでも改めることができる――昨季の最終戦が突如として豹変したようにだ。観客としてはその瞬間を待ちながら、せめてその臆病を冷笑し、軽蔑の眼差しを向けるくらいのことを、しておくべきにちがいない。

ターン6が覗かせたインディカーの可能性

【2014.6.28-29】
インディカー・シリーズ第9-10戦 ヒューストンGP
 
 
 モータースポーツの置換不可能な単独性が、スタートからフィニッシュまでを最も速く走るために合理化された高度な反復にあるのだとすれば、レースの未来は反復を乱すあらゆるありふれた事件によって差異化されるのだ、と言うことが可能かもしれない。その過程で仮に「ありえたかもしれないもう一つの未来」といったものを想像するならば、たとえばヒューストンの2日間は酷似したふたつの事故を並べることで、レースにありうべき可能性を実際に出現させてみせたのだと思えてもくる。
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ウィル・パワーはその速さによって自分自身を救った

【2014.6.7】
インディカー・シリーズ第8戦 テキサス・ファイアストン600
 
 
 フォンタナのオーバルコースで行われた2013年インディカー・シリーズ最終戦は、選手権を争っていたスコット・ディクソンとエリオ・カストロネベスの動向を気にせずにはいられないレースだった。25点差を追って一途に集団を攻めていくカストロネベスが何度もバーチャルポイントで逆転し、それに呼応してディクソンが危険なバトルへと身を投じて順位を回復していくさまには、繰り返し映像を見ても興奮を抑えられそうにない。恍惚の戦いは終盤カストロネベスが軽い接触によってフロントウイングを傷めてしまったことで不意に終止符が打たれたが、断頭台の刃がレースへの意志の強靭さとはまるで関係なく、ただただ無機質に落とされたようなその残酷な終幕も含めて、この年最高のレースだったと断言できる。

 ただ当然のこと、この戦いが選手権という純粋なレース以外の要素によって彩られていたのもたしかではある。最終戦とはえてして、そんなふうに1つのレースではなく1年に対する結末が優先されることになるものだ。リードラップ最後尾の5位でチェッカー・フラッグを受けたディクソンと無念にも周回遅れとなって6位でゴールしたカストロネベスはたしかに最高のレースを演出したが、結果だけを見るならそれなりの順位で、シーズンにおける対照の2人としてスポットライトを浴びたにすぎない。普通ならインタビュアーが真っ先に5位、6位のドライバーのもとへ赴くなんてことはなく、10月20日という日程だけが特別にそういう光景を生んだのだ。だからもしフォンタナがたんに夏場の一レースであったなら、われわれは別のドライバーを真っ先に讃えていたにちがいない。選手権の強い光に目が眩んでつい見落としがちではあるものの、その陰でウィル・パワーは最終戦を先頭からスタートする資格を手に入れ、だれよりも多く103周をリードし、最終ラップのコントロールラインを最初に通過して、1レースで得られる限界の54点を獲得していたのである。昨季、この完全勝利を達成したドライバーは他に2人しかいなかった。

 ウィル・パワーがオーバルレースを苦手としていることは、いまさら声高に指摘するのも憚られるほどの常識だ。2005~2007年のチャンプカー参戦を経て2008年にインディカー・シリーズにデビューしたオーストラリア人は、以来このフォンタナまでに18勝を挙げているが、そのほとんどはロード/ストリートコースでのもので、オーバルではまともな結果を残していない。左ターンしかないコースでの優勝は2011年テキサス「ファイアストン・ツイン・275s」の1度きり、しかもそれは名称からわかるとおり本来550kmで行われるレースを距離もポイントも半分に分割したイベントのうちの片方でしかなく、彼が勝ったレース2はまばたきをしているあいだに終わるほど短かった。スタートからゴールまで50分もかかっていないのだ。0.5勝といってもよいくらいである。

 RACING-REFERENCE.INFOに掲載されている記録をもとに計算してみると、トップチームであるチーム・ペンスキーにはじめて乗ってから2013年の最終戦までの間、パワーはオーバルを27戦走って平均12.3位という結果を残している。全体の半分以上だから悪くない数字に見えるが、同時期のロード/ストリートで45レース平均5.8位を記録しているのと比較すればまったく優れているとは言いがたい。数字からも明らかなとおり、彼はロード/ストリートとオーバルの間で歓喜と失望を繰り返し往復するドライバーだった。得意とする深いブレーキングは全開の続くスピードウェイでは活かす場面がなく、200mphで動く集団の中で正しい進路を見失って戸惑う姿ばかりが目についたものだ。

 もちろん、経験少ないコースを苦手とするのはやむを得ないことではある。ましてオーバルは特殊なレースで、キャリアを重ねてからインディカーに転向したドライバーの多くが苦戦することもたしかだ。だが結局、この弱点が彼を頂点から遠ざけ続けたのもまたまぎれもない事実だった。2009年のスポット起用を経て、2010年にペンスキーからフル参戦するようになってからは、ロード/ストリートが集中するシーズン序盤に圧倒的な強さを見せながらオーバル中心の秋にポイントを伸長できず、最後に敗れる苦汁を3年連続で味わっている。2010年のホームステッドでは25位、2011年ケンタッキーは19位、2012年のフォンタナが24位で、いずれの年もポイントリーダーとして迎えながら最終戦のオーバルで逆転を喫して1年を終えた(2011年の実際の最終戦はラスベガスだったが、12周目に発生したダン・ウェルドンの死亡事故によって中止となっている)。

 いつまでも幼さが抜けないパワーの顔には、そんなふうに速さと脆さのふたつの表情が同居している。しかもただ得意と苦手がわかれているだけならまだしも、あまりに「高い」レベルで均衡しているせいでだれよりも惜しい場面が際立ってしまった。もしロード/ストリートでちょっと速い程度のドライバーだったなら、オーバルでの醜態もむしろ愛嬌として受け止められただろう。だが得意なコースだけで選手権を戦えてしまうほど突出したスピードがあるからこそ、だれも彼がインディカーの名脇役にとどまることを許さず、主役になれなかった男として扱おうとした。敗北とともに失意の表情を浮かべる光景がいつしか秋の風物詩になったのは、歪な才能ゆえだ。

 しかしそんな中で、彼はついに高速オーバルのフォンタナを圧勝してみせたのだ。2013年は失意の1年で、前半戦はシリーズ全体の波乱に巻き込まれるようにミスを繰り返して後方へと沈み、パフォーマンスを取り戻したころにはすでに手遅れでチームメイトの援護に回らざるを得なかった。それがかえってよかった、とは心境をおもんぱかれば言えないが、(実質的に)はじめて重圧のかからない最終戦を迎えたパワーは、焼けるような選手権争いが繰り広げられている遥か前方を、その熱量に浮かされることなくさらりと受け流して涼しい顔で逃げ切ったのである。気楽に走れたことが功を奏したのかもしれないとはいっても、やはり過去を置き去りにするかのような500マイルオーバルでの優勝は新しいシリーズ・チャンピオンに辿りつくために打たれた重要な布石に見えた。

***

 2014年のシリーズ第8戦、ウィル・パワーがピットに進入する際の速度違反によってドライブスルーペナルティを科されたのは215周目のことで、その瞬間に勝負の行方は決まったも同然だった。夕刻から夜にかけて気温と路面温度が下がっていく難しいコンディションにあって、インディアナポリス500のポールシッターでもあるエド・カーペンターがリーダーの座を固めていく中、追随できるのはこのレースの序盤を席巻していたパワーだけだったのだ。従来の550kmから600kmへと距離を延長してレース戦略から燃費を排除しようとした運営の目論見が成功したのか、6月のテキサスはスピードを愛する者がもっとも報われる一戦となりつつあった。インディ500に続いてフルコース・コーションがほとんど導入されなかった――事故を原因とするコーションはたった1回だった――こととも相まって、1周25秒のハイバンクオーバルは遅い車を次々と篩いにかけて周回遅れへと引きずり下ろし、本当に戦う資格のあるドライバーだけをリードラップに残していたのである。
 その中でもカーペンターとパワーはより速く、2人以外に優勝が許されそうになかった。なにせ2人とも、2位に10秒というオーバルでは冗談みたいな差を築き上げるタイミングがあったほどだ。これでなにかの拍子に他の誰かを勝たせるとしたら、さすがにモータースポーツの神様も気まぐれが過ぎると呪いたくもなるスピードである。102周目までのほとんどと、126~170周目を取って最多ラップリードを確定させたパワーに対し、カーペンターは終盤にセッティングのポイントを定めたようにスピードを上げてきていた。2人のポジションは緩やかに交差し、残り50周を切ったころにはカーペンターのほうが逃げ込みを図るようになる。問題の違反が生じたのはそんなときだった。後から流されたリプレイには、ピットレーンの速度制限区間のはじまりを示すラインから数十mにわたって、明らかにブレーキングを失敗したパワーがタイヤをロックさせる場面が映っている。

 それからの手際はテレビの実況陣が笑ってしまうほど鮮やかで、ピットアウトするやいなやレースコントロールからカーナンバー12にドライブスルーペナルティが宣告され、パワーは満足に加速もしないうちにハンバーガーを買いに戻る羽目になった。「まただよ、本当に残念だった」とレース後に彼は言っている。いくら自分の責任ではあっても、前の日曜日にもペナルティを受けたばかりなのだから落胆するのも無理はない。

 ただデトロイトではそれでも2位だったし、今回もまた、その希望は残されていた。つまりふたたびコースに戻ってシボレーエンジンを限界まで回しはじめたとき、リーダーのカーペンターはかろうじてすぐ背後にいたのだ。周回遅れにならずに済んだのである。最後尾とはいえリードラップに踏みとどまったパワーはその後も勇気を持って苦手なはずの集団を突破し、遅い車の間を縫いながらオーバル・マスターから逃げおおせた。そういう苦闘はしばしば報われるものだ。二百数十周も全開で戦われていたレースは、残り6周、佐藤琢磨の車から突然火の手が上がったことでスローダウンされる。この日3基目となるホンダエンジンのブローによってイエロー・フラッグが振られた瞬間、ペンスキーのストラテジスト、ティム・シンドリックは彼のドライバーをピットに呼び戻す決断をしていた。

