ジェンソン・バトンが惜別のタイヤスモークを上げる

【2012.11.25】
F1世界選手権 第20戦ブラジルGP
 
 
 ライブタイミングによれば6周終了時点でのマクラーレンのジェンソン・バトンとチームメイトのルイス・ハミルトンとの差は0.0秒で、2人はサイド・バイ・サイドでコントロールラインを通過していた。国際映像がロマン・グロジャンの愚鈍な単独クラッシュの場面からターン1を正面から捉えるカメラに切り替わってすぐのことだ。インサイドを守ったハミルトンが丁寧なブレーキングから早めにターンインすると、外からかぶせる素振りをちらりと見せたバトンのマシンの前輪から一瞬遅れてぱっとタイヤスモークが上がり、少し挙動を乱しながら後に続いた。長いストレートを生かして並びかけたもののインを押さえられてオーバーテイクには至らない、というレースによくある一コマであった。

 繊細で、絹布のような印象を与えるドライビングスタイルはF1の世界においてもバトンに随一のものだが、しかしレースでの彼は意外なほどブレーキングの厳しいドライバーでもある。巡航状態では徹底して角のとれたぬめるようなライン取りでタイヤに負担をかけない走りを見せているのに、ひとたびポジションを争う場面になればいきなりモードが切り替わって、深いブレーキングを多用して相手から主導権を奪おうとする鋭さが立ち現れてくる。そういうときのバトンを観察すると、バトル相手を絶対に危険へと追い込まない紳士でありながら、自らのマシンに対しては横暴に支配下に置こうとする二面性を見ることができて楽しい。とくに中高速から低速へのフルブレーキング、それもたとえばサーキット・オブ・ジ・アメリカズのターン15や、バーレーンインターナショナルサーキットのターン9~10、あるいは鈴鹿サーキットのヘアピンのように、横Gを残しながら車速を大きく落としていく難しいコーナーで、彼はしばしばタイヤを激しくロックアップさせ、路面との摩擦によって白煙を巻き起こす。その量が時としてだれのものよりも多いのは、バトンがステディなだけにとどまるドライバーではない何よりの証拠だ。

 タイヤのロックは、マシンが止まるための物理的な限界を超えていることを示すものだ。それは破綻の一歩手前であり、見る者に次なる危機を予見させて緊張を強いる。だがバトンは、どれだけマシンが白煙に包まれてもコーナーのクリッピングポイントに向けてマシンを正確に止めきって、午後の紅茶の温度が少しばかり高かった程度のことだとばかり事もなげに加速していってしまう。瀬戸際のバトルの最中にロックアップしようとも、何も変わらずエイペックスをなぞっていく様には、破綻の予感などいささかも抱かせない。速さに優れるチームメイトが派手なタイヤスモークとともにオーバーシュートや接触事故を起こし、少なくないポイントを失ってきたのとは対照的だ。グリッド上にこれほど「止められる」ドライバーは見当たらない。バトンはコーナーの「頂点」を知悉している。どんなときも頂点を外さない質の高さによって、彼は2009年のシーズンを制し、マクラーレンに移ってもハミルトンをチャンピオンシップで上回った唯一のドライバーとなったのだった。

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 マクラーレンは来季、長らくチームに君臨していたハミルトンをメルセデスへと送り出し、大きく舵を切ることになった。2人のイギリス人王者を並べたドライバー構成は、ここ2年ハミルトンのパフォーマンスがやや低迷したこともあって結局タイトルをもたらすことはなかったが、両者が良好であり続けたことで組織が正常に機能し、どんな苦境でもシーズン後半までには開発を間に合わせて優勝争いに加わるこのチームらしい強さを発揮し続けた。ドライバー同士の亀裂に苦心する歴史を重ねてきたマクラーレンにとって、強いバトンと速いハミルトンがお互いを尊重しながらコンビを組んだ3年間は十分に幸せな時期だったといえる。新しく迎える若いセルジオ・ペレスは、速さは見せるものの不用意なミスも多く、まだトップチームを牽引するだけの資質を示してはいない。バトンとペレスで作られるチームが強靭なものになるかは、まだまったくわからない。しばらくマクラーレンはバトンのチームになるだろう。2人の王者が並び立っていた3年間に比べれば、やはり少し寂しいことである。

 雨のブラジルGPで、もはやチャンピオンシップから解放された2人は、別れを惜しむように何度かラインを交錯させ、オーバーテイクし合った。最後の時間は55周目にハミルトンがニコ・ヒュルケンベルクのスピンに巻き込まれてフロントサスペンションを壊すまで重ねられたが、中でもわたしをいちばん感傷的にさせたのが、7周目のターン1――いわゆるエス・ド・セナへの進入だった。最終コーナーから続く上り坂がコントロールラインの先で峠を迎え、下りながらブレーキングポイントに差しかかる。重力が摩擦力に抵抗する難しいコーナーの入口で、リードするハミルトンに外から並びかけたバトンがブレーキングを敢行すると、タイヤがロックアップして白煙が舞い上がり、一瞬だけフロントのグリップを失う仕草を見せて、しかしそうなることが当たり前のように抜ききれなかったハミルトンについてイン側のクリッピングポイントにある縁石を踏み、右、左へと切り返していった。

 バトンは、いつだって止めてみせる。泡沫のように終わった7周目ターン1の攻防は、並びかけはしたもののインを押さえられてオーバーテイクに至らないというレースのよくある一コマではあった。だがこちら側の感傷という勝手なフィルターを通してみると、それはハミルトンと3年にわたって分け合っていたエースを一人で背負う資格を証明し、ハミルトンを送り出す餞別のフルブレーキングにさえ見えてしまったりもするのである。

たった一瞬の勇気が人をチャンピオンにする

【2012.9.15】
インディカー・シリーズ最終戦:フォンタナ・MAVTV500
 
 
 ライアン・ハンター=レイがチャンピオンに足る資格を持っていた時間は、そう長くはなかった。ウィル・パワーに対し17点ビハインドで迎えた最終戦の残り21周までシリーズ逆転には届かないポジションを走っていたという意味でもそうだし、シーズン全体で見てもポイントリーダーでいた期間は短く、スピードに恵まれてもいなかった。それこそ第8戦から第10戦にかけて3連勝を記して首位に立ったときすら、どちらかといえば幸運によってもたらされた、いわば盛夏の前の一時的な綾であって、彼がダン・ウェルドンの遺作DW12で争われる2012年を制するなどちょっと考えにくいと思われたものだった。

 結局、シーズンが終盤に差し掛かると、速さと信頼性を兼ね備えたウィル・パワーが、ピットの位置やイエローコーションの不運に泣かされながらも3戦連続で表彰台を守ってリーダーの座を奪い返し、初めてのタイトルに地歩を固めつつあった。第14戦のボルティモアでハンター=レイが4勝目をあげ、ペンスキーが天候を読みきれずにタイヤ選択を誤りパワーを6位に終わらせたことで数字上は希望の残るポイント差で最終戦にもつれたとはいえ、シリーズが覆るほどの見通しは感じられない、というのがわたしの正直な感想だった。この勝利にしたところで、雨の中スリックタイヤで踏みとどまる作戦が的中し――もちろんスリッピーな路面を破綻なく走り切った技術は賞賛されなければならない――、イエロー・コーション明けのリスタートであわやジャンプスタートに見えたところを不問に付され、はてはオーバースピードでターン1に突き刺さりかけた(DHLのステッカーを貼ったマシンで、DHLの看板に!)ところをあやうく逃れた末のもので、逆転の予感を抱かせるには物足りなかったのである。

 ハンター=レイが、積み重ねたポイントに比して強い印象をもたらさなかったのは故ないことではない。予選で上位に来ることは少なく、決勝もスピードより戦略で……いやもっと言えば運によってライバルを押さえ込んだレースがしばしばあった。象徴的なのは第10戦トロントで、ルーティンをずらして早めに給油を行った直後にフルコースコーションとなり、アンドレッティ・オートスポートのマシンは労せずして先頭に立ったのである。たとえば、ハンター=レイは2012年のシーズンにおいて153周しかラップリードを記録していない。少なすぎるというわけでもないが、しかし419周をリードしたスコット・ディクソンの4割にも満たず、タイトルを争ったウィル・パワーの283周に対して半分強でしかなく、チームメイトのエリオ・カストロネベスの237周に負け、シリーズ17位だったアレックス・タグリアーニの93周の160%に過ぎなかった。何より自らが完了した1722周のうち8.8%しかリードしていない。レースに展開の綾というものがあるのなら、それに都合よく助けられがちだったのがハンター=レイで、裏切られつづけたのがパワーだった、と言ってもそう的を外してはいないだろう。

無作法もいささか目についた。第13戦ソノマでは終盤のリスタート明けにタグリアーニの無遠慮で軽忽なアタックに撃墜されてポジションを失い、レース後相手のピットに乗り込んでさんざん口論を繰り広げたが、何のことはない、ロングビーチでまったくおなじことをして佐藤琢磨をスピンに追いやったのはハンター=レイ自身なのだ。だから我慢して口をつぐめというのは飛躍だとしても、なるほど天野雅彦の言うとおり王者にふさわしい振る舞いには見えはしない。こういった行状を振り返れば、最終戦に持ち越されたチャンピオン争いは、しかし17という点差ほど白熱しそうもなかった。

