ファン=パブロ・モントーヤの憂鬱は運動と制度のあわいに広がる

【2015.8.30】
インディカー・シリーズ最終戦 ソノマGP
 
 
 2015年のインディカー・シリーズにおける選手権制度の詳細が発表されたとき、それは明らかに歓迎されざる俗なやり方に思えた。いや、本来「俗」な観客にすぎないはずのわれわれがみな一様に首を傾げるような方策だったのだから、俗情と結託したとすらいえず、だれのためになるのかさえ不明な、冴えない発想だったにちがいない。実際、近年このうえなく迷走を続けるF1が採用し、そしてあまりに不評なため1回かぎりで廃止したような「最終戦の選手権得点2倍」という愚策に、まさかインディカーが1年遅れで追随しようなどとは思いもしなかったのだった。

 インディアナポリス500マイルレースの点数が2倍に設定されていることに異論のある向きは少ないだろう。2016年には100回目を迎えるこのレースが特別であるのは、車両やシリーズが「インディ」カーと呼ばれていることからももはや証明が不要なくらい自明な事実であって、その象徴的な特別感を多大な得点の形で表すのは非常に得心のいく帰結に見える。昨季は加えてポコノ、フォンタナの両レースにも同様のボーナスが設定されていたが、これとて「500マイルレース」という他とは差別化された事実が規則の根拠を下支えしていた。つまり特別でありうるレースという認識が制度に先行して存在し、そこに実際上の利益を付与するといった合理的順序があったのだ。同じ年のF1が、「最終戦」という日程以外に何の意味もない1レースを興行的な事情から恣意的に特別視したのとはまったく違い、インディカーはレースがもともと持っている価値――スーパースピードウェイで、500マイルの長距離を戦うレース――を尊重したうえで選手権の中で重みをつけたのである(昨季はこの3レース合わせて「トリプル・クラウン」としてスポンサーがついていたからではないか、といった経済的な事情はひとまず措いておこう。特別な共通点があるから金銭的価値が生じるという意味で同種の話である)。その動機主義的な運営の態度は、F1よりも優れたものとして好ましく受け入れることができたはずだった。

 だが、半ばわかっていたこととはいえ、迷走しているのは観客動員、テレビ視聴率の双方で苦戦を続けるインディカーも変わりはないようだ。2012年から秋の最終戦として涼やかな夜の闇の中で行われていたフォンタナのレースはインディカーとオート・クラブ・スピードウェイの思惑が対立した結果として6月の日中レースへと生まれ変わり、夏の砂漠地帯に人が来るはずがないという当初の予測どおりにわずか数千人の観客しか呼べずに終わった(挙げ句、来季の話し合いも物別れに終わって2016年のカレンダーからの除外も決定している)。観客がまばらどころか皆無と言っていいほどの寂しいスタンドを覚えている人も多いだろう。インディカーがオート・クラブ・スピードウェイに昼のレースを求めたのは東海岸の視聴率を考えてのもので、実際に目論見が当たって前年比2倍の高率を獲得したというが、視聴者の目にしたものがひたすら連なる空席だったのでは功罪も定かではない。

 フォンタナの顛末はともかく、その移動に伴っておなじカリフォルニアで開催されるソノマが最終戦に設定されたわけだが、ポコノとフォンタナのボーナスが廃止され、代わってこのレースの得点が2倍になるとニュースで見たときには目を疑ったものだ。それは明らかに最終戦まで王者争いを保留する可能性を高め、興行的興味を維持するためだけの恣意的な設定であり、ファン離れを指摘されて久しいF1が陥った根拠と正義なき帰結主義的判断そのものだった。FIAが大多数の反発にあって即座に廃止した方式であるのを知らぬわけでもあるまいに、なぜその失敗を追い求めるような真似をしたのだろう。ファンは現金なようでいて意外と結果に対する正当性や一貫性に敏感なものである。ポコノとフォンタナにあった先天的で正当な理由を捨て去り、たとえばアラバマとどう位置づけが違うのか説明のつけられそうにないソノマを特別扱いすることを納得できた者が一体どれほどいただろう。2015年の得点方式が発表された瞬間に、インディカーの選手権に先行していた「正しさ」は瓦解していた。そういうシーズンでもあったのである。

 だから、ソノマのレース後に見せたファン=パブロ・モントーヤの不満げな態度には理解が及びもしよう。最終戦をポイントリーダーとして迎え、CART=チャンプカーの新人だった1999年以来の王座をほぼ手中に収めていた彼は、しかし最終戦で優勝したスコット・ディクソンに47点差を追いつかれて同点に並ばれ、優勝回数で下回ったことで転落した。もちろんソノマの点数が2倍でなければありえなかったことである。「ディクソンはずっと良くないシーズンを送っていた。良かったのは1レースだけで、それで僕たちは損をしてしまったんだ」とかつて「暴れん坊」と呼ばれていた男は言うのだった。1レース、ソノマにいたずらな操作が加えられていたせいで自分はしかるべき地位を得られなかったのだと。それは理屈としては正しく、ソノマが「普通の」レースであれば22点の大差で順位を保てたのだから、制度について言いたくなるのもなるほど当然ではあろう。彼は開幕戦のセント・ピーターズバーグを優勝してからというもの、2015年の選手権をずっと首位で過ごしてきた。その座を明け渡したのが唯一閉幕のときだったのだから、その心中は察するに余りある。制度によって王座を簒奪されたベテランの悲劇。2015年インディカー・シリーズとは、ファン=パブロ・モントーヤとはそういうものだったはずだ。計算上はそのように見える。

 だが一見そうであるようでいて、しかし実態は違う、というのがこの場での結論である。その理由はこの一年間、あるいは3年にわたって何度となく書いてきたとおりだ。たしかに結果だけを見ればモントーヤは不当な制度によって王者になりそこなっている。しかし結果は結果でしかなく、その一覧に運動は存在しない。われわれ観客はすでに記されたレースの結果だけを見て何かに満足したり失望したりするわけではなく、いま現在としての運動そのものに情動を喚起されている。「レースという運動」をただ純粋に、つぶさに観察するという原点に立ち返ったとき、はたしてモントーヤを最高のドライバーとして心に留めておくべき場面は、2015年のインディカーの中にどれほど見つけられただろうか。インディ500は支配者ではなく、最終スティントがすべてだった。セント・ピーターズバーグはチームメイトのウィル・パワーのピット作業に助けられている。その2勝があって、他には? ルイジアナのポールポジションは貰いものだ。デトロイトだけは素晴らしい走りを見せたが、雨に泣いた。あとはなにがあっただろうか。たとえば年間のラップリード数は彼の印象を雄弁に語りもするだろう。16レースで先頭を走った145周とは、ついに才能を開花させた(しかししょせんはカーペンター・フィッシャー・ハートマン・レーシングの)ジョセフ・ニューガーデンの345周より200周も少なく、306周をリードしたディクソンの半分にも満たず、チームメイトのパワーとエリオ・カストロネベスにさえ劣る数で、多い方から数えて6番目でしかない。2勝目を挙げたインディ500以降、後半10レースにいたってはたった77周しか先頭を走っておらず、つまりモントーヤはいかなる角度から眺めてもレースの主役ではありえなかった。

 ニューガーデンがアラバマのターン14でペンスキーを2度も抜き去った場面は忘れえないほどの衝撃に満ちていたし、渾身のブレーキングで在りし日のジャスティン・ウィルソンから順位を守り、選手権に挑む者としての意志を露にしたグレアム・レイホールはその一瞬だけでミッドオハイオのレースを意義深いものにした。ディクソンは「アイスマン」と称される彼らしい特質に溢れた走りで年間最多勝を挙げ、パワーは6度のポールポジションによってだれがインディカー最速のドライバーであるかを強烈に知らしめた。あるいは逆に、40代を迎えたカストロネベスやトニー・カナーンが瞬間的には優れていながら持続的に能力を発揮できなくなりつつある衰えを顕在化させてしまい、ついに勝利できなかった寂寥感を問うてもいい。以前書いたことの繰り返しになるが、翻ってモントーヤについて、そういった語るべき言葉を見つけることは容易ではない。「ディクソンが良かったのは1レースだけ」という恨み言は、彼が3勝を挙げている事実からも明らかなとおりけっして正確ではなく、モントーヤが良かったレースなどほとんどなかったというほうがよほど実態に近いシーズンだったのである。インディ500は単体で特別なレースであるうえ、個人的に観客席でその優勝を目撃したから、わたし自身としては強い思い入れがある。最終スティントの追い上げが興奮を伴うものだったことを否定もしない。開幕戦とて、ピットで2秒失ったパワーを逆転できる位置を走り続けていた点を高く評価した。しかし、それでもなお問いたくなってしまう。2015年のファン=パブロ・モントーヤは速かっただろうか。わからない。強さを示しただろうか。わからない。わからないまま、曖昧なままに、彼はずっと選手権の首位にいつづけた。それがおそらくひとつの不幸ではあったのだろう。インディ500を境にレースでは主役でいられなくなったにもかかわらず、選手権という制度に組み込まれたとき主役として扱わざるをえなくなった。その希薄な存在感にふさわしく彼を無視する態度を取ろうとすることが、しかしわれわれには許されなくなってしまったのだ。1999年の、あの前に進む意志だけを滾らせていた――滾らせすぎて素人のようなスピンまでした――暴れん坊はどこにもいなかったというのに。

 皮肉なことに、いや皮肉でもなんでもない必然にすぎないのかもしれないが、モントーヤが今季もっとも観客の心を震わせる走りを見せたのは、ディクソンが魔法のような燃費走行で長いスティントを乗り切りながら先頭で周回を重ね、優勝と最多ラップリード合わせて103点もの大量点獲得が現実味を帯びてきたのとちょうどおなじとき、シーズンが終幕へと向かうソノマの最後45周だった。39周目に前を走るパワーの胡乱な動きに惑わされて追突し、フロントウイングを壊してほぼ最後尾にまで落ちたモントーヤはその時点での仮想ポイントでディクソンに逆転を許す。選手権を守るために必要な順位は5位、この途方もない位置を取り戻すための数十周に、モントーヤが自身で抑圧していた攻撃性がわずかに蘇ったのである。78周目ターン4のコーナリングを見ても、6月からの3ヵ月で一度も見ることのできなかった清冽な鋭さを備えているではないか。若さを失えば丸くなる。優位に立てば守りに傾いで見込みを誤る。モントーヤが過ごしてきたシーズンとは概ねそういうものだ。人が本質を露わにするのは、いつも窮地に陥ったときである。われわれは最後にしてはじめて、あのCARTのころのモントーヤを再発見した。それは安穏として半年を送ったポイントリーダーにようやく訪れた、疑いなく優れたひとときだった。

 しかし、2014年や2013年のインディカーがまさにそうだったように、守るべき立場が限りなく脆弱で、守るだけでは壊れてしまうのだと人が気付くのは、往々にして手遅れになった後だ。本当はもっと前から失われかけていたのに、実際に失ってはじめて、自分が取り返しのつかない怠惰の中にいたのだと知る。たしかに戦略と運転によって十数台を抜き去ったモントーヤのソノマを称賛してしすぎることはないだろう。だが遅すぎた。セバスチャン・ブルデーがグレアム・レイホールに追突する事故で2つ順位を上げる僥倖にも恵まれたものの、それでも5位を走るライアン・ブリスコーとの1.1799秒差を埋めることはできずに終わる。同点ながら優勝回数の差で敗れた結末は、1999年のちょうど逆だった。

 モントーヤの敗北をわれわれはどう受け止めればよいのだろう。それは同情に値するだろうか。単純な計算上の事実として、最終戦の点数が倍でなければ逆転されることはなかった。「僕たちは損をしてしまった」という彼は、その意味で「実質的な、本当の勝者」と名乗る権利があるかもしれない。公平や平等を置き去りにした歪な制度が敷かれていたことはたしかであって、その最大の被害者を挙げるとすればもちろんモントーヤである。だが仮に制度上のそれとは別に本当の勝者というものが歴史の陰に存在したのだとして、その栄誉に与るのははたしてモントーヤであるべきだろうか。


 ソノマの遅すぎた美しい姿が逆説的に示すのは、結局彼がシーズンの大半において精神の勝者ではなかった冷酷な現実である。なぜあれほどに走れる力を秘めながら、後半戦の一度でもそれを発揮することがなかったのか。どこかで順位をひとつ上げていれば、それどころかいくつかのレースでたった1周でもラップリードを記録していれば、モントーヤは制度上の勝者になっていたのだ。ほんの少しでもレースの可能性に片目を開けて進みさえすればすべてを得られた、同点で敗れるとはそういった差である。その未来に目を瞑り、現在の地位にしかいられなかったことでモントーヤは地位自体を削られ、ついには失った。その過程に勝者と呼びうる何かがあったと言えるのか――否だ。他の優れたドライバーが備えているほどには、モントーヤは持っていなかった。制度上の王座を逃した帰結が自然に感じられるほどに、本当の勝者でもありえなかった。

 ひとつのレースの価値をただ日程上の最後に置かれているというだけの理由で重くするのはたしかに歪んでいる。モントーヤが言うように、それは最後の決着をサイコロの目に託すような無力感をもたらしてしまった。だがレースを見続けていれば、王座についたディクソンが本当の勝者により近く、敗れたモントーヤが勝者の輪郭を象ることがなかったのもまた納得がいくはずだ。それこそ帰結主義的な結論ではあるが、始めから突きつけられていた制度の歪みは結果的に勝者を炙り出し、抑圧のリーダーを放逐したとも言えるだろう。だとしたらこれはずいぶん皮肉に満ちた話である。つまり2015年のインディカー・シリーズを貫いた物語とは、きっと制度と精神の相克、それも不正義に定められた制度と不正義に冒された精神の相克というペーソスに他ならなかったのだ。

グレアム・レイホールはたった一度のブレーキングで醜聞を忘れさせる

【2015.8.2】
インディカー・シリーズ第14戦 ミッドオハイオ・インディ200
 
 
 それが故意だったのかたんなる時宜にかなった偶然だったのかはすでに藪の中である。レース後の水曜日に出されたレポートにはいかなる処罰も記載されておらず、あらたな疑惑になりえた事件はレースにおいてありうべき出来事にすぎなかったとして幕が引かれた。公的な結論としてはそれ以上でも以下でもない。たしかにミッドオハイオの66周目に起きたセージ・カラムのスピンはあまりに「できすぎ」ていたように見える。ターン4の出口で彼が車の制御を失ったのは、選手権を争うチームメイトのスコット・ディクソンが最後の給油とタイヤ交換を完了したたった3周後のことであり、おなじころ、ポイントリーダーであり最近にしては珍しくレースの先頭を走っていたファン=・パブロ・モントーヤはまだ1回のピットストップを残していたのである。カラムが車を止めてしまったことによって導入されたフルコース・コーションは両者の差を無にし、そのうえ隊列が整ってからようやくピットに向かったモントーヤは12番手まで順位を下げて、最終的に11位でチェッカー・フラッグを受けた。「幸運」のおかげで4位に入ったディクソンのみならず、グレアム・レイホールまでもが漁夫の利を得て優勝した結果、レース前には40点以上の差があったはずの選手権争いは2戦を残してにわかに混沌としてきている。レイホールとモントーヤの9点差は、最終戦の得点が2倍に設定されていることを思えば、ほとんどないに等しい。

 もちろん「被害」に遭ったチーム・ペンスキーはレース直後からそこに悪意があったと疑いの目を向けている。チップ・ガナッシは新人のレースを犠牲にすることによってフルコース・コーションを喚起し、エースを助けようとしたのではないかと。それほど素晴らしいタイミングで、カラムは見事にターン5の路上に車を止めてみせた。ご丁寧に、すぐ復帰できないよう進行方向と逆に車を向けて。モントーヤは確実に順位を落とし、引き換えにディクソンが上位を窺うチャンスを得る、チップ・ガナッシはその「作戦」を完璧に成功させたのだ――かろうじて首位を守ったポイントリーダーはレース後のインタビューで、16年前に自分がデビューしてチャンピオンとなったチームを詰り、「調査が必要だ」と不機嫌を隠そうともしない。なにか指示があったのだろう、と言いたげだ。実際のカラムはブレーキバイアスを調整するよう指示されたところでターン4の外に片輪を落としてスピンを喫したのだったが、それともこれは暗号だったと主張すべきだろうか?