 最後のピットストップで新品タイヤを得たパワーは、レースが再開するが早いか、30周以上使い古したタイヤで苦しむライバルを苦もなく大外から飲み込んでいく。ゴールまでたった3周、時間にして1分強のあいだに、彼はカーペンターを除くすべてのドライバーを抜き去って、ペナルティを受ける前の2位へと舞い戻ったのだった。「(ペナルティは)本当に残念だった、でもチームがすばらしい(ピットインの)コールをしてくれたんだ」と彼は振り返る。最後のスプリントでグリップに明白な差が生じていたことを思えば、たしかに失った順位を取り戻すために必要な最後の鍵がタイヤだったのは間違いない。たとえリードラップの最後尾で作業をしても損にならないことが分かっていたのだとしても、あの瞬間、まったく迷うことなくドライバーを呼んだシンドリックの判断は称賛されるべきであり、その意味でパワーが述べるチームへの感謝は率直な心持ちだったことだろう。だがその言及はまた、レースのすべてを反映したものでもない。彼が2位を失わなかった最大の理由を挙げるとするなら、それはそうするために抜かなければならない車がたった4台しかいなかったことなのだ。7位以下がすべて周回遅れとなっていたことで、リードラップ最後尾に落とされたといってもパワーはまだ6位にいた。そしてそのような状況をつくりだしたのは他でもなく、序盤から中盤にかけてスピードによってレースを席巻し、遅い車を次々と断罪していくように周回遅れに追い込んだパワー自身の走りだった。最後に2位に上がったのがタイヤの差という局所的な状態の違いにあったとしても、それは248周のレースの中で一から作られた土台にの上に完成した結果だった。一度はつまずいたウィル・パワーを救ったのは、結局のところ自らのスピード以外になかったのである。

 いまインディカーに無条件で「速い」と言い切れるドライバーがいるとしたら、パワーを措いて他に――だれも、と付け加えてもいいかもしれない――ない。ロード/ストリートのみならずオーバルでも強い印象を残した彼が選手権の地位に汲々とすることなく、今後もレースを破壊せんばかりの無垢なスピードで走り続ける快楽を見失わずにいられるのであれば、昨年完全優勝を果たしたフォンタナの地で、自然ともうひとつの勝利を手に入れる機会に恵まれることだろう。あのときの布石は、今になってたしかに生かされつつある。

真の友人はスピードだけだ

【2014.5.31-6.1】
インディカー・シリーズ第6-7戦 デュアル・イン・デトロイト
 
 
 ターン6で起きたセバスチャン・サベードラの単独事故のため導入されたフルコース・コーションに呼応してリーダーの佐藤琢磨と次いでエリオ・カストロネベス、ライアン・ブリスコーがピットへと向かったとき、その動きに疑問を感じなかったわけではない。ベル・アイル・パーク市街地コースの荒れた路面は彼らがスタート時に履いていた柔らかい赤タイヤの表面を削るように傷めつけ、短い周回のうちにグリップを失わせることが去年以前からわかっていたし、前日にも同様の傾向が証明されたばかりだった。側面が赤く塗られた柔らかいオルタネートタイヤと硬い黒のプライマリータイヤの両方を装着しなければならないルールの下で、だから先頭を行く彼らは早めに赤タイヤの義務を終えてしまい、優位に戦える黒タイヤで長い距離をはしる戦略をとったのだろうとは、たぶんインディカーを見慣れている人ならだれでも即座に理解できたはずだ。だがそのときレースは全70周中のまだ11周目で、満タンの燃料で走れるのは概ね25周だから、タイヤを替えてからさらに2回の給油を要する、つまり3ストップ戦略で戦わなければならなくなることも明白だった。見ている側としては、事故の後片付けが終わってレースが再開してから5周ほど赤タイヤで我慢し20周まで走れば、ロスを最小限に抑えつつ2ストップで済むのではないかと直感したし、実際2位を走っていたジェームズ・ヒンチクリフ以下ほとんどのドライバーがそうしていた。デュアル・イン・デトロイトの日曜日、名称のとおりダブルヘッダーとして行われたうちレース2の序盤に生じた展開の分かれ目である。3ストップを選んだ3人が余分な給油のために失う時間を取り戻すための猶予はあまり与えられていなかった。

 最終的にこのレースを優勝することになるカストロネベスには、彼を取り巻く状況を良い方向に運ぶいくつかの小さな幸運が訪れている。たとえば、コーションでステイアウトを選択した集団が最初のピット作業を終えてしばらくすると、彼の後方にはストリートコースとしては信じがたいほど広大な空間ができあがっていた。唯一黒タイヤでスタートし、2ストップ組の先頭に立っていたマイク・コンウェイが24周目からの第2スティントで赤タイヤを履いたためにまったくペースを上げられず、後続を大渋滞に巻き込んだからだ。ロングビーチで優勝したストリート巧者のコンウェイでさえ赤タイヤには手の施しようがなく、カーナンバー20は長い直線から直角に曲がり込むターン3への進入でしばしば激しくブレーキをロックさせ、コースを白く覆うほどの煙を巻き起こしていたのである。どんなコーナーを見ても2人のスピード差は明らかで、ラップタイムは2秒、ときに3秒も違い、カストロネベスはまたたく間に余分な給油時間を補うだけのリードを作り上げた。34周目に2度目のピット作業を終えた彼は2位でコースに復帰し、おなじ戦略のジャック・ホークスワースが次周にピットインしたことで苦もなく先頭に戻っている。さながらF1王者のようなレースぶりではないか。コーションでレースがリセットされやすいインディカーでは珍しい光景だが、もうひとつの幸運であったことにこの間に黄色い旗が振られることはなかった。

 たった10周のうちに2ストップ勢を置き去りにしたこの時間でカストロネベスの勝利はほぼ決まっていた。そのうえ35周目には、最初のスティントでリーダーだった佐藤がブリスコーの素人のような追突によってスピンを喫して勝負する権利を失ってもいる。予選で自分が記録したコースレコードをさらに上回り、スタートしてからも着実にリードを築くなど唯一の危険な敵でありえた佐藤が消えたことでカストロネベスを脅かす相手はいなくなった。その周からゴールまで、彼は一度たりともラップリードを譲っていない。

 そういう展開だったために、3ストップが本当に正しかったかどうかはレースの後になっても不明瞭のままだ。事故に巻き込まれた佐藤はもちろん、近いレベルの速さを見せつつあったホークスワークもペナルティを受けて後退したせいで戦略の効率性を推し量れなくなったし、さりとて「2」と「3」を直接比較しようにもコンウェイがレースを乱してわからなくしてしまった。ただ、いくら後続のペースが上がらなかったといっても、ピットストップ1回分のリードを1スティントの間に築きあげる作業が容易でないことはたしかである。そうしてみると、この日のカストロネベスにとって戦略などレースの要素ではなかったと結論してしまっていいかもしれない。彼はひたすらプッシュを続けるだけで、工夫も衒いも必要としないまま優勝することができた。59周目のコーションまでつねに10秒のリードを保ってレースを自在に操っていたことからも想像できる。どんな可能性の糸を辿っていこうとも、きっとデトロイトの2日目でエリオ・カストロネベスの通算29勝目を見る以外の未来は存在しなかったのだ。

 彼の勝利が純粋なスピードに裏打ちされたものだったことは、チーム・ペンスキーの同僚であるウィル・パワーも証明している。パワーは土日を通じて暴力的な走行によって都合4台の車に大きな傷を負わせ、うち2台を直接のリタイヤに追い込むなど周囲にさんざん迷惑をかけていたが、にもかかわらず自分だけは抜け目なく生き残ってレース1で予選16番手から優勝し、レース2はドライブスルー・ペナルティを受けながらも2位に戻ってきた。たしかに、事故以外の面では彼にもいくつか展開が味方してはいる。だがレース前に得点ランキングの首位に立っていたライアン・ハンター=レイを簡単に引きずり下ろすことができた主因は、やはり絶対的なスピードだったと言うほかない。結局ペンスキーは、ただ速さだけを頼りにデトロイトの2日間を持ち去っていった。

 スピードによる勝利はレースでもっとも正しく、もっとも確実で、もっともライバルに諦めを抱かせる。それはレースにおけるわかりやすい強さの現れであり、1年にわたる選手権を勝ち抜くためにただひとつ欠かせない重要な足場でもある。他の何を備えていたところで、スピードを欠く者に本当の勝機は訪れない。レースで真の友人はスピードだけだ。2013年に安定的なレースに徹しすぎてスコット・ディクソンを突き放す機会を逸し、結局最後に逆転されて3度目のランキング2位でシーズンを終えたカストロネベスは身をもって知っているのだろう。日曜日のチェッカー・フラッグを受けた彼はおもむろにウイニングランを味わって帰ってくると、初優勝から15年にわたってそうしているように金網をよじ登って拳を突き上げたが、その姿にはいつも以上に感情の爆発が見て取れた。もちろん今季の初勝利だとか、エンジンを供給するシボレーの地元で勝てたのだとか、特別に喜ぶべき理由を挙げることはできる。けれども昨年から彼を支援している日立への感謝を律儀に述べつつも興奮を抑えきれず早口でまくし立てるインタビューの様子からは、この優勝が1回きりの偶発的な事件ではなく、シーズンの全体像を見通すスピードに対する確信が窺えた。彼は得難い友人を得たのである。
 
 
 開幕からの4戦は戦略と燃費によって勝敗の針が振れる傾向が強かったが、インディアナポリス500を境に単層的で水平に拡がるスピードが支配するレースが3つ続いた。このわずか8日の間に勝利した3人のドライバーがそのまま得点ランキングの3位までを占めたことで、2014年のインディカーはシーズンの輪郭を鮮明にしはじめたと言ってもよいだろう。カストロネベスとパワーはもちろんのこと、デトロイトでありとあらゆる不運に見舞われたハンター=レイも、インディ500で見せた力とスピードが正しいコンテンダーであることを予感させている。