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 オート・クラブ・スピードウェイのトラック上でウィル・パワーがライアン・ハンター=レイと争っていたポジションは13番手で、チャンピオンの行方とはまったく無縁だった。56周目に、オーバルを得意とはしないパワーがインサイドで見られる典型のようなスナップスピンでセイファー・ウォールの餌食となってもなお、その道連れをすんでのところで逃れたハンター=レイに課された使命は6位の確保であり、彼の示していたスピードはその実現の困難を物語っていた。事実この日はじめて導入されたフルコース・コーションまでのあいだに、ハンター=レイはトップからおよそ半周、30秒の遅れを背負っていたのである。

 ハンター=レイにとって幸運があったとすれば、この日のフルコース・コーションがおおむね望ましい頃合いに導入されたことだった。パワーがクラッシュした56周目にはじまり、74周目、108周目といったタイミングは、ほとんどすべてのチームにステイアウトではなくコーション中の給油を選択させた。それはハンター=レイ自身にとっても例外ではなく、突飛なギャンブルに出て失敗するリスクを考慮せずともイエロー・フラッグのたびに失ったギャップをリセットすることができたのである。パワーが一時的にレースに復帰してポイントを積んだことで逆転王者の条件はさらに厳しく5位へとかわったが、それでもなんとか、周回遅れという決定的な終戦を逃れることはできていたのだった。

 ただ、何度リスタートがかかっても、ハンター=レイが戦闘力を発揮して王者への渇望を見せる瞬間は来なかった。182周目にライアン・ブリスコーがオーバーステアによって壁に向かっていったとき、8位を走っていたハンター=レイはまたも20秒のビハインドを背負っており、スピードに欠けることは明らかだった。ピット作業によって6位に上がったにもかかわらず、190周目のリスタートでやはり加速と同時に前のマシンからあっという間に引き離された上に後方から4人のドライバーに脅かされて、順位を失うのは時間の問題に思えた。隊列のラインがインとアウトに大きく分かれ、また合流することを繰り返す独特の見栄えのバトルが展開されるこのハイスピードオーバルのレースをテレビで見ながら、わたしはまだハンター=レイがシーズンを制することをまったく信じることができなかった。

 アンドレッティ・オートスポートのスピードに逆転の光明を見出すことは不可能なはずだった。190周目、グリーン・フラッグと同時にハイサイドのトニー・カナーンから執拗にアタックを仕掛けられ、ハンター=レイは中央にラインを取った。グラハム・レイホールにドラフティングに入られる。チームメイトのマルコ・アンドレッティにインサイドを押さえられた。前では佐藤琢磨とアレックス・タグリアーニが接触せんばかりの接近戦を繰り広げている。行き場はなかった。激しいバトルのさなかに放り込まれて、ハンター=レイは5台に囲まれた。集団の中で、劣勢は明らかだった。

 だが彼は、この日初めてチャンピオンのための戦いを見せる。乱気流の中心という極めて危険な位置を走らされ、次の瞬間フロントのダウンフォースが抜けてすべてを失ってもまったく不思議はなかった。それでもなお、ハンター=レイは自分の空間を譲らなかった。最大のリスクに晒される場所で、臆することなくスロットルを開け続けたのである。トップ5に通用するスピードはまだなかったが、前だけを見つめて6位を守り続けた。ダーティー・エアーを浴びながらも後続を紙一重でしのぎ続けるその姿は、とても感動的な、今年のモータースポーツでも白眉となる美しい苦闘だった。

 そして勇気は報われる。229周目、3位を走っていたタグリアーニのホンダエンジンが白煙を吐き出した。ハンター=レイはとうとう、2012年の権利を得たのだった。

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 ウィル・パワーは、無力な最終戦によってチャンピオンを失った。2年前と同様にリーダーとしてスタート・コマンドの声を聞いたにもかかわらず、やはり2年前と同様に自らの愚かなミスによってキャリアの頂点を台無しにした。レースで有利な立場にいるドライバーがしばしば犯しがちなように、ボルティモアでコンサバティブになりすぎ、フォンタナで戦いに加わる気力を持てなかった。リアを潰したマシンから降り、ピットへと戻ってきた彼の顔からはすでに勇気が失われていた。堂々とリスクを受け入れ、それを乗り越えたハンター=レイに対し、パワーが喫したスピンはあまりに繊細にすぎたのだ。彼は、モータースポーツが紡ぐ因果の報いを正当に受けたのだろう。トラックに留まらないドライバーに勝利が与えられることなど、決してありはしない。

 結局、ライアン・ハンター=レイがシリーズをリードしていたのは、夏の1月ほどと、あとはシーズン最後の20周だけのことである。だが失うものが生まれた最後の20周で、彼はすべてのリスクを追い求めて、乗り越えた。235周目のリスタートで佐藤琢磨にバトルを仕掛けてハイサイドに張りつく。インサイドで事故が起これば巻き込まれかねないラインを恐れずに走り続け、スピードでは敵わないはずだった佐藤を制した。240周目、カナーンのクラッシュとともに突如示された赤旗中断も、もう関係無かった。残り8周、ふたたび佐藤琢磨との壮絶なバトルに身を委ね、彼は堂々たるチャンピオンの資質を示した。喪失に恐れを抱かず、勇気とともに前だけを見据えるドライバーにこそ、勝者の資格がある。2012年最後の20周で、ハンター=レイはたしかにチャンピオンとして生まれたのである。250周目のことだ。まるでインディ500のファイナルラップを再現するかのように、インサイドの佐藤琢磨がリアを振り出してスピンに陥った。タイヤスモークとともにレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングのマシンがセイファー・ウォールへ突き進んでいく。間近で起こった最後の危機も、全開のスロットルでかいくぐった。ファイナルラップで起きた混乱の中、レースの決着をチェッカーより一足先に告げる最後のイエロー・フラッグが振られたそのとき、ライアン・ハンター=レイは、もう4位を走っていたのだった。

佐藤琢磨が戻ってきた表彰台

【2012.4.29】
インディカー・シリーズ第4戦:サンパウロ・インディ300
 
 
 26周目リスタートの攻防は1回のブレーキングで決着した。並走するウィル・パワーに加速のタイミングを外されて引き離された佐藤琢磨は、しかしターン1へのブレーキングポイントをどう見ても10mは奥にとり、慎重に止まろうとしたパワーをコーナー進入前に交わしきってレースのリーダーとなった。サイド・バイ・サイドにすら持ちこませない圧巻のオーバーテイクを完成させた瞬間、日本のモータースポーツ年表の2011年5月2日欄にひとつの項目が書き加えられるのだと確信されたはずだった。日曜のレースが中断されて翌日に延期されるほどの大雨に見舞われたサンパウロで、佐藤琢磨はだれよりも速く、勇敢で、勝利に値するドライビングを遂行していた。

 だが終わってみれば、このサンパウロは日本人にとっても「数あるインディカー・シリーズのなかの1レース」にすぎなくなる。リーダーとして迎えた次のフルコース・コーションで、チームはステイアウトを選択した。レースは規定周回まで届かず、2時間で終了することが確定していたから、チェッカーフラッグまでにもう一度コーションがあれば燃料は足りるという算段だった。それはリアルタイムでは妥当な判断にも思えたが、自分の力以外の状況変化に身を委ねるのはやはり最速のリーダーが採るべき戦術ではなかった。ギャンブルはレースに歓迎されず、あとは記憶のとおりである。あまりの混乱に辟易してみんな暴れる気が失せたのか、そろそろおとなしいドライバーしかコースに残っていなかったのか、残り30分ほどのレースは一転して上品に進行してしまう。グリーン・フラッグ・コンディションが途切れないままついに燃料は底をついて佐藤はピットインを余儀なくされ、追撃を再開したものの最後はオリオール・セルビアへのアタックを誤ってターン1をクリアできずにポジションを8位にまで落としたのだった。2日続けての徹夜で寝不足を通りこしていた日本のモータースポーツファンの意識はこうして睡魔とともに遠ざかることになる。年表に載せるつもりだった「日本人初のインディカー・シリーズ優勝」の項は、クリップボードに仮留めされたまま、ターン1の赤くペイントされたランオフエリアのどこかに置きっぱなしになった。

 あれから1年が経って、去年を再現する雨が今にも落ちてきそうなサンパウロの68周目、白と青に塗り分けられたレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングのマシンが、並走するダリオ・フランキッティとエリオ・カストロネベス2台のインサイドに飛びこんだ。それが佐藤琢磨だと気づくのにほんのすこしだけ時間を要したのは、狭い市街地の2列リスタートでトップ争いに目が向いていただけでなく、このカラーリングと彼を結びつける回路がまだじゅうぶんにできあがっていなかったからだ。深いグリーンに彩られたロータス・カラーのマシンを降り、ホンダエンジンを追うようにRLLへ移籍した佐藤は、前戦ロングビーチのファイナルラップでライアン・ハンター=レイのペナルティ行為によって弾き出されるまで3位を走行したのを除いてほとんどまともにレースをできていなかったし、悪い流れを引きずるようにこの大会でもトラブルによって予選を走れず、最後尾スタートに甘んじていた。まだ何かを成し遂げてはおらず、サンパウロも成し遂げるレースとは思っていなかったから、ポジションにふさわしい目配りをしていなかったのである。クレバーなピット戦略で5位にまで浮上し、さらなる上位の可能性を期待させるほどのスピードもたしかに持っていたものの、すくなくともこのフルコース・コーションが解除される直前の時点ではおおよそのレースで1人か2人くらいはいる「奇襲とそこそこの幸運によって上位に食いこんだドライバー」にすぎなかった。