 レースを見ていればこんな「偶然」が起こる場合もある。2006年のソノマで、初優勝に向けて最後のスティントを戦っていた新人のマルコ・アンドレッティはゴールまで燃料が足りるかどうか心もとない状況にあった。最後の周回で止まるかもしれないと思われていた中、残り7周で「幸運」にもおなじアンドレッティ・グリーン・レーシングのブライアン・ハータがスピンして動けなくなったのだった。2周にわたるフルコース・コーションによって燃料は節約され、マルコはフランキッティの追い上げを振り切っている。今は亡きダン・ウェルドンはそのスピンを「間違いなく意図的だった」と言ったわけだが、もちろん結果が覆されることはく、マルコは2011年に至るまで勝利のない七光りドライバーと評され続けたかもしれない未来を避けられたのである。

 もちろんF1を見続けている人ならば、2008年のシンガポールGPで起きたいわゆるクラッシュゲートを思い出すことだろう。フリー走行で好調だったにもかかわらず予選でのトラブルで15番手スタートに沈んだフェルナンド・アロンソを救うため、ルノーチームは誰よりも早くタイヤ交換を行ったうえで、直後第2ドライバーとして扱っていたネルソン・ピケJr.に命じてターン19の壁にぶつけさせ、セーフティカーを呼び込んだ。そうして隊列が整った後にピットへと向かった他車を尻目にアロンソは労せずして順位を上げ、そのまま優勝を果たしたのだ。当初「幸運」と見られていたこの事故の真相が明らかになったのは1年後のことで、ルノーを解雇されたピケJr.の告発によって故意であったことが証明され、フラビオ・ブリアトーレとパット・シモンズに追放の処分が科せられる「ゲート」へと発展した。疑惑が証明された数少ない事例といえる。

 ただこれだけの不正が明るみに出たにもかかわらず、遡ってアロンソの優勝が取り消されることはなく、レース結果は保持された。この手の事件で「正しい」処分が難しいのは、たとえ裏に悪意が潜んでいたのだとしても、その悪意と受益者に直接の関係がないことにある。ピケJr.の事故やカラムのスピンが意図的な行為であり、罰せられるべきだったとしても、アロンソやディクソン自身にいったい何の瑕疵があったのかと言われれば、言葉を返すことはできない。被害者が真に処罰したいのは、特に選手権を争っているような状況下では、濡れ手に粟で利益を得たドライバーたちに他ならないはずだ。だが彼ら自身だけを見るならば真っ当にレースを戦った結果として上位でゴールしたのである。それをどんな理由で処分すればいいのだろう。チームが罪を犯したから? ではチームの罪にドライバーが連座しなければならない理由は? 罰則の軽重/有無の線引きは? これは正解のない問題である。何を選択しても恣意的な判定の誹りは免れない。がしかし、受益者を罰する理由は何にもまして存在しない。

 罰する術がないからこそチームには悪意を発露する動機が生まれる――というのは正確ではない。チームに悪意を発露する動機が生まれると疑う理由が生まれると言ったほうがいい。今回のカラムのスピンがチームの意図するものだったかはわからないことだ。事実として命令があり、かつ彼がチームからの扱いに耐えかねて口を開くような事態にならないかぎり、結論が出ない話である。そしてだからこそ、だれしもその可能性を疑うことができる。実際、2年前のソノマでペンスキーとチップ・ガナッシは逆の関係にあった。選手権を争っているエリオ・カストロネベスを助けるためだったかどうかは、もちろんいまもって明かされていない。その64周目に起きた現象だけを述べるなら、優勝をほぼ手中に収めていたディクソンが、ピット作業を終えて発進する際にペンスキーのもう一人のドライバーだったウィル・パワーのピットクルーに接触してドライブスルー・ペナルティを与えられたというものだ。撥ねられたクルーはだれが見ても通常の作業とは違う、接触して不思議はない場所をピットの喧騒に似合わずおもむろに歩いていたのであり、加害者であるディクソンのほうが「blatant」なやり口だと非難したのだが、インディカーはなんの動きも見せなかった。

 当時とて、仮にクルー(あるいはその裏にいるチーム・ペンスキー)に悪意があったと証明されたとしても、当事者がパワーである以上は、真の受益者でありながら事故とは無関係な場所を走っていたカストロネベスを罰しようがないのは明らかだった。規則は現実の危険を見張るために存在しているのであり、裏に潜む悪意を裁くようにはできていない。ペンスキーはまんまと「blatant」に見える――あくまで「見える」――な作戦をやりおおせ、カストロネベスはポイントリーダーのまま次のレースへと駒を進めた。結局、ミッドオハイオにおけるカラムのスピンもそういった出来事である。仮にそれが暗号化された指示によって引き起こされたのだとして、善意をもって真摯に走っていた(だろう)ディクソンに、ペンスキーが望む罰を与えることは難しい。何より疑惑に過ぎない中で非難を喧しくするのは天に唾するだけのことである。彼らは、あるいはもっと危険な状況でそれをやった――のかもしれない。チップ・ガナッシがやった――かもしれないことを批判する資格などありはしないし、そのことを自覚していたのかどうかはともかく、モントーヤの憤慨とは裏腹に、チームとしては沈黙を保った。仮にこれが選手権を左右する事件となったとしても、それは互いに受け入れる必要のあることに違いない。

***

 それに、まったく悪意を持たないまま本当に利益を得たドライバーは別にいる。グレアム・レイホールがピットレーンへ進入したのはカラムのスピンによってフルコース・コーションが通知されピットが閉じられるまさに直前のことで、その一瞬の差が隊列に埋没するか先頭に躍り出るかの分かれ目となった。直前まで3位を走っていた彼のピットインが空振りに終われば、1位から12位まで落ちたモントーヤよりさらに酷な結末が待ち受けていることは目に見えていたはずだが、彼はすんでのところで作業を認められ、レースのリーダーとして69周目のリスタートを迎えることができたのだった。「カラムはぼくの相棒だ」とレース後に笑ったのも頷ける展開で、レイホールは勝利を手元に引き寄せたのである。

 アラバマとインディアナポリスGPで2位表彰台に登ったとはいえ、2015年のシーズンが中盤まで進んだころであっても、レイホールが2戦を残して首位からわずか9点差の位置で王者を窺うことになっているとは、だれも信じなかっただろう。レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングはこの10年間で優勝は1度きり、それも7年も前の思い出になっているようなチームであり、彼らが採用するホンダエンジンと空力効率はシボレーに劣るとしか思えなかった。そもそもグレアム・レイホール自身が、ときどき速さを見せるだけの荒々しい、というよりは粗鬆さを隠せないドライバーで、デビュー戦で危うい橋を勢いだけで渡りきったような勝利を挙げて以来一度も表彰台の頂上に立ったことはなかった。チップ・ガナッシに所属した2年間でも、3度の2位とインディアナポリス500の3位が精一杯だった。いい加減未熟さが抜けてもおかしくないほどの経験を積んでもしばしば無用な事故の原因になり、レース全体を戦える俯瞰的な能力が備わる様子はいっかな見えず、いつまでも才能の開花しない、もしかすると才能などはじめからなかったかもしれないと疑いの目を向けたくなる二世ドライバーだったのである(マルコ・アンドレッティと同様に!)。父のチームに息子が加入して3年、そのほとんどは二桁の順位で終わり、力を証明する機会は訪れなかった。それなのに、レーシングドライバーは魔法をかけられたかのように姿を変えることがある。2ヵ月強の間に4度も表彰台に登り、うち2回は優勝してしまった。7年間にわたってずっと「1」のままだった通算勝利はあっという間に3へと伸びた。近5戦で獲得した得点はだれよりも多く、もはや堂々たる挑戦者として自身に満ち溢れた運転を見せつけている。

「魔法」の正体がチーム力、車の戦闘力であることはまちがいない。いつもいつも糸を引きちぎらんばかりに張り詰めさせて速さだけを追い求めていた走りは影を潜め、今季はスピードの使い方を弁えているように見える。ホンダが復調の気配を見せ始めたのは6月に入ってからだったが、以来車の戦闘力の向上に伴って運転に余裕ができ、チームの判断にも選択肢が生まれている。大混戦で物議を醸したフォンタナはいい例で、レイホールがレースをリードしていた時間は決して長くはなく、これまでなら無謀なアタックでリタイアしても不思議ではなかった場面でも、最後のスパートを信じて我慢しつづけたことが破綻を回避させ、最終的な勝利を呼び込んだのだった。次のミルウォーキーで3位表彰台、アイオワで4位と上位を維持して、このミッドオハイオで再度優勝したのは偶然ではない。たしかに先頭に立つまでの経緯にはチップ・ガナッシとペンスキーの神経質なやりとりによる幸運があった。しかしレイホールが漁夫の利を得られたのはカラムがスピンした瞬間まで丁寧でありながら攻撃的な姿勢を崩さずに3位を走り続けていたからという単純な事実を見逃してはなるまい。それは与えられた優勝では断じてなく、自分自身が手を伸ばして手に入れたものだったのだ。

 ミッドオハイオでレイホールが見せたたった一回のブレーキングを堪能するだけで、その優勝の価値は揺るぎないものになるだろう。84周目にこの日最後のフルコース・コーションが明けたとき、彼はブースト圧を上昇させて一時的に出力を高めるプッシュ・トゥ・パスをすべて使い切っていた。ターン2を立ち上がってバックストレートで再スタートが切られると、45馬力の余剰出力を得たジャスティン・ウィルソンがすぐさま外に並びかけてくる。全開のターン3を抜けて直角のターン4へ。パワーの差はだれの目にも明らかで、ブレーキングポイントに差し掛かった瞬間、ウィルソンはたしかにレイホールより車1台分も前に出ている。しかしクリッピングポイントへ向かってまだ開いたままだったインサイドの空間を、赤い情熱に彩られたレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングが真っ直ぐに切り裂いていった。かつて見たこともないような深い、あまりに深いブレーキングは、しかしコーナーの頂点をいささかも外すことなくレイホールを守り切った。どれほど醜聞にまみれようと、終わってみれば、それがこのレースのすべてだ。

 父のボビー・レイホールがこのレースを優勝して29年、サーキットの近くで育ったグレアムにとってこれは格別な優勝であると同時に、夢にさえ見る権利もなかったはずの選手権を現実に引き寄せる前進となった。この勝利でついに、彼はペンスキーの、モントーヤの視界に侮りがたい敵として入りこんだのだ。もちろん残る2戦、はたして7年もの間停滞を続けたドライバーに、戦い抜く意志と背中合わせの沈着を保つことを期待していいのかどうかはわからない。もしかしたらいまレイホールにかかっている魔法は一時的なもので、ポコノの500マイルオーバルに舞台を移せば幻のように解け、だれかとあっさり接触して車を降りるかもしれない。これまでの足跡を考えれば、グレアム・レイホールの名前が上から2番目に記されていることにはつい懐疑的になってしまう。次のレースであっさりと後方に消えたとして、不思議に思う理由などどこにもない、グレアム・レイホールとレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングはまだそんな存在にすぎないだろう。とはいえ真相の分からないスピンによって醜い疑心暗鬼に囚われたレースで、自分の進む道以外のすべてを振り払ったレイホールのブレーキングに何より衝動的な美しさを感じ取ることができたならば、彼をインディカーの新たな王者として讃えたいという気持ちも大きくなってくる。権謀術数、政治的駆け引き、心理戦。そういった要素がモータースポーツの魅力の一部であることを否定まではしない。だがそんな矮小なやりとりがすべて白くかき消されてしまうほど、84周目のターン4は眩すぎた。結局どれほど知った風にレースを見ようとも、心を揺さぶる運動の前にはたわいないものだ。そんなモータースポーツの純粋な情動に青臭い夢を託してもいいではないか。8月が終わったとき、2015年のインディカー・シリーズを決定づけたのが記憶されるべき最高のブレーキングだったと断言できるなら、きっとそれはなににもまして幸福なことである。

さよならジャスティン・ウィルソン、さよならその日常

【2015.8.23】
インディカー・シリーズ第15戦 ポコノ・インディカー500
 
 
 本当なら、ポコノのトライオーバルについて書きたいことも書くべきことも山ほどあったに違いなかった。ミッドオハイオの後にレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングがいまだ信用に足るチームではないと記したのは単なる経験的な予感に過ぎなかったが、今にして思えばあまりに予言めいたその言葉ははかなく的中してしまい、チームはもっとも重要な局面で致命的な失敗を犯して選手権を遠ざけていく。2回目のピットで給油作業に手間取ったことで、直前まで5位を走っていたグレアム・レイホールは20番手の後方にまで下がってしまった。それさえなければトリスタン・ボーティエに内側から寄せられてスピンする必要もなかった。一事をもって万事を失うのはオーバルレースの常である。フォンタナでの給油ミスは軽い罰金を科せられるだけで済まされたが、二度目はなかった。書くべきこととは、たとえばそういう失意の果てにどう最終戦を戦うかという興味だ。

