ヴィクトリー・レーンへ招かれるために

【2022.5.29】
インディカー・シリーズ第6戦 第106回インディアナポリス500

(インディアナポリス・モーター・スピードウェイ)

インディアナポリス500マイル――インディ500。その名の響きすら耳から胸奥へと甘美に吸い込まれていく、世界でもっとも偉大なレースに優勝しようとすれば、いったい何を揃えなければならないというのだろう。周囲を圧する図抜けた資質、戦いに赴くための弛みない準備、周囲をも巻き込んで邁進する無限の情熱、恐れを振り払い右足のスロットルペダルを踏み抜く勇気と、しかしけっして死地へは飛び込まない冷静な判断力……もちろん重要だ。これらのうちどれが欠けても、きっと最初にチェッカー・フラッグを受けることは叶わない。だが、と同時に、年を重ねてインディ500を見るという経験がひとつずつ増えるたびにこうも思う。これらのすべてを、いやさらにもっと思いつくかぎりのあらゆる要素を並べてみたところで、結局このすばらしいレースを勝とうとするなどできるはずがないのだと。速さも、強さも、緻密さも、環境も、運さえも、尽くすことのできる人事は全部、33しかないスターティング・グリッドに着き、500マイルをよりよく走るためのたんなる条件にすぎない。その先、世界で唯一の牛乳瓶に手を触れるには、レースのほうが振り向いて手招きしてくれるのを待つ以外に仕方がない。

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断続的な雨に展望を見失う

【2022.5.14】
インディカー・シリーズ第5戦

GMR GP(インディアナポリス・モーター・スピードウェイ・ロードコース)

その日わたしはスポーツカートの耐久レースに出場するため明け方には家を出る必要があり、後ろ髪を引かれつつもちょうど同じ時間に始まるGMR GPの同時観戦は諦めなければならなかった。日曜日の未明にふたつの予定が重なってしまうのだからモータースポーツを愛好する生活もなかなか厄介なものではあるが、ともかくそんな事情で戦況の情報をいっさい仕入れないままオートパラダイス御殿場に着くと、レース前のスターティング・グリッド上で筋金入りのインディカーマニアである知人と顔を合わせることになるわけである。わたしは予選8位を記録し、彼らのチームは5位だったが、タイム差は0.05秒くらいしかなかったはずだ。お互いインディカーについて直接話せる数少ない人物が会えば、自然と「裏」で行われているレースの話題に引き寄せられる。すると、ミカイル・アレシンの使用済みレーシングスーツを持っているほど見事な筋金が入っているその彼は、少しだけ見てから来たんですけどと前置きして一言、ぐだぐだでしたよ、とだけ教えてくれた。

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The Josef Newgarden Move

【2022.5.1】
インディカー・シリーズ第4戦

ホンダ・インディGPオブ・アラバマ
(バーバー・モータースポーツ・パーク)

ごくごく私的な、だれにも共有されえない感情にすぎないこととして、昨年のアラバマをいまだに口惜しく思ったりもするのである。あのレースにジョセフ・ニューガーデンはいなかった。レース開始からほんの数十秒も経っていなかったころ、1周目のターン4を立ち上がった瞬間にバランスを崩してスピンを喫したのだ。スタート直後の混戦のさなか、コースを横断しながら回る車を後続が避けられるはずもなく、最初に追突したコルトン・ハータをはじめ数台を巻き込む多重事故の引き金となって、ニューガーデンのレースは終わった。ピンボールのように何度も弾き飛ばされて、進行方向とは逆向きに止まったとき、すでにフロントウイングが落ち、サスペンションアームは折れて右前輪がひしゃげてつぶれていただろうか。不規則に四方をぶつけられた証拠に対角の左後輪もパンクしていて、すでにレースカーとしての機能を喪失したコクピットの中で、カメラに捉えられた事故の主はヘルメットのバイザーを上げて自分の無事を知らせると、それからステアリングを2度か3度回した。もちろん車は息絶えていて、走り出すことはない。

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運動の断片を集めてレースに還元しない

【2022.4.8】
インディカー・シリーズ第3戦

アキュラGP・オブ・ロングビーチ(ロングビーチ市街地コース)