 インディカーがしばしば運に勝敗を左右されるカテゴリーだとはいっても、少しくらい運を味方につけたところでこの3人にシーズン単位で太刀打ちできそうなドライバーは探し当てられそうにない。強いてあげるなら昨季の王者で、ディクソンが去年のこの時期とおなじように「死んだふり」をしているのだとすれば今後も目を配る必要があるかもしれないが、なにしろ8月に終わるシーズンだから起き上がろうとしたときには何もかも手遅れになっていそうだ。まして、すでにリーダーから142点という大きすぎる差が開いている。インディ500ではらしくないクラッシュで自らレースを失った。死んだふりのつもりで埋葬されるのでは世話はない。シモン・パジェノーはいつかシリーズを制するべきドライバーだが、彼にチップを積むのは少し早いようだ。
 だからおそらく、選手権争いは多少揺らぐことはあっても3人を中心に回っていくだろう。そしてそうなった場合、現時点でのポイントからしても走りの迫力からしても、ペンスキーの2人のほうがやや優位に戦えるように思える。ハンター=レイはたしかに速いが、相変わらずミスも多い(彼のデトロイトの悪夢は、結局予選でのクラッシュから始まっている)し、カストロネベスが昨季を反省できるならもはや守り一辺倒の運転で行き止まりの撤退戦を選ぶような愚は犯すまい。あるいはロード/ストリート6レースに対してオーバルが5という残りの日程はパワーにとって歓迎こそできないものの、かといって昨年のフォンタナを制した彼がすでにオーバルを走れるドライバーであることも明らかだ。そもそも人数からして2対1で、いざとなったらどちらかを犠牲にしてエースの援護に回らせることだってできる(カストロネベスがそれを受け入れるかどうかについては、判断を保留したいけれど)。ハンター=レイが2人を同時に打ち負かすためには、最低限図抜けたスピードかよほどの幸運のどちらかが必要だろう。だがペンスキーは十分に速いし、2012年のような展開を期待するのは楽観的すぎる。

 ペンスキーは毎年のように選手権争いに絡んでいるが、気づけば2006年を最後にチャンピオンには届いていない。カストロネベスとパワーを揃えた2010年以降は4年連続で最終戦まで可能性を残しながらすべて2位に終わった。しかし最近のレースぶりを見るかぎり、どうやら条件は揃いつつあるようだ。すっかり勝負弱いという烙印を押されたこの名門も、今季になってようやくどちらかのドライバーをはじめての王座へと送りこむときが訪れたのかもしれない。できれば最終戦を2人で争えたら最高だろう。もし本当にそんな未来が3ヵ月後にやってくるなら、そのときはデトロイトこそ結末を予感させた週末として、だれにとっても思い出されることになるはずだ。

インディカーに残る平面を浅いバンクのブリックヤードに見た日

【2014.5.25】
インディカー・シリーズ第5戦 第98回インディアナポリス500マイル
 
 
 先ごろ引退したダリオ・フランキッティはもちろんのこと、エリオ・カストロネベス、スコット・ディクソンやサム・ホーニッシュJr.、そして今は亡きダン・ウェルドンに昨年新しく加わったトニー・カナーンと、近年のインディアナポリス500優勝者の名前を眺めているとあたかもレース自体が自律的な意思を持ってビクトリー・レーンに足を踏み入れるべきドライバーを選びとっているような錯覚に襲われる。歓喜の輪の中で牛乳を口にする資格を、ドライバーが勝ち取るのではなくレースのほうが与えているように思えてならないということである。ただ伝統があるからというだけにとどまらず、その結末がどことなく予定的であり諦念に近い感情を生み出しながらもなにがしかの納得感と満足が広がってしまう、そんなふうに受け止められるレースはなかなか得難い。

 それにしても錚々たる面々というほかない。上に挙げたドライバーはカストロネベス以外みなインディカー・シリーズのチャンピオン経験者で、その選手権獲得数を合計すると12にものぼる。ようするに2012年を除く21世紀のインディカー・チャンピオンのすべてだ。カストロネベスにしてもCART時代から通算して28勝、3回の年間2位を記録しており、シリーズ屈指のドライバーであることは論を俟たない。彼らにかんする記憶は、ほとんどそのままインディカー・シリーズの記憶に通ずるだろう。

 牽強付会な記録の切り取り方ではあるものの、チャンピオン経験のある5人がみな選手権獲得後にインディ500を優勝したか、少なくともインディ500を優勝した年に選手権を制しているということは少しばかり興味深い。インディ500を勝つことが王者の器を証明するのではなく、王者であればこそインディ500を勝つ資格があると思わせんばかりの倒錯にこそこのレースの重さがあるといえばさすがに大仰かもしれないが、ブリックヤードの女神を口説き落とすために必要なステータスが生半可なものでないことはたしかなようである。たいていの神話の女神がそうであるように、彼女もわがままで夫にうるさいのだ。

 女神の好みのタイプがはっきりしていることは、インディ500で敗れ去った、とくに最終ラップで運命を暗転させられたドライバーの数々が逆説的に証明していよう。2006年のマルコ・アンドレッティはインディ500に恵まれない一族の枷に縛られたように父マイケルともどもホーニッシュJr.の強襲に膝を屈し、2010年のマイク・コンウェイは(優勝争いをしていたわけではないが)ライアン・ハンター=レイのリアに乗り上げて宙を舞い、2011年のJ.R.ヒルデブランドは残りわずか500mまで先頭を走っていながら、あろうことか最後のターン4でセイファー・ウォールに吸い寄せられていった。ターン1でフランキッティのインを突いて一度はリーダーになりかけた佐藤琢磨が次の瞬間スピンしたのは2012年のことだ。

 日本人にとっては残念なことに、フランキッティやディクソンとマルコや佐藤を比べれば、どちらがより「インディカーのドライバー」らしいかはおよそ尋ねるまでもないほど簡単に答えの出る、ほとんど愚問のような問いなのだろう。フランキッティたちが数々の栄光を戴いたチャンピオンだからというのではなく、彼らはある時期から自分自身の積み重ねた歴史によって、米国の郷愁という眼差しを受け止めるだけの振る舞いを手に入れたということだ。それは、前回書いたようにオーバルレースが少数派になってからF1を経てやってきた佐藤にとってすぐさま身につくものではない。佐藤が「らしく」あるには、才能よりも蓄積されたインディの密度が圧倒的に足りないのだ。あるいは偉大な祖父と父の血を継ぐマルコはこれ以上なく「らしい」のかもしれないが、しかしどうにも彼自身が自らの格を上げることができないでいる。ヒルデブランドは言うまでもない。あの瞬間、あの場所に周回遅れのチャーリー・キンボールさえいなければ彼は歴史のリストに名を連ねることができたはずなのに、インディアナポリスはそれを許さなかった。インディ500は格調高い「インディカーのドライバー」が大好きで、少しでも違うタイプにはそっぽを向いてしまう。それも、さんざん色目を使ったあげくのはてに、残酷なまでの失望を叩きつけて。
 
 
 ロードコースを開放したことで「二重化」されたブリックヤードでエド・カーペンターがポール・ポジションを決めたとき、それはあまりに象徴的でできすぎた脚本に見えた。もちろん予感がなかったわけではない。単純に彼は昨年のポールシッターで、今年からはオーバルのスペシャリストとして参戦を継続するためにシーズンの3分の2を占めるロード/ストリートへの出走を諦めて、インディ500を含め年間たった6回のレースに賭ける覚悟を決めたドライバーである。自ら所有する20号車のシートをオーバルから引退したコンウェイと分け合い、今季初めてコクピットに収まった彼の意欲が並々ならぬものだったろうことを思えば、現象としての予選最速スピードはなんら不思議なことではないはずだった。

 しかし、オーバルとロード/ストリートでシートを分けるというその参戦形態は、まさにその2種類のコースでレースを行うようになったインディアナポリス・モーター・スピードウェイやひいてはインディカーそのものの二重性をなぞるように表象してしまっているようでもある。コンウェイとカーペンター――イギリス人とアメリカ人、GP2を生き抜き、ル・マンでも活躍するドライバーとオーバルでしか生きられない男、そんなふうに正反対の要素を挙げることはできるが、ほとんど不倶戴天でさえありそうな彼らがおなじカーナンバー(なんとも悪い冗談のように、それは日本語で「にじゅう」と発音する)に同居できるほど二重化しながら精神の拠り所を見えにくくしているのが、いまのインディカーということなのだ。オーバルを走らないコンウェイにきっと米国の眼差しが向けられることはなく、カーペンターがシリーズを手に入れることもけっしてない。まして、ロードコースで行われたインディアナポリスGPでシモン・パジェノーがヨーロッパ的な才能を見せつけて優勝した2週間後のインディ500である。インディカーの精神からブリックヤードが剥離していくかのような状況、20年前とよく似た状況でカーペンターが手に入れたポール・ポジションは、もしかすると、今年のインディ500に調和的な勝者は現れないのではないかという予感を抱かせもした。

 実際、149周目まではそうだったかもしれない。すべてのチームが必要なダウンフォースのレベルを読み違え、過剰なグリップで車を振り回すことができたことで、レースはまったくフルコース・コーションが出ないまま、しかし同時に周回遅れによって勝負権を失う車もないほどスピード差も現れずに進んでいた。インディ500にかぎらずオーバルレースが終盤の入り口までは遅い車や不運に見舞われたドライバーを篩いにかけて選り分けるための実質的な予選だとするなら、レース4分の3になってはじめてイエロー・フラッグが振られたとき、「決勝」には大量の車が残っていた。もしこのあたりで女神がちょっとした気まぐれを起こしていたら、思いもよらぬ勝者が現れた可能性はたしかにあった。クラッシュで飛び散ったターゲット・チップ・ガナッシの破片が不運にもフロアーに刺さらなかったら佐藤にチャンスがあったかもしれないし、ひとり異質の戦略で不気味な存在感を放っていたファン=パブロ・モントーヤがいつの間にか先頭に立つような展開もあったかもしれない。昨年ルーキーとして活躍したカルロス・ムニョスには今年も上位を窺えるだけのスピードがあり、マルコはさらに一回り速かった。