 ファン=パブロ・モントーヤが輪郭のおぼつかないポイントリーダーであり続けていることもすでに書いた。インディアナポリス500以降、状況的にチーム・ペンスキーのエースとならざるをえなくなった16年前の王者は、しかし当時のような鋭くも危うい走りをいっさい発揮することなく、順位を拾いながら選手権の1位に留まっている。ブリックヤードから今まで、われわれはレースの先頭を走るモントーヤをほんの5%も見ていない。彼はほぼいかなる場面においてもレースの中心になりえず、にもかかわらず選手権の中心でありえてしまう。ポコノはそういうシーズンを凝縮したレースとなったと言って構うまい。直接のライバルであるレイホールは自滅に終わり、モントーヤは最後のスティントによってのみ35点を懐に収めた。時宜を得たスパート? たしかにそうも見える。だが結局、ラップリードは1周たりとも記録しなかった。24人中12人が先頭を走ったレースで、選手権の首位が。その寂しさに文字数を費やすこともできただろう。

 ずっと熱いまなざしを送り続けてきたジョセフ・ニューガーデンが最多ラップリードを記録してもはや押しも押されもせぬ一線級のドライバーとなったと疑いえなくなったことも含めて、わたしはインディカーを見つめる自分の目を誇ってもよかったのかもしれない。それほど、このブログにここまで積み重ねてきたテキストをなぞる、すべてが想像の中に収まったレースだった。そういうレースだと書けたはずだった。

 ポコノの180周目で起きたのは不幸な出来事、不運な事故だったという以外に言葉が見つからない。セージ・カラムの単独スピンは、それこそ自身の未来を左右するミスではあったかもしれないが、事故の形態としてはありふれている。セイファー・ウォールが制御を失ったチップ・ガナッシの車を柔らかく受け止めてドライバーへの衝撃を緩和し、フルコース・コーションも事故が起こるやいなや各車のコクピットに発信されて隊列は即座に減速を開始した。それはオーバルレースの日常的な光景の一つであり、粛々とコースを片付けてリスタートをかける程度のことだ。だれを責めなくてよい。2011年のラスベガスに見たような破滅的な状況だったわけでもない。頭部の保護に脆弱さの残る安全面の議論はひとまず措こう。現在のインディカーという枠内において、対応は完璧になされていた。カラムの車からちぎれた破片が宙を舞い、事故を避けようとしたジャスティン・ウィルソンの頭部を襲うなど、ただの偶然でしかない。ましてそれが命を断つ結末になろうとは、想像もできなかった。われわれは、愛すべきモータースポーツと不慮の事故が不可分であることを、こうして不意に知らされたのだ。

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 ここで思い出を語りはじめるのは感傷の名を借りた偽善のようにも思う。インディカーを見るわたしにとってウィルソンは必ずしも特別な記憶とともにあるドライバーではないからだ。彼について最初に思い出すのは、今年のインディ500前日に行われたドライバーズ・パレードで目の前を通り過ぎる際に名前を呼んだら、サングラス越しにこちらを見やり、手を振って親指を立ててくれたその姿である。だが別段、ウィルソンだから声をかけたのではなくて、あくまで3人ずつ紹介されて登場する中でいちばん歩道側を通るドライバーに対して一様にそうしていたうちのひとりだった。ニューガーデンも、シモン・パジェノーも同じように反応してくれた。その並びにウィルソンがいた、という以上の意味があったわけではない。予選は6番手(3の倍数のグリッドにつくドライバーが、ちょうど目の前を通る並びだったのだ)につけたものの決勝は21位で、印象に残るレースではなかった。

 だがF1でのキャリアが絶たれて2004年に米国へとやってきて12年、彼がたとえばエリオ・カストロネベスやトニー・カナーンと同様に、ずっとこの世界で走り続けてきたドライバーであることは間違いない。チャンプカー時代はセバスチャン・ブルデーの後塵を拝し、インディカーに移ってからの所属チーム変遷もけっして恵まれていたとはいえないが、デイル・コイン・レーシングやドレイヤー&レインボールド・レーシングといった弱小チームの大きな支えとなり、そしてまれにすべての歯車が噛み合ったときには目の覚めるような走りを見せた。インディカーにおける彼の3勝はすべて記念になるものだ。ニューマン・ハース・ラニガン・レーシングを運転していた2008年のデトロイトではカストロネベスからブロッキング・ペナルティをもぎ取ってオーナーの名優ポール・ニューマンが亡くなる数週間前に最後の勝利を捧げた。デイル・コイン設立25年にして悲願の初優勝をもたらしたのが2009年のワトキンス・グレンである。つねに資金の問題がつきまとい、シートの確保が危ぶまれる状態でありながら、2011年と2015年の一部を除いてずっとインディカーを走らせ、そういう劇的な勝利をものにしてきた。2012年のテキサスには3つの意味がある。デイル・コインのオーバル初勝利であり、ダン・ウェルドンがラスベガスでの事故で死亡してからはじめて行われたハイバンクオーバルでの勝利であり――ウィルソン自身にとって最後の優勝となった。チーム・ペンスキーにいたライアン・ブリスコーを交わした場面を経て残り3周、約1.5秒も前方を走っていたグレアム・レイホールがターン4で壁に接触し、サスペンションを傷めて失速したところをたおやかに抜き去った勝利だった。

 インディカーとチャンプカーが2008年に統合されてから、今に至るまでレギュラーシートを確保し続けているドライバーはけっして多くはない。まして10年以上のキャリアを重ねてきたドライバーなど片手で数えられるほどだ。今季も序盤こそ所属先が決まらなかったが、夏を迎えてからはアンドレッティ・オートスポートを運転する機会を手に入れた。シリーズ・チャンピオンもインディ500優勝もないが、そうやって積み上げてきた時間だけでウィルソンの存在には重みがある。「彼のキャリアは、だれも凌げないほど素晴らしい品格と情熱の物語だった」「だれよりも紳士的なドライバー」……訃報に際して、アンドレッティ・オートスポートやデイル・コインが発表したコメントには、哀悼を表すときしばしばそうであるように、実態以上の美化が含まれているだろう。しかし美辞だけで170以上のレースを戦えるわけがないこともまた、だれもが知っているはずだ。実際、デイル・コインは何度ウィルソンに救われたことか。彼が4度の表彰台で選手権の6位に名を連ねた2013年はチーム史に残る一年だった。たった数ヵ月しか時間をともにしなかったアンドレッティ・オートスポートに乗ってさえ、激しいブレーキング勝負の末に2位表彰台に登った。ほんの3週間前のことだ。それはきっと、不安定な彼のキャリアを繋ぎ止める重要な結果になるはずだった。だが彼は突如としてモータースポーツという営みの中に召されてしまった。

 ウェルドンが事故死し、インディカードライバーのだれもが悲嘆とともに宿命と向き合わなければならなくなったとき、ウィルソン自身も危機の中にあった。少し前のミッドオハイオでの事故によって胸椎を骨折し、運動すら禁じられる状況に置かれていたのだ。だが仲間を失い、自らの肉体が傷ついても、彼は――もちろん、ほかのドライバーみながそうであったように――前進を止めなかった。彼にとって、その危機は受け入れるべきリスクだった。2013年のフォンタナでふたたび大怪我を負っても、次の年の開幕には帰ってきた。そんなふうに、ジャスティン・ウィルソンはモータースポーツを愛し、インディカーのドライバーでありつづけたのだ。チャンプカーで4勝、インディカーで3勝、F1ではほんの1ポイント。彼が特別で、だれよりも才能に溢れた最高のレーシングドライバーだったかとまで問われれば、わたしはいまも頷かない。37歳、常識的に考えればトップフォーミュラにおいてはキャリアの下り坂に入っているのに「まだこれからのドライバーだった」といった具合に持ち上げることには反発さえ覚えよう。死出の餞に美辞麗句を並べる必要などない。インディカーにとって、きっとジャスティン・ウィルソンという名前はただただ日常のひとつであることがその価値だった。それは何年もそこにあって当たり前の名前、何となくそこにあることで自分の知っているレースが行われているのだと安堵できるような名前のひとつだった。彼は走り続けていた。そういう下地があって、時折見せる快走に拍手を送りたくて仕方なくなるのだ。彼は優れているが普通のドライバーだった。それでいい。だがそうであるがゆえにインディカーという風景を支えている、そんな存在感が偽らざる、飾り気のないウィルソンだった。

 この先どんなレースでも、順位表の中に彼の名を認めることはもうできない、そう考えるといまはその喪失感に呆然としてしまう。アンドレッティ・オートスポートはウィルソンを追悼するため、最終戦のソノマで彼の親友であるオリオール・セルビアにカーナンバー25をつけて起用することを発表した。それはもちろん、慰めに溢れたとても素晴らしいはからいだ。しかしその特別なはからいさえ、もはやジャスティン・ウィルソンというひとつの日常が去っていくことの証なのだとふと思いが至ると、言いようもなく寂しくなってくる。

4.5%のリーダーが選手権をリードしているならば

【2015.7.18】
インディカー・シリーズ第13戦 アイオワ・コーン300
 
 
 シーズンの残りを片手で数えられるような時期になると、レース単体の結果だけでなく選手権の行く末も気にかかるようになってくる。もちろんわれわれが見たいのはレースという運動であって、その順位の集積によって作り上げられた虚構の制度にすぎない選手権の得点に一喜一憂する理由もないわけだが、当事者であるチームやドライバーが制度の頂点を目標として定めている以上、その趨勢は往々にしてレースの強度へと跳ね返ってくるのだから、レースを「見る」ことに徹しているものとしても無関心ではいられない。選手権はレースと直接関係を切り結ぶわけではないが、状況に応じてレースの相貌をがらりと変えてしまう。それは時にチームの思考を混乱させ、ドライバーの精神を保守的に留めて手足を硬直化させ、あるいは過度に攻撃になるよう刺激したりする。おなじコース、おなじ勢力図であっても、時期が変わるだけでレースそのものが変質する可能性があるという感覚は、おそらくモータースポーツにかかわるあらゆる人間が共通して持っているはずである。

 その意味において、ファン=パブロ・モントーヤがアイオワ・スピードウェイのうねったターン2に魅入られてセイファー・ウォールに吸い込まれていった10周目の瞬間は、選手権に変動を促して2015年のインディカー最後の1ヵ月に情動を呼び起こす一事となるはずだった。インディアナポリス500で優勝してからというもの焦点のぼやけたレースを繰り返し、制圧できたはずのシーズンを主導しそこねたチーム・ペンスキーにあって、状況的にエースとして待遇されるべき存在になったモントーヤは、にもかかわらず、「なんとなく」としか表しようのないまま50点前後の得点差を維持して首位に居座り続けてきた。IndyCar.comのドライバー紹介ページはその時点での選手権順位で並べられているが、6月も半ばを過ぎてくると、それを見るたびに首を傾げざるをえなくなったくらいだ。レースをつぶさに見ていればいるほど、モントーヤが首位に立っている、それもつねに1レース優勝分に相当する大差をつけている理由がよくわからなくなる。40歳になる年を迎え、新人だった1999年以来16年ぶりの王者に数字上はまぎれもなく近づきつつあるこのコロンビア人は、いったいいかなる魔法を使ってこの位置を占拠しているのだろう。

 たしかにインディ500は優勝した。わたしはインディアナポリス・モーター・スピードウェイの観客席でそれをはっきり見た。しかしブリックヤードの200周目、モントーヤが33人の出場者の中で最初にチェッカー・フラッグを受けた周回は、彼のインディ500におけるほんの9周目の先導にすぎなかったのも事実である。序盤に追突を受けて車を壊され、リードラップ最後尾に落ちてからの追い上げは優勝に値するに十分だったとはいえ、4.5%のリーダーは、インディ500の完全な覇者であると言い切れるものでもなかった。最後に笑うものがもっともよく笑う、モントーヤの実践はそういう類のものだったと考えてもよい。少なくともフルコース・コーションの時期が彼を何度か救ったのは確かである。オーバルレースがそういう性質を持ち合わせているのだと理解していても、彼は約束された勝者ではなかった。それでもブリックヤードで獲得した、他のレースの2倍に設定された過大とも言える101点が、正当か不当かにかかわりなくいまに至るまで彼の立場に大きく寄与しているのはまちがいない。

 しかし結局、その後のモントーヤを見るにインディ500に多少の幸運があったことを受け入れなければならないようである。不運に泣いた強者と評せそうなのは雨に翻弄されて35周の最多ラップリードを獲得しながら10位に沈んでしまったデトロイトのレース2だけで、しかもこれを含めてなお、5月最後の週末以降にモントーヤが記録したラップリードはわずか56周でしかない。周回を重ねる途中でとりあえずの参加証明のように先頭に立つにすぎず、それどころか一度も先導せずに終わったことも7戦中4度を数える。もちろん優勝など望むべくもない。数字を見ているだけでは選手権の首位に立っているなどとはとても信じられず、特別なことをなす予感を抱かせるドライバーではまったくなくなってしまった。

 また同期間のインディカー・シリーズが全体で1249周を消化している、となればあるいは意地の悪い計算もしたくなるだろう。モントーヤが先頭を走った56周とは、すなわちそのうちの4.48%である。奇しくもインディ500の9/200にきわめて近い割合、いや、この一致はおそらく「奇しくも」符合したわけではない。つまりこの4.5%こそ選手権の得点や順位よりもはるかに正確で偽りのないモントーヤの現状で、ここ2ヵ月半の彼はけっして自らの手でレースを主導――リード――するには能わないドライバーとして走り続けていたのである。ピットストップの時期や、(多くの場合は成り行きに任せた結果として)特定のスティントで好調だったために先頭に立つことはあっても、モントーヤはレースの支配者として君臨することにほぼ失敗しつづけてきた。インディ500の優勝とは、4.5%という狭い範囲の中に幸運にもチェッカー・フラッグが振られる周回があったというお伽噺の実現という現象であって、彼の本質的な能力を示唆するものではまったくなかったのだ(ただそのことと、最終スティントの速さ自体がレースを制するにふさわしい価値を有していたことは別の話ではある)。

 4.5%のリーダー。その数字は、おそらく実際に見てきたレースの印象とも寸分違わず一致する。かかる2ヵ月半、モントーヤは一度もその座を脅かされることなく選手権の首位にいつづけたにもかかわらず、その走りが運動の中心となった瞬間を探すのは決して容易ではなかった。たとえばセバスチャン・ブルデーは清冷な圧勝を見せつけ、グレアム・レイホールはしばしば混乱を断ち切る速さでレースの視線を独占した。ジョセフ・ニューガーデンのラップリードは250周を数え、その豊かな才能の成長を満天下に示している。不振に喘いでいたはずのアンドレッティ・オートスポートでさえ、巧みな作戦によってカルロス・ムニョスを初優勝へ導き、愛するアイオワで6連覇を達成したのだ。もしくは事故や危険な走行を繰り返すセージ・カラムに(ことによると必要以上の)怒りを向けることもあったし、瞬間的にはまちがいなく最速であったはずのウィル・パワーやシモン・パジェノーの輝きがレース中に淡く消えていくさまを嘆きもした。翻って、良きにつけ悪しきにつけこれほど語るべき瞬間がモントーヤにあっただろうか。チームメイトより速いわけでもなく、逆に怠惰なわけでもない。歓喜も、裏返しの失望もない。7戦中10位以内6回、5位以内3回の成績はたしかにすばらしく見える。しかしそれは結果だ。そして結果以外に何もなかった。