すばらしいレースだった、などと口にすればいかにも陳腐で、まったく何も語らないに等しいだろう。しかし事実、そうだったと思わずにいられないときはある。昨季の最終戦からまた春へと戻ってきたロングビーチは、美しい運動を詩的な断片としてそこかしこにちりばめ、儚い、感傷的ですらある印象とともにチェッカー・フラッグのときを告げた。日本では未明から、すっかり朝を迎えようとする時間に、そんなレースを見ていたのだ。断片。断片だったと書いてみて気づく。断片だけがあった。去年、チャンピオン決定という強固で具体的な物語の舞台となった場所で、そんな散文的な文脈から切り離された純粋な運動の一節だけがひとつひとつ漂っていたようだった。

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最後かもしれないテキサスに、スコット・マクロクリンが刻んだ履歴

【2022.3.20】
インディカー・シリーズ第2戦

XPEL 375(テキサス・モーター・スピードウェイ)

当然、レースが始まる前からとっくにわかりきった成り行きだったのである。スコット・マクロクリンは、先の開幕戦でインディカーにたしかな足跡を残したばかりだった。驚くべき予選アタックでポール・ポジションを獲得し、スタート直後から後続を突き放して、フルコース・コーションにも囚われることなく、最後には追いすがる昨季のチャンピオンを周到に振り払って逃げ切ってみせる。マクロクリンが過ごしたセント・ピーターズバーグの顛末に非の打ちどころがあるはずもなかった。感嘆に満ちた初優勝は、つい半年前まで抱いていた彼への凡庸な、いや凡庸と言うにさえ及ばない印象をたったひとつのレースであらためさせた。観客の立場で眺めていると、こんなふうにレーシングドライバーが一夜にしてそのありかたを激変させる瞬間があるように思える。それは当たり前かもしれない。われわれは彼らを2週間に1度だかの頻度でしか行われないレースで不連続に知る以外なく、レースにおいてさえほとんどの場面で彼らは視界の外にいる。萌芽を見る機会に恵まれたとしてもたいてい偶然で、多くの場合、花が開いてはじめてその存在に気付かされるのだ。唐突な邂逅に至るまでにあった成長の過程を観客は知る由もない。ただ、過程を知らないからこそなおさら、開花に立ち会ったときに経てきた時間を想像し、そこにはすでに才能が充溢していると信じるべきであるだろう。豹変を侮ってはならない。

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cf. St. Pete, 2022

【2022.2.27】
インディカー・シリーズ第1戦

ファイアストンGPオブ・セント・ピーターズバーグ
(セント・ピーターズバーグ市街地コース)

ここでインディカーについて書くことはいつも、現在と呼ばれる頂上から四方に広がる麓へと手を差し伸べて過去を引き寄せ、両者を接続する営みと不可分だった。いま行われている最中のレースをただひとつの出来事として捉えるのではなく、そこに至るまでの過程によって語ろうとする試みに、筆を弄してきた気がする。もう5年近く前になるか、年間参戦の第一線から退いたエリオ・カストロネベスに向かって届くはずのない恋文を認めたのはその最たるものだったろうし、あるいはセント・ピーターズバーグについて、ほとんど手癖のようにウィル・パワーのポール・ポジションと、予選と対照的に順位を下げてしまう決勝について連ねてきたのだった。過去を幾度と参照し、過去の出来事を繰り返しながら気づけば10年近く、モータースポーツの発展にとって無益な、有用な情報もなければ体系的ですらない、たんなる随想をただ書いている。職業ジャーナリストや評論家ではない一介の観客に、いま起こっている事象を正しい情報へ翻訳して読者に供するのは困難で、過去を繰り返さなければこれだけの、「長い」と言って憚るまい期間は続けられなかったはずだ。追憶ばかりを頼みとするのは少々感傷的で、現在に対する不誠実な瞞着であるかもしれないが、それが現在を照らすときもあろうと、なかば無理やりに信じるところもある。

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アレックス・パロウが2010年代に別れを告げる

【2021.9.26】
インディカー・シリーズ第16戦
アキュラ・グランプリ・オブ・ロングビーチ
(ロングビーチ市街地コース)