 だが結局、レースはあるべき者のもとへ手繰り寄せられていくのだろう。167周目にスコット・ディクソンが単独スピンでセイファー・ウォールの餌食となり、そのコーションが明けた175周目に今度はジェームズ・ヒンチクリフとカーペンターがクラッシュしたことで、インディ500は燃費や効率や戦略を打ち捨てた、ただ純粋にゴールまで全開の速さを競う勝負となった。二重のカーナンバー20が消えたことで生まれた25周のスプリントは、というのは皮肉がすぎるものの、レースからは重層性が奪われ、水平の戦いへと押し拡げられていく。そして、そういうレースを戦うにふさわしいドライバーとして、ライアン・ハンター=レイとエリオ・カストロネベスだけに首位攻防が与えられ、われわれを誘っていったのだった。

 決着はたぶん、ちょっとしたことである。速さだけ見ればわずかにハンター=レイが上回ったが、それでもお互い相手を突き放すだけのスピードは持てなかった。多すぎたダウンフォースは最後まで削りとれず、直線で逃げることが不可能ななか、ターン1ではそうなることが当たり前のようにオーバーテイクが繰り返されていた。だから、タイミングだけが明暗を分けたということにしてもいいだろう。カストロネベスは199周目のターン4を先頭で立ち上がったが、それはやはり早すぎた。後方から勢い良く迫るハンター=レイは200周目に入る手前でカストロネベスを抜き去り、ターン1を制する。その先を逃げ切ることはさほど困難ではなかったはずだ。それぞれに性質の違うインディアナポリス・モーター・スピードウェイのコーナーは、残り3つの間に次の機会を用意してはくれなかった。
 
 
 インディ500の優勝者の名前を見ていると、レース自体が優勝すべきドライバーを選びとっているように錯覚してしまう。来年のインディ500の記事も、今日とおなじような書き出しで始められることだろう。少し粗雑で頼りなく感じるときもあった2012年のシリーズ・チャンピオンは0.06秒差でライバルを振り切った。ハンター=レイは自らの価値を証明し、21世紀のチャンピオンはこれでまた全員がインディ500優勝者のリストに名を連ねることになる。これこそインディカーらしい結末だったに違いない。二重の衣を剥ぎとってみることができるのであれば、ブリックヤードの女神は最後にやっぱりそういう男を祝福してしまうのだ。

ビアンキはペナルティを無視していない

 F1モナコGPでジュール・ビアンキが9位入賞を果たし、マルシャは前身のヴァージン・レーシングから数えてF1参戦5年目にしてついにポイントを獲得しましたが、この結果について、わたしのツイッターTL上ではいくつか疑問と不満が渦巻いていました。中継で川井一仁氏が発言したことも多分に影響していたのでしょう、いわく、「ビアンキはペナルティを消化していないのではないか」というものです。仮にビアンキが本来科されなければならない罰則に従っておらず、レース走破タイムに大きな加算があったり、最悪レースから除外されることになったりした場合、今度は逆にマーカス・エリクソンが10位入賞となり、ケータハムが初ポイントを獲得することになるのですから、これは下位でたったひとつの順位争いにしのぎをけずる両チーム、ひいては唯一の日本人ドライバーである小林可夢偉の未来にとっても重要なことです。日本のF1ファンにとって大きな関心事であったことは想像に難くありません。

 結果としてビアンキは決勝終了後、「レースタイムに5秒加算」という罰を受けて8位入線から9位へと順位を落とし、最終順位が確定しました。この処分でビアンキが不当に得をしたと思っている人も多いようです。彼がレース中に科せられた罰則は今季新しく導入された「5秒ペナルティ」でしたが、ペナルティなのだからピットに戻って5秒停止しなければならない=ピットレーンでの時間ロス+5秒静止で約25秒を失わなければならないのに、タイム加算は5秒しかなく、ほとんど損をしていないと、そういう理屈をしばしば見かけます。小林自身もそのように語っていたようですが、まず結論を言ってしまえば端的に誤解です。ビアンキは不当に得をしたわけではなく、規則の穴を突いたわけでもなく、規則が予定したとおりに行動し、規則が予定したとおりの罰則を受けて、ほんのすこしだけ順位を落としたのです。2014年F1スポーティングレギュレーションを紐解きながら、そのことを見ていきましょう。

 

【2014 FORMULA ONE SPORTING REGULATIONS】
(http://www.fia.com/sites/default/files/regulation/file/1-2014%20SPORTING%20REGULATIONS%202014-02-28.pdf)

 とその前に、この件についてはレース後、わたしがツイッターでフォローしているクル氏(https://twitter.com/Sdk0815)が詳細な説明をなさっています(この記事を書くにあたっても参考にさせていただきました。この場を借りて感謝申し上げます)。またAUTO SPORTS Webでも関連記事が配信されており、やや焼き直しの感もありますが、まとめておくことも無駄ではなかろうということで公開することにします。
 
 さて前述のように、今回のビアンキはスタート位置の異同という軽微な反則によって序盤に「5秒ペナルティ」が科せられました。これがどういうものかは、上掲リンク16条「INCIDENTS」(事故・事件)に書かれています。該当するのは3項a)で、以下のようなものです。

16.3 The stewards may impose any one of the penalties below on any driver involved in an Incident:
a) A five second time penalty. The driver must enter the pit lane, stop at his pit for at least five seconds and then re-join the race. The relevant driver may however elect not to stop, provided he carries out no further pit stop before the end of the race. In such cases five seconds will be added to the elapsed race time of the driver concerned.)
b) (略・ドライブスルーペナルティ)
c) (略・10秒ストップ&ゴーペナルティ)

If either of the three penalties above are imposed during the last three laps, or after the end of a race, Article 16.4b) below will not apply and five seconds will be added to the elapsed race time of the driver concerned in the case of a) above, 20 seconds in the case of b) and 30 seconds in the case of c).

(16.3 スチュワードはインシデントに関わったあらゆるドライバーに、以下の罰則のうちいずれかを科すことができる。/a)5秒ペナルティ:ドライバーはピットレーンに入り、自らのピットに少なくとも5秒静止してレースに復帰しなければならない。ただし、レース終了までにさらなるピットストップを行わないならば止まらない選択をすることができ、その場合レースタイムに5秒が加算される。(略)上記の罰則がレース残り3周以下またはレース後に科せられた場合、16.4 b)は適用されず、a) については上記と同様に(5秒)、b)(ドライブスルーペナルティ)については20秒が、c)(10秒ストップ&ゴーペナルティ)については30秒がレースタイムに加算される)

 
a) はほぼ丸ごと今季改正分です。もともとa) がドライブスルー、b) がストップ&ゴーでしたが、それぞれb) c)に移されました。a) →b) →c) と進むに従って重い罰則になるよう構成されています。
また後半に書いてある「16.4 b)」は、ペナルティをどのように消化しなければならないかを定めたものです。
 

16.4 Should the stewards decide to impose either of the penalties under Article 16.3a), b) or c), the following procedure will be followed :

a) 略
b) With the exception of Article 16.3a) above, from the time the stewards’ decision is notified on the official messaging system the relevant driver may cross the Line on the track no more than twice before entering the pit lane (略). However, unless the driver was already in the pit entry for the purpose of serving his penalty, he may not carry out the penalty after the safety car has been deployed.(略)

(スチュワードが16.3 a)、b)、c) の罰則を決定した場合、以下の手順に従う。/a)(略)/b)16.3 a) を除き、ドライバーはスチュワードの決定がオフィシャルメッセージシステムで通知されてから3周以内にピットレーンへと向かわなければならない(ピットレーンに向かう前に2回までコントロールラインを通過することができる)(略)。しかし、罰則を消化するためすでにピットに進入しているのでない限り、セーフティカーの導入中に罰則を受けることはできない(略))

 ペナルティが通告されたら、3周以内にピットレーンへと向かわなければならないとされています――ただし、article 16.3 a)=5秒ペナルティを除いては。要するに、ドライブスルーペナルティと10秒ストップ&ゴーペナルティの場合はすぐにレースから離れなければならないのですが、5秒ペナルティは自分のピットタイミングのときに消化すればよく、16.3 a) のとおりピット作業の予定がないならば、罰を受けるため「だけ」にピットレーンに向かう必要はありません。ビアンキはこの規則に忠実に服していたのです。

 この5秒ペナルティの処理については、規則意図を踏まえればすぐに理解されるでしょう。昨季までの規則だと戒告の次に重い処分はドライブスルーで、科されるといきなり20秒を失ってしまう厳しいものでした。逆に言えばスチュワードも相応の行為にしかペナルティを出すことができず、今回のビアンキのような軽微な違反については戒告で済ますしかなかったため、実被害はないも同然だったわけです。5秒ペナルティは、その隙間を埋めるために作られています。ピットボックスに停止後5秒間の作業を禁ずる(16.4 c))というのはなかなか妙案で、ここで5秒だけを失わせることによって「ドライブスルーは厳しすぎるが、戒告で終わらせてはやり得」と考えられる反則をしっかり処分できるようになりました。今季に入ってペナルティが増えていると感じられるとしたら、こういった罰則の細分化も影響しているかもしれません。

 5秒ストップは、タイムペナルティの項の先頭に挿入されたことからもわかるようにあくまで「ドライブスルーよりも軽い罰則」であり、ピット作業のついでに消化させるものというのが原則です。必要がないのにピットに戻すのではほぼ「ドライブスルー+5秒」のロスで逆に厳罰となってしまい、規則の精神に大きく逆らいます。なので、ピットに入らない場合はレース後に5秒を加算することで同等の罰則を実現しているのです。厳密に言えば、レース中の5秒静止とレース後の5秒加算ではトラックポジションを失いやすい点で前者のほうがやや重たいため不公平とは言えるかもしれませんが、(1)5秒の罰を与える適切な方法が他にない、(2)すべてのピットスケジュールを完了しているとすれば通常はレース終盤であり、影響はそれほど大きくない、(3)ドライブスルーやストップ&ゴーでも結局提示されるタイミングによって損得は生じる、といった観点から合理性の範囲は逸脱しないものと考えられます。そもそもピットに戻らないことを選べるのは「作業がない場合」であって、チームの裁量で決められるものではありませんし、条件はどのドライバーでも同じことです。反転可能性という意味では公平なものでしょう。