 閉幕まで1ヵ月となったアイオワのわずか10周目、ターン2でサスペンションが壊れたのかはたまた単純に操縦ミスだったのか、いずれにせよあっさりとレースから消えてしまったことを、だからモントーヤの現状にふさわしい末路だったのだと冷笑しようというのではない。レースには思いもよらない幸運も信じがたい不運も平等に存在しており、アイオワは彼に手を差し伸べようとはしなかった、ひとまずそれだけのことである。だが4.5%のリーダーが2ヵ月半にわたって存在の曖昧なポイントリーダーでもあり続けてしまった事態を覆すために誂えたような展開だったのはたしかに思えた。2位のスコット・ディクソンに対してつけていた54点もの大差は、モントーヤのリタイアによって半分以下、場合によっては一桁にまで縮まって、もはや安穏とした走行を繰り返すなど許されなくなる。選手権は過熱し、8月の3戦は過去2年の最終戦がそうだったように、危険を冒してでも最大の利得を求めるような昂揚のレースを味わえるだろう。アイオワはその期待に違わず進んでいったはずだった。だが230周目にディクソンの車は突如として速度を失い、修理に長い時間を要することになってしまう。結局2人の差は6点しか縮まらずに終わって、ポイントリーダーは延命された。33点を伸長したレイホールが間に割って入ったものの、まだ42点の隔たりが残る。

 CARTにやってきた1999年、モントーヤは圧倒的に中心の存在だった。だれより優れた速さがあり、裏腹に無残なミスでレースを失うこともあった。スタートから完璧なリードを築きながらピットストップ後に順位を上げようとしてロベルト・モレノを弾き飛ばし、挙げ句フルコース・コーション中にエリオ・カストロネベスに追突されたのはデトロイトだったか。先頭でリスタートする瞬間にスロットルを開けすぎてスピンしたポートランドも忘れられない。一方で勇気と荒々しさに満ちた走りはきわどいレースを次々にものにし、結果としてダリオ・フランキッティと同点ながら勝利数で大きく上回ってチャンピオンとなったのである。当時と比べて、選手権でふたたび首位に立つモントーヤのなんと丸くなったことか。16年を経て腹回りだけでなく走りも丸くなった。その角のない走りで、レースと、その結果の集積である選手権をも平滑にしてしまうほどに。これがベテランの円熟味だというのなら、熟成など退屈なものである。

 ディクソンのトラブルがために選手権の序列が温存されたことで、モントーヤは5月終わりからの安穏を引き続き享受する権利を手に入れた。かかる状況が続くことで彼自身が熱量をレースに供給できなくなっているのなら、もはやその地位は脅かされなければならない。本来ならその役割はパワーを始めとしたペンスキーのチームメイトたちが担うべきだったのだろうが、彼らもまた彼ら自身のレースを杜漏に終わらせすぎた。それが現状の停滞の原因にさえなってしまったのだ。ならばアイオワの失意にあってもなお3位に留まるディクソンと、にわかに王者への意欲を見せ始めたレイホール――いや、その担い手がだれであるかはさして重要ではない。このままモントーヤが2015年を逃げ切ったとして、そこに美しい物語を見出だせそうにないことこそ、われわれが避けるべき問題である。16年前の王者に焦燥を。4.5%のリーダーに情熱を。8月の3レースが意志を滾らせながらシリーズを終幕させる過程になっていくかどうかは、安穏なファン=パブロ・モントーヤの背中が切りつけられるかどうかにかかっている。

おかえりにはまだ早くても

【2015.7.12】
インディカー・シリーズ第12戦 ウィスコンシン250
 
 
 物質的な文房具であると同時に文字量を現す慣習的で不可思議な単位でもある「原稿用紙」の枚数に換算してwebの文章を量ることにさほど意味があるとは思われないものの、ともあれ毎週のように行われるレースについて金になるでもないのに10枚から書き続けてほぼ3年、数えたことはないがおそらく400字詰めにして700枚くらい積み上げ本の2~3冊にも届きそうな分量になればいいかげん新しく書くこともなくなってくる、などといった言い訳をするようになってはこのブログもそろそろ寿命が尽きかけているだろうなと自覚するのだが、せめて延命のためにおなじことを繰り返すのを許してもらうなら、気づけば20年くらい米国のオープン・ホイール・レースを見てきた身にとって、セバスチャン・ブルデーとはなかば哀愁をともなって口にしなければならない名前である。今回のウィスコンシンに優勝したことで歴代8位タイとなった34勝、33回のポールポジション、選手権4連覇と「輝かしい」実績は一見すると目が眩まんばかりだが、近寄ってよくよく磨いてみるとはたしてその光は少々鈍いようにも感じられる。知ってのとおりその成績のほとんどすべてが米国チャンピオンシップ・カー・レーシング分裂の歴史の中で滅亡したチャンプカー・ワールドシリーズで記録したもので、ブルデーが王者になった2004年から2007年はその最後の4年、つまり没落する王朝の最後の支配者だったのである。彼がチャンプカーにいたのはすでに多くの有力チームがインディカー・シリーズへと戦いの場を移した後のこと、そこで勝ち続けることがどれだけ才能を証明してくれるのかはわからなくなっていたころだ。チャンプカーが消滅し生まれ故郷の欧州へ「実績」を引っさげて戻ったF1でのキャリア構築はセバスチャン・ベッテルという強力すぎる同僚を前にして失意のまま終わり、ふたたび米国へ、今度はインディカーのドライバーとしてやってきたときには満足なシートが残っているとは言い難かった。チャンプカー時代には相手にもしていなかったウィル・パワーが有力チームのペンスキーで活躍するようになったことを思えば、回り道が過ぎたのだろう。スーパーリーグ・フォーミュラなどという今となっては歴史の徒花でしかないようなカテゴリーにさえ参戦したのは、傍目にはどうしても時間の無駄遣いに見えてしまう。人生の選択が少しずれて2008年にインディカーの新人として走っていれば、といっても詮ないことだしその架空の別世界なら成功が保証されたとも約束されるものではないが、2011年にあれほど苦労せずに済んだだろうかとも思わずにいられない。いくらドラゴン・レーシングの戦闘力が貧弱極まりないものだったとはいっても、復帰してからのブルデーは、チャンプカーの栄光が幻だったかのように、決して速いとは言えず、クレバーでもなく、ときどきつまらないミスでレースを失う程度のドライバーにすぎなかった。それも2年以上、状況の変化や不慣れを理由にできる時間が終わってもなお、そうだったのだ。

 そうした曲折を知っているから、昨年のトロント・レース1でようやく、7年の時を経て表彰台のいちばん高いところにもどってきたときの気分はまだ、歓迎と寂寥が相半ばする複雑なものだった。ずっと凍りついていた通算勝利の数字がふたたび動きはじめた結果は遠回りの経歴がすべて無駄ではなかったのだと感慨をもたらす一方で、しかしその圧勝が選手権の争いとはまったく無縁の場所でなされ、ライバルが恐れを抱くそぶりも見せなかったこと、いや当時ポイントリーダーだったエリオ・カストロネベスにとってはライバルですらなかったという事実を、追い立てられることのない簡単な勝利によって気づかされてしまったことは、ブルデーが4度の王者という実績を持っているがゆえに、寂しさを伴うものだったのだ。彼ほどのドライバーであるならば、その優勝はシーズンの微笑ましい一幕ではなく、選手権の重層的な躍動とともにあらねばならない。そう信じたからこそわたしは、あのトロントを一回きりの祝福で終わらせるのではなく、インディカーのキャリアを再構築する「リスタートでなければならない」と綴ったのである。

 実際のところ、あの勝利の前後でブルデーを取り巻く状況が大きく変わったわけではない。2014年の選手権は結局10位で、シーズンオフに移籍の機会に恵まれるでもなく中堅チームで奮闘しつづけている。チャンプカー時代の走れば勝つような快進撃は望めない場所だ。だが、状況が変化しないにもかかわらず、その走りは明らかに改善しているように見える。予選でときに目の覚めるような走りをみせて上位のグリッドを獲得するのみならず、ばかげたミスは影を潜めて車を壊す心配もなくなった。完全な貰い事故に泣いたルイジアナを除いて、開幕直後からことごとく一桁の順位でゴールに戻ってきた姿には、チャンプカーのころの頼もしさが宿っていただろう。特にレース経験の豊富さを窺わせる局地的なスパートの鋭さはすでにシリーズでも白眉になりつつある。レース中のある一瞬を切り取ったときにもっとも速いドライバーがブルデーである場面は、以前に比して明らかに増えた。チームの総合力ではペンスキーやチップ・ガナッシに及ばなくとも、時宜を逃さずに適切な速さを引き出すことで、彼はおそらく車以上の順位をチームに与えている。それは、キャリアの階段を上るのに失敗したF1でミハエル・シューマッハやフェルナンド・アロンソがしばしば発揮してきた資質に違いない。決して強豪とはいえないKVレーシング・テクノロジーで、しかし彼はたしかにチャンプカーの王者として走るようになりつつある。

 復調を示唆するその特質がいかんなく発揮されたのがたとえば雨に翻弄された今年のデトロイト・レース2だろう。ウェットかハーフウェットかドライか、判断の難しい状況で総合的に一番速かったのはおそらく佐藤琢磨だったが、先頭を走るブルデーは終盤のポイントを押さえきって逆転の機会を与えなかった。最終盤の事故で赤旗となり、接近戦の再スタートを余儀なくされても、ターン1で佐藤から順位を守ると、その先は残っていたタイヤを存分に使って日本人を落胆せしめたのである。勝利のためにはいつ最速であるべきか。チャンプカーを勝ち続けたブルデーはそれを知悉しているのだと気付かされたレースだったと言っていい。

 そしてこのウィスコンシンもまた、速さを正しく使ったレースとして記憶しておかなければならなくなった。それもとびきりの速さである。114周目にジェームズ・ジェイクスのホンダエンジンが煙を吐いたことで導入されたフルコース・コーションで周囲が次々とピットインする中、あえてコースに留まったブルデーの選択はあまり益がないように思われたが、事故を挟んで140周目まで続いたイエロー・フラッグが明けると驚愕のスパートによってあっという間に10秒、この短いオーバルコースで言えば半周もの差を2位以下に対して作ってしまった。黄旗とともにタイヤ交換をした相手より14周も古いタイヤを履きながら、乱気流に翻弄されない速度はいっさい衰えることがなく、自由自在のハンドリングで柔らかい肉に包丁を入れるように周回遅れをすっぱりと切っていく。第3スティントの燃料を使いきり、本来なら絶対的に不利なはずのグリーン・フラッグ下でのピットインが必要となったとき、しかし後続との差はすでに17秒にまで広がり、作業後も4位で隊列に戻ることができた。もちろんこの時点で周囲のタイヤは大きく疲弊しており、ふたたび先頭に躍り出て大差をつけるまでにそう時間はいらなかった。

 ブルデーのこれほどの圧勝を、いったいだれが予想しえただろう。上位陣ではたったひとり、すべてのピット作業をグリーン下で行ったにもかかわらず、ひたすら速い彼は後半のほとんどの周回で先頭を走り続けた。そうして圧巻の瞬間は203周目に訪れる。苦戦ゆえに作戦を工夫せざるをえず、はるか彼方の2番手を走っていたライアン・ハンター=レイが給油のためにピットレーンへと向かったことで、ブルデーとおなじ周回を走るドライバーはコース上にひとりたりともいなくなったのだ。まだ残り1回のピット作業は予定されていたものの、全車を周回遅れに落としたこの瞬間、ブルデーの優勝は確実になった。213周目、最後のピットもまたグリーン中に行われたが、そんな状況的不利とはまったく関係なく、先頭のままコースに戻っていったのだった。

 燃料消費量を考えると、最初のイエロー・フラッグはピット回数を1回減らせるかどうかの分岐点で導入されたものである。直前の給油からはまだ15周弱しか進んでいないタイミングではあったが、ひとまず給油して様子を見るのが定跡であり、結果として222周目にもフルコース・コーションとなったことで過度の燃費競争にはならなかった。実際、117周目にピットが開いたときにコースに留まったリードラップの車は6台しかいない。車に手応えを感じている中で少数派の選択をするのは勇気を要したに違いない。ひとつ間違えれば大きく順位を落としてもおかしくなかった。

 いや、おそらく判断自体は間違えていたと言っていい。あの作戦を成功させたのは結局ブルデーだけで、他はシモン・パジェノーが下から数えたほうが早い10位に入るのが精一杯だった。ステイアウトした車の多くがもともと後方にいた、つまり速さを持っていなかったことはたしかだが、裏を返せばブルデーがそんな博打のような作戦を取る必要はなかったということでもある。チームはタイヤの状態よりも先頭を走って乱気流に巻き込まれないことがペースを保つ方法だと考え、事実ブルデーは速く走り続けることができたのだが、優勝するためには一時的に全車を周回遅れにしなければならなかったと考えれば、危うい綱渡りではあったのである。

 しかしそれでも、ブルデーは勝った。運に恵まれるどころか、むしろ不利だったかもしれない立場を、ただ速さだけで覆して、今季だれよりも清冷な優勝を手に入れた。最後のフルコース・コーションが明けたあと、追い縋る後続をまたしてもやすやすと突き放す展開に、実況の村田晴郎が「これはだめだ」と呻いたのは全員に共通する感情だっただろう。レースは実質的に203周目に終わっていた。ブルデーがその速さによって完璧に終わらせたのだ。

 昨年のトロントはインディカーで力を発揮できていなかったブルデーのリスタートでなければならなかったはずだった。実際あのレースを境にして、状況は何も変わっていないはずなのにその走りは確実に鋭さを取り戻しているようだ。年が明けて彼はもはや強豪のひとりになりつつある。今季2勝目はポイントリーダーら3人に並ぶ最多タイ、選手権のランキングは6位にまで上がってきた。4戦を残してファン=パブロ・モントーヤまで96ポイント差が現実的に届きうる数字かどうかはともかく、彼はついに、かつてずっとそうだったように選手権を争う一員となった。もちろんこれまで積み上げてきた実績を思えば、おかえりを言うにはまだ少しばかり早いのかもしれない。だが、だとしても、チャンプカーの偉大な王者だったセバスチャン・ブルデーはいま、インディカーの優れたドライバーとして、ようやく、この場所まで戻ってきたと、そのスピードを歓迎せずにはいられない。