何が5年なものかと毒づきたくもなる。言うまでもなく、自分のあまりの見識のなさに呆れ果ててのことだ。昨年7月に行われたロード・アメリカ・レース1の後、ライアン・ハンター=レイを2度にわたる鮮烈なパッシングで退け、デビューわずか3戦目にして3位表彰台を得た期待の新人に対して、「ターン1の先に5年後のインディカーを見る」と題した文章を書いたのだった。5年。まったく浅はか極まるではないか。冗談ではなかった。5年どころかたった1季のうちに展望は現実へと投射され、その対象はいま、もうすでに頂上に立っている。アレックス・パロウ、チップ・ガナッシ・レーシング所属、2021年インディカー・シリーズ・チャンピオン。去年の夏からすべてが変わろうなんて、想像もつかなかった。不見識とは想像力の欠如だ。

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コルトン・ハータはまだ未来を見ている

【2021.9.19】
インディカー・シリーズ第15戦
ファイアストン・グランプリ・オブ・モントレー
(ウェザーテック・レースウェイ・ラグナ・セカ)

長くレースを見ていると、レーシングドライバーに対して抱いていた当初の印象を書き換えられる場面に出合うことがある。ドライバーの性質は一貫して同じなのではなく、ふとした瞬間に、まったく別の顔を見せて大きく飛躍していく。そうした変化の過程を見届けられるのは、観客として喜ばしいものだ。かつて事故の多さを批判されていた佐藤琢磨は、戦略的で冷静なレースぶりでインディアナポリス500を2度制し、最後尾から逆転優勝を挙げる離れ業も2回披露した。かつてオーバルコースが最大の弱点と言われていたウィル・パワーは、その評を覆すレースを少しずつ積み重ね、ついにはインディ500に辿り着いた。ドライバーの変貌は形となって現れる。誰某はつまらないミスをする。誰某は傍若無人で強引。誰某はリスクを嫌いすぎる、誰某は接触事故が多い、誰某はオーバルレースが苦手……そういった数々の思い込みを人々から引き剥がし、真実の姿を正しく浮かび上がらせるレースが、優れたドライバーの経歴には必ず潜んでいる。

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F1財務規則を翻訳してみた

 

2021 F1財務規則日本語仮訳 ver.1.2.1(PDF)

2021.11.24 ver.1.2.1公開/付録に付番、訳註の追加、訳文・誤字等の修正(1.2.0公開省略)

2021.10.3 ver.1.1.1公開/訳文・誤字等の修正
2021.9.30 ver.1.1公開/付録の翻訳を追加、対訳化、訳文・誤字等の修正
2021.9.17 ver.1.0公開/本文仮訳

 

今季から導入され、マックス・フェルスタッペンがイギリスGPで大きな事故に見舞われたときなどに話題となった「コストキャップ」=予算制限。その根拠となるのが Formula 1 Financial Regulations『F1財務規則』ですが、日本語版がいまだ出ておらず、なかなか詳細をつかめないため、いっそのことと思い翻訳しました(上記リンク)。著作権の問題が気になり公開についてFIAに問い合わせてみたものの、しょせん個人の悲しさで返事があるわけもないため勝手に出すことにします。万が一見つかって怒られたら引っ込めます。

英語は不得手、会計も素人につき訳文の正確性はいっさい保証しません。あくまで参考程度にご覧ください。誤訳・誤字のご指摘、専門用語についてのご助言はいつでも歓迎しております。

ターン1の破局が選手権をもねじる

【2021.9.12】
インディカー・シリーズ第14戦

グランプリ・オブ・ポートランド
(ポートランド・インターナショナル・レースウェイ)

スタート直後、右、左と曲がる狭いシケインのターン1に向かって二十数台が殺到するなか、3番手スタートのスコット・ディクソンが1台を交わし、続けてアレックス・パロウのインを覗いた。ポール・ポジションからスタートしていたパロウは、ややリスクを冒すような動きを見せるチームメイトに対して空間を譲らず車を寄せて相手を右に追いやっていく。その帰結としてコースとピットレーン出口を区切る白線を跨いだディクソンは行き場を失ってわずかに後退し、すると後ろからはよく似た彩色のフェリックス・ローゼンクヴィストが勢いよく迫ってきているところで、目の前の減速に反応が遅れ、慌てたようなブレーキングとともに左へ避けた。あるいは軽く追突したのかディクソンの後輪から妙な白煙が一瞬だけ上がったものの、大事には至らずやり過ごす。そうして逃げたローゼンクヴィストはパロウもすんでのところで回避して、そのままコーナーへ進入することなく退避地帯へ進んでいった。

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