 ではこのペナルティを巡って、モナコGPにおけるビアンキの動きを見てみます。最初のスティントでソフトタイヤを履いた彼はスタート時にグリッドをはみ出した廉で序盤に5秒ペナルティを通告されます。前述のように、これは次のピットストップの際、5秒間無作業とすることで消化しなければなりません。ですが、彼が26周目にスーパーソフトタイヤへと交換するためピットインしたのはセーフティカー導入中のことでした。当然、規則によればここで消化はできず、ペナルティは次のピットストップに持ち越しとなります。

 しかし「次」は訪れませんでした。50周の超ロングスティントをスーパーソフトで乗り切るという勝負に出たビアンキは、レース再開後一度もピットに戻ることなく、見事チェッカーフラッグに辿り着いたのです。そして、実現しなかった5秒静止の代わりとして彼はレースタイムに5秒を追加され、ひとつだけ順位を落としました。もはや明らかなとおり、すべてが規則どおりです。不備を突いたわけでも、ペナルティを無視したわけでも、ましてそれに対してスチュワードが大甘な裁定を下したわけでもない。作業がなかったからピットには入らず、ピットで消化できなかったからレース後にタイムが加算された。ただそれだけのことでした。得したことはまったくありません。

 マルシャが規則を守るつもりだったことは、ビアンキが唯一のピットストップを行った際に5秒間無作業静止してしまったミスが証明しています。セーフティカー中はペナルティを消化できないのに、うっかり無意味に止めてしまったわけです。当然スチュワードがこれを認めるわけがなく、61周目に「Bianchi under investigation for serving five second stop/go under safety car」セーフティカー中に5秒ペナルティを行ったことについて審議となり、66周目にあらためてペナルティを受けるように通告が出されます。川井氏はこれと他チームの「ビアンキにはペナルティがある」という無線によってピットに戻らなければならないと勘違いしたと思われ、TLも騒がしくなっていったわけですが、最初のペナルティが持ち越されただけのことですから、もちろんその必要はありませんでした。仮に戦略に失敗してスーパーソフトが持たず、再度のタイヤ交換を余儀なくされていたとしたら、そんなもしもの世界で行われたレースではきっと静かに5秒間止まるビアンキの姿を見られたことでしょう。

 

 最後に、ビアンキは36周目にラスカスで小林可夢偉をオーバーテイクする際、ぶつけながらインをこじ開け、相手の車を壊しています。前に出たビアンキは入賞を果たし、逆にフロアを含めて車の右半分を大きく壊した小林はまともに走れなくなったわけですから、結果的にこの瞬間が彼らの明暗をわける岐路になりました。これに対してわたし自身は特段強い感想を持っていません。レースによくある場面のひとつに過ぎないとは思っていますが、一方で怒る人が(特に小林ファンの中で)いるのも理解できます。しかしひとつたしかなのは、この場面はビアンキのペナルティには一切関係がないということです。モナコであったいくつかの審議のなかに、小林とビアンキの接触は含まれていないはずです。見逃したのか、軽微な接触と軽く見たのかどうか、ともかくスチュワードはなんの行動も起こしませんでした。それはもしかすると見る人の正義にはかなわなかったかもしれませんが、審判の問題にならなかったことは正義とは別の単純な事実として存在します。接触とペナルティを合わせて捉えるのは正しくありません。

 このレースで日本のファンの一部はビアンキに対する心象を悪くしたかもしれません。ただ、ラスカスの場面についてはそれぞれの視点があることなので審議にしなかったスチュワードを含め正当な範囲で批判すればいいと思いますが、ペナルティに関して言えばビアンキもマルシャも不当なことはいっさいなかったということも把握しておいていいでしょう。いまの日本のF1にとって直接のライバルだけにいろいろな感情が混淆しやすいのはわかりますが、彼らに対してどういう立場をとるにせよ、現象を区別することは非常に有意義であるはずです、といったところで自分らしくない文章を閉じることにします。

インディはどこから来たのか、インディは何者か、インディはどこへ行くのか

【2014.5.10】
インディカー・シリーズ第5戦 インディアナポリスGP
 
 
 RACING-REFERENCE.INFOによれば、1914年にRené Thomas(カタカナならレネ・トマと書けばいいだろうか)というフランス人が「インディアナポリス500マイルレース」、いわゆるインディ500を制したらしい。この年はドラージュとプジョーを駆るフランス勢が200周のうちじつに198周にわたってレースをリードし、最終的に4位までを独占したとされている。4位に入ったのは前年にはじめてのフランス人優勝者となり、連覇を狙っていたにちがいないJules Goux(ジュール・グーと書いておこう)である。ポール・ポジションの周回が88.31mph、レース平均速度が82.47mphを記録したレースで、トマは3万9750ドルの賞金を手にしている。第一次世界大戦の戦端が開かれる少し前、5月30日土曜日のことだ。勝者がヴィクトリー・レーンで牛乳を飲む習慣はまだなく、歓喜の場でトマがなにをしていたのかは知る由もない。

 また2014年5月10日のやはり土曜日に行われたレースでは、最終スティントが燃費とスピードの二極に分かれる緊張感漂う展開となった末に、豊かな才能に溢れるシモン・パジェノーがその真骨頂たる繊細な運転で残りわずかな燃料を使い切り、先頭を守ったままフィニッシュラインまで車を運んだ。すぐにでもチャンピオン候補の表に名前を書き入れたくなる30歳はそのレースの初代優勝者として名前を記録されるとともに、ちょうどぴったり1世紀を経て、米国モータースポーツの聖地に3つ目となるフランスの足跡を刻んだ。そう、「Grand Prix Of ――」、パジェノーが制したレース名には、インディ500の場所である「Indianapolis」が、はっきりと記されている。

 開業当初レンガによって路面が作られていためにブリックヤードの愛称がついていることで知られるインディアナポリス・モーター・スピードウェイ(IMS)で、「インディ500ではないレース」の開催を計画している、という報道にはじめて接したのは昨年の4月から5月にかけてだったと記憶しているが、当初はそれがインディカー・シリーズの蹉跌になりうるように思えたものだ。少なくともここ四半世紀のインディカーを巡る流れを攫ったことがある者にとっていくばくかの寂寥感を抱かせるニュースだったことはたしかで、インディ500の価値がオーバルコースを逆走するロードレースによって汚されるような、大げさに言えば侵されてはならない精神がまさにその守護者であるはずの存在によって踏みつけられたような失望がそこにはあった。実際にはインフィールド区間の形状が違ったものの、はじめのうちは2000~2007年に行われていたF1アメリカGPとおなじレイアウトを使うと伝わっており(これは仮の計画として報じられていたのか、自分の早とちりだったのか定かでない)、タイムの差が露骨に、もちろんF1のほうが速い形で現れてしまうだろうことも懸念材料だった。

「インディ500ではない」IMSのレースに対する不安がどうしても拭いきれなかったのは、かならずしもこの計画によって現状が変更されることへの子供じみた抵抗感だけが理由ではなく、それが近年のインディカーの変容をそのままなぞる形で、かつての悪しき歴史へと回帰していく道を想起させてしまうからだった。当初オーバルレースしか存在しなかったはずのインディカー・シリーズはNASCARの人気に押されるなどして観客動員数が伸び悩み、近年は毎年のようにロード/ストリートレースを増やしてきたという背景があった。2010年代にオーバルの比率が全体の3分の1となったその潮流に、だからインディ500を抱えるIMSまでがとうとう呑まれてしまったのだろうというのが、「インディ500ではないレース」に納得するもっとも自然な解釈のはずだったのだ。それが意味するのはあきらかにアメリカからヨーロッパ的なレースへの運動であり、そしてそこにこそインディカーを巡る憂鬱が存在した。周知のとおりインディカーは、米国のオープン・ホイール・レースは、かつて実際にヨーロッパへ接近する過程で、真っ二つに引き裂かれた歴史を経験しているのだから。

   *

 そもそも、とあえて原点に戻ることは意味のないことではあるまい。つまり、「インディカー」とは何なのだろう。その名前から連想される第一の答えは、もちろん「インディ500を走る車」の意である。もともと、オープン・ホイール・カーで争われる米国選手権の総称は「チャンピオンシップ・カー・レーシング」であり、1997〜2008年に使われていたチャンプカーの名前もそれに由来する。1905〜1955年の大会がAAA Championship Car(AAA=American Automobile Association、アメリカ自動車協会)、1956〜1978(または1984)年がUSAC Champion Cars(USAC=United States Auto Club、米国自動車クラブ)だったことから推測されるように、インディカーは当初から定められたものではなく、米国レース史に君臨するインディ500の存在感に寄り添って自然発生的に生まれてきたものであり、きわめて象徴性の高い言霊のような名称である。規格の最高クラスであればFormula 1がどんな形であっても概念的にはFormula 1でありうるのに対し、インディカーはその名前ゆえにインディ500とともにしか生きられない、とも言えるだろう。実際、後の歴史においてそれはなかば現実化する形で証明されることになる。

 インディカーの起源についての探求は一介のアマチュアの手に余るので専門家に委ねたいが、1979年にCART(Championship Auto Racing Teams)のシリーズが始まった(より正確には、初年度の1979年は上部団体の認可が降りずSCCA=The Sports Car Club of Americaの名を借りて開催している)ころには、インディカーの名前は広く使われており、1980年から選手権も「インディカー・ワールド・シリーズ」として知られていた。ただ、それが実体的な価値を有するようになったのは1992年、IMSが「インディカー」の商標権を獲得したときだろう。このあたりの事情については詳らかにしないものの、商標を得(ようとし)たのがCARTではなくIMSだったのには、インディカーの名称の源泉がインディ500にあることと、CART発足時の混乱のため、当時シリーズを統括するのがCARTでありながらインディ500だけはUSACが運営していたといういびつな状況が関係しているのかもしれない。いずれにせよこれを境に「インディカー」は独占的な商業権利となり、ある意味では象徴性よりも具体的利益にかかわるものとしてFormula 1と同質の名称となる。そしてそのことが結果として将来の状況を複雑にしてもいくのである。
 