 なるほど肝に銘じておくべきだろう。リスタートのグリーン・フラッグはいつだって佐藤琢磨のために振られるのだ。フランキッティとカストロネベスというリーグきっての名手どうしがターン1を奪い合おうとしているさらにその懐を、彼は勇敢に、深く深くえぐっていった。レコードラインを外れたタイヤはしかしロックすることなく路面を掴み、ドライバーのコントロールを受け止めてシケインの縁石をしなやかにかすめる。窮屈な左をクリアし右に切り返していくマシンが加速をはじめたときには、キャリア計40勝の2人から表彰台を奪い取るオーバーテイクが完了していた。

 佐藤琢磨はピーキーであることを好むドライバーである。ピーキーなマシンのドライブを好む、というのではない。彼自身が一心不乱に「ピーク」を見つめ、一気に登りつめようとして――あまりの急角度にしばしば転落する、そうであることにレーシングドライバーとしての意思をすべてささげているように思えるということである。彼のレースはしばしば情熱的であり、それはインサイドへの指向に象徴される。伸るか反るか、彼のレース人生を彩るのはつねにインへと切れこむ一瞬の情動だ。たとえばシケインでヤルノ・トゥルーリとクラッシュした2005年のF1日本GP、たとえばF1における日本人最高位に手が届きかけた2004年ヨーロッパGPターン1でのルーベンス・バリチェロとの接触、またたとえばF1時代唯一の表彰台となった同年アメリカGPで見せた、バックストレートエンドでのオリビエ・パニスに対するパッシング。間違っても「高速コーナーの手前で揺さぶりをかけてラインの自由度を奪い、外からかぶせて抜き去る」というような芸当が、実際のところはともかく、イメージされるようなドライバーではない。インサイドこそが佐藤琢磨の生きる場所であり、死に場所でもある。インへインへと飛びこんでいくから、自然とコーナリング角度は「急」になる。「ピーキー」なのだ。

 ピークは情動の頂点であり、また危険の頂点でもある。生き抜いてみればこれほど心震えるものもないが、モータースポーツは残酷に繊細だ。わずかでも越えてしまえば、その先の切り立った崖下にはリタイアの黒い淵が待ち構えている。その危ういピークを求め続けるのが佐藤琢磨のドライビングだと言っていい。以前に書いたこととも重なるが、佐藤琢磨はインサイドというピークに生きることで周囲の魂を揺さぶってドライバーとしてのキャリアを形成し、インサイドというピークで死ぬことで周囲の信頼を集めきれずにそのキャリアを不安定なものにしてきた。RLLの規模のチームでステアリングを握るいまの姿は、生き死にを繰り返してきた彼にとって自然な帰結でもある。最高の果実を求めて恐れず死地に赴く生き方はチャンピオンに切りかかっていくチームにこそふさわしい。はたして佐藤琢磨はそれを遂げた。フランキッティとカストロネベスは彼の深いブレーキングになすすべなく、重要なポジションを明け渡した。

 1年前の忘れものを探しに来てみれば、少しばかり褪せていたのかもしれない。3位に上がった後の残り5周で前を行くパワーやハンター=レイと渡り合えるスピードは出せず、昨年失ったものを取り返すチャンスは来なかった。4年ぶりにフルシーズンを戦うRLLは勇気を得ただろうが、もちろんこの結果ひとつでトラブルの多いチームの問題が解決するわけでも、また佐藤がミスのないドライバーに生まれ変わるわけでもないし、次こそは優勝だと息巻くほど楽観的になれるわけでもない。われわれ日本のファンが佐藤琢磨に成してほしいと願ったこと、彼自身が成したいと決意したことは、まだ達成されていない。

 だがそれでもなお、2012年4月29日のサンパウロ、68周目のターン1は記憶される必要があるだろう。われわれは、佐藤琢磨に夢を見て、F1から去ってもなお見捨てられなかった、その根源を知っている。だからあのパッシングが琢磨なのだと言いきることができる——ピークを追い求めるピーキーな琢磨だったからこそ、あの瞬間が訪れたのだと確信できるのだ。真に最高の結果ではなかったかもしれないが、これはたしかにひとつの到達点にちがいない。ひとつのコーナーで見せた1度きりの運動に、佐藤琢磨のキャリアすべてが凝縮されたのだから。

 F1のあのときから8年を経て、彼は表彰台へ戻った。シャンパンの栓の抜きかたは、どうやら忘れていたようだった。

ルイス・ハミルトンの失敗

 そろそろ美しい閉幕への道程を考えるべき時期に差し掛かった今シーズンのF1で評価を下げてしまったドライバーといえばフェラーリのフェリペ・マッサと、それから何と言ってもマクラーレンのルイス・ハミルトンだろう。今季から導入されたピレリタイヤによるグリップ低下でシーズン前から苦戦が予想されたマッサについてはあえて言うまでもないが、コーナーへの鋭い飛びこみが持ち味のハミルトンも、そのドライビングスタイルによってタイヤライフのコントロールに難を抱え、思いもかけない不調に陥ってしまった。

 シーズン中盤以降、顕著になったのはハンガリーGPのころからだが、コンビ2年目を迎えたチームメイトのジェンソン・バトンのパフォーマンスが伸長していくのと軌を一にしてハミルトンのミスが目立つようになった。予選ではつねにフロントローを争うほどの速さを持ちながら、レースでは一転、危険なアクションや接触を――とくにマッサとは何度も――繰り返し、しばしば「investigation」の文字情報を提供するハミルトンは、タイヤマネージメント以前の問題として、メンタルに大きなトラブルを抱えて平静さをどこかに置き去りにしてしまったようだった。もとよりアクシデントの少ないドライバーというわけではなかったが、アグレッシヴの度が過ぎての失敗が多かったこれまでに対し、今季後半のミスはただの焦りから引き起こされたようにしか見えないものばかりだ。

 ハミルトンの焦燥の原因の一部がチームメイトのバトンだろう、という話はシンガポールGP採点記事のコメント欄で少しばかりした。ピレリタイヤの特性をよく理解して速く安定的なペースを刻み、いざバトルになってもコーナーを俯瞰しているかのように広い視野をもってリスクなく戦い抜くバトンをチームが信頼するようになり、結果を残すのに比例してハミルトンのミスは増えた。単純に推測すれば、これはやはりチームメイトに追いつめられているということだろう。バトンが高いパフォーマンスを発揮すると、ハミルトンはきまって低調に終わる。たとえばこんなデータを完全に偶然の結果と言いきれるだろうか。今季のマクラーレンは、バトンが11回、ハミルトンが6回表彰台に登っているが、「バトンが上位でのダブル表彰台」が一度もないのである(ハミルトン上位の場合は先日のアブダビを含め2度ある)。マシンが表彰台圏内の戦闘力を持っていても、ハミルトンは自分に主導権がないとその力を発揮できない状態にあるのかもしれない。バトンが2勝を含む5連続表彰台を獲得したRd.11ハンガリーGPからRd.15日本GPまでが典型だろう。わずか5戦で101ポイントを積み上げたバトンに対しハミルトンは4位2回5位2回の44ポイントに沈んだのだった。先のアブダビGPで週末通してバトンに優越し気楽に制したことさえ、彼の精神面の不安定さを逆説的に証明しているように思えてくる。

 もちろんチームメイトに圧倒されてフラストレーションに潰されそうになるというのは、第一義的にはドライバー自身が対応すべきことである。F1の世界で最初のライバルとなるのはまずチームメイトであり、それを制したドライバーだけがステップアップしてワールドチャンピオンへの挑戦権を手にできるという評価体系が不動のものとしてあるのだから、同僚が手強いと泣き言を言うのでは話にならない。しかしF1がチームスポーツであるかぎり、チームがドライバーというひとつの戦力のメンタルケアに腐心する必要があるのもまた当然のことだ。ドライバーの心身のコンディションについて、チームは責任を持つ立場にある。なのにどうも、マクラーレンがハミルトンのメンタルに関心を向けているようには思えない。速いドライバーとして彼を尊重するが、それ以上のフォローに踏みこむ気まではないのではないかと感じることが多いのだ。