危機に瀕したときに問わなければならない

【2015.6.27】
インディカー・シリーズ第11戦 MAVTV500
 
 
 一度も足を踏み入れた経験がないにもかかわらず、1999年10月31日に起きた不幸なできごとによって、わたしはフォンタナという土地の名前をけっして忘れられないものとして記憶しつづけている。将来を嘱望されていたCARTの若手ドライバーだったグレッグ・ムーアの身に降りかかった災厄は、日本に住むひとりの高校生がはじめてモータースポーツで喪失感を抱いた事件でもあった。それはずいぶん身勝手な感情の現れ方だったといえるかもしれない。その5年前にF1を襲ったローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの事故死も、1996年にインディアナポリス500でポールシッターだったはずのスコット・ブライトンが永遠にスタートできなくなってしまったことも、同じ年にCARTトロントでジェフ・クロスノフの車が二つに裂けてしまったことも、またフォンタナのほんのひと月前にゴンサロ・ロドリゲスがラグナ・セカのコークスクリューに散ったことも、誤解を恐れずいえば流れてくる一つのニュースに過ぎなかったのに、まだ24歳だったムーアの突然の死だけが、心に大きな穴を穿っていったのだった。わたしはあのとき、自分の英雄を失う最初の経験をした。

 ムーアの死だけを特別に受け止めている理由はいくつかある。ラッツェンバーガーとセナが世を去ったときはまだ中学生で、そのイモラに至るまでの足跡を自分の人生で見てきたことの一部として感じ取れるほど成熟した人間ではなかった(活躍していたころは子供に過ぎ、書物の上の伝説として割り切れるほど知らないわけでもないという意味で、わたし自身のセナに対する思いはたぶん前後の世代に比べて中途半端だ)。1996年当時はクロスノフが日本で走っていたという知識を持ち合わせているほど熱心といえず、31歳のカナダ人は数多いる後方のドライバーとしての認識に留まっていたし、ロドリゲスの悲劇は練習走行中に起きた事後的に知る種類のものだった。すべて悲嘆すべき事件だったのは間違いないが、しかしわたし個人の感情にとってはおそらくそれぞれに何かを欠いていたのであり、翻ってムーアの事故はすべて決定的な巡り合わせで起きた――理性を伴った感受性が高まる18歳のころ、その走りに一喜一憂するほど愛していたドライバーが、決勝レース中に死亡する瞬間を目撃する、それはまぎれもなく、わたしがはじめて真の意味で遭遇したモータースポーツの「死亡事故」だったのだ。関係者とは比べ物にならないほど遠くにいるひとりのファンに過ぎなくても心を覆う喪失感は耐えがたく、そのレースで1999年のシーズンが閉幕することだけを救いに思うほかなかった。やがてムーアのいないチャンプカーが再開し、本当は彼が座るはずだったチーム・ペンスキーのシートに今も現役を続けるエリオ・カストロネベスが収まって、時間が経っていくうちに自然のことわりとして悲しみは薄れていったが、レースは危険な営みであるがゆえにこそ人を殺してはならないという信念だけは胸に残った。

 ムーアの死亡事故は米国レースの象徴とも言えるオーバルコース、それも最も平均速度が高まるスーパー・スピードウェイで起きた。確執の末に分裂したCART/チャンプカーとIRL/インディカー(と書くのはやや正確さを欠き、商標を巡る法廷闘争の結果IRLがインディカーを名乗れるようになるまでにはまだ数年を要するのだが)の勢力図が変化しはじめようとしていた時期でもある。絶縁状を叩きつける形で分裂、立ち上げられたIRLは、米国開闢以来の伝統とばかりに開催のすべてをオーバルレースとし、すでにロード/ストリートレースが半分前後を占めていたCARTに対抗しようとした。当初は分裂されたCARTの側が人気、実力ともに勝っていたが、決して強固な団体ではなかった――少なくとも、CARTがUSACに反旗を翻して設立されたときより遥かに脆弱な構成だった――IRLの支持も初開催から3年が経って広がりつつあったころだ。揺るぎようのない最大の祭典であるインディ500を押さえていたのが主因だったといっていいだろう。翌2000年には王者チームのチップ・ガナッシ・レーシングがインディ500に参戦して、CARTは崩壊への道を辿りはじめる。この「裏切り」に端を発した有力チームのシリーズ離脱を止められずに2003年に破綻し、後継のチャンプカー・ワールド・シリーズも2008年初頭に消滅した。いまも続いているインディカー・シリーズは、オーバルを中心としたIRLを源流としている。少し大仰に言えば、IRLを選ぶことによって米国は最高峰のレースがオーバルで戦われることを望んだということだ。そういう歴史のただなかに、ムーアの事故死もある。

 ムーアののち、インディカーは仲間との別れを3度迎えることになった。2003年インディアナポリスでのテスト中にトニー・レナ、2006年マイアミの練習走行中にポール・ダナ、そして2011年にラスベガスで起きたダン・ウェルドンの死亡事故は、現在のところ最後、また21世紀では唯一、決勝レース中に発生したものだ。一度たりとも起きてはならないできごとにその多寡を論じるのは無益だが、2000年代に2件、2010年代に1件という事実だけにあえて言及するなら、けっして多い数字ではない。しかし2010年代のたった1件、いまだ記憶に新しいウェルドンの悲運な事故死は、現在に至るまで多くの課題をわれわれに投げかけている。

 たしかに技術は進歩し、車は強い衝撃に曝されても広い生存空間を確保できるようになった。昔ならもしかしたら命を奪われていたかもしれないと思わせる事故を列挙すれば、この数年だけでも片手の指では足りそうにない。悲しい事故がなくなったわけではないが、それでもインディカーが物理的な「安全」を求め、多くを実現させてきたのはたしかである。だがそうだとしても、レースでの事故は必然の現象であり、そして事故になれば僅かな確率で最悪の結果に至ることもありえてしまう。いまの時代、それは車が極めた安全性を超えた、運不運で片づけるほかない偶然の重なりあいによって生じることだ。現代の安全水準ならムーアは救われたのではと思うが、前の車に乗り上げて空を飛び、コクピットの開口部がフェンスに向いて支柱と頭部が激突してしまったウェルドンの場合はそれでもどうにもならなかっただろう(もちろん「乗り上げにくい構造」は練り上げられ、実際「DW(Dan Wheldon)12」と名付けられた翌年の車に導入された)。

 事故と安全性の関係はおそらく今後も変わらず、車の進化によってどれほど物理的な危険が低減しようと最悪の事態がその虚を突くように忍び寄ってくる可能性はつねに残るはずだ。それが人智の及ばない範囲の事象であるかぎり、最後の最後には籤引きに運命を委ねるようなものである。もちろん、モータースポーツは「事故の様態」という膨大な数の籤から「死」を取り除こうと不断の努力を払い続けているが、それでも紛れこみうるその一枚をだれかが掴んでしまう事態はかならず覚悟しておかなければならない。ウェルドンの事故がそういう種類のもの――技術を乗り越えてしまった不運――だったのなら。だとすれば、その死がもたらした真の教訓はより安全な車とコースを作る努力の要求のみならず、それ以上に、われわれがレースとどう向き合うかという精神への問いだったのではないだろうか。

 
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 安全のために払われてきた努力に信頼は起きつつも、結局最後の瞬間には運命に身を任せるしかないという思いは、たとえばウィル・パワーの言葉に現れていよう。2014年のインディカー・シリーズ・チャンピオンは、「だれも大きな怪我をしなかったことが唯一喜ばしい」と、ムーアの事故から16年後に行われたフォンタナの500マイルレースに憤っている。佐藤琢磨との接触によって241周目に車を降りた彼はまた、こうも言う。「(ウェルドンの事故が起きた)ラスベガスのようだった」。

 新しい空力パーツと気候条件が重なって想定以上のダウンフォースが生じた結果、インディカー史上最多となる80回の先頭交代が起こり、コースのあらゆる場所、あらゆる時間帯で車が3台並ぶ3ワイド、ときに4ワイド以上にもなる集団走行が展開された2015年のMAVTV500は、序盤こそ緊張を孕みながらも破綻なく進んだが、全体の半分を過ぎたころから危ういレースであったことを示唆する事故が相次ぐ展開となった。136周目にカストロネベスが両側の車に挟みこまれて車を壊したのを端緒として、158周目にはエド・カーペンターがチームメイトのジョセフ・ニューガーデンを巻き込んでスピンし、241周目にパワーと佐藤の事故が起きて赤旗中断を余儀なくされる。車輌や破片を撤去する間にレースが終了することを避けるための措置だったが、結局は再開後の249周目、ライアン・ハンター=レイとライアン・ブリスコーがぶつかり合って、チェッカー・フラッグはおもむろに続くフルコース・コーションの中で振られたのだった。「刺激的だったかもしれないが、狂ったレースだった」とパワーは嘆く。4度の事故はすべて集団走行でなければ起きえない種類のもので、それはウェルドンが事故死した2011年のラスベガス以来、インディカーが組織を上げて忌避しようとしてきたレースの有り様だった。あの事故を契機に、シリーズは密集状態を作り出さないよう注力してきた。「こんなレースをしていたらそのうちおなじことが起きる」とは、当時のラスベガスをその場で経験したパワーの偽らざる心境だろう。危機に直面するドライバーの立場として、それは当然に主張されることだ。あるいはパワーと同様に批判的だったトニー・カナーンは「ファンがどういうレースを希望しているかは理解している」としたうえで、「10万人のためならそういうレースをすることはできる。だけど、5000人しかいないのならばかげているよ」と述べる。ファン=パブロ・モントーヤはこうだ。「こんなふうに密集での走行を繰り返していては遅かれ早かれだれか怪我をする」――。

 このフォンタナは多くの口から「ラスベガス以来」と、悲劇のレースになぞらえられて語られている。あのときの様態を再現することで、まるでレースの安全がいかにあるべきかという問いを、観客を含めたすべてのインディカー関係者に投げかけているようだ。たしかに事故は可能なかぎり避けられるべきであり、モータースポーツはだれひとり失ってはならない。その前提は全員が共有しているだろう。だがそのうえでなお、ラスベガスと似たレースになったからこそ、問われなければならないことが残っている。それがウェルドンの事故でも突きつけられた、われわれがレースとどう向き合うか、われわれはなにを求めてレースにかかわろうとするのかという問いに他ならない。

 近年のインディカーは人気の低迷に歯止めがかからず、迷走の度合いを深めている。開催期間を3月から8月までと短く設定することでシーズンの終わりをNASCARとずらし、注目を集めようとするこの2年間の試みもうまくいかなかったようで、結局来年から元に戻す方向で議論が進みはじめた。何よりオーバルレースの凋落は目を覆わんばかりだ。最近は観客動員数の公式発表もされなくなったが、おおよその調査でストリートコースの半分以下、毎日試合のある野球より人が集まらないレースも珍しくない。少数のために危険なレースをするなんてばかばかしいというカナーンの気持ちもわからないではない。

 だがそうやって憤るカナーンの言葉には、自家撞着あるいは循環が含まれているようにも聞こえはしないか。10万人が望むなら受け入れられるが、5000人しかいないスタンドのためにそうするわけにはいかない。なるほどしかし、10万人が5000人になってしまったその理由は何で、責任はどこにあるのだろうと考えれば、その嘆きは自分自身の胸に刺さりかねない。CARTのデビューからインディカーへと移り、21世紀を戦い続けてきた40歳にならわかるはずだ。インディカーから観客が去っていった原因は車の「進化」によって年を追うごとに接近戦をできなくなったオーバルレースへの失望であり、それを埋め合わせるようにストリートレースを増やして客を誘導した結果である。そのうえウェルドンの事故以来、隊列が伸びる一方のオーバルからはますます人が離れていっている。テレビを見ていて空っぽの客席を寂しく思う人も多いはずだ。今回のフォンタナの観客は、5000とはいわないまでもしかしわずか2万人に過ぎなかったという。

 フォンタナのようなレースをするために9万5000人を取り戻す必要がある。カナーンがそう言っているのだとして、だがその9万5000人はフォンタナのようなレースが見られなくなったから離れていったわけである。この循環こそ、現代のインディカーが直面する課題に違いない。IRLのCARTに対する勝利はオーバルの勝利に他ならず、それは米国のレースが何を拠り所にするかという精神の選択が意味されていた。しかし皮肉なものである。IRL/インディカーはやがて設立当初の姿を失ってオーバルを毀損し、ロード/ストリートコースを増やすことで打ち倒したはずのCARTそっくりに変貌――あるいは変節した。そしていま、偶然蘇った古き良き時代の様態に近いレースさえ、当事者たるドライバーから拒絶されるようになったのだ。もはやこの20年に何の意義があったのかさえわからなくなる。おなじ場所に戻ってくるのなら、いったい何のためにIRLはCARTから分かれ、何のためにCARTは消滅したのだろう。そこには結局、当事者の思惑が渦巻くマネーゲーム以上の意味はなかったのだろうか。あるいはインディ500を中心としたオーバルへの郷愁などただの幻想で、そんなものはまったく望まれていなかったのだと、そういうことなのだろうか。なぜIRLは選ばれたのか。選ばれたIRLはなぜ、CARTに戻っていったのか。インディカーがいまの状況をただ続けていくなら、そう遠くないうちにインディ500を除くオーバルレースは死に絶えるだろう。インディ500を孤立させないために数レースがあてがわれるように残るだけで、あとは開催しようにもできなくなるに違いない。いや、現状がすでにそうだとも言える。ロードコースの半分以下の観客しか入らないオーバルを続ける価値など合理的な観点からは失われつつある。

 フォンタナの「狂ったレース」は、本当はずっと前から岐路に立たされていたのに、将来を左右する分岐に見ないふりをして徐々に観客の減り続けるレースを漫然と消費していたインディカーへの警告だったのかもしれない。危機が顕在化したレースだったからこそ、われわれは問題意識を共有し、考え、決めようとすることができる。これ以上こんな「危険な」レースは続けられないと排除していくのか、それとも足を運ばなくなった9万5000人にとって価値のある「刺激的な」レースだったとしてインディカーの原点に立ち返る契機とするのか。これは人々がレースに何を求め、どう向き合って、乗り越えていくのかという問題である。IRLとCARTが分裂した危機的な状況で選択を迫られたときと同じだ。ウェルドンを思い起こさせる危険な集団走行のレースによって、その死が人とモータースポーツとの関わり方のすべてに問いを向けていたことを突如として再認識させられたのである。われわれはその問いに答えを出すことにしよう。IRLの理念を捨て去り、集団での戦いを排除して退屈なオーバルを自然死させていくのか、リスクを承知のうえで前後左右の車に近づくレースを増やし、そのうえで安全を最大限に確保できるよう望むのか。「インディカー」とはどんな存在で、どんな精神であり続けるべきなのか……。賛否の分かれたレースの後だからこそ、きっと、心のうちを見つめなおさなけばならないはずである。