 
 1990年代に起きるインディ500を中心としたチャンピオンシップ・カー・レーシングの分裂を見る前に、欠かすことのできない一方の主役であるCARTについてさらっておこう。元を正せばCARTはUSACから分裂する形で生まれた団体であるが、その誕生にいたる背景にはUSACの運営能力不足に起因するレース界の停滞があったようだ。当時の選手権は全国的に開催されるとはいっても広汎な人気を獲得していたとは言えず、インディ500を除けばまったく注目を浴びることのないイベントだった。インディ500を全米トップクラスの祭典に成長させたのはIMS社長のアントン・ハルマンだったが、彼がUSACの創設者でもあり、オフィスもインディアナポリスに構えていた弊害なのかどうか、USACじたいがIMSにしか関心を払わない組織で、その他のサーキットとの連携は弱く、影響力も小さかったという。インディ500以外は雀の涙ほどの賞金しか支払われず(ふたたびRACING-REFERENCE.INFOを引くと、たとえば佐藤琢磨が所属するチームのオーナーとして日本人にもよく知られるA.J.フォイトは、1977年に4度目のインディ500優勝を果たした際に25万2728ドルを得ているのに対し、同年オンタリオ優勝時にはそのたった6%の1万5369ドルしか受け取っていない)、テレビ中継がないのはもちろん、観客を呼びこむ努力すらなされなかった。各サーキットの経営者やプロモーターの思惑がそれぞれバラバラで勝手なレース運営を繰り返すにもかかわらずUSACにはそれを止める力も意思もないなど、およそ一貫性を欠いた、インディ500さえあればそれでいいといった名ばかりの選手権だったようだ。人気がないのは当然のなりゆきだったのだろう。

 リーダーシップを発揮できないUSACに対しレーシングチームのオーナーたちは不満を募らせていたが、1977年10月にハルマンが死去するとそれははっきりとした形をとり始めた。現役時代にF1で3勝、NASCARで5勝を上げ、インディ500でも2度の2位を記録したダン・ガーニーは、イーグルのオーナーを務めていた1978年初頭、他のオーナーたちに向けて、のちにGurney's White Paperと呼ばれることになる手紙を宛てている。かつて苦境に陥っていたF1がコンストラクターたちによってFOCA(Formula One Constructors Association、現在のFOAの源流にあたる)を組織し、最高権力者として据えたバーニー・エクレストンに絶対の忠誠を誓うことで商業的成功を収めた事例を引き合いに出して、レーシングチームばかりが費用を負担しているUSACの現状を改善するため、レースの当事者たるチームが積極的に運営をサポートすることで参戦コストを低下させながら大会を盛り上げ、観客の増加、テレビ放送の拡大、スポンサーの獲得によって利益を得て、公平に分配するべきだと訴えたその手紙には、来るべきオーナー組織の呼称もまた記されていた。〈Let's call it(the organization) CART or Championship Auto Racing Teams〉――おそらく、これこそCARTの初出である。レーシングチームの選手権というガーニーの構想に共鳴したチームオーナー(そのうち一人が、いまもチーム・ペンスキーに君臨するロジャー・ペンスキーだった)たちは、その年の夏のうちには結集している。

 折悪しく、USACはハルマンの死去からわずか半年後の1978年4月23日にインディアナポリス郊外で発生したプライベート機の墜落事故によって副社長や技術責任者をはじめとした主要メンバー8人を失っており、組織に空白が生じていた。そのせいもあってか、CARTとUSACの交渉はどうやら不調に終わったらしい。11月に要求が拒否されるとCARTはすぐさま自らレースを開催するべく動いた。有力オーナーによって組織され、A.J.フォイトなど発言力の強いドライバーがその趣旨に同調していたことも手伝ってCARTは各サーキットの支持を取り付け、独自シリーズの構想は滞りなく現実化していく。前述のとおりACCUS(Automobile Competition Committee for the United States、米国自動車競争委員会)の承認が得られず体裁上はSCCAを借りることにはなったものの、1979年3月11日にアリゾナではじめてのCARTレースが「インディカー」のシリーズとして開催され、USACで20勝を重ねた42歳のゴードン・ジョンコックがまったく新しい勝利を手に入れた。この年行われた21の選手権レースのうち、CART傘下のものはすでに14にのぼっていた。

 主導権争いに敗れたUSACも1984年までCARTに対抗して選手権を開催していたものの、もはや趨勢は明らかで、チャンピオンシップ・カー・レーシングの実質的な担い手はCARTと言っていい状況になった(ただしUSACはインディ500の運営だけは手放さず、その二重体制は結局CARTからインディ500が失われるまで続いた)。そしてCARTは少しずつ、USACを引き剥がすかのように相貌を変化させていく。

 もともと1970年にUSACがロードレースとダートトラックレースを整理してオーバルに一本化していたため、CARTの始動当初もロードレースの開催は少なく、オーバル比率は1979年に13/14、1980年9/12、1981年9/12ときわめて高い水準にあった。またドライバーはほぼアメリカ人で占められ、外国人の顕著な活躍はオーストラリアのジェフ・ブラバムが1981年にロサンゼルスでポール・ポジションを獲得したのと、翌1982年にメキシコのヘクトル・レバクがロード・アメリカで優勝した出来事ぐらいしか認めることができない。その意味で当初のCARTはあくまでUSACの延長上にある、かなり保守的な(いかにも米国的な)相貌の選手権だったということだろう。古き善き時代というものを懐かしむとしたら、人によってはこの頃かもしれない。

 そのような状況から最初の変化が起きたのは1983年で、全13レースのうち6レースがロードコースで行われてオーバルの重要度が一気に低下するとともに、F1経験を携えてきたイタリア人のテオ・ファビがいきなり6回のポール・ポジションと4勝を上げる活躍でシリーズ2位に食い込み、新人賞を獲得している。5点差で辛くもチャンピオンとなったアル・アンサーは2位4回ながらわずか1勝しかしていないから、米国のファンにしてみれば勝った心地はしなかったことだろう。ファビは翌シーズン途中でF1へと帰り、シリーズにはふたたびアメリカ人ドライバーが並ぶことになったが、しかしもうひとつの変化であるオーバルコースの減少のほうは止まることはなかった。1985年にオーバル比率が7/15となってはじめて半数を割り込むと、以後オーバルの数がロード/ストリートを上回る年は一度として来なかったのである。1991年など、全18レースのうちオーバルの開催はたった5回だった。

 北米に特有のコースであるオーバルの割合が下がるなかで垣根が取り払われたのか、1980年代後半からは外国人、それもファビ同様にF1経験があるドライバーの活躍が少しずつ目立つようになってくる。2度にわたるF1チャンピオンの経歴を誇るエマーソン・フィッティパルディは1984年にCARTで現役復帰すると1985年から毎年勝利を記録し、1987年にはF1で芽が出なかったコロンビア人のロベルト・グェレロも2勝を上げた。そして1989年、米国はついに「陥落」する。42歳となっていたフィッティパルディはこの年絶好調で、23年ぶりにアメリカ人の手からインディ500を奪い去ると、6月から7月にかけて3連勝を記録。ついにはリック・メアーズ――3度のCART王者にして、インディ500を4勝した――を10点差退けて、戦後はじめて米国の選手権を獲得した外国人となったのである。

 翌年のインディ500もオランダのアリー・ルイエンダイクが優勝するなどCARTの国際化は少しずつだが進み、1993年、前年にF1を制したばかりのナイジェル・マンセルが現れてあっさりとCARTをも攫っていく。同じ年、CART王者の肩書を背負ってヨーロッパに渡ったマイケル・アンドレッティはチームメイトのアイルトン・セナに手も足も出ず、シーズン途中で若いミカ・ハッキネンにシートを奪われていた。

   *

 未来から歴史を振り返ってみると時おり必然としか思えないような奇妙な符合に遭遇したりするものだが、ダン・ガーニーがチャンピオンシップ・カー・レーシングの発展のために参照したのがバーニー・エクレストンであったこともまた、ずいぶんと示唆的に感じられる事実の一つかもしれない。F1の成功をモデルとしたCARTが1980年代半ばから1990年代にかけて辿りついたのは、ヨーロッパに通ずるロードコースの増加とグローバル化にともなうドライバーの多国籍化、さらには車輌の重要度が向上したことによる技術重視主義という、まさに世界選手権であるF1そのものの姿だった。そしてそうなれば当然、インディカーとF1の比較も露骨になってくる。1993年に両者の間で「交換」された2人の王者のあまりに対照的な結末は、世界のモータースポーツ秩序におけるインディカーの位置づけを問うようでもあった。

 1992年に「インディカー」の商標権を獲得し、インディカー・ワールド・シリーズの名前をブランドとして確立しようとしていたIMS社長のトニー・ジョージ(アントン・ハルマンの孫にあたる)にとって、どうやらこのような状況は我慢ならないものだったらしい。1994年、マンセルに圧倒された次のシーズンのオーバル開催数は全16レース中6回に過ぎず、フル参戦ドライバー24人のうち、アメリカ人はイタリア生まれのマリオ・アンドレッティとドイツ出身のドミニク・ドブソンを含め11人だけになっていた。そんな「世界的な」シーズン開幕前にジョージが発表した構想は、やがてインディカーの行く末をふたたび左右することになる。すなわち、オーバルに特化しアメリカ人を揃えた低コストのシリーズ、IRL(Indy Racing League)を立ち上げる――。