 焦りがふくらんできているハミルトンにとっては不幸なことだが、いかにもマクラーレンにふさわしい話ではある。だいたいこのチームは、ドライバーの感情の揺れとかプライドの保ち方などといったおよそ人間的な心の動きの機微に対する興味が欠落しているように見受けられる。優れた空力パッケージのクルマにハイパワーのエンジンを載せればレースで勝つには十分だと考えていて、コクピットの中身のことはドーナツの輪っかほどにも気に留めていない――ようは、空っぽだって構いやしないのだ――節があるのだ。ハミルトンをエースとして遇そうとしながらそのチームメイトとしてセカンドに徹させるわけにはいかないバトンを迎える危険性は移籍当初から一部のメディアで言われていたが、その懸念は予想どおり当たった。そもそもドライバー選びの段階でチームは組織の歯車が円滑に回る絵を楽観的に空想しすぎたとも言える。ちょっと長くF1を見ている人なら得心する話だろう。マクラーレンは昔からそういう失敗をするチームなのだ。

 今のマクラーレンを磨き上げたのは疑いなく2年前まで現場の最高権力者として君臨したロン・デニスだが、彼はオフィスの床に塵のひとつでも落ちていることを許さないとか、ドリンクの持ち込みすら禁じるとか(これは記憶違いによる不当な非難かもしれないが彼のキャラクターをほんの少しでも知っていれば素直に受け入れられそうなので事の真偽は何ら問題ではない)、バカでかくていけ好かないモーターホームを広げてパドック裏のスペースを占領し他のチームからうまく顰蹙を買うことに情熱を燃やすとか、そういうことにはむやみに熱心なくせに、あるいはそういう方面にばかり完璧主義だったからなのか、ドライバー絡みでは失敗が多い。なにせクルーの顔よりも、彼が着ているシャツについたシミを消すことのほうが重要なマネージャー――と、これはさすがにジョークであって、彼はスタッフを非常に大事にする人物だった――のすることである。かつてはアイルトン・セナとアラン・プロストを両者ナンバーワン待遇で迎えた結果20年も経った今もって語り草となるほど両者の関係を見事にこじれさせて対応に苦慮し、キミ・ライコネンのチームメイトにファン=パブロ・モントーヤを当ててこの我の強いコロンビア人にF1を嫌忌させ、それにも凝りずついには温室育ちの秘蔵っ子ハミルトンとプライドの高いフェルナンド・アロンソのペアによってチームをわずか1年で破綻させた。どれも速さと強さを持つドライバーのコンビだったが、好意的に見ても完全な成功を収めたとは言えそうもない。

 理想的に見えるラインナップは個々に理想的であるがゆえに、得てしてうまくいかないものだ。最高のドライバーで組み上げるチームがかならずしも成功しないことは歴代チャンピオンの待遇が逆説的に物語っている。全盛期のミハエル・シューマッハはフェラーリで完全な独裁体制を敷いてルーベンス・バリチェロを従え、ミカ・ハッキネンとデビッド・クルサードやフェルナンド・アロンソとジャンカルロ・フィジケラの間には明らかな才能の差があった。ハミルトン本人にしてからが、アロンソと組んでいた年は明らかに最速マシンに乗りながらチームメイトとの戦争に疲れはててキミ・ライコネンにすんでのところで栄冠をかっさらわれ、ようやくチャンピオンとなったのは、今ロータスでようやく働き場を見つけた「Non-flying Finn」とコンビを組んだ、マシンとしては劣勢の年だった。ハミルトンの2007年と2008年はいかにも教訓的だ。07年は2つの才能がぶつかりあって消耗した挙げ句お互いのポイントを食いあって1点差でシーズンを失い、08年はエースに余裕ができた(かどうかはあのドライビングを思い出すと自信がないのだが)うえにポイントが片方に集中した結果1ポイント差でランキングリーダーとなった。近年ドライバーの力が拮抗したチームでのチャンピオンとなると昨季のセバスチャン・ベッテルくらいしか思い浮かばない。そのベッテルにしても、今季はウェバーを圧倒してナンバーワンの地位を確たるものにした。

 最速のマシンを製造するように最速のドライバーだけを追い求めることが成功に直結するわけではないと、たいていのレーシングチームはわかっているはずだ。シューマッハを長く擁したフェラーリなどはとくにそれを心得ているように見える。F1の、とくにトップチームの方法論としてドライバーの役割に差をつけることはもはや鉄則だ。では、苦い経験を他のどのチームよりも多く重ねて反省しなければならない当のマクラーレンが今、何をしているのか? チームカラーという言葉があるように、F1にかぎらず組織というものはどれだけ構成員が変わっても意外なほどその相貌を変化させないということなのだろう。ホンダ、ブラウンという歴史を経ている今のメルセデスは、かつての面影などどこにも残っていないにもかかわらず、川井一仁によればクルマの特性というかぎりなく物理的な面でなぜかホンダ時代の悪癖が残り、シューマッハなどは露骨にそれを嫌がっている。それを考えれば責任者が現場を退いた程度のことでチームはそう簡単に変わったりしないのだ。マクラーレンはせっかくハミルトンが揺るぎないエースの地位を得てチームを掌握したところで、おなじイギリス人チャンピオンのバトンをわざわざチームに迎え、軋轢の元を抱え込んだ。そして今季、案の定ハミルトンの不調は引き起こされたのである。今回に関しては2人の仲がよいこともあって表面的な確執こそないが、ラインナップに端を発する不調という意味では過去とそう違いない。

 マクラーレンのこの手の失敗は珍しくもないわけだが、その煽りを受けたハミルトン個人の問題に話を戻せば、彼の現状が2007年にアロンソとぶつかりあったころと決定的に違うのは、その背中に孤独を感じることだ。彼がロン・デニスに目を付けられ、マクラーレンによって下位カテゴリーから大事に育てられてきたことはだれもが知っている。ハミルトンとマクラーレンは一体でありその関係は揺るぎないもので、07年のハミルトンとアロンソは、速さという意味では互角――か、アロンソの証言を信じてチームでハミルトンが優遇されていたのだとすればドライバーとしてはアロンソが上回っていたか――でそれが確執の原因ともなったが、ハミルトンにすれば最終的にチームがかならず味方についてくれたし、事実チームが修復不可能になってどちらかが移籍しなければならなくなったとき、フェラーリへと去ったのはやはりアロンソの方だった。

 だがマクラーレンはイギリスのチームであり、新たに迎えたバトンはイギリス人のチャンピオンである。チームはスペイン人を冷遇したようにバトンを扱ったりはしない。スタートラインではまったく対等に、そしてシーズンが進んでどちらかにウェイトを置くべき段階になれば成績に応じて、きわめて正当に2人を遇することになる。きっかけはたぶんちょっとしたミス一つ、モナコでの接触だったり、雨のカナダでのスピンだったりしたのだろう。だがそのミスのためにバトンが優位に立ったとき、ハミルトンはこれまでのような自分だけに向けられる絶対的な庇護を失った。もはやチームは彼だけのものではなくなってしまった。客観的に見ればまっとうな対処なのだが、これまでのことを考えれば相対的にハミルトンの味方は減ってしまったも同然だ。断片的にしか伝わらないテレビの画面や雑誌での報道を通じてさえそれはなんとなく感じ取れるし、彼から漂う孤独感として表出し印象づけられたりするのだろう。

 マクラーレンは彼を見捨てているわけではない。事実ことあるごとに危険なアクションを繰り返すハミルトンについて、チームはそのたび擁護してきた。だがそれは外に向いたフォローであり、チームの中だけで見ればそれでもバトンより優先してもらえるといった優遇される雰囲気があるわけではないのだ。リソースが少しずつ上位のバトンへと傾いていくのをハミルトンは実感したりもするのだろう。彼にしてみれば、チームの関心が自分から離れていくというのは初めての経験で、それが当然のことだとはわからない。ハミルトンはたぶん、そのパフォーマンスにふさわしいレベルで扱われている。だがそれは、彼にとってはどうしようもなく寂しいことなのだ。

 ようするに、今のハミルトンは弟に親の興味が向いて拗ねている兄のようなものである。そういう面も含めて、ハミルトンが自分を育ててくれた親も同然のチームに対し甘えがちだというのはたぶん正しい。たしかにハミルトンを箱入り娘のように大事に育てすぎたのはマクラーレンだし、そもそもあらゆる性格のドライバーを総合的にマネージメントしなければならないのがチームというものではある。とはいえ結局のところ、ハミルトンが抱える甘えは彼自身の問題として解決しなければならないことだ。

 チームにおける全能感を失って、ハミルトンは落ち込んでしまった。シーズン序盤にトラブルやピット作業ミスでポイントを失いながら着実にパフォーマンスを上昇させてきたバトンとは対照的だ。チームを転々とし、幾度となく地位を築きあげてきたバトンの揺るぎない強さは今のハミルトンが望んでも手に入らないものだ。彼はいま陥っている内向きの問題を解決するための経験をほとんど持っていない。チームの関心が自分に向かないならばそうさせる努力をしなければならないが、その努力の源泉はまさにチームの関心であった。そうやってレースを戦ってきたのだ。卵と鶏、どちらが先かという話ではないが、テレビを通じて見るハミルトンの精神にはモチベーションのジレンマがしばしば覗く。