速さを弄ぶペンスキーが、レースの順位を語れなくしている

【2015.6.14】
インディカー・シリーズ第10戦 インディ・トロント
 
 
 わたしはジョセフ・ニューガーデンを好んでいることを公言しており、その走りについておそらくもっとも日本語を費やしてきた人間だろうと自負もしている――なにせ、google検索してWikipediaの次に表示されるのは昨年書いたこのブログ記事で(※移転前にそういう時期があった)、1万字近い文章であるうえ、その他にもひとつふたつおなじくらいの文字数を書いた記事がある――が、そんな偏りのある目で見ていても、たった一度の偶然にすぎない好機によって気付いたら先頭を走ることになった24歳が、そのままチェッカー・フラッグまで逃げ切ってしまったレースについてどう受け止めていいのかいまだ戸惑いの中にいる。贔屓のドライバーが勝ったのだから喜ばしいかといえばさほど単純なものではなく、つまり今年のアラバマでの初勝利がニューガーデンの恐れを知らない情熱的な本質に支えられた彼だけのためのレースだったのに対して、このトロントは幸運に過ぎて、終わってみればおよそだれが勝っても構いはしないものだったのである。それがたまたまわたしの好むドライバーの名札をつけていただけだ。アラバマが「優勝」で、トロントは「1位」だったと言ってもいい。どんなレースにも1位はいるとはしばしば書いてきたことだが、現象がおなじであることに疑いの余地はなくとも、その精神には大きな隔たりが横たわる。

 とはいえその責任がニューガーデン自身に帰せられるべきでは、もちろんない。結局のところ、インディアナポリス500以降に起きているシリーズの一貫性の欠如は、最速チームであるチーム・ペンスキーに端を発している。今季もう何度書いたかわからないことだが、予選から決勝の序盤にかけては明らかにペンスキーのためにあったはずのレースが、ありうべきフルコース・コーションのために必要以上に捩れて、なぜかその様相を大きく変貌させていってしまうのを目撃する、そういう日曜日をわれわれはまたしても過ごしている。そんな現象はインディカー・シリーズでは当たり前にあるだろうと皮肉っぽく賢しらに言ってみることは簡単だが、しかしさいころの出目に過ぎないというだけでは、スタートから30周にわたって1周たりとも揺らぐことのなかったウィル・パワーとシモン・パジェノーの1-2態勢が、1回のフルコース・コーションで無残にも崩れ去っていく展開についての理解は得られそうもないようだ。31周目以降、チーム・ペンスキーの彼らは車が変わったかのように――実際、速く走れる条件でなくなったという意味では変わったといえるのかもしれないが――勢いを失い、週末にサーキット入りしたころには歯牙にもかけなかったはずのカーペンター・フィッシャー・ハートマン・レーシングの影を踏むことすら能わなくなった。不測の事態で一時的に隊列が乱されたとしても、もとあった速さをもってすればふたたび優勝争いのさなかに戻ってくるだろうと想像するのはまるで滑稽ではないはずなのに、そんなふうに考えた自分が愚か極まりないと思わせるほど、ペンスキーはニューガーデンとルカ・フィリッピの2人に手も足も出なかったのだ。4位までは戻ってきたパワーはまだしも、パジェノーの最終順位は11位にすぎない。彼が、チームの中でひとりだけ苦悩せざるをえない立場に置かれてもまだ速さを誇示していた最初の30周は何だったのだろう。いったいわたしが才能を信じてやまないこのフランス人は、1時間もしないうちに車の中で凡庸なだれか――そうだな、ちょうどリタイヤしていた同国人のトリスタン・ボーティエあたりだ――と入れ替わってしまったとでもいうのだろうか。

 トロントでニューガーデンが首位に立った理由は、30周目のフルコース・コーションの直前、29周目という幸運極まりないタイミングでタイヤ交換と給油を済ませていたからで、それ以上の理由はないと言っていい。レースが乱れる前、彼はせいぜい10番手前後を走るドライバーにすぎなかったが、隊列が整ってから一斉にピットへと向かった車を尻目にコースに居残り、ただ運転しているだけでラップリーダーへと躍り出た。42周目のことである。もちろんそれはインディカーの風景の一幕ではあり、珍しくもない出来事だ。だがいったん攪拌されたレースが落ち着きを取り戻したあと、僥倖によるかりそめの首位としか思えなかったニューガーデンは、あたかもそこが最初から約束された当然いるべき席であったかのように堂々とした振る舞いで後続を従えつづけている。市街地コースで抜くのが容易でなかったというような話ではない。2位に上がってきたのはコーションに恵まれることのなかったチームメイトのフィリッピであり、その後ろ、ようやく3番手で、苦戦から脱するためにピットインのタイミングを遅らせたエリオ・カストロネベスが、首に縄を付けられた従順な犬のようにおとなしく着いてきていた。30周目までの圧倒とは裏腹に、レースはすでにペンスキーのものではなくなっている。そして、それですべて終わった。チェッカー・フラッグまで隊列が覆されることはなく、ペンスキーが自力によってラップリードを回復する場面は一度も訪れなかった。

 はじめの30周だけ見てみれば、ペンスキーはその速さによってトロントの2時間を退屈に染め上げることができた可能性があった。それは見た目に派手なレースを待つ側には望まれなかったかもしれないが、モータースポーツにおいては強く、美しく、正当な無聊のもたらしかただったろう。だが現実の彼らは、強さによってではなく、前を走る弱小――と言って構うまい――のCFHを追うことすらできない怠惰によって、レースから熱量を奪ってしまった。しかもそれは1周間前、まるで性質の違うオーバルコースのテキサスでもおなじだったのだ。ポールポジションのパワーにパジェノーが続き、順位は入れ替わったものの序盤の2人はだれからも手出しができないほどの速さを誇りながら、状況の変化によって順位を落としたのみならず、速さ自体が幻だったかのように淡く消えていってしまうレースにペンスキーは陥っていたのである。その1周間前、デトロイトもそうだった。降ったり止んだりを繰り返す雨に翻弄されたと言い訳が立つにしても、土日を通じて開催されたふたつのレースで、最初に速いのはペンスキーのだれかだったにもかかわらず、表彰台にはまるで違う顔ぶれが並んだ。そのさらに1週前のインディ500を勝ったのはファン=パブロ・モントーヤだったが、ペンスキーに歓喜をもたらしたレースでさえ、2番目に多いラップリードを記録したはずのパジェノーが10位という平凡な順位に終わったのだった。

 結局のところ、もう1ヵ月にわたってペンスキーは飽きもせず似たようなレースを繰り返している。わたしはテキサスの記事を「トロントの予選が終わり、またしてもペンスキー勢は予選3番手までを独占した。だからといって簡単なレースになるだろうと言い切っては、レースが終わってから後悔してしまうことになっても不思議はない」と結んだのだ。その予感は馬鹿馬鹿しいほどに捻りもなく的中し、10戦中9度目となる彼らのポールポジションはまたしても徒花として散った。そのレースぶりが、観客としてのわたしを混乱させている。ある瞬間だけを切り取ってみれば、まぎれもなくどのチームより速い。不調に陥ったわけでも、状況判断に異常をきたしたわけでもない。だが結果として彼らは勝者としてレースを終えられずにいる。というより、勝者であることを拒否しているかのようだ。さながら自分の満足さえ得られればよいと他人とは無関係にコースを走る初心者で、速いタイムを出せばそれでよく、最終的な順位など関心の外へ追いやられているように見える。そうでなければあれほどの速さを持ったチームが抵抗の素振りすらないままあっさりと負けるはずがないと、わたしの信じるレーシングチームのあり方が、ペンスキーの振る舞いへの理解をどうしても拒否するのだ。
 
 速さを弄ぶだけで浪費するペンスキー。そういった形容がふさわしいのであれば、彼らは自分自身の信頼はもちろん、他のチームを、ひいてはインディカーをも裏切りかねない振る舞いをしている。わたしがニューガーデンのチェッカー・フラッグに戸惑いばかりを感じ、心躍らなかったのは、幸運に支配された優勝だったからではなく、強敵を「倒す」ことさえ許されず、ただ茫漠と運転しているだけでたどりつける結果だったからだ。偶然に28〜29周目にピットインを選択していれば、勝つのはニューガーデンでなくてだれでもよかった。トニー・カナーンでも、グレアム・レイホールでも、佐藤琢磨でも。トロントがそういう結果論的にしか語れないレースになってしまったのは、圧倒的な速さでもって偶然を唯一拒否できた存在であるはずのペンスキーが、偶然の順位に従ったままレースに抗わなかったからにほかならない。もし速いペンスキーが追い立ててくれたのなら、結果がどうあれニューガーデンのレースには美しい1頁が記されたことだろう。だがそれは期待すべくもなく、彼はただの1位としてレースを終えざるをえなかった。今のペンスキーは支配者である自らの責任を果たそうとしない。選手権で1−2−4位を占める彼らは、しかしその怠惰によってレースの優勝者からさえ熱量を奪ってしまおうとしている。

無聊を慰めるチップ・ガナッシの逆転はシーズンの結末を示唆するだろうか

【2015.6.6】
インディカー・シリーズ第9戦 テキサス・ファイアストン600
 
 
 フルコース・コーションはたった一度きり、それもどこに落ちていたかついぞ映像として見ることのできなかった「デブリ」によるもので、車が壊れることもだれか事故に見舞われることもなかった――インディアナポリス500の練習走行で何度も危機的な事故があったことを思えば、それ自体は喜ばしい結果というべきだが――テキサスの一夜についてだれかを突っつけば、およそ退屈以外の感想は出てこないかもしれない。もちろん、日が残っている時間帯にすべてを支配しつくしていると見えたチーム・ペンスキーが日没という侘しさの象徴を引き受けたかのように黄昏すぎから勢いを失い、代わってチップ・ガナッシのエース2人が夜の闇を押しのけていくまでに移り変わっていくレースの過程は非常に興味深いものだったとは言える。ポールポジションのウィル・パワーと、それを相手に抵抗さえ許さず先頭を奪い、途中までは3秒近いリードを築いていたシモン・パジェノーの2人が見舞われた無惨と形容していいほどの没落は、刻一刻と変化するオーバルコースに合わせて完璧な全開走行を続けることがいかに途方もない道のりであることを示したものであった。ただ気温と路面温度の低下に伴って生じたその変化はあまりにもおもむろで、レースは本当にいつの間にか、気づいたときにはすでにスコット・ディクソンのものになっており、速さが移り変わった劇的な瞬間などといった興奮も訪れはしなかったのだ。

 勝敗を直接的に分かつことになったのは、どうやら空気との付き合いかただったようである。チップ・ガナッシはペンスキーに比べて10%ダウンフォースを強めており、その差が集団を制して順位を上げられるだけの速さを生んだのみならず、日没後の気候ともよく合ってレースを率いる要因となった。バンク角のきついテキサスのコースで、インサイド/アウトサイド問わず他を圧倒したチップ・ガナッシのコーナリングスピードは、おそらく抵抗が増した分だけ失ったはずの直線の速さを十分以上に補い、周回を重ねるたびに後続との差を拡げて、周回遅れを作るたびにレースから波瀾の芽をひとつずつ摘んでいく。対照的にペンスキーは、まさにパジェノーがその象徴となったわけだが、ほんのわずかな失敗によって集団に埋没した(これはオーバルにおいてままあることだが)だけでチャンピオンチームとしての顔を失い、もがきながら沈んでいったのだった。

 チップ・ガナッシとペンスキー、勝負を左右した2チームの特性をよく示唆する場面として、たとえば103周目ターン1での攻防に注目してもよい。唯一のフルコース・コーションが明けて7周ほど、まだ隊列がばらける前の時間帯に、トニー・カナーンがたったひとつのコーナーの中で瞬く間に3台を抜き去ったのだ。首位を走るファン=パブロ・モントーヤはひどいアンダーステアのためにインサイドへ下りていくことができず、エリオ・カストロネベスもおなじ動きで外へと孕んでいく。その2台にディクソンが付き合ってしまってぽっかりとあいた空間に、カナーンは苦もなく飛び込んでいった。さらに一度はスロットルを戻さざるをえなかったディクソンも、バックストレートですぐさま態勢を立て直して右へ左へラインを変えて2台のペンスキーを抜き去り、翻ってモントーヤは一瞬で空気の渦に翻弄されてわずか1周のうちに5位まで突き落とされたのだった。あまりに対照的な場面だったわけである。集団の乱れた空気に曝されても躊躇なくステアリングを切り込める空力特性はペンスキーが単独走行の速さの代償として捨て去ったものであり、そこに強みを見出していたからこそ、カナーンとディクソンのこの日唯一ともいえる無聊を慰める跳躍はもたらされたのだ。こうした一回きりの象徴的な交錯を見るだけで、テキサスでどこより速いのがペンスキーであっても、その速さは勝利を手繰り寄せはしないだろうと想像するのは自然だったろう。仮想の速さはしばしば現実を前にしたとき脆いものだとモータースポーツのファンなら知っている。ほとんど全開で走り続けるオーバルならなおさらだ。ペンスキーは速く走れるだけで「戦えない」のは間違いなく、まして夜の帳が下りるのにしたがって単独でも十分以上の速さを手に入れたディクソンとカナーンに対抗する術など持っているはずがなかった。実際、この103周目から248周目のゴールまで、2人は11周しか先頭を譲らなかった。当然、ピットストップのタイミングがそうさせたに過ぎない。

 この際、明暗を分けた両チームでどちらの方法が正しかったかと問うことはさしたる意味を持たないだろう。表彰台に登った3人が全員「トップ・フリック」と呼ばれるウイングを装着していたことは偶然のはずがないが、気象条件とセッティングが合致するかはどれだけデータを集めて分析したところで結局走ってみなければわからない部分もある。最終的に優勝することになったディクソンは序盤にひどく悩まされたアンダーステアから一転、日没後のバランスは類を見ないほど素晴らしくなったといい、それは逆にいえば前半の約60周を圧倒的な速さで逃げていたパジェノーが後続に影も踏ませない圧勝を見せつける可能性もありえたことを意味している。叶わなかったのは多分に偶然としか言いようのないものだったろう。その観点からすれば今回の結果をチップ・ガナッシの強さに還元することはおそらく正しくない。ペンスキーが落としてしまった物をチップ・ガナッシが拾い上げたのがテキサスにふさわしい形容だったと、日が出ているうちの勢力図を思い出せば素直にそう思う。