 IRLが誕生するまでの過程には、あきらかに歴史の皮肉が見て取れる。もともとCARTの成り立ちを考えると、その目的のひとつはレーシングチームの利益を確保し、参戦費用を軽減することにあったわけだった。Championship Auto Racing Teamsといういささか奇妙にも思える名称には、チームこそレースに欠かすことのできないピースであるという信念が込められていたはずである。

 だがインディカーのシリーズとして成功を収め、飛び交うドル札が増えていくごとに、組合的、互助会的に成立したはずの組織運営はいびつなものになっていったようだ。マシニスト・ユニオン・レーシングの監督だったアンディ・キノペンスキーは、1986年に「5年前に年間50万ドルだったコストが、いまでは200マイルレースに出向くために4万ドル必要になっている」と話している。参戦費用は年間100万ドル単位に膨れ上がり、すでに弱小チームの財政を圧迫するようになっていたという。

 さらに3年後、彼は一部のオーナーが、より有利に、そしてより裕福になるようCARTの運営を私物化していると強く批判することになる。1988年から1989年にかけて行われた32レース(非選手権含む)のうち、じつに28レースで優勝したのはシボレー−イルモア製のエンジンを搭載した車だったが、圧倒的な戦闘力を誇るこのエンジンを使用できたのは、CARTの幹部に名を連ねるオーナーが所有する4つのチーム――ニューマン・ハース・レーシング、ギャル・レーシング、そして皮肉なことに志高きCART創設メンバーであったはずのパトリック・レーシングと、チーム・ペンスキーだけだった(フィッティパルディの王座は、そのようにしてもたらされたのであった)。エンジン供給数を制限することで、CARTは自分たちにとって都合のいい結果を作り、収益を特定の場所へと集中させるようにしたのである。キノペンスキーの怒りは、このように中小チームの予算をいたずらに圧迫し、財政規模の大きいチームだけが有利になるようレギュレーションを操作するペンスキーたちに向いていた。

 運営における疑惑はそれだけではない。たとえば1990年にポルシェ・ノース・アメリカがカーボンファイバー製のコクピットを開発して投入、ジョン・アンドレッティを非シボレー勢として最上位のランキング10位に送り込んだが、CARTはそれを即刻禁止し、ポルシェにこの年限りでの撤退を決定させている。この件に非難の矛先を向けたトニー・ジョージの主張が正しいとするなら、表向きは安全面を理由としたこの措置は、実のところシャシー開発に乗り出していたペンスキーと、その他のシボレー搭載チームが使用するローラを「援護」するためのものだったという。ジョージは1992年から議決権のないメンバーとしてCARTの運営に加わったが、ほどなく辞任している。

 かくまでに金持ちクラブと化して一部の横暴がまかり通るようになったCARTに対し、中小チームのオーナーは確実に不満を募らせていた。IRLが発足するまでの過程に横たわっていたのは米国の喪失と、なによりその事態を導いた志を忘れた運営だったのである。それはまったくもって、いつか見たような話だった。
 
 
 IRLの誕生によって、チャンピオンシップ・カー・レーシングは四半世紀前にCARTがUSACから分裂した過去をなぞるようにふたたび南北戦争へと突入した。体制と化して商業主義に塗れたかつての革命家と回帰主義者との対立は、最終的にインディカーとインディアナポリス、そしてインディ500が不可分に結び合っている事実を強く再認識させる結末を迎えることになる。

 1994年に新団体が発足したとき、すでに一般名称ではなく商標となっていた「インディカー」の名前を使用できる権利は限定されていた。当然オリジナルの権利を持つのは1992年にそれを取得したIMSであったはずだが、1997年までCARTにライセンスする契約が結ばれており、IMSが中心となって発足したにもかかわらず新団体は「インディカー」を使えずIndy Racing Leagueを名乗る。しかしCARTとIRLの交渉が物別れに終わり、1996年からIRLの独自シリーズ(大会名はそのままIRLとなった)が実際にスタートすることが決定的になると、IMSはIRLのためにCARTへのライセンスを停止しようとした。CARTは契約を護るためにIMSを提訴するが、IMSの側も反訴によって対抗し、「インディカー」の名前はついに法廷の場に持ち込まれる。その詳細については残念ながらわからないままだが、両者が最終的に和解した条件は「CARTは1996年限りでインディカーの名称を放棄する。ただし、IRLも2002年12月31日までその使用を停止することとする」というものだった。

 この争いにおいて、シリーズの目玉となりうるインディ500の位置づけは重い。先述したとおりCARTが1979年にスタートしてからもインディ500だけはUSACによって認可されるイベントであり、1980年のCRL(Championship Racing League、USACとCARTの歩み寄りによって結成されたがわずか5戦で頓挫した)開催、1981〜1982年のUSAC開催を経て、1983年以降は「USACが認可するCARTとは別の大会であるが、順位はCARTの選手権ポイントに反映される」という二重体制のもと実施されてきた。IMSが開催地であることはもちろんのこと、そういった経緯からインディ500はごくごく自然とIRLのものとなり、そしてCARTがインディカーの名称を放棄したのは、まさにインディ500を持っていないのにそれを名乗ることに意味がないからだった――それは、「インディ500を走る車」の謂なのだから。

 もとより決して強いとはいえなかったインディ500とCARTの関係はこうして断たれる。1996年シーズンはすでにインディ500を失っていたにもかかわらず「インディカー」を使い続けているが、これは、Twitterアカウント@epsilon5a EPSILON(イプシロン)氏によればその年のインディ500を走る車が一年落ちのCART車輌だからという事情があったためだという。つまりは最後のシーズンも結局はインディ500とのかかわりのなかにしかなかったわけである。IRLに対し2002年まで冷却期間を置かせたのは商売上の必然とはいえ、インディ500とともにインディカーを失った傷は深く、そしてまた、化膿が広がるようにCARTをやがて蝕んでいくことになる。

 結局CARTは1997年から伝統的な名称である「チャンプカー」を使用するようになり、またIRLも「インディカー」を止められてしまったため、以後6年にわたって名目上の「インディカー・シリーズ」は消滅する。その間CART対IRLの対立は激化の一途をたどっていくが、決着の要となったのはやはりインディ500であった。
 
 
 1995年5月に発表されたIRL初年度の開催はわずか3レース、フロリダに建設予定のウォルト・ディズニー・ワールド・スピードウェイで1996年1月27日に実施される初レースに続いて、3月24日のフェニックス、5月26日のインディ500でシーズン終幕となっていた。さびしい日程ではあるが、IRLは将来に向けてインディ500を最終戦にする構想を持っていたから、それに向けての第一歩とも言えた。対するCARTは、直後に出した同年のカレンダーでIRL潰しの意識を隠す素振りもせず露にしている。3月17日に第2戦ブラジル・リオデジャネイロ、そして3月31日にはオーストラリアのサーフェス・パラダイスで第3戦が組まれたその意図が、遠い外国でのレースでIRLの開催週を挟みこんでチームやドライバーのIRL参戦を妨げることにあったのは明らかだった。

 設立の経緯からしてIRLは弱小の集まりであり、CARTにレベルの面で太刀打ちできるはずもない。IRLの狙いは当然ながら有力チームや有名ドライバーの排除ではなく取り込んだうえでの服従であり、そのための頼みの綱は40万人の動員力を誇る商業的価値や、抗いがたい伝統を持つインディ500だけだった。CARTの日程を確認したIRLは1995年7月3日、圧力への対抗策としてインディ500を前面に押し出した新しいルールを発表する。やがて「25/8ルール」と呼ばれるようになったそれは、1996年5月26日のIMSに用意される全33グリッドのうち25グリッドを――まだそれだけの台数が用意できるかどうかもわからないうちに――IRLポイントの上位者に与えるというものだった。しかもそのポイントを、各レースで獲得した合計に参戦レース数を乗じて算出することにしている(シーズンが3戦しかなかったにもかかわらず、初代チャンピオンのバル・カルキンスが246点を稼いでいるのはそういう理由で、82点×3レースだった)。つまりIRLに「フル参戦」することをインディ500参加の条件にしようとしたのである。これは、1980年代初頭にUSACとCARTがインディ500にかんしてだけは共同歩調をとったような妥協が不可能になることを意味していた。

 IMS社長のトニー・ジョージがインディカーを北米に回帰させようとしたのは伝統的な保守主義によるものではなく、多くはビジネスに基づく判断、つまりそうしたほうが人気を見込めるからというものだったようだ。実際、ジョージはいくつかの改革によって、伝統を重んじる人々を怒らせている。長らくインディ500のためだけに存在したIMSがNASCARに開放され、ブリックヤードをストックカーが走ることになったのは1994年のことだ。バーニー・エクレストンと接触してF1を誘致しようとしてもいる(これは2000年に実現した)。そして25/8ルールもまた、インディ500を破壊しかねない危険をはらんでいた。つまり強力なCART勢が参戦できなくなることは、「最高の33台による世界最速のイベント」でなくなるも同然だった。IRL勢だけでレースのレベルを充足させることは不可能に近い。それでもIRLは、インディ500を自らのビジネスのために自らだけのものにしようとしたのである。

 25/8ルールに反発したCARTは1995年12月にインディ500のボイコットを決定、インディ500とまったく同日の1996年5月26日に、インディ500とまったく同じ500マイルオーバルのU.S.500をミシガンで開催することを発表する。はたして当日、インディアナポリスに車輌を運び込んだCARTのチームはギャル・レーシングとウォーカー・レーシングのみ、それも1台ずつに過ぎず、ステアリングを握ったのは控えドライバーだった。そして、その程度のCART勢にIRLは2位を奪われた。予選最速タイムを叩きだしたスコット・ブライトンが練習走行の事故で死亡する悲劇の直後にスタートが切られたレースで優勝したのはバディ・ラジア――後のIRLチャンピオンとして名を残すことになるが、当時はCARTで勝利がなかったどころか最高位7位、一桁順位を記録したのはたった2回の、何ということはないドライバーである。いやそもそも、コース上にいるほとんどがそんなドライバーだった。このインディ500のスターティング・グリッドに並んだ33人のCART優勝数は、すべて合わせてもわずか5。もっとも実績があったと言えるのはF1で5勝したミケーレ・アルボレートだが、予選12位、決勝はリタイアに終わっている。アメリカ人の優勝経験者は、18年前にUSACで最後の勝利を上げた54歳のダニー・オンガイス以外だれひとりいなかった。