 幸いなことに、ハミルトンが依然としてナチュラルに速いドライバーであることに変わりはない。だがレーシングチームの一員として戦う強さならバトンが一枚も二枚も上をいく。それは多分に過ごしてきた人生の強度に根ざした力であり、一朝一夕に同じレベルに到達できるものではない。ハミルトンは今初めて、バトンが乗り越えてきた苦労の一部を知ったばかりなのだ。その差についてどう思い至り、考えるのか——今の苦悩の受け止め方によって、かつての史上最年少チャンピオンがこれから過ごす憂鬱の長さも変わってくるかもしれない。

The race must go on

【2011.10.16】
インディカー・シリーズ最終戦(中止):ラスベガス・インディカー・ワールド・チャンピオンシップ
 
 
 このブログでインディカー・シリーズについて書いたことは何度かある。たとえば昨年のインディ500で起こった危険なクラッシュから生還してロングビーチで歓喜の初勝利を挙げたマイク・コンウェイや、実力のわりにどうも不遇を託つことが多かったなかどんな脚本家も思いつかないようなストーリーでブリックヤードを制した彼を称えた記事だった。それを後から振り返ってみるとなんだか理由のありそうなことに見えてくるが、そういう脈絡のないものに対してありえなかった意味を見出そうとするのは人が犯しがちな悪い癖だ。偉大なドライバーがとつぜんいなくなってしまった、その覆せない事実をただ悲しむだけでいいはずなのに。

 2年続けてダリオ・フランキッティとウィル・パワーがタイトルの権利を賭けて臨んだラスベガスでのインディカー・シリーズ最終戦は、既報のとおり悲劇のうちに幕を降ろした。事故が起こった瞬間だけ見ればオーバルレースにありがちな2台の単純な接触で、たいていの場合は後続もなんとか急減速で難を逃れ、危ないながらもイエローコーションでレースを仕切り直して済むようなことのはずだった。そこで何が起こったのかいまもよくわからないし、まだ確認するような気分にもならない。とにかく何台かのクルマはタイヤ同士の干渉によって宙を舞い、後続も次々に追突して、一転して深刻なアクシデントへと拡大した。

 レースはすぐに赤旗によって中断され、それでもまだ最悪の事態を悲観しなくてもよいと思えたのは、何度も繰り返された悲しい事故を越えて危険を排してきたインディカーの安全性を信頼できたからだ。かかわった15台という数はともかく、もっと危険に見えるクラッシュシーンだって幾度か目にしているし、それこそ昨年のコンウェイのように、事故の当事者たちはみんなしっかりサーキットに戻ってきた。今回のラスベガスの大クラッシュがもし歴史に刻まれるとしたなら、最終戦までもつれたタイトル争いにいきなり水を差し、フランキッティに王座をもたらすものとして記録される程度のことでいいはずだったのだ。

 なのに赤旗はしまわれることなく、ダン・ウェルドンだけが帰ってこなかった。たった半年前に100年目のインディ500を彩る美しいおとぎ話を紡いだウェルドンは、本を閉じれば物語が終わってしまうのと同じように、不意にわれわれの前から姿を消してしまった。そうして今季最後の5ラップは彼の魂に捧げられた。

 事故の原因なんていくつも挙げられるだろう。ラスベガスが高速オーバルだったこと、シーズン最終戦のお祭りムードの中で経験を残したい新人や若手が多数参戦していたこと、ウェルドン自身が最後尾スタートからの優勝に巨額の賞金がかかる500万ドルチャレンジの最中で不必要に後ろにいたこと、そもそもオーバルレースの特性がそういうものだということ……。ただそれとて事が起こらなければ存在しなかった「理由」だ。結局だれだってこれをレーシングアクシデントだと言うしかなく、その判断は事態の深刻さとはまた別種のことである。しかし原因が無垢だからこそ、この事故にかかわったひとは、たとえテレビで見ていただけのファンであっても、辛く思う。

 モータースポーツには不慮で不可避な悲劇がときにあるということを、われわれはまたも眼前に突きつけられてしまった。これからだれかがウェルドンについて語ろうとするとき、話題の真ん中にはつねに死という悲嘆が残る。前にも書いたように、それは1人の力のないファンでさえ向き合わなければならないことだ。われわれは、追悼のパレードラップで低く唸る排気音と『Amazing Grace』の響きを、肩を叩かれながら大きくついたトニー・カナーンのため息を、悲しみにくれる関係者の整列を、アップで映されたダリオ・フランキッティの嗚咽を、悲劇とはあまりに裏腹な砂漠の快晴の空を、辛い思い出としてけっして忘れないだろう。だが、それは絶対にモータースポーツとのかかわりを終えることを意味しない。このスポーツを少しでも愛する人がこれからも愛することをやめないかぎり、レースはずっと続いていく。コンウェイを祝福する記事にコメントをくれたgripenさんは、The show must go onと言った。そうなのだ。次のシーズンが始まれば、ウェルドンの喪失を越えてドライバーはそれぞれのコクピットに収まり、ひとたびエンジンがかかったクルマは物理の塊以外の何物でもないまま事故の記憶とは無関係に加速を続ける。そうでなければいけないし、またそうであっていい。前を向こう。モータースポーツは偉大なドライバーを失った。だがそれがどれほど悲しいことであっても、モータースポーツという営みだけは失われないのだ。

「悪くなかった」こそ佐藤琢磨を救う

【2011.8.7】
インディカー・シリーズ第12戦:ミッドオハイオ・インディ200
 
 
 4位という結果が2年目の夏にもたらされたのを遅すぎたと見るか、その捉え方については意見が分かれるところかもしれない。インディカー・シリーズにしては珍しくアクシデントの少なかったミッドオハイオで、佐藤琢磨は決して長くはないキャリアにおけるベストのリザルトを持ち帰った。変則的なストラテジーに一切頼らず、上位陣が大量脱落したわけでもない(不運に見舞われたのはウィル・パワーだけだった)レースでターゲット・チップ・ガナッシの2台とアンドレッティ・オートスポートに次いでフィニッシュしたことは賞賛されるべきだろう。ポイントランキングは12位に上がり、チームメイトのトニー・カナーンには水を開けられているものの8位のグラハム・レイホールくらいまではすぐに手の届きそうなところにつけている。流れをつかめばまだ4~5位も夢ではない。きっちりとシリーズコンテンダーとして戦い抜くことが今後の彼にとって重要なミッションであり、それが来季の居場所を確保することにも繋がるはずだ。

 佐藤琢磨は評価の難しいドライバーだということは今年初頭に書いたが、輝かしい一瞬の走りに魅せられるファンを獲得していく一方で凡ミスやら特攻やらによって失望や反発も買うそのドライビングスタイルはやはり今季もおなじようである。F1から数えても10年、もはやこれは彼の本質として、キャリアを終えるまで変わることはないだろう。ポールポジションスタートから堂々とトップを争っていたはずのアイオワでは、一転タイヤ交換直後のスピンでレースから去り、トロントではダニカ・パトリックのテールにほぼノーブレーキで追突して気性の荒いじゃじゃ馬を大いに怒らせている。かと思えば雨のサンパウロでは路面がまったくグリップしないなか終始冷静なドライビングで終盤までレースをリードし、フルコース・コーションでのステイアウト作戦が裏目に出て8位に終わったものの、トップドライバーとしての資質はたしかに証明した。

 局所的に見れば、彼がすでにインディカーでトップレベルの速さを持ちつつあることは間違いない。今季2度のポールポジションはアレックス・タグリアーニと並び2番目に多く、ロードとオーバルの両方でPPとなるとウィル・パワーと彼しかいない。カナーンが加入したKVレーシングテクノロジーはチーム内のコミュニケーションが円滑で3人のドライバー間で上手にセッティング情報を共有できているようだが、そのチーム状況にあって佐藤の予選能力は同僚よりも一段高く、予選平均順位9.4位はカナーンの12.4位、E.J.ヴィソの15.9位を大きく上回っている(*1)。

 あるいはリスタートの鋭さも彼の強力な武器として評価されるにじゅうぶんな威力を備えている。サンパウロ、アイオワなどではレース再開のたびに完璧な加速で幾度となくポジションを上げる姿を印象に残し、今回のミッドオハイオでも6位のリスタートから瞬く間に2台を抜き去ったことでキャリアベストのフィニッシュに辿りついた。F3の時代からそのロケットスタートは有名で、F1、とくに後期のスーパーアグリをドライブしていたころはそれで活路を開いてもいたものだが、方式がローリングスタートになってもまったく変わらず他のドライバーを脅かしている(なぜこれができて1対1のバトルが下手なのかと思うほどに)。モータースポーツの醍醐味を瞬間の美とするならば、佐藤琢磨はインディカー・シリーズのなかで最もエキサイティングなドライバーの一人になったといっても過言ではない。

 とはいえ、局所的な才能の積み重ねがかならずしも結果という総体に直結しないのが、一度のミスですべてが台無しになるモータースポーツの難しさだ。たしかに佐藤琢磨が決勝レース中に犯したミスをあげつらえばきりがない。今年に入ってからでさえ、何度われわれは彼の走りを見ながら希望と失望を往復しただろうか? 予選に対して4つものポジションを落とす決勝平均順位13.7位は、やはり彼の問題として突きつけられざるをえまい。それがF1のシートを失った遠因だったと言ってもそれほど異論は出ないだろうし、昨季何度も速さを見せながら終わってみればシリーズ21位に沈んだ理由でもあった。

***

 逆に、そういう悪癖が出なければやはり高いポテンシャルの持ち主であることを示したのが今回のミッドオハイオだと言える。初日のエンジントラブルで練習走行を棒に振り、ファイナルプラクティスまで試行錯誤を繰り返すなど、積極的な勝負を仕掛けるには足りない状態だったことが、逆に奏功したかもしれない。1回目のフルコース・コーションと残り距離の兼ね合いが微妙で、バトルよりも燃費走行に重点を置かなければならなくなったことも冷静に事を運ぶ助けとなっただろう。ともかくも、今季初めてと言っていいくらい、佐藤は決勝でミスすることなく、ピットストップも無難にこなして地味にレースを戦い切った。抑揚の波を小さくすれば自然にトップ10、トップ5に食い込める力があることを見せたのはチームに対してよいアピールになっただろうし、ドライバーとしても戦い方を覚えるよい経験になったと思われる。

彼の地味なレース運びに倣って、わたしも地味な点に着目しておこう。最終スティント、素晴らしいリスタートで4位にまで浮上した佐藤琢磨は、ジェームズ・ヒンチクリフのスピンによって5番手に上がったカナーンをすぐ後ろに背負い、1秒以内の勝負に持ちこまれた。前方のダリオ・フランキッティとライアン・ハンターレイからはじわじわと離されはじめ、同僚のアタックに苦しむかと思われたが、佐藤は逆にそれをはねのけて冷静にペースを取り戻し、アンダーステア気味のハンドリングに苦しむフランキッティとそれを追うハンターレイのバトルが破綻すればすぐさまポジションを奪える位置関係まで戻ってきて――そしてそれ以上のことをしなかった。トップ5に入っても追い立てられないスピードを示し、同時に状況を見て引き際をしっかりコントロールしたということである。これこそ、ともすると過剰なファイターと化してしまう佐藤琢磨に覚えてもらいたいとだれもが感じていたレース運びだったに違いない。3位ハンターレイからの+3.2278秒、5位カナーンへの-7.4886秒という前後のギャップは、彼がこのレースで得た収穫を象徴するかのような、一流ドライバーがしばしば見せる「正しい」フィニッシュ位置だった。

(*1)ヴィソは予選ノータイムのサンパウロを除く。なおベスト/ワースト順位を除外した平均は佐藤8.9位、カナーン12.2位、ヴィソ16.3位(琢磨とカナーンは元よりよいが、ヴィソは下がる。ようするに2人が「失敗するときもある」のに対し、ヴィソは「良いときもある」ということになる)で、チーム内ベストの回数は佐藤7回、カナーン4回、ヴィソ0回……琢磨がいいことよりも、むしろヴィソ大丈夫なのかという感想を抱かざるをえないところだ。ヘビ飼ってる場合じゃねえ。

フェルナンド・アロンソの瞬間を見つめるとき

【2011.7.10】
F1世界選手権第9戦 イギリスGP
 
 
 シルバーストンの28周目、レッドブルのピットクルーがセバスチャン・ベッテルのタイヤ交換作業に手間取り、同時にピットインしていたフェルナンド・アロンソは労せずしてレースのリーダーとなった。ベッテルは11.4秒もの長い静止を余儀なくされて、ペースのよくないルイス・ハミルトンの後方でコースに戻ることになる。全体52周のレースにあって、結末はこの瞬間に決まったようなものだっただろう。

 トップに立ったアロンソは、アウトラップでこそタイヤの温まりに苦労したものの、すぐさまペースを上げて後続を突き放しにかかる。29周目1:37.069、30周目1:36.803、31周目1:36.122、32周目1:35.769のラップ推移は直後のハミルトンよりも1周当たり2秒近く速く、最後のストップまでに12秒の差がついて、今季苦しみ抜いたアロンソの初勝利は揺るぎないものとなった。

***

 テレビの前にじっと座っていた2時間を「つまらなかった」のひとことで葬るような真似をしないために必要な心構えを会得したのは、モータースポーツを見るようになって何年も経ってからだ。はっきりと自覚したのは今シーズンになってたわむれにドライバーの採点記事を挙げるようになってからだけれど、レースを見るコツのようなものを身に付けはじめたのは、たぶんフェラーリのミハエル・シューマッハが強すぎたためにともすると世界中のF1人気が下火になりかけていたころで、わたしはその反対を向くようにF1、ひいてはモータースポーツへの興味を深めていった。テクノロジーとか、政治的なスキャンダルとか、母国ドライバーの応援とか、F1に付随するテーマがいくらでもあるなかで、わたしの意識はつねにただサーキットにばかり向いていた。振り返るともうずいぶん週末のグランプリを見向きもしなくなるほど退屈だと思った記憶がない。昔のF1のほうがおもしろかったというありがちな決まり文句とも無縁で、すばらしいのはいつだって今だと思っている――すばらしいのはいつも「今」なのだ。モータースポーツの熱量は結局のところ「今」の問題としてしか語りえないという思想を持つようになって、わたしのレースに対する態度は決定的になった。

 たいていのプロスポーツがそうであるように、F1の営為もまたシーズン単位の「全体」として理解されている。各グランプリでの順位によってポイントが付与され、その累積によってドライバー/コンストラクターのチャンピオンシップが争われるという構造をF1は持ち、われわれファンはその推移を開幕戦から最終戦にわたって見守ることで、だれが最速のドライバーであるかに想いを馳せるわけだ。プロ野球の順位を毎朝気にしてしまうような付き合い方は、F1に対するときでも十分に健全に思える。
 そしてF1がつまらなくなったという表明があるとき、その意見はどうやらそんな全体の印象についてであるということが多いようだ。パッシングの少ないレース全体であったり、ひとりのドライバーが独走するシーズン全体であったり、そういう場合に退屈という評価が出てくることがままある。2000年代初頭はその代表だろう。

 全体こそがF1の営みのすべてだというのなら、そういうときに退屈の印象を抱くというのも頷けないこともない。事実シューマッハがありとあらゆるサーキットを無遠慮に制し続けた2000年以降にF1の人気は低下し、あるいは少なくとも低下することが危惧されて、チャンピオンシップへの興味をなるべく長く繋ぎとめるために優勝の価値を大きく下げる形でポイントシステムが変更された(そして俗な対応だとして変更自体にブーイングを浴びせられた)。

 たまたまこれを書いているタイミングで『Rocket Motor Blog』「2011年イギリスGP感想」を読んだら、折よく「エンディングが予想できてしまうと、ストーリーはとたんに面白くなくなってしまう。[…]つまらないストーリーは、観客や視聴者の関心を失ってしまう」という記述が目に止まった。それはたしかに当然のことだ。だれが年間を通してもっとも優れたドライバーかの争いに興味を惹かれるのは自然な感情で、だからその行方が概ね決してしまったあとに関心を失うのもわかる。だが、そんな競技者と同一の視線からあえて背を向けてみよう。モータースポーツの全体を構成するものはいったい何であろうか? 部分の集合はかならずしも全体を表現しないが、部分を積み重ねなくては全体が現れることもない。ドライバーはチャンピオンシップのためにレースを戦い、レースをより上位で終えるためにラップを刻み、速いラップをたたき出すために一瞬一瞬コーナーへと飛びこんでいく。結局レースとはその積み重ね——選手権への意思が表出する一瞬の積み重ねだけでしか構成されないものだ。その意味でドライバーの意思は、ブレーキングからターンイン、クリッピングポイントをかすめてスロットルをオンするその運動、モータースポーツを微分した結果得られる瞬間にこそもっとも激しい情動として立ち現れる。それはレースの間に何度も現れては消えてしまう、「今」としてしか受け止められないシーンだ。全体の利害を越えてそれを捉える愉楽を得られるのは観客の特権であり、わたしはそれを最大限称揚することでレースから退屈を追い出したいと思っている。

 今シーズンここまでアップしてきた採点記事をお読みくださっているかたは、わたしの贔屓にしているドライバーがフェルナンド・アロンソであることをすぐ理解されるだろう。あらためて読み返し見ると「美しいターンイン」(ヨーロッパGP)に「偉大なドライバー」(モナコGP・トルコGP)、「F1の教本に載せるべき」「現役最強ドライバー」(スペインGP)など自分でもやり過ぎと思うくらいこれでもかと賛辞を並べているが、パドックでは王様のように振る舞い、わがまま放題というこのスペインの英雄をわたしが愛するのは、彼がコース上においてもっとも瞬間の魅力を表現してくれるドライバーだからだ。

 昨年のアブダビGP、アロンソは失意の日曜を過ごした。拙速なピットインの判断でヴィタリー・ペトロフの直後7番手のポジションに嵌り、4位以上という決して難しくなかったはずのミッションに失敗した結果、ほぼ手中にしていたはずのワールドチャンピオンを失ったのだ。あのレースは、ひとつにはベッテルの嗚咽交じりの無線に、もうひとつにはアロンソのドライブによってこそ印象づけられた。最終盤にターン18のブレーキングで派手にタイヤをロックさせてコースオフしたシーンだ。もはやすべてが手遅れになってしまったあとに見えた彼の失望、焦燥、怒り、悲しみ……ただのミスドライブではない、感情が凝縮されたあのコースオフに、フェルナンド・アロンソというドライバーの姿が現れたのだった。

 レース中に「顔が見える」ドライバーはそう多くはない。それが見えるのが優れたドライバーというのがわたしなりの感覚でもあり、アロンソのドライブはいつだって彼特有の表情に溢れている。今季のフェラーリは苦境に陥り、彼自身も苦しい週末を過ごすことが多かったが、それでも自分が「偉大」で、「現役最強」のドライバーであることを、思いどおり走らないフェラーリ150°イタリアを通して何度も何度も訴えかけていた。

 たとえそれがわずかなレギュレーション変更の狭間に起きた幸運だとしても、彼のドライブはきっと報われなければならないのだ。シルバーストンの中盤、勝機が訪れたと見るやアロンソは愛馬に鞭打って敢然とスパートに入る。その決然たる彼の意思を垣間見た瞬間、2011年イギリスGPは忘れられないレースとなった。そう、すばらしいのはいつだって、切り取られた「今」としてしか語れない一瞬だ。31周目、旧ホームストレートからコプスに飛びこむアロンソの切れ味は、この日曜にだれも追随できないほど清冽なものだった。

マルコ・アンドレッティの空白

【2011.6.25】
インディカー・シリーズ第8戦:アイオワ・コーン250
 
 
 天気についてしか当時の記憶を引っ張り出してこられないというのは情けないことではあるが、その空の青さだけは妙に印象に残っている。あるレースについてふとした拍子に思い出すときしばしば空模様とセットになっているのはわたしの癖のようなもので、それは多分天の気まぐれがレースの、ひいてはドライバーの運命を決めてしまうからだったりするのだろう。モータースポーツファンはサッカーファンに比べて2時間のうちに空を気にする回数がちょっとばかり多いのだ。2006年に行われたソノマGP、インフィニオン・レースウェイはたしか快晴で、マルコ・アンドレッティの駆るアンドレッティ・グリーン・レーシング#26のマシンもそんな空に溶けこむように青かったはずだ。彼がインディカー史上最年少の優勝を遂げた夏の終わりである。

 米国においてアンドレッティの名前は特別だ。マルコの祖父マリオはF1とCARTのダブルチャンピオンで、父マイケルは中高生のころのわたしですら知るCARTの英雄だった。アンドレッティ一族とアンサー一族さえ押さえておけば、きっとあの国のオープンホイールレースの歴史について半分は語れてしまう。わたしはそこまでマニアにはなれないけれど、たとえば村田晴郎と小倉茂徳が対談すれば一晩くらいは軽くしゃべり続けてくれるだろう。インフィニオンで新たなヒーローとして迎えられたマルコは、アメリカのモータースポーツ界そのものが待ち望んだヒーローでもあった。所属は前年チャンピオンでマイケルがオーナーの名門AGR、ドライビングも父譲りで荒々しく速い。加えてデビュー直後のインディ500で溢れる才能の片鱗を見せつけ、しかしフィニッシュ直前でサム・ホーニッシュJr.に屈して涙を呑んだストーリー性までまとっている――可能性に貪欲になるのも無理はない。マルコが受けた初めてのトップチェッカーは、未来のチャンピオンが踏み出したはじめの一歩、ほんの序章だった。2006年8月27日のインフィニオンはマルコの快挙と同時に前途を祝福したはずだった。その後のインディカーが完全にチップ・ガナッシ・レーシングとペンスキー・レーシングの時代になり、マルコ自身にも長い空白が訪れるとは想像もできなかった。

 頼りになる兄貴分のトニー・カナーンがKVレーシング・テクノロジーに働き場を求め、気づけばチーム最古参のドライバーとなった2011年に至るまで、マルコのキャリアに勝利が積み上がることはなかった。5年のうちに何人かのドライバーを同僚として迎え、何人かは去っていった。その中には日本人もいた。マルコは彼らに決して引けを取らない速さを誇ったが、ダニカ・パトリックにしろ、カナーンにしろ、ライアン・ハンター=レイにしろ、勝つのはいつもマルコではないだれかだった。数少ない同僚の勝利は多少なりとも運に恵まれたものだったが、そのような僥倖がマルコに訪れることはほとんどなかったし、スピードだけで2強に太刀打ちすることは叶わなくなっていた。もちろんそれだけでなく、やはり彼自身にも問題はあった。チームメイトに比べてクラッシュがすこしばかり多かったのだ。時間ばかりが過ぎていって、そのぶんだけ彼を取り巻く環境もすこしずつ変わった。同僚が入れ替わり、キム・グリーンが去ってチームはアンドレッティ・オートスポートへと名前を変え、マルコのマシンも黒と赤を基調とするカラーリングになった。変わらないのは優勝回数の欄だけだ。口性ないブロガーが疑問を書きたてても不思議はなかっただろう。いったい彼の立場を守っているのは、才能なのか、それとも来歴なのか?

ナイトレースとして開催されたアイオワ・コーン・インディ250の185周目、日曜日のお昼前というモータースポーツを見るにはちょっとばかり似つかわしくない時間にテレビにかじりついていた日本人(わたしのことだ)が逃したチャンスの大きさに頭を抱えていたとき、予選17番手に過ぎなかったマルコ・アンドレッティのポジションは2位にまで上がっていたが、かといってそれをすぐさま5年ぶりの勝利のチャンスと捉えるのはやや楽観的に思えた。インディカーシリーズ史上初の日本人ポールシッターとなった佐藤琢磨がダリオ・フランキッティにリーダーを譲ったのは序盤も早々の7周目のことであり、それから百数十周にわたって、佐藤とカナーンがどれだけ追撃しようともチップ・ガナッシの牙城はまったく揺るがなかった。フランキッティのスピードはそれほど群を抜いていた。トラフィックをかいくぐってきたマルコの速さに目を瞠るものがあったのは認めても、集団争いとトップバトルでは求められる特性がまるで違うのがオーバルレースである。フレッシュエアーの争いでマルコがフランキッティを打ち負かすのは容易ではなかったはずだった。

 佐藤が軽率なスピンでレースを失ったことで出されたフルコース・コーションのタイミングで行われた給油作業で、アンドレッティ・オートスポートのクルーはいい働きを見せてマルコをラップリーダーとして送り出したものの、フランキッティの速さを見れば再びのリードチェンジは時間の問題に思えた。チェッカーフラッグまで無給油で走りきれる状況でリーダーにいるマルコが勝利する絵を想像できなかったのは、この5年間のせいかもしれない。終わってみれば先週のミルウォーキーのような結果になるだけだ、というわたしの正直な感想は、レース後に振り返ってもなお、それほど的外れとは思っていない。ただこのとき、背後からカナーンが迫ってきて一度フランキッティをパスし、三つ巴のバトルに様相が変わる。このほんのわずかな展開の綾が、結局マルコにとってこの日唯一の、とてもささやかな幸運となった。3台が入り乱れてもフランキッティは変わらず速く、走行ラインを自由自在に選んでスピードをアピールしていたが、211周目の最終ターン、一度だけ2台のタービュランスに嵌って強烈なアンダーステアに見舞われ、スロットルを閉じてしまう。瞬時に1秒以上を失ったフランキッティはスコット・ディクソンから標的にされ、トップバトルに絡む権利を手放した。

 夜の空模様を窺うことはとうていできなかったが、今にも雨が降りそうな湿度の高い気象状況で、180mphでコースを駆け抜けるマシンのリアウイングが雲を作り上げ、光の加減で白くなびくさまがよく見えた。5年前のインフィニオンが快晴によって思い出されるのだとしたら、2011年のアイオワは空の代わりに翼端で渦を巻くこの雲とともに記憶されたりもするのだろう。フランキッティを葬ったあとマルコはカナーンにいったんリーダーを譲り、インサイドを死守する昨季までのチームメイトに対し攻撃の機会を見いだせずにいたものの、ついに231周目、わずかに見せた隙に一瞬で飛びこんで5年の扉をこじ開けた。攻守は交代し、今度はマルコが攻め立てられる。チェッカーまで10周、カナーンのインサイドアタックに対してマルコはハイサイドから半ば強引に下りていった。それはすこしばかり危険を伴う動きで、両者のラインは一度交錯しかけたが、アンダーステアを出して飛びこみきれなかったカナーンは眼前をカットされてスロットルを大きく戻した。レースに勝つのは大変なことだけれど、勝つとなればこんなものだ。湿った重い空気の抵抗に負けてカナーンはスピードを失う。後れを取ったライバルを尻目に、赤と黒のアンドレッティ・オートスポートはサーキットを煌々と照らす照明のなかを優雅に加速していったのだった。

道に迷った牛乳配達人

【2011.5.29】
インディカー・シリーズ第5戦:第95回インディアナポリス500マイル
 
 
 GAORAの中継では、ファイナルラップの最終ターンを俯瞰映像で映し出していた。まずJ.R.ヒルデブランドがスピードを乗せられず周回遅れに甘んじたチャーリー・キンボールを避けようとアウトサイドにマシンを出しながらフィニッシュラインのほうへと抜けていき、カメラはインディ500という祭典の終幕を惜しむように、2番手のダン・ウェルドンがもはや届くはずのない位置を追走していることを教えながら、少し遅れてパンニングした。インディアナポリスの快晴が感傷的な余韻を生んで、二転三転したレースの最後のリーダーを務めるルーキーを祝福する準備が整っていた。クレバーな走りでリードラップに居座り続け、若さに見合わぬ燃費走行まで見せつけた新人が乾坤一擲のピット戦略で名だたる強豪を出し抜き、ボトルの牛乳を一気飲みして見せる――それは100年目を迎え新たな歴史に向かうインディ500にとってたしかに、ありうる美しいシナリオのひとつに見えた。薄れてきた記憶からファン・パブロ・モントーヤ以来のルーキーウィナーになることを手繰り寄せ、ついでに父マイケルのアシスト虚しくサム・ホーニッシュJr.にゴール寸前で屈して偉業を逃したマルコ・アンドレッティが敗れた年のことも思い出していた。結局オーバルのマルコはあれ以来チャンスが来ないままだ。

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マイク・コンウェイには幸運に与る価値があった

【2011.4.17】
インディカー・シリーズ第3戦 ロングビーチGP
 
 
66周目にペースカーが退いてグリーンフラッグが振られたとき、マイク・コンウェイのことを気にしていたのは彼自身と、レースストラテジストくらいのものだっただろう。1度目の給油ミスで大きく順位を落とし、最終盤のリスタートでは11位を走るにとどまっていた彼が優勝を狙うには、コースは少しばかり渋滞していた。レース後のインタビューで神妙な面持ちながら喜びを抑えきれずにいたオーナーのマイケル・アンドレッティにしたところで、どうやってライアン・ハンター=レイを勝たせるかしか考えていなかったにちがいない。レーシングチームなんて大概そんなものだ。

妙なことは起こるものである。リスタート時の隊列を2列にするようレギュレーションが変わり、フルコースコーション明け直後の事故は増えた。1列スタートよりもスタート直後の密度は圧倒的に高くなり、ラテンの血が騒ぐのか今季すでにリスタートでやりたい放題に暴れまわっているエリオ・カストロネベスが、このときも無謀なタイミングでターン1のインサイドに突っこんであろうことかチームメイトのウィル・パワーを撃墜すると、煽りを受けたオリオール・セルビアの進路がなくなり、スコット・ディクソンも事故の脇をすり抜ける際に右フロントタイヤを引っ掛けられてサスペンションを壊した。予選でクラッシュして下位スタートに甘んじながら10位にまでポジションを上げていた佐藤琢磨がこの4台を尻目に6位に浮上するが、すぐさまグレアム・レイホールがその左リアに追突し、タイヤをカットされてスピン、レイホールもフロントウイングにダメージを負った。都合6台が消えてふたたび黄色の旗がコースのそこかしこで振られるようになったころには、コンウェイはなぜか、ということもないが3位を走っていた。

70周目のグリーン・フラッグで今度はハンター=レイがスローダウンし、コンウェイはほとんどなにもしないまま2番手になってしまった。フレッシュのレッドタイヤ、燃料もフルリッチで使える彼は速く、あっという間にライアン・ブリスコーを交わして、チェッカー・フラッグではもう6秒以上のリードを築いていた。GP2ウィナーに名を連ねながらもF1には届かなかった27歳のイギリス人が、アメリカの地で初めて表彰台の真ん中に立ったわけである。

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クラッシュはレースの華、醍醐味だ、という言及はときおり見かけないこともないが、わたしはそれを見るたびに穏やかならぬ心境になる。4輪モータースポーツの最高峰をF1に置けば、たしかに幸運なことにアイルトン・セナ以来17年ドライバーの死亡事故は起きていない。この間F1の安全性が飛躍的に高まったのは事実だが、その努力を認めつつも同時にただの幸運に過ぎなかったということは、2000年のモンツァと2001年のアルバートパークでクラッシュによりちぎれ飛んだタイヤの直撃を受けてマーシャルが死亡する事故があったことを考えればすぐにわかることだ。F1は安全かもしれないが、しかしだれもが言うほど安全なわけでもない。平均時速がF1とは比べものにならない(そして残念なことに、一部のドライバーのレベルもF1とは比べものにならない)インディカーにはもっと危険が潜む。1999年に高校生だったわたしはフォンタナでグレッグ・ムーアというカナダの若い才能が失われたことに悲嘆した。CARTでだれより好きなドライバーだったのだ。ポール・ダナがマイマミで亡くなったのも、まだせいぜい5年前の話である。

一昨年はF2で走行中に転がってきたタイヤがコクピットを直撃するという不運によりヘンリー・サーティースが死亡した。直後にF1でフェリペ・マッサのヘルメットに150g程度の部品が当たって、しかしそれだけで彼は気を失ってフェラーリF60がなんのコントロールもないままタイヤバリアまで直進していった。両者の事故に大きな差があるわけではない。「いまこれを書いている最中にも世界のどこかのサーキットで」という常套句めいた言明はさすがに大袈裟が過ぎるだろうが、死も、紙一重の生還もいまだ往々にして起こる。

2010年5月30日、インディ500のラストラップでクラッシュしたマイク・コンウェイは重傷を負った。燃料節約戦略に賭けたライアン・ハンター=レイが健闘むなしくガス欠となってスローダウンしたところにコンウェイが追いつき、オープンホイールでもっとも危険な前後関係でのタイヤ干渉が起こって、ドレイヤー&レインボールドの青いマシンは巻きあげられ宙を舞った。クルビット機動のように背面回転したマシンは緩衝壁を飛び越えて観客席目前のフェンスに激突し、コクピットブロック以外はすべて吹き飛んで路面へと落ちた。200mphというレベルの速度帯でのクラッシュである。一目危険な事故なのは明らかだった。

2003年だったかのテキサスで起きたトーマス・シェクターとケニー・ブラックのクラッシュや、2007年F1カナダGPでのロバート・クビサの事故が最悪の事態にならなかったように、コンウェイもすぐにばらばらになったマシンから救出され、生命の無事は確認された。だが左足の骨折と胸部圧迫骨折を負った彼がその年のトラックに戻ってくることはなかった。まだインディ2年目の、トップ10に顔を出すか出さないかといった程度のドライバーが陥るには十分な苦境だ。毎レース欠かさずテレビで観戦してもてぎにもいそいそと足を運ぶ、日本人としてはそこそこインディカー・シリーズが好きな部類に入ると思われるわたしにしても、事故の衝撃はダリオ・フランキッティとウィル・パワーのチャンピオン争いが白熱する夏以降にはすっかり薄れていた。少しずつ才能を発揮しているように見えてはいたが、それでも今年のクビサのように「いなくて寂しい」と思えてしまうほど、コンウェイに存在感があるわけではなかったのだ。少なくとも海の向こうの同盟国で明け方スナック菓子と甘いコーヒーを口にしながら怠惰にレースを観ているだけの人間にとっては、それっきり姿を見なくなっても不思議ではなかった。アンドレッティ・オートスポーツと今季の契約を結んだというニュースを目にしたときには、少し意外に思ったものだ。マイケル・アンドレッティが才能を認めたのか、それともいかにもこの競技にありがちな疑い方をするならトニー・カナーンがスポンサーの縮小によってチームを去らざるをえなくなった後のいい財布なのだろうか、という具合に。

そういう品のないものの見方はやめておこう、前者が正しかったということだ。初戦、2戦目と速さが結果につながらず、ロングビーチでもピットワークの問題で下位に落ちた。レースではときに引き受けなければならない不運であり、リスタートのあとをうまく立ちまわって9位くらいでフィニッシュすればじゅうぶん褒められる日だったはずだ。なのに、妙なことは起こるものである。わずか5周のあいだに7人のドライバーが道を開けて、なぜかコンウェイは圧勝してしまった。いくらインディカーがアクシデントとそれに伴うフルコースコーションが多いレースと言ってもちょっとありえないくらいの勝ち方であるが、しかしどうにも愉快でしかたない。モータースポーツには悲しい事故もある。1人の力のないファンでさえ、それに向き合わなければならないことがある。それでも、そこにかかわるすべての人々の不断の努力によって華やかな地上最速のショーは回っていくものだ。危険がそばにあるとわかっているから、モータースポーツは安全のための方策をひとつひとつ積み上げてきたし、これからも積み上げていく。コンウェイは200mphのエアボーンから生還し、休養は必要だったもののおなじマシンのコクピットにちゃんと戻ってきて、だれよりも速く167マイルを走りきった。彼は少しだけ、安全性を高めてきたモータースポーツの歴史に救われたのだ。コンウェイがフィニッシュラインを越えたとき、GAORAで実況を担当していた村田晴郎氏はまずなにより「おめでとう!」と寿いだ。あまりないことだが、きっとだれもがそう思うレースだった。あらためてマイク・コンウェイの最初の勝利に乾杯しよう。そして、彼を勝利の場へと戻してくれたモータースポーツを祝福しよう。