 しかしまた、落ちてきた勝機をだれにも渡すことなく自分のものにする隙のなさに関しては、まぎれもなくチップ・ガナッシの、あるいは「アイスマン」と渾名されるほど沈着なディクソンの強さというべきものである。思い出されるのは2013年だ。シーズン序盤の不調からとうてい選手権争いに絡むとは思えなかったディクソンは、7月の3連勝でエリオ・カストロネベスに肉薄すると、いくつかの不運やペンスキーの妨害をはねのけて逆転の王座へと辿りついた。一昨年も決して完全に速い車ではなく、しばしば「気付いたら勝っている」と評されるように、一人レースの盲点を知悉して上位をたぐり寄せるような展開でポイントをものにしていったのだ。今年もどうやら似たような雰囲気になりつつある。全体を俯瞰すればペンスキーが速いのはたしかなように見えるのに、シーズンも半分を終えたいま2度の勝利を手にし、涼しい顔でランキングの首位から40点差のところにいる。

 もちろん、この印象自体がすでにバイアスに冒されているといわれればそのとおりかもしれない。2勝と最多ラップリード3回を獲得しているドライバーに対する評価ではないと数字を見せられれば、たしかに頷くしかないように思われる。なのだが、ペンスキー勢の8回に対してわずか1度の(それも練習走行で続発した事故のためにルールに大きく手を入れられた末の)ポールポジションという事実は、ディクソンがまったくレースを支配するほどの立場にないことを感じさせるには十分でもある。支配の欠落と不釣り合いな良績。2013年に現れたディクソンの特質がそうだったとするなら、いまもまた彼は自分らしく居場所を確保している。

 開幕戦でモントーヤとパワーが接触してあわやレースを失いかけたとき、チャンピオンを狙えるドライバーを4人も集めたペンスキーの速さは自壊する可能性を含んだものになりうるだろうと予感されたものだ。優れた才能の相克は、たとえ表面的な確執を生じさせなくとも、互いを摩耗させるだろうと。その直感がいまの状況を予言していたとまでいう気はないが、しかしペンスキーの脆さとチップ・ガナッシの不気味さがわずかながらに顔を覗かせているのもたしかなようだ。次のトロントの予選が終わり、またしてもペンスキー勢は予選3番手までを独占した。だからといって簡単なレースになるだろうと言い切っては、レースが終わってから後悔してしまうことになっても不思議はない。

語りえぬことに口を開いてもろくなことにはならない

【2015.5.30-31】
インディカー・シリーズ第7-8戦 デュアル・イン・デトロイト
 
 
 最大の祭典であるインディアナポリス500マイルから5日空いただけでもう次の決勝が始まるのだから、関係者はもちろん、現地からようやく火曜日の夜に帰宅した日本人ならずとも少しは落ち着けと言いたくなろう。天も似たような気持ちだったのかどうか、インディ500には遠慮した雨雲を、大きな利息をつけてデトロイトに引き連れ、混乱に満ちた週末を演出してしまうのだった。土曜日のレース1、日曜日のレース2ともに突きつけられた赤旗は、レースを唯一断ち切る旗としての暴力によって、今季ここまでかろうじて認められてきたシリーズの一貫性を奪い去っていった。このブログはレースにおいて複雑に絡みながらも始まりから終わりまで一本につながる線を見出し、テーマとして取り上げて記していきたいと考えているが、気まぐれな空模様や凹凸だらけの路面、そして数人のドライバーの不躾な振る舞いと楽観的すぎる(あるいは悲観的すぎる)チームの判断は、デトロイトの週末からあらゆる関連性を切り離し、すべての事象に因果のある説明を与えようとする態度を拒否するようだった。なぜレース1でカルロス・ムニョスが勝ち、レース2をセバスチャン・ブルデーが制することになったのか、もちろん原因を分析して答えることは可能だが、その原因に至る道筋にはまったく理解が及ばない。はたして土曜日の始まりには、インディ500がそうであったように、結局チーム・ペンスキーのための、付け加えればこの都市を地元とするシボレーのための催しになるとしか思えなかったダブルヘッダーは、わたしの頭にいくつもの疑問符を残したまま過ぎていこうとしている。

 もちろん、起きた事象のひとつひとつは喜ばしく受け止められるものだ。ムニョスの初優勝はそのデビューのころからの走りを見ているかぎりむしろ遅すぎると言ってよいほどだし、ブルデーもまた、昨年挙げた7年ぶりの優勝が一度きりの夢ではなかったことを結果として示してみせた。佐藤琢磨のレース2はレース1での不運を帳消しにして余りあるもので、いまのホンダ勢でもっとも優れるグレアム・レイホールの速さが条件を問わないことも見えはする。だが土日の2日間で良績を残したドライバーたちを見ていても、彼らの間に有機的な繋がりを見てとるのができないのが正直なところだ。ムニョスと、レース1で2位だったマルコ・アンドレッティの間で順位が争われた形跡はなく、ブルデーと佐藤が直接切り結んだのは、赤旗で完全に振り出しへと戻されたレースが再スタートされたその一瞬だけで、それまではお互いにまるで関係のない戦いをしていたのではなかったか。わたしはいまもって、なぜ佐藤が2位になれたのか理解しきれていない。いや、もちろん「理由」はわかる。ホンダエンジンがやや優れていた燃費と、それが最大限に生きるようなイエロー・コーションが多発した展開、そして何より、レイホールにブロッキングペナルティを犯させるほど追い込めた単純な速さ。すべてがよく噛み合ったことで、佐藤は今季最上位となる表彰台に登ったとはいえるのだろう。だがその結末を過程の中に探し求めることがほとんどできないのだ。たとえば10周目、20周目、30周目……と区切ったとき、それぞれカーナンバー14が2位に入ることに賭け金を投じられたかといえば、結果を知っている今でさえ自信がない。50周目の5位でもまだ懐疑的で、60周目に3番手へと浮上したことでようやく数ドル出してもいいかと思えるくらいだが、この時点さえ、上位陣の燃料残量には明らかに不安があった。それなのに、終わってみればこうである。意味のない――価値がないということではなく、語りを受け付けないということ――レースだったと結論するのは情けないかぎりだが、そう思わざるをえなくなっている。

 思えば、レース序盤の雨によって濡れた路面がすっかり乾いていたレース1の31周目、フルコース・コーションの最中にチップ・ガナッシが「雨が降りそうだ」というあまりに漠然とした期待に基いてエースのスコット・ディクソンをピットへと呼び戻しレインタイヤを履かせる愚を犯したところから、このダブルヘッダーは語られることを拒否しはじめていたのだろう。たしかにヘリコプターからの空撮映像ではすぐ近くで大きな雨雲が強い雨を降らせているのがありありと見て取れ、その雨が10分もしないうちにサーキットを襲うだろうとも予想されていたのだが、だとしてもまだ路面が濡れる前から雨に合わせたタイヤを履くような脳天気な真似が、レースに歓迎されるはずはなかった。

 だから他のチームも、この2年前の王者の愚策を鼻で笑っておけばよかったのである。少なくとも雨が降っていない現在をとりあえず信用して、リスタート後のディクソンのラップタイムを1周か2周でも見てから判断を下せばよかった。だがディクソンに輪をかけて不思議なことに、ほとんどのチームはグリーンフラッグが振られた次の34周目にピットインを行い、落ちてきてもいない雨のためにタイヤを交換して戦おうとした。ディクソンと違ってもはやコーションラップで作業の遅れを帳消しにすることさえできないのだから、実際に雨が降るまで待てばいいものを、雪崩を打ってみながみなレインタイヤを求めたのだ。なにをどう解釈しようと不可解だとしか言いようがない。雨雲の到来は予想より少し遅れ、レインタイヤ勢はドライタイヤのままコースに残った車よりも1周あたり10秒も遅い惨状を呈することになるが、予想どおり雨雲が来たところでアンドレッティ・オートスポートの1位と2位が入れ替わる程度の違いにしかならなかったことだろう。「雨が来そうだ」という楽観的な見込みと、「チップ・ガナッシが替えた」という出し抜かれるかもしれない悲観的な態度が合わさって生じたのだろうか、34周目の大量ピットインでレースはあっさりと瓦解してしまったのだ。賭けに失敗して負け馬になったはずのディクソンが、にもかかわらず周囲までその負け馬に乗ってきたために5位でゴールした皮肉は、このレース1に対して過程を問うことの無意味さを知らしめていよう。そして、そんな浮ついた意識が結局日曜日のレース2まで続いて、語れない週末が終わってしまったのだ。チップ・ガナッシとペンスキーがそれぞれチームメイト同士の事故によって車を失うなど、およそ考えられる事態ではなかった。

 選手権上位を占めるペンスキー勢のほとんどが沈み、選手権下位のドライバーたちが表彰台に並んだこのデトロイトは、このままいけばシーズンの流れにほとんど影響を与えないだろう。たいていの場合あのレースでああしておけばという後悔が選手権には生じるものだが、秋になって振り返ったとしても、デトロイトのことはほとんど記憶から引き出せないはずだ。波乱のレースは、波乱だったゆえに選手権に波を立てず終わった。語りえないレースは、選手権をも語りえなくしてしまうといったところだろうか。

Back Home Again ではないけれど(インディ500現地観戦記)

【2015.5.24】
インディカー・シリーズ第6戦 第99回インディアナポリス500マイル
 
 
 いまこの文章を日本に帰国する飛行機の中で書き出している、などと少々格好をつけて綴れようとは、去年ライアン・ハンター=レイがインディアナポリス500を制したときには露ほども考えていなかった。3泊の米国滞在を終えた体は芯から疲れが滲み出てくるようで、まだ12時間以上続く飛行中のほとんどのあいだ、この狭いエコノミークラスの座席で眠ってしまうだろう。機内ですばらしい2日間の体験を最後まで書き上げることはきっとできないが、ともかくわたしは、少なくない量を記してきたインディカーの記録に、空の上で1ページを加えられる幸運に恵まれたのだ。

 事の起こりは、昨年、ツイッターでお互いにフォローしているクル氏@Sdk0815がインディ500を観にいくことを決め、実際にフォンタナへ赴いてMAVTV500を観戦した顛末をツイートしている際、話に反応したわたしに対してふと「行かないんですか」とうながしたことだったかと思う(そのあたり、時期の記憶は定かでない)。正直なところ以前から迷いはあり、行きたい気持ちは大きい一方で、英語を読むことはできても書くのはまったくおぼつかず、聞く・話すなど絶望的なわたしの語学力ではぶじに旅ができるかどうかさえ不安だったし、まして米国は未経験の国で、何が起きるか想像もつかなかった。せめて妻が一緒ならとも考えたが、夫の比でなく多忙な彼女を1週間近く海外に連れ出すなど不可能なのもわかっていた。

 それでも行こうと決意してしまったのは、というと葛藤の末になにかを乗り越え、決定的な理由を導き出したような印象を与えるが、実際のところ決め手などまったくなかった。強いて言えばそれがインディ500だったからというほかない。あるいは自分の青春に対する責任でもあっただろうか。テレビで偶然にもCARTを見て米国のレースに心を打たれたのはまだ中学生だった20年も前のことだ。以来、興味の対象を同じくする友人はひとりとしてあらわれず、だれともそれについて語らえぬまま10代を過ごし、グレッグ・ムーアの事故死にひっそりと涙を流す少年時代を送ったのである(F1が趣味の親友も、残念ながらインディ/チャンプカーまでは守備範囲外だった。当時ツイッターがあったらどんなによかっただろう)。ブリックヤードの愛称で知られ、米国レースの故郷であり、中心であり、象徴であるインディアナポリス・モーター・スピードウェイは、だからわたしの青春が向かう先でもあった。かの地に対する憧憬はつねにあり、それがオンラインでしか会話を交わしたことのない人に誘われたことで急に具体的な形をとったというわけなのだろう。やがてなんとなく、自然に、自分は5月になればそこにいるのだろうと納得していた。具体的なだれかを見たいわけでもない。佐藤琢磨の応援を目的としようというのでもない。ただわたしにとって、インディ500の中にいるという事実が必要だったのである。

 心を決めてしまえばあとは動くだけで、IMSのウェブサイトからターン4を正面に見るスタンドの一角の席を買い、苦労しながら航空券とホテルを手配した。日本からインディアナポリスへの直行便など当然なく、乗り継ぎも効率が悪かったためにシカゴ・オヘア国際空港でレンタカーを予約し、府中の運転免許試験場へ出向いて国際免許証まで取る。帰国する日の朝にインディアナポリスからシカゴまで走らなければならないので、チェックアウトの時間を確認するためホテルにメールで問い合わせもした。そうこうしているうちに2015年のインディカー・シリーズが開幕すると足早に開催は重ねられ、気づけば5月の半ばを迎えていたのだった。まだ不安を抱えて緊張しながら日本を発ったのは5月22日の金曜日だ。天気予報はレース当日に強い雨が降る可能性が高いことを示していた。

***

 それにしても、シカゴに着いて早々、レンタカーの受付待ちで図らずも遭遇したのが武藤英紀なのだから、この旅は最初から幸運だったのだろう。かつてインディカーに参戦し、今回のインディ500を訪ねようとしていた――主目的がどういうものかは知らなかったが――彼は、移動中という完全に個人的な時間であったにもかかわらず、不躾に声をかけた日本人に快く応じて右手を差し出し、あまつさえ一人でインディアナポリスまで運転しようとしているのを見て取って「気をつけてください」と道中の無事を祈ってくれた。正直なところ突然の遭遇に舞い上がって気の利いたことはなにも言えなかった(GAORAの解説に来ると雨でレースが延期になることを引き合いに「降らせないでくださいね、武藤さん」などと冗談を飛ばせればよかった、ということもないだろうが)のだが、異国の地で尊敬の対象であるレーシングドライバーと言葉を交わせたことで、旅の前途に光が射したように思えたものだ。

 翌朝、インディアナポリスまでの道のりはひたすら退屈で、米国らしくところどころコンクリートで舗装されたがたがたの州間高速道路65号線を、借り受けたシボレー・クルーズに乗って70mphで抑揚なく走っているうちになんの物語もなく着いた。道の途中で標準時間帯が変わって気づくとiPhoneの時計は1時間進んでおり、高速道路を降りるころには正午前になっている。投げ捨てたくなるほどわかりにくいカーナビを無視し、中心部に向けて東バーモント通りを走るとユニバーシティ・パークの周囲が閉鎖されており、騎馬隊の姿が見えてパレードが行われる雰囲気に満ちていた。もともと時間的にパレードを見るのは難しいと思って下調べせずインディアナポリス入りしたので、この遭遇もまた大きな幸運だった。交通規制にしたがって北デラウェア通りを右に曲がると1回15ドルの民間駐車場(イベントに際して近所の民家が土地の時間貸しに走るのはどの国も変わらないのだろう)にと折よく空きがあったのですぐさま車を止め、人波をかき分けて――と言ってみるものの、想像したほど混んでいたわけではない――公園の中へと歩を進める。

 地元の高校生と思しき若者たちの出し物や、ブラスバンドの行進、スポンサーの露出がひととおり過ぎると、翌日のスターティンググリッドの逆順で、シボレー・カマロのコンバーチブルに乗った出場ドライバーたちがゆっくりと公園周りの道路を回りはじめる。24番手スタートの佐藤琢磨が目の前を通る際、すでに恋しくなりつつある日本語で声援を送る。唇が「ありがとう」と動いたのがわかる。予選6列目の紹介で歓声が大きくなるのは昨年優勝したハンター=レイが登場したからだ。ファン=パブロ・モントーヤもなかなか人気が高い。4列目にはエド・カーペンターが妻子とともに手を振りながら近づいてくる。昨年と一昨年のポールシッターに対して敬意を込めて名前を呼んだところ、なぜかとびきり美人な奥さんのほうがThank you.と目を合わせてくれた。3列目のジョセフ・ニューガーデンの認知度は初優勝したばかりにもかかわらずまだかならずしも高くないようだが、これまで書いてきたようにわたしにとってはもっとも敬愛するドライバーで、周囲の薄い反応に焦れて名前を叫びながら親指を立てると、同じようにこちらに親指を向けてくる。2列目スタートのドライバーとしてエリオ・カストロネベスとトニー・カナーンのブラジル人ふたりが現れると同時にひときわ大きな歓声が上がった。

 直後のことだ。現役を退いてからの長い時間を示すふくよかな体を青いシャツで包んだ老人が、同じようにカマロに乗って拍手に応えながら近づいてくる。その銀髪と、皺の刻まれた穏やかな笑顔を認めて、わたしは信じられない気持ちで居住まいを正し、直立した。アル・アンサーがいる。手を伸ばせば届く距離にいる。その事実だけで涙が出そうになり、思わず手で口を覆った。もちろんいま75歳になった老人の現役時代を知っているわけではない。彼が最後にインディ500の決勝を走ったのは、わたしが見はじめる少し前の1993年のことだ。優勝となればそこからさらに6年を遡らなければならない。だがその名声は息子の活躍を通じて子供だったわたしの心にも深く刻み込まれており、長じて多少なりとも歴史に詳しくなれば偉大な経歴に対し畏敬の念を当然に抱きもする。40歳でCART-インディカーに移って通算4勝、チャンピオン2回。それ以前からずっと参戦していたインディ500では最多となる4度優勝した3人のうちの1人であり、連覇を経験した5人のうちの1人であり、その両方を達成した史上唯一のドライバーである。29年間で通算4356周を走行し、うち644周のラップリードはいまだだれにも塗り替えられていない記録として輝く。434周で現役最多のスコット・ディクソンがもう1レースまるまるリードしてもまだ届かないほどの記録だ。そのアル・アンサーが、憧れの地でもっとも成功した、雲の上の存在だった伝説が、目の前でにこやかに手を振っている。表情が読み取れるほど近くにいる。インディアナポリスに来たのだという確信が広がって、わたしは手を叩いた。雲ひとつない快晴の下、それから最前列に並ぶシモン・パジェノーとウィル・パワー、そしてポールシッターのディクソンがやってくるまで、ずっと拍手を続けた。

 夕方になって市内のホテルにチェックインするとき、同い年くらいと思しきスタッフに日本から来て英語はあまり得意ではないんだというと、彼はぜんぜん問題ないと笑い、重ねて500かいと尋ねてくる。もちろんと答え、米国に来るのもはじめてだけど、すばらしい経験をしていると付け加えた途端、そりゃあいい、歓迎するよと両手を広げる。そのやりとりを隣で聞いていた白髪の翁がこっちを見てウインクし、俺は43回目だ、よく来たなと右手を上げた。すばらしい、信じられない、とわたしはその手のひらに自分の手を打ち付けてハイタッチを交わす。彼は楽しんで、と高らかに言い、友人と連れ立って外へ出て行った。部屋に入るとようやく緊張が解けて思わず眠りそうになるが、クルさんと夕食をともにする約束を昼間にしている。iPhoneを取り出してツイッターを起動し、ダイレクトメールで到着した旨を告げる。

 日本ではオンラインでしかやりとりしたことのない日本人同士が、米国の、それもさほど大きくない町ではじめて会うというのも不思議なものだが、少し年上のクルさんは普段のつぶやきから想像していたとおりの物腰柔らかい紳士(と旅の終わりに本人にそうメールすると彼はただのおっさんですと笑うのだったが)で、中心部のレストランでやたら量の多いクリスピーチキンとハンバーガーにふたりとも若干辟易しつつ、翌日の展望や昔のレースの思い出から、佐藤琢磨への期待、米国について、仕事についての話まで途切れることなく盛り上がる。会う前は初対面の人といったいどう話せばいいものかと緊張していたのに、おなじ趣味とは強いものだ。クルさんはまだIMSでF1アメリカGPが開催されていたころに見に来たことがあるというが、そのときとは雰囲気がまるで違うらしい。やはりインディ500に来ているのである。ふたりの心配はなにより天気だが、予報は当初よりちょうど一日ずれて、雨は月曜日からになるだろうと変化していた。

***

 ありがたいことにクルさんがホテルまで車で迎えに来てくれて、いよいよIMSへ向かおうかという日曜日の午前8時前、しかし空はどんよりと曇っていた。予想どおりの大渋滞にはまり、1時間で1マイルしか進まない車列のなかで悶々としているうちに、降水確率0%の予想はあっさりと外れ、ついに雨が降ってくる。ワイパーを動かさなければならないほどの降りで、これが続けば当然レースなどできようはずがないが(いつかのパワーみたいにならなきゃいいけどと両手の中指を立てる仕草を車内で真似てふたり笑ったのだが、見咎められて誤解される可能性を考えればこれはけっこう危ない真似だった気がする)、祈るように検索して雨雲レーダーを見つけると雲の塊は頭上にあるそのひとつだけで、西の方はなにも映っていない。実際、なかなか近づいてこないサーキット上空は雲が切れかけていて、開催を危うくするほどの雨にはなりそうもなく、安堵する。

 サーキットの前まで来ても駐車場まではまだ遠く、渋滞の列はとぎれない。交通整理のスタッフに渡された地図ではかなりの迂回を求められている。先に降りて博物館の見学や土産の物色などをしてくださいというクルさんの言葉に、悪いと思いながらも甘えさせてもらい、博物館に近い南のゲートから入場した。午前9時15分、とうとうこの時が来る。地下通路をくぐって足を踏み入れたIMSのインフィールドに立ち尽くすと、もう言葉は出てこなかった。目の前の博物館の建物はところどころに錆びが浮いているなど案外古びていて、入り口のガラス扉など少し白く焼け濁っている。もちろん自動ドアなんていいものはついていない。その正面には星条旗とレーシングフラッグが整然と掲揚されている。向かって右から黄、黒、赤(この2つは使われないでほしいものだ)、チェッカー、青、白、緑。振り返るとオーバルコースに沿って広がるスタンドが、少しずつ青さを取り戻しつつある空にむかって伸びている。雲は急激な速さで北東へ向かって流れ、日差しが強くなってきていた。風が強い。列に並んで博物館に入り、受付で8ドル支払う。どこにも入館料が書いておらず、聞くまで値段がわからないのは米国らしいのかどうか。しばし歴史に身を沈め、2011年にダン・ウェルドンが優勝したときの車に追悼して外に出た。ウェルドンはその年の最終戦で事故によって亡くなっている。

 上には上がいるもので、博物館を出てから40分かけてようやく着いた席の左隣に座っていた婦人とちょっとした自己紹介を交わした後に、自分ははじめて来たんだけどと水を向けてみたところ、なんと56回目の観戦だという。半世紀以上、それこそ昨日拝むように見つめたアル・アンサーも、おなじく4度の優勝を誇るA.J.フォイトも、マルコ・アンドレッティの祖父であるマリオも、彼女の歴史の中で扱えてしまうということだ。グレートだのエクセレントだのと思い浮かぶかぎりの賛辞を口にして握手してもらい、会話を続ける。日本でもインディカーは人気なの? 彼女が尋ねている内容はなんとかわかる。率直に言って、あまり知られてないと思う。でも熱狂的なファンはいる。佐藤琢磨が走っているおかげかもしれない。あなたもやっぱり佐藤の応援に? それもないわけじゃないけど、とわたしはたどたどしく返事をして、20年前にはじめて日本のテレビでインディカーを観てマイケル・アンドレッティを好きになったことや、ずっとここに来たいと思い続けていたことをどうにか伝える。彼女は頷きながら下手な英語を理解しようと努め、最後にわたしがMy dream has come true today.と告げると、それはとても素敵な日よ、とハグしてくれる。やりとりが聞こえていたのか、前の席の男性が振り返ってハイタッチを求めてきた。と、小気味よい音とともにわたしと手を合わせた彼は隣に座る「Mrs. 56th」の顔を見て驚き、去年も会ったのを覚えていないかと興奮気味に質しはじめる。何十万と観客がいる中で信じがたいことだが、毎年来ていればそういう偶然も起こるのだろう。ふたりが盛り上がり、会話の主役から退いたわたしは厳かな気持ちでオーバルコースを見渡す。ターン3から目の前のターン4、ホームストレート。遠くに聳えるコントロールタワー「パゴダ」は仏塔の意味が示すとおり日本風の建築だと博物館の映像で説明されていた。小さく佇む順位表示塔の向こうには、昨年決着の場となったターン1が霞んでいる。やがてペースカーの運転を担当するNASCARの伝説ジェフ・ゴードンが登場した。会場が揺れるとともにドライバー紹介が始まり、全員が立ち上がって声援を送る。

 最初の組にライアン・ブリスコーが現れたと思ったら、Mrs. 56thが妙にはしゃいでいる。レース中も指差し確認しながらなにかをチェックしているから思い切ってだれを探しているのか訊いてみたら新聞を指してブリスコーがどうなっているか知りたいと言うのだった。どうやら贔屓のようで、金色の車が前を通るたびに右手を挙げている。たしかにオーバルレースで観客席にいると状況把握は難しいから、iPhoneでライブ・タイミングを開いて見せ、今21位で、ジェームズ・ジェイクスとジャック・ホークスワースの間を走っている、悪くないペースだと教えると満面の笑みで感謝され、ようやくこの旅でなにか一つ返せたような気になる。彼女は新聞を片時も離さず、リタイヤしたドライバーにいちいちバツ印をつけながらレースと真剣に対峙していて、56回の重みを垣間見る。

 24番グリッドの佐藤の名が呼ばれてふたたび前の男性とハイタッチし、健闘を願う。彼は1周目に佐藤とセージ・カラムが衝突した際にも振り返って「カラムがドアを閉めやがった」(「やがった」と書くのは翻訳の暴力かもしれないがそう聞こえたのだ)と憤慨し、レース中はずっとラジオを聞きながら、事故の影響で周回遅れになっていた佐藤が何度目かのフルコース・コーションを利用していよいよ最終盤にリードラップを取り戻そうとしていたとき、Sato is back to lead lap. Hes very fast! と親指を立てた。最初はこちらが日本人だから寄り添ってくれているのかと思っていたところ、その喜びようを見るにどうやら彼自身が佐藤のファンだったらしい。佐藤のレース自体は女神に微笑まれず終わってしまったが、巡り合わせばかりは仕方のないことだろう。カラムとの事故にも言いたいことはもちろんあるものの、3周遅れの32位から13位まで順位を上げた努力は讃えられるべきに違いない。中南米系の顔立ちをした右隣の席の男性が、モントーヤが紹介されるとなにが気に入らないのか小さくブーイングの声を上げる。彼はレース後憮然とした表情で席を立ち、勝者だけに許される牛乳を飲むモントーヤの映像に目もくれず出口に向かって歩を進めることになるわけだ。昨日のパレードと同様に一番人気はカナーンで、名前の発表とともに大歓声が巻き起こった。レースでもオーバーテイクを成功させるたびにみんなが右手を上げて歓喜を表している。2時間半ほど後、残念ながらターン4でセイファーウォールの餌食となり、ちょうどわたしがいる場所の目の前で止まってしまうことになるのだが、彼は車を降りても変わらずヒーローで、盛大な拍手に包まれレースから去るのだった。

 グリーン・フラッグは間近だ。ディクソンまで紹介が済んでしばらくすると陸軍関係者のスピーチがあり、フローレンス・ヘンダーソンが「God bless America」を歌い上げて、翌日の戦没将兵追悼記念日に向けた式典となる。異国――かつて戦争をした、現在の同盟国――の兵士たちに敬意を払うべく、帽子を脱ぐ。司教らしい人の話はなにを言っているのか半分もわからなかったが、追悼の礼くらいはわきまえているつもりだ。このころには雨の心配どころか強すぎる日差しに難儀するほどで、事実帰国して風呂にはいると皮膚が大いにしみた。場内アナウンスが聞こえて、これから国歌独唱があり、ターン3の方角から航空機がフライバイするというが、実際にA-10サンダーボルトが飛来してきたのはわたしの真上、ターン4方面からだった。

 そして、もしかするとレースよりも待ち望んだ瞬間がやって来る。スタートコマンド直前に歌われる「Back Home Again in Indiana」の調べが耳に届いて、わたしは涙を堪えられない。引退したジム・ネイバースに代わって登場したコーラスグループ「ストレイト・ノー・チェイサー」のア・カペラ・アレンジに合わせて旋律を口ずさむのは難しかったが、それでも唇を動かしていると、Mrs. 56thがわたしの背中をぽんぽんと叩く。back homeではない。againでもない。ウォバッシュ川を照らす月明かりを夢に見ることもできない。だがいまこうして、インディアナに、憧憬のブリックヤードに、20年を経て辿りついたのだ。「Then I long for my Indiana home」と歌い終え、拍手の中で目元を拭うわたしのI’m glad to be here.という言葉に、彼女は本当によかったわと笑いかける。スタートコマンドのために年老いたマリ・ハルマン・ジョージが現れた。もうすぐエンジンに火が入り、99回目のインディ500が始まろうとしている。
 
 
 
【謝辞】
本文中にあるとおり、今回の旅は「クル」さん@Sdk0815にきっかけを頂戴して(ご本人いわく「焚き付けて」)実現し、また現地でもはじめて米国を訪れるわたしを気にかけていただき、ホテルからサーキットへの移動をはじめたいへんお世話になりました。もちろんご本人には直接お礼を申し上げましたが、この場であらためて感謝の意を述べたいと思います。書いたようにツイッター上で素敵な人柄を忍ばせる氏は、実際にお会いしても印象が変わることのないすばらしい方でした。ほんとうにありがとうございました。