 詳細なデータは不明だが、しかし、にもかかわらず、どうやら観客動員数もニュースの注目度もU.S.500よりインディ500が上回ったらしい。サーキットの規模や開催期間が違うので単純な比較はできないが、ミシガンの観客が11万人ほどだったのに対し、インディアナポリスはさすがに例年より減らしたもののそれでも30万人以上を動員したという(どちらも公式発表はされていない)。初年度の直接対決がこのような結果になったことが、あるいは未来を決定づけたのかもしれない。CARTの最重要イベントとして位置づけられたはずのミシガンからは以後、毎年のように観客がいなくなり、1999年の入場者数は5万人台に急落していた。
 
 
 名目上その名称を名乗ることはできなかったといっても、実態としてIRLが「インディカー」であったことは、象徴となるレースの存在によって明らかだった。1997年以降も変わらぬ人気を維持し続けたインディ500は、跳ねのけられない伝統の祭典として強い影響力を持ち、IRL対CARTの未来を決定づけていく。たとえば2000年にはチーム・ペンスキーを解雇されたアル・アンサーJr.がIRLに転向して初勝利を記録し、また現在に至るまでインディカーの有力チームとして知られるガナッシ・レーシングがCARTのチームとしてはじめてレギュラードライバーをともなってインディ500に参戦し、「デビュー戦」のファン=パブロ・モントーヤが167周をリードして優勝している。

 この出来事じたいは「人気のIRL、実力のCART」をより実感させる結果に過ぎなかったが、同時にCARTが失ったインディ500やインディカーを欲していることを印象づけるものでもあった。2001年にはガナッシに加え、IRL設立時の最大の敵だったチーム・ペンスキーと、マイケル・アンドレッティ擁するチーム・クール・グリーン(のち、アンドレッティ・グリーン・レーシングを経て現在アンドレッティ・オートスポート)がインディ500に加わった。さらに前年CART開幕戦の舞台だったホームステッドやマディソンなどレース開催そのものがIRLへと移行を始めており、CARTの退潮が確実に目に見えるようになってきていた。

 2002年、チーム・ペンスキーがCARTから完全撤退してIRLでフルシーズンを戦うことになり、レベルの高さ以外にアピールポイントを持たなかったCARTの打撃は決定的なものになった。そして終焉は訪れる。2003年に商標の停止期間が終了し、IRLがついにその大会名を「インディカー・シリーズ」へと変更して名実ともにインディカーの中心地となると、ガナッシやアンドレッティ・グリーン・レーシングなどの有力チームが雪崩を打って移籍。エンジンを供給するトヨタとホンダまでがインディカーへと移った。大会のタイトルスポンサーであるFedExにも撤退されたCARTは金銭的に立ちゆかなくなり、設立26年目にしてとうとう経営破綻に見舞われた。最後のシーズン、オーバルレースは全19戦のうち3戦。フル参戦したアメリカ人ドライバーは2人だった。

 それからについては詳しい人も多いだろう。 新しく結成されたコンソーシアムのOWRS(Open Wheel Racing Series)がCARTの資産を引き継いで2004年からチャンプカーの新選手権であるCCWS(Champ Car World Series)を継続開催するが、徒花になったセバスチャン・ブルデーの4連覇を歴史の最後として、2008年開幕戦をもってすべてのレースを断念、チャンプカーはその名のもととなったチャンピオンシップ・カー・レーシングから姿を消す。インディカーは働き場を失ったCCWSのドライバーを引き受け、サーキットには多数の「ルーキー」がひしめいた。そんな年の新人賞が下位カテゴリーのインディ・ライツからステップアップしてきた日本の武藤英紀だったことはよく知られていよう。
 
 
 武藤の新人賞は日本人として2004年の松浦孝亮以来2人目の、また1996年のIRL開始から数えて6度目の外国人による受賞だった。この事実からもわかるとおり、IRLが当初掲げた「北米のドライバーによる選手権」の構想はさほどうまくいったわけではない。1998年にスウェーデンのケニー・ブラックが5人のアメリカ人を足元に従えたのを皮切りに、2013年までに外国人がシーズンを制した年は10回を数え、とくに「インディカー・シリーズ」となってからは2006年のサム・ホーニッシュJr.と2012年のライアン・ハンター=レイがようやくアメリカ人王者として挙げられるだけである。交通の発達によって地球が狭くなっていく中で、米国だけの選手権を維持することは難しかったということだろう。それはやむを得ないことだ。だがインディカーはもうひとつ当初の意思を、運営自らの手によって覆した。4月3日のセント・ピーターズバーグ、8月28日インフィニオン、9月25日ワトキンス・グレン。CARTが消滅して2年目、2005年のインディカー・シリーズのカレンダーには、はじめてロード/ストリートコースでのレースが開催されると記されていたのだった。

 インディカーがかつて拒絶したレースをふたたびカレンダーに組み込んだ理由はわからなくもない。CCWSが力を失っていく過程で、当然のことながらオープン・ホイール・カーによるレベルの高いロードコースが米国から消えつつあり、その充足が必要だった、というのは一面の真実だろう。また最初に書いたようにNASCARの人気に押されてオーバルだけでは集客が見込めなくなっていたから、カンフル剤としての効果を期待したということも考えられる説ではある。いずれにせよインディカーはある意味で禁断の果実に手を出した。ロングビーチの週末は20万人近い観客を集め、インディ500を除くあらゆるレースの動員数を上回ってしまった。それを見れば、次の手が俗手になることは容易に想像できたはずである。

 その後のインディカーの歩みを書こうと思えば、ほとんどCART初期のそれをコピーしてくれば足りるかもしれない。CART時代と同様にオーバル開催は次々と姿を消していき、2010年、ついにシーズン全体の半分を割り込んだ。そして同じ年、インディカー・シリーズでははじめてF1の表彰台を経験したことのあるドライバーとして佐藤琢磨が現れる。2年後のインディ500の最終ラップで果敢な首位攻防の末に敗れた彼は、2013年、だれもが知ってのとおり「新しい地域」の優勝者として、インディカーの歴史にその名を刻みつけた。

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 もちろん、これはシモン・パジェノーが勝利したインディアナポリスGPの話なのだった。2014年、「インディ500ではないレース」が開催されたインディカー・シリーズはすでに全体の3分の1までオーバルレースの数を減らしている。インディ500がその年の最初のオーバルとして設定されるのもすっかり恒例になった。昨季こそやや紛れの多いシーズンとなったものの、それ以前の数年間がチップ・ガナッシ・レーシング、チーム・ペンスキー、アンドレッティ・オートスポート以外はほとんど勝ち目のないシリーズだったことは記憶に新しい。ダラーラの一社製造になっているシャシーも、「一部の有力チーム」であるチップ・ガナッシやペンスキーが優先的に素性の良いものを選択し、残りを中堅以下のチームで分け合っている、というような噂がまことしやかに囁かれていた時期もあった。

 こうしてみれば、現在のインディカーを取り巻く状況がCARTの末期に酷似していることはだれの目にも明らかだろう。あるいはビジネスのために25/8ルールが作られた瞬間から、現在という未来は暗示されていたのかもしれない。カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の冒頭で、歴史は二度現れると述べたヘーゲルの言葉に「一度は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として」と付け加えたのである。CARTの開始からIRLの分裂まで17年、そしてIRLがレースをスタートさせて18年が過ぎた。いま歴史は繰り返されている。インディ500をなにより守ったはずのインディカーがもうひとつのインディアナポリスを開放することを笑劇であることの証として。

 IRLがCARTから分裂した、できたのは、それがインディ500と不可分な関係にあったからだった。CARTは精神の最後の奥底においてインディカーではなかった。そこにインディアナポリスがインディカーを取り戻す道があったのだ。だがIMSそのものが変容していっているいま、分裂することはもうできない。オーバルだけを求めるかつてのIRLが新たに現れたとしても、インディ500を持たない以上、能力においても象徴性においても力を得るときはけっしてやって来ないだろう。だからこそ、インディカーが繰り返す歴史はもはや悲劇性をまとうことなどできず、笑劇にならざるをえなくなってしまう。

 われわれはパジェノーの勝利に問いを向けなければならない。はたしてそれは、インディアナポリスに刻まれた3つめのフランスだったのか、あるいは別の、インディカーとは違う何かの始まりとして、ただ同じ地に現れただけだったのか。歴史を呼び起こした偉大な回帰だったのか、虚ろな笑いとともに受け入れるしかない反復の現実だったのか。その答えはわれわれインディカーの観客が、すぐに戦われることになる次のインディ500をはじめとした未来のなかに見つけていかなければならない課題である。シモン・パジェノーはインディアナポリスのロードコースを平均96.462mphで駆け抜けている。インディカーはインフィールド区間を何度も右に左に曲がりながらなお、ほとんど全開だったであろう100年前のレネ・トマより14mphも速く走るようになった。

【参考】
RACING-REFERENCE.INFO
(http://racing-reference.info)

Dan Gurney’s All American Racers
(http://allamericanracers.com)

Gordon Kirby, “The Way It Is/ The tragedy of history repeating itself”
(http://www.gordonkirby.com/categories/columns/theway/2012/the_way_it_is_no350.html)

The Philadelphia Inquirer 1986/8/18, “Team Manager: Indy Cars Too Expensive”
(http://articles.philly.com/1986-08-18/sports/26063958_1_cart-series-cart-board-indy-cars)

Los Angeles Times Jan.8.1990, “CART to Deal With Disarray in Its Meeting“
(http://articles.latimes.com/1990-01-08/sports/sp-167_1_winter-meeting)

Twitter: EPSILON(イプシロン)氏 @epsilon5aのツイート
(https://twitter.com/epsilon5a/status/466209223731212289